かつてのガリア、現在の南仏プロヴァンスのオランジュにある凱旋門で、ローマと蛮族との戦闘場面や武器、船のパーツの浮き彫りが残っています。その戦闘場面の中には、オランジュ創設時に入植した第2軍団アウグスタのエンブレムであるカプリコーン(山羊座)の文様の盾が描かれています。


第2軍団アウグスタのエンブレム

 オランジュは古代ローマ時代の姿をよく留めているローマ劇場で有名ですが、劇場のある街の中心から北に向かう道路上に凱旋門があります。

 この凱旋門には見事な浮き彫りが残っています。中世には城壁に組み込まれていたといいますが、よくこここまで残ったものです。

 中でも特徴的なのが、北面の中央上部にある戦闘場面の浮き彫りに描かれているローマ軍団のエンブレムです。オランジュは紀元前35年に第2軍団アウグスタ(Legio II Augusta)の退役兵が入植して造られた街ですが、その第2軍団アウグスタのエンブレムであるカプリコーン(山羊座)の紋様の盾が描かれているのです。対戦相手は裸で長髪なので、ガリア人かゲルマン人でしょう。

北面の左側の盾に第2軍団アウグスタのエンブレムであるカプリコーン(山羊座)が描かれています。 © 2021 Roma Fan
第2軍団アウグスタのエンブレムであるカプリコーン(山羊座)。
Plate of Legio II Augusta – Chatsam(2009), CC BY-SA 3.0

 この戦闘場面の浮き彫りはオランジュ創設に携わった第2軍団アウグスタを顕彰する意味で描かれた、と考えるのが自然です。しかし描かれている戦いが何なのかは謎です。それは凱旋門がいつ誰のために建てられたかがわからないことも影響しています。

 第2軍団アウグスタは、カエサルかカエサル派の将軍が創設したと考えられていますが、その頃どこで戦ったのかはわかっていません。紀元前45年のカエサル暗殺後はアウグストゥスが引き継ぎ、フィリッピの戦いなど同じローマ人との戦闘に参加しました。オランジュ創設の紀元前35年はまだアントニウスも健在で、それまでにオランジュ入植者である第2軍団アウグスタの退役兵が戦ったことが確実な相手はローマ人だけです。

 したがって描かれたのが、入植者が実際に体験した戦闘なのであれば、カエサル時代にガリア人かゲルマン人との戦闘に参加していて、その場面をここに描いた、ということしか考えられません。もしかしたらガリア、それもオランジュに近いところで戦ったことがあるのかもしれない、とも想像します。

 アウグストゥスが皇帝になった後の紀元前27年以降、第2軍団アウグスタはヒスパニア(スペイン)駐在でしたが、紀元9年にゲルマニアに転向となりました。アウグストゥス死後の紀元14年から15年のことですが、ゲルマニクスに率いられてゲルマン人に勝利しています。この間のヒスパニアやゲルマニアでの戦いの場面を描いたというのも考えられないことはありません。しかし30年から50年も後の出来事です。オランジュに入植した退役兵と無関係とはいわないまでも、関係は薄いと言わざるを得ません。凱旋門はそれを見る人にインパクトを与えなければ建てる意味がありませんから、オランジュの人々と関係の薄い場面を描くのは考えにくいと思います。

誰に捧げられた凱旋門なのか?

 この凱旋門は残念ながら碑文が残っておらず、建造年も誰に捧げられたのかも不明です。

 柱のすぐ上の帯にかつて碑文の文字が固定されていたほぞ穴が残っていて、ほぞ穴の研究によりいくつかの説が出されてはいます。しかし現在の通説では、碑文は紀元26か27年にティベリウスに捧げられたという内容で、これは建設されたときではなく後に改めて献上されたときのものと考えられています。紀元前26年以前のどこかで誰かに捧げられた、という以上のことはわかりません。

 よくこの凱旋門は当初ゲルマニクスに捧げられたと説明されています。しかしゲルマニクスに捧げられことを明確に示す証拠は、私が調べた限りでは見つかりませんでした。最初にこの碑文を解読した学者が「ゲルマニアを破った」と書かれていると主張したようで、これとゲルマニクスが第2軍団アウグスタを率いてゲルマン人に勝利したことから連想して、そのように解釈されたのではないかと想像します。碑文のこの解釈は今では退けられていますし、先にも述べたとおり戦闘場面がこのときのものとするのは無理があります。

 ゲルマニクスに捧げられたのではないと考える理由はもう一つあります。それは海に関連する浮き彫りです。小アーチの上に軍船のパーツ、側面上方に海神トリトンが描かれているのです。ゲルマニクスや第2軍団アウグスタと海との結びつきは極めて希薄です。

 では誰に捧げられたのかといえば、私はアウグストゥスだと思います。

 そうだとすれば海に関連する浮き彫りは、アントニウスを破って単独支配体制を固めることになったアクティウムの海戦を表すものです。ここにはロストラ(衝角)という船首の海中につけられた突起が複数描かれています。アクティウムの海戦の勝利後、アウグストゥスはロストラをローマに持ち帰って演壇に飾りましたから、ロストラを見て人々が連想するのはアウグストゥスだろうと思います。

 戦闘場面は入植者である第2軍団アウグスタの退役兵が参加したガリアでの戦いの場面です。この戦い自体はカエサルによるものですが、アウグストゥスは言うまでもなくカエサルを継ぐものですし、最終的にガリアに平和をもたらしたのはアウグストゥスです。

 オランジュの街を創設した第2軍団アウグスタの退役兵が実際に参加した戦いを描くことで、入植者とその子孫の虚栄心をくすぐりながら、アウグストゥスの威光を実感させる。そのためにこの凱旋門は建てられたのではないでしょうか。

構造

 この凱旋門は中央に大きなアーチ、両脇に小さなアーチがある3連アーチの凱旋門です。これはローマにある古代の凱旋門の代表格であるフォロ・ロマーノのセプティミウス・セウェルスの凱旋門や、コロッセオの脇のコンスタンティヌスの凱旋門と同じなので見慣れた姿です。しかし古い凱旋門のアーチは一つで、オランジュの凱旋門は3連アーチの凱旋門としては今に残る最も古いものです。

アオスタのアウグストゥスの凱旋門。アーチは一つです。紀元前に造られたと考えられています。© 2021 Roma Fan
フォロ・ロマーノ。左手前左手がセプティミウス・セウェルスの凱旋門でアーチは3つ。中央奥に見えるのはティトゥスの凱旋門で、オランジュのものより時代は下りますが、アーチは1つです。© 2021 Roma Fan
コンスタンティヌスの凱旋門。アーチは3つ。© 2021 Roma Fan

 この凱旋門で独特なのは三角屋根の浮き彫りです。全体として三角屋根の神殿の上に更に何かが載っているような不思議な見た目です。三角屋根は西側が一番よく残っていて、ローマのパンテオンの前廊やポルトゥヌス神殿と同じような見た目です。セプティミウス・セウェルスの凱旋門、コンスタンティヌスの凱旋門を含め他の凱旋門にはこのような屋根の装飾はなく、柱の上のアーキトレーブの上に碑文が刻まれた層があるだけです。

西側の側面。三角屋根の神殿の上に何かが載ったような不思議な姿です。

ローマのフォロ・ボアリオにあるポルトゥヌス神殿。似てます。© 2021 Roma Fan
ローマのパンテオン。© 2021 Roma Fan




浮き彫り

 浮き彫りは最上部に戦闘場面、その下の層には海に関連したものが描かれています。下段は正面の小アーチの真上は武器、側面にはトロフィーと鎖に繋がれた捕虜が描かれています。柱の上の帯状のエンタブラチュアには中段に戦う兵士の姿が一部残り、下段には碑文の跡があります。両面とも同じテーマが描かれています。

 おそらく武器は陸戦の戦利品、軍船のパーツは海戦の戦利品です。凱旋行列を飾ったトロフィーと捕虜とともに、凱旋式で目にするものを描いたのでしょう。凱旋行列や戦利品を目にすることがない属州の住民に、凱旋式を感じてもらうための浮き彫りなのだと思います。

© 2021 Roma Fan

戦闘場面

 最上部の中央は戦闘場面を描いた浮き彫りです。

 ローマ兵は兜を被り帷子を着け、馬に乗る姿が多く見られます。これに対して対戦相手の人々はほとんど裸のようで長髪の人もおり、盾を持って戦っています。ガリア人かゲルマン人を描いたものでしょう。

 前に述べたように、北面の浮き彫りの左の方にいるローマ兵が持つ盾に、第2軍団アウグスタのエンブレムであるカプリコーン(山羊座)の紋様が描かれています。

上部のローマ兵と蛮族の戦闘場面。© 2021 Roma Fan

 浮き彫りの周囲には多数の穴が開いています。ブロンズの装飾が固定されていた跡と考えられていますが、残念ながら装飾は全く残っていません。両脇や側面の最上部にも浮き彫りがあったと思われますが失われています。

 柱の上、エンタブラチュア中段のフリーズと呼ばれる帯状の装飾部分にも、戦うローマ兵と蛮族の姿が描かれています。残っているのは南面の東側と東の側面のみですが、全周に渡って描かれていたと思われます。

エンタブラチュア中央のフリーズに描かれた戦うローマ兵と蛮族の兵士。© 2021 Roma Fan

海の戦利品

 三角屋根の浮き彫りのある層に海に関連する浮き彫りがあります。

 南面と北面の小アーチの上方にある4箇所には軍船のパーツが描かれています。

軍船のパーツの浮き彫り。© 2021 Roma Fan

 写真は北東面のもので、中央にあるのは船首部分です。上部の渦巻のようなものは船首の装飾、右にある5本のS字に弧を描いた枝のようなものは船尾の装飾アプラスターです。中央には海神ネプチューンの象徴である三叉の鉾が描かれています。

 左には帆柱と滑車とロープ、これに重なって碇が描かれています。

 右下に3個描かれている3枚の板が重なったようなものはラテン語で「ロストラ」、日本語では衝角と言います。船首の海中に取り付けられていたもので、敵船の側面に体当りして穴を開け浸水させるためのものです。

 紀元前4世紀にローマ人はロストラを戦利品としてローマに持ち帰って演壇に飾り、以来演壇のことがロストラと呼ばれるようになりました。アウグストゥスも政敵アントニウスと戦ったアクティウムの海戦後にロストラを演壇に飾っています。つまりロストラが象徴するように、ここに描かれたのは単なる船のパーツではなく、戦利品なのです。

船首部分。下の金色のものがロストラ(衝角)。
Trireme Olympias of the Hellenic Navy – Χρήστης:Templar52(2006)

 東面には上半身が人間、下半身が魚という姿が描かれています。海神トリトンと思われます。西面はほんの一部しか残っておらず何が描かれているのかわかりませんが、全体に左右対称なのでこちら側もトリトンだったと思われます。

側面上部の半人半漁のトリトンと思われる浮き彫り。© 2021 Roma Fan

武器

 小さなアーチのすぐ上の浮き彫りは武器だといいます。これも戦利品を描いたものと思われます。

 ただ目玉のような模様が描かれた盾はわかるのですが、その他は何が描かれているのかよくわかりません。動物らしきものや、戦闘場面に描かれていた対戦相手が肩からかけていた布のようなものも見えます。

武器を描いたという浮き彫り。右の方に目玉のような模様の盾があります。© 2021 Roma Fan
動物のようなものも見えます。© 2021 Roma Fan

トロフィー

 側面下部のには「トロフィー」が描かれています。

 トロフィーと言っても現代とは全く違うもので、戦利品を飾り付けたモニュメントのことを言います。ローマのカンピドリオ広場の手すりに置かれているマリウスのトロフィーが有名です。正面階段コルドナータを登っていくときカストルとポルックス像の両脇に見えるのがそれで、この凱旋門の浮き彫りとそっくりです。

 トロフィーの下に見えるのは鎖に繋がれた二人の捕虜の姿です。

 凱旋式では凱旋将軍が戦利品や捕虜を従えて行進したので、それを象徴的に表したものでしょう。

側面の浮き彫りはトロフィーと鎖に繋がれた捕虜。© 2021 Roma Fan
ローマのカンピドリオ広場の手すりに置かれているマリウスのトロフィー。© 2021 Roma Fan


古代都市アラウシオ

 オランジュ、古代のアラウシオには古くからガリア人の街がありました。

 紀元前105年にはこの近郊でローマ軍がガリア人のキンブリ族、テウトネス族に大敗しています。ローマでは市民が兵となっていましたが、このアウラシオの戦いでの敗北をきっかけにマリウスが権力を握り、職業軍人に変えました。ローマが共和制から帝政に移っていくきっかけとなった戦いといえます。オランジュ創設時に入植した退役兵が属していた第2軍団アウグスタも、もちろん職業軍人です。

 凱旋門はアグリッパ街道の上に建っています。アグリッパ街道はガリアを走るローマ街道で、リヨン(古代のルグドゥヌム)を中心に四方に伸びていました。オランジュはリヨンと南方のアルル(古代のアレラーテ)とを結ぶアグリッパ街道上です。アルルはイタリアとスペインを結ぶドミティア街道沿いにある都市で、オランジュはこれとガリアを結びつける街道上にある交通の要衝でした。オランジュの街から見てガリアの深部に向かう北方に凱旋門は建っています。

 中世に凱旋門は市壁に組み込まれて北の守りとなっていました。独立した凱旋門として復元されたのは19世紀のことです。

行き方

 凱旋門はオランジュの街の北寄りにあります。ローマ劇場から北に750mほどです。

 隣接して見学者用の駐車場があるので車で行くのは容易です。ローマ劇場周辺にも駐車場があるので、どちらかに停めて両方を徒歩で回ってもいいでしょう。

 オランジュ駅は1kmほど東です。TGV専用線は郊外を通っていてオランジュに駅はなく、在来線のみです。パリなどからTGVを使って訪れるなら20km南のアヴィニョンまで行って在来線に乗り継ぎます。

参考文献

 ローマを取り囲むアウレリアヌス城壁は、今もローマの街のあちこちに痕跡を留めています。しかし帝政前半のパクス・ロマーナの時代のローマには城壁がありませんでした。3世紀にローマ帝国の国力が弱まって異民族の侵入を許すようになり、異民族から首都ローマを守るために建設されたのがこの城壁で、いわばローマ衰退の象徴とも言えます。


アウレリアヌス城壁とローマの衰退

 王政から共和制の時代のローマは、紀元前6世紀に第6代の王セルウィウス・トゥッリウスが築いたセルウィウス城壁に囲まれていました。帝政になるころには城壁を越えて市街地が広がっていましたが、新たな城壁が築かれることはなく、ローマは事実上城壁のない都市でした。これはローマ帝国が安定した政治体制の下、国境に置かれた軍団が鉄壁の守りを固めていて、都市ローマが攻められる可能性など考えられなかったためです。

 しかし3世紀になると地球全体の寒冷化が始まり、北方の異民族が食料不足を補うためローマ領内に侵入してくるようになりました。ローマ自体も農業生産力が落ちて社会が不安定になり、物理的な力を持つ軍人が皇帝の地位を占めるようになったほか、各地で皇帝を私称する軍人も現れ、防御力が弱体化しました。271年にはゲルマン人のひとつであるアレマンニ(アレマン人)がピアチェンツァの近くでアウレリアヌスが率いるローマ軍を破り、ローマに向かって移動するという事態が起きました。幸いこのときアレマンニはアドリア海に面したファーノで撃退されてローマに到達することはありませんでしたが、これをきっかけに都市ローマが異民族に攻撃されることに備えて建設されたのがアウレリアヌス城壁です。

 アウレリアヌス城壁は既存の建造物を城壁の一部として利用しているところが数多くあります。これは財政状況が厳しく、しかも危機は迫っていて短時間で造らなければならなかったためでしょう。レンガも既存の建物を取り壊して再利用したようです。かつての名誉を重んじるローマ人だったらこんなことは絶対にしなかった気がしますが、その甲斐あって5年で完成しました。

 4世紀初め、皇帝マクセンティウスは一部の城壁を2倍の高さにし、城門を改良しました。マクセンティウスはフォロ・ロマーノの南側に今も巨大な姿を残しているバシリカや、アッピア街道沿いの競技場など、他にもローマに巨大な建築物を造っています。

 401年、皇帝ホノリウスのときにも城壁と城門が改良されています。この年は西ゴート族がアラリックに率いられてイタリアに侵入した年です。このときテベレ川西岸のハドリアヌス廟、現在のサンタンジェロ城が防御ラインに組み込まれました。皇帝ホノリウス自身は最初はメディオラヌム(今のミラノ)、後にラヴェンナを拠点としていて、ローマにはいませんでした。

 410年には城壁建設、改修の甲斐なく、アラリック率いる東ゴート族がローマ市内に入り、3日間に渡ってローマは略奪されました。アウグストゥス廟の遺灰壺が破壊されたのはこのときのことです。

 いわゆる西ローマ帝国の滅亡後もイタリア半島は強力な支配勢力がなくて不安定な状態が長く続き、都市ローマが様々な勢力の攻撃にさらされる危機は何度も訪れました。ローマの支配者となったローマ教皇もアウレリアヌス城壁を補修して活用し続け、そのため今も城壁は多くの部分が残っています。

 ここでは実際に見た3箇所を紹介します。

実際に見た3箇所。

オスティエンセ門からアッピア門まで

 アウレリアヌス城壁を初めてみたのは、初めてローマを訪れた2007年3月、地下鉄B線のピラミデ(Piramide)駅前でした。同じ場所にあるローマ・ポルタ・サン・パオロ駅からローマ=リード線でオスティア遺跡に行った帰り、ここから東に2つ先のアッピア門(サン・セバスティアーノ門)まで歩きました。



 駅舎から外に出ると、駅前広場の向こう側にこぶりなピラミッドが建っています。 ピラミデ(Piramide)はイタリア語でピラミッドのことです。このピラミッドは紀元前12年頃に造られたガイウス・ケスティウス・エプロという貴族の墓です。このピラミッドの左側に、南西の方角から伸びてきた5mくらいの高さの茶色いレンガ積みの壁が接続されています。この壁がアウレリアヌス城壁です。工事を節約するために、紀元前に造られたピラミッド型の墓を城壁の一部として利用したのです。

貴族の墓であるピラミデ。左側につながっているのがアウレリアヌス城壁で、建設を節約するためにこの墓を壁の一部として利用しています。

 先にも書いたとおりアウレリアヌス城壁の高さは当初8m、マクセンティウスが一部を倍の16mにしましたが、この辺りの壁の高さは5〜6mです。ピラミデの周囲が彫り込まれているのを見ると当時の地表面は2mくらい下にあったようなので実際の高さは8mくらいで、当初造られたままと思われます。

 北側にも壁が接続されていて、これはすぐ脇にある道路で断ち切られていますが、道路の向こう側に続きがあり、直角方向を向いた城門に接続されています。港湾都市オスティアとの間を結ぶオスティエンセ街道を通すためのオスティエンセ門(Porta Ostiensis)です。現在は2km先の街道沿いにあるサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂にちなんでサン・パオロ門(Porta San Paolo)呼ばれています。市外の側に2つの半円形の塔があり、壁は内と外と二重になっているそうですが、このときは遠くから見ただけで構造は確認しませんでした。

ピラミデのすぐ北側にオスティエンセ門(Porta Ostiensis)【現在のサン・パオロ門(Porta San Paolo)】があります。

 オスティエンセ門の東側は道路で城壁がなくなっていますが、道路の向こう側から東にずっと城壁が残っています。東に伸びる城壁の北側は住宅地で、静かな上り坂の道が城壁に沿って続いています。ここはローマ7丘の一つ、アヴェンティーノの丘です。アヴェンティーノの丘は間に谷間があって2つに分かれており、ここは東側にある小アヴェンティーノの丘の南端部分です。

城壁の北側に沿って静かな上り坂の道が続いています。
城壁が通るのはる小アヴェンティーノの丘の南端部分で、丘の上は静かな住宅地です。

 城壁は3〜4mほどしかありません。丘の南端にあるので、丘の上である北側からみると低く見えます。南側、つまり市街の外側である丘の下から見ると8mくらいありそうです。

 城壁はやがて左にカーブし、サン・パオロ門から600mのところで直角に右に折れます。その先は南西に向かって下っていきます。

 右に折れてすぐのところで道路が城門の下を潜っています。古代にここには城門はなかったので、のちの時代に造られた入り口でしょう。住民にとっては城壁の存在は不便なものでしょうね。

小アヴェンティーノの丘の上で城壁を通り抜ける道路。

 900mほどで丘を下りきり、そこにアルデアティーナ門(Porta Ardeatina)があります。4つのアーチの下をカラカラ浴場の方から下ってきた大通りが通り抜けています。城門のような構造があるわけではなく、壁にアーチ側の穴が開けられて道路が通っているだけですが、ここはもともと城門があったところです。最初からこのような造りだったのか、当初の構造物が失われてこうなったのかはわかりません。

アルデアティーナ門(Porta Ardeatina)。カラカラ浴場の方から下ってきた大通りが通り抜けます。

 アルデアティーナ門から城壁の南側に沿う道路を東に向かいます。左側に城壁が高く聳え立っています。マクセンティウスが高さを2倍にした部分でしょうか。

アルデアティーナ門(Porta Ardeatina)とアッピア門(Porta Appia)【現在のサン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)】の間の城壁。高く聳え立っています。

 400mほどでアッピア門(Porta Appia)です。アッピア門(Porta Appia)は最初のローマ街道で「街道の女王」と言われるアッピア街道を通すための門です。現在は2km先にあるサン・セバスティアーノ教会(San Sebastiano fuori le mura)にちなんでサン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)と呼ばれています。これも2つの塔がある立派な城門です。下の部分は後に補強されたようで、塔の部分も四角い形になっています。

 城門の内部は城壁博物館(Museo delle Mura)になっていて、城壁や城門の中を見ることができます。

アッピア門(Porta Appia)【現在のサン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)】。内部は城壁博物館として公開されています。
城門の屋上から歩いてきた西側を見たところ。

 城門から100mほど南にはアッピア街道の1マイル地点を示すマイル・ストーンが建っています。マイル・ストーンの本物はミケランジェロがカンピドリオ広場に持っていってしまい、ここにあるのは複製です。1ローママイルは約1.6kmです。アッピア街道のもともとの起点は、王政ローマの頃に築かれたセルウィウス城壁のカペーナ門で、これはチルコ・マッシモのすぐ南側にありました。

アッピア街道の第1マイル・ストーン。サン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)から100mほどのところにあります。




ラテラノ大聖堂付近

 2018年、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂を訪れたあと、その脇を通る大通りを南東側に下っていくとアウレリアヌス城壁が横たわっていました。

 城壁はアッピア門(サン・セバスティアーノ門)の東で北に向きを変え、メトロニア門から再び東に伸びてこの場所に伸びてきています。

 ラテラノ大聖堂から下ってきた道は、城壁に開けられた穴の中を通過しています。真ん中に白くて装飾のあるいかにも「門」というところがあります。これはサン・ジョヴァンニ門(Porta S. Giovanni)で、16世紀に造られたものです。大聖堂にちなんで名付けられました、

ラテラノ大聖堂から南東に坂を下ったところを通るアウレリアヌス城壁。
中央にあるサン・ジョヴァンニ門(Porta S. Giovanni)。

 その両側にはかまぼこ型の穴が東に4個、西に3個、更に西側には四角くて高さが他のものと比べて極端に低い穴が空いています。サン・ジョヴァンニ門と、かまぼこ型の穴のうち東端を除く6個の下を、合わせて7つの車線が通過しています。一番東側のかまぼこ型の穴と、西側の小さな四角い穴は歩道です。

 すぐ西に城壁建設時に造られたアジナリア門(Porta Asinaria)があるのですが、2018年に訪れたときには存在を知らず見逃してしまいました。半円形の塔を両脇に備えた門で、これは古代の姿をよく残しているといいます。ここを通るのはアジナリア街道ですが、街道のルートははっきりしません。サン・ジョヴァンニ門ができてこちらは閉鎖されました。

マッジョーレ門周辺

 これも2018年のことですが、マッジョーレ門を水道橋見物を目的として訪れました。

 テルミニ駅の南にあるマッジョーレ門は、プラエネスティーナ街道とラビカナ街道がクラウディア水道と新アニオ水道を載せた水道橋の下を通り抜けるための門です。この水道橋と門がそのままアウレリアヌス城壁に転用されています。

 サン・ジョヴァンニ門から東に伸びる城壁は、南東の方角から来るクラウディア水道+新アニオ水道の水道橋に接続され、そこからマッジョーレ門まで500mに渡って水道橋をそのまま城壁としています。接続部分のすぐ手前ではカストレンセ円形闘技場の外壁の一部も城壁に転用されています。

マッジョーレ門。もともとあったクラウディア水道と新アニオ水道水道橋に開けられた門で、プラエネスティーナ街道とラビカナ街道が通ります。
南東方向からマッジョーレ門に向かう部分。

 マッジョーレ門の先でクラウディア水道+新アニオ水道の水道橋は直角に北に折れますが、すぐその先にあったマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の3段重ねの水道橋を城壁の続きとしています。このマルキア水道だった部分はイタリア鉄道の線路の向こう側に続いていています。

マッジョーレ門の東側はマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の3段重ねの水道橋を城壁に転用しています
マルキア水道+テプラ水道+ユリア水道を転用したアウレリアヌス城壁は線路を超えて続いています。

 テルミニ駅の東、マッジョーレ門から800mあたりにティブルティーナ街道を通すためのティブルティーナ門(Porta Tiburtina)があります。これもマッジョーレ門同様、もともと水道橋にあった門です。ティブルティーナ街道はティボリとの間を結ぶ街道で、後にはアドリア海沿いのオスティア・アテルニ(現在のペスカーラ)まで延長されました。ティボリの郊外には多くの貴族が別荘を作りましたが、皇帝ハドリアヌスの別荘が今も遺跡として残っています。

 ティブルティーナ門から北は水道橋とは別ルートで新たに建設されたようです。その間約1.3kmの距離を新たに建設することなく、水道橋を転用することで済ませているわけです。



その他の箇所

 マルキア水道から離れた城壁は、テルミニ駅の北東にあるローマ国立中央図書館をコの字型取り囲むように走っています。図書館の場所には皇帝の親衛隊(プラエトリアニ)の兵舎(カストラ・プラエトリア)がありました。アウレリアヌス城壁はこの兵舎の外壁を利用しています。

 城壁は兵舎(カストラ・プラエトリア)から北西にテベレ川方面に伸び、現在のポポロ広場のすぐ北を通ります。

 途中のサラリア門は410年のローマ略奪の際、アラリック率いる東ゴート族がローマに侵入したところです。この門は残っていません。

 現在のポポロ広場の北にはフラミニア門(orta Flaminia)がありました。アドリア海沿いのリミニとの間を結ぶフラミニア街道を通すための門です。現在この場所にあるのは16世紀に建て替えられたもので、ポポロ門と呼ばれています。2018年、ここも存在を知らず見逃しました。

 城壁はそこからしばらくテベレ川の東岸沿いを南下しますが、遺物は残っていません。

ウンベルト1世橋から下流方面を見たところ。左岸をアウレリアヌス城壁が通っていました。正面の橋はサンタンジェロ城の正面にあるサンタンジェロ橋、右手の尖塔はサン・ピエトロ大聖堂。

 ハドリアヌス霊廟(現在のサンタンジェロ城)の正面にあるアエリウス橋(現在のサンタンジェロ橋)の東のたもとにはコルネリア門(Porta Cornelia)、またはアウレリア=サンクティ・ペトゥリ門 (Porta Aurelia-Sancti Petri)と呼ばれる城門がありました。皇帝ホノリウスがハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)を城壁に組み込んだというのは、サンタンジェロ城の周囲を取り囲む城壁を築いて防御ラインとしたということでしょう。そのときの姿がどのようだったのかは、その後も何度となく改修されているのではっきりしません。

ハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)とアエリウス橋(現在のサンタンジェロ橋)。

 ティベリーナ島の上流に架かるシスト橋から、下流のエンポリウムと呼ばれる港があったあたりまで、テベレ川が東のフォロ・ロマーノの方向に大きく屈曲しています。アウレリアヌス城壁はここでは対岸のトランス・テベレ地区を囲っていました。

 北のセプティミアーナ門(Porta Settimiana)、中央のアウレリア門(サン・パンクラツィオ門)、南のポルテーぜ門(Porta Portese)が残っていますが、いずれも再建されたものです。

行き方

オスティエンセ門(サン・パオロ門)

 地下鉄B線ピラミデ(Piramide)駅、イタリア鉄道(旧国鉄)ローマ・オスティエンセ(Roma Ostiense)駅、ローマ・リード線ポルタ・サン・パオロ(Porta S. Paolo)駅下車。

アッピア門(サン・セバスティアーノ門)

 バス停 Porta S. Sebastiano下車。中心地の主要観光地から118番バスあり。

アジナリア門、サン・ジョヴァンニ門

 地下鉄A線サン・ジョヴァンニ (San Giovanni)駅下車。

マッジョーレ門

 バス停、路面電車駅の P.Za Di Porta Maggiore下車。

参考文献

  • ローマ古代散歩(小森谷慶子・賢二) とんぼの本・新潮社
  • パラーディオのローマ 古代遺跡・教会案内(ヴォーン・ハート・ピーター・ヒックス編、桑木野幸司訳、白水社)
  • 皇帝たちの都ローマ(青柳正親著) 中公新書
  • Wikipedia(日本語版、英語版、イタリア語版)
  • 城壁博物館(Museo delle Mura)公式サイト

 南仏プロヴァンスの都市ニームにあるメゾン・カレは古代の姿をとても良く残した神殿です。これほど完全な形で残っている古代ローマ神殿は他にはありません。



白い神殿

 まず見て驚くのは最近建ったかと思うようなその白さです。そして形もふつう遺跡といって思い浮かべるものとはかけ離れた完全なものです。

 もっとも古代からそのままの姿でずっと残っていたわけではありません。4世紀以降、住居、厩舎、教会などとして使われ、改造されたり建物が付け足されたりしました。11世紀から16世紀に領事の館に使われたときには、内部がいくつかの部屋に区切られ、丸天井がかけられて煙突が付けられたり、窓が開けられたりといった改造がなされました。

 19世紀に博物館となり、周囲の建物が取り払われて姿が復元されました。今の屋根は1992年に古代の姿を復元して架替えたものです。

 あるがままの姿で残すのと、造られた当時の姿に近づけるのと、どちらがいいかは意見が分かれるところです。しかし当時の姿にすることによって、その建物の持つ本来の意味や人々に与えるインパクトを実感することができます。正確な姿がよくわからないのに多くの想像を加えて復元してしまうことには反対ですが、メゾン・カレは手を加えられたとはいえ多くの部分が残っていて、おそらくわかっていることも多いと思われますから、そういう場合は復元することに賛成です。ただその境界線は曖昧で難しいところです。

 2006年から2007年にかけての修復で今見るような白い壁面になりました。それ以前の写真を見ると黒ずんでいて、他の古代ローマ時代の遺跡と同じように2000年の時の流れを感じる姿です。

 白くするのも復元の一環ですが、実はこれには問題があります。パルテノン神殿がもともとは極彩色に塗られていたことは徐々に知られるようになってきましたが、彩色されていたのは古代ローマの建物も同様です。色がないのは長い間に塗料が剥げてしまったからです。実はパルテノン神殿では白い方が一般受けするため、磨いて色を落とすという暴挙まで犯したことが知られています。メゾン・カレを白くしたのは純粋な復元を意図したと思われるので暴挙とは言えないと思いますし、そもそも色が細部まで判らなければ復元のしようがないので致し方ないところではあります。

 しかし少なくともこの白い見た目が古代ローマ時代の姿でないことは確かです。復元するのであれば本当は色も含めて当時の通りにしてほしいところです。そうでないとこれを見た古代の人々が感じ取る意味やインパクトは到底理解できないばかりか、誤解してしまう可能性すらあります。

ガイウスとルキウスへの奉献

 中世に取り去られたと考えられる碑文の痕跡が壁面に残っています。碑文は青銅製の文字を壁から付き出した棒で固定したものでした。この棒が固定されていた穴の配列から、1758年に地元の学者が碑文を再現しました。その碑文には、西暦2年〜3年にこの神殿をガイウス・カエサルとルキウス・カエサルに捧げる、と書かれていました。

 年代がわかる確実なものはこれだけですが、建物自体はこれ以前に存在し、この年にこの二人に奉献されたものと考えられています。

 ガイウス・カエサルとルキウス・カエサルは、アウグストゥスの盟友アグリッパと大ユリア(アウグストゥスの娘)の子です。アウグストゥスが後継者として期待をかけて養子にしていましたが、共に二十歳前後で夭折し、遺骨はローマのアウグストゥス廟に埋葬されています。アウグストゥスの後継者として期待された二人の死は、首都ローマから遠く離れたニームの地で神殿が彼らに奉献されるほどのインパクトのある出来事だったのでしょうか。裏を返せばアウグストゥスが古代ローマの人々にとって大変大きな存在感を持ち、その威光が行き渡っていた証拠ということかもしれません。



四角い家

 メゾン・カレはフォロ(フォーラム)の中に建つ神殿でした。フォロは都市の中心となる広場で、神殿の他に多目的に使われるバシリカや議場もある空間です。

 この「メゾン・カレ(Maison Carrée)」という名は、フランス語で「四角い家」(英語にすると”square house”)というなんとも味気ない名前で、もちろん古代ローマ時代にそう呼ばれていたわけではありません。

 神殿の内部には当時を偲ぶようなものは何もありません。何を祀る神殿だったのかも判りません。実際に判っていないのか、単に私が説明を見つけられなかっただけなのかは不明ですが。

 創建された年代は正確にわかっていないようで、資料によって記載が異なっていますが、紀元前16年から紀元4年の間くらいのようです。ニームはイタリアとスペインをつなぐドミティア街道が通る交通の要衝で、紀元前28年以前にはすでにローマの植民地となっていました。ニームには他にも円形闘技場が残っている他、水道橋の代表として有名なポン・デュ・ガールはニームに水を届けるための水道の一部です。



 メゾン・カレは高い基壇の上に載っています。この基壇の高さは2.85mもあって、正面に15段の石段がつけられています。

 石段を登ったところは柱に支えられて屋根が庇のように長く突き出したポルチコ(ポーチ)です。奥行方向に全部で11列ある柱のうち、手前の4列目までが屋根だけのポルチコで、この部分がだいぶ長く感じられます。屋根の下面には美しい装飾があり、石段を登っていくとこれが目に入ります。壁のあるところでは、柱が半分壁に埋め込まれたようになっています。

入口手前の屋根の下面に美しい装飾があります。

 このように高い基壇の上に建ち、手前に屋根が庇のように突き出た形状は、古代ローマの神殿にはよくあるものです。

 ローマににあるものでは、フォロ・ボアリオにあるポルトゥヌス神殿がこれよりやや小ぶりですがよく似ています。これはメゾン・カレより前、紀元前75年に建設されたもので、正面に石段がありポルチコがあるのがはっきりと分かります。

フォロ・ボアリオのポルトゥヌス神殿


 アウグストゥスが建てたパラティーノの丘のアポロン神殿(アウグストゥス の家の横にある)や、アウグストゥスのフォロの復讐神マルス神殿(マルス・ウルトル神殿)も同様に高い基壇の上に建ち入り口側にポルチコがありました。アポロン神殿は基壇の残骸しか残っていませんが、復讐神マルス神殿(マルス・ウルトル神殿)の方は17段の石段が残り、少し奥まったところに神殿の壁の一部が残っていることから手前がポルチコになっていたことがわかります。

ローマのアウグストゥスのフォロにある復讐神マルス神殿(マルス・ウルトル神殿)。

 地中海を通ってローマに船で運ばれてきた物資を水揚げする港湾都市だったオスティアのフォロにも、同じように高い基壇の上に建つカピトリウムという神殿があります。これには21段の石段が見事に残っています。

港湾都市オスティアのフォロにあるカピトリウム神殿


 そういえばパンテオンも手前に柱に支えられた屋根が突き出しています。パンテオンは後ろの神殿本体が円形なので印象は違いますが、同じような構造と言っていいかもしれません。パンテオンは紀元前25年建造なので、メゾン・カレのモデルの一つだった可能性はあります。ただ現在のパンテオンは100年後にハドリアヌスが再建したものなので最初の姿は分かりませんが、正面の破風にアグリッパと書いてあるので、少なくとも手前の屋根だけの部分は今と同じ形だったのではないでしょうか。

ローマのパンテオン。正面に「アグリッパ」と書かれています。


行き方

 ニームはパリ・リヨン駅からTGVで3時間です。

 メゾン・カレは市街地の中心部にあり、遺跡の中で一番場所がわかり易い円形闘技場から北西に400mです。

 駐車場が円形闘技場の南東側に接する公園の下にあります。鉄道駅も円形闘技場から南東に500mと徒歩圏内です。

 円形闘技場と、メゾン・カレから更に北西700mの斜面にあるマーニュ塔、北に450mのニーム大学の西側の壁の外にあるカステルム・アクアエと共に歩いて巡ることが可能です。



参考文献

更新履歴

  • 2021/4/9新規投稿

 アウグストゥスが好きです。でもアウグストゥス は一般にはあまり人気がないのです。その墓であるアウグストゥス廟も観光地としては無名で、地球の歩き方でもおすすめ度を現わす星が一つもついていません。でもアウグストゥス・ファンにとってここは聖地です。


地味な遺跡

 アウグストゥス廟は古代ローマの中心地であるカピトリーノの丘やフォロ・ロマーノの北方、テベレ川の近くにある円筒形の建造物です。周囲を5階建ての公共建築や店舗のビル、教会などに取り囲まれていて、近くに行かなければ見ることができません。

 傍らに立つと手前に低い石垣があり、中央に周囲のビルや教会より少し低い崩れかかった円筒形の茶色い壁が見えます。あるのはそれだけで、廃墟としかいいようがありません。巨大な偉容を見せるコロッセオや、教会として使われていたため今も整備されているパンテオンから受けるようなインパクトは微塵もなく、そもそも説明されなければなんだかわかりません。歴史に興味のない人がこれを見て興味を抱くことはまずないでしょう。

周囲の道路から見ると手前に低い石積みの壁、奥に高い茶色のレンガの壁が見えます。

 言うまでもありませんが、アウグストゥスといえばローマ帝国の初代皇帝で、東ローマ帝国が滅びるまで1,500年間も続いた帝国の礎を築いた人です。世界史で誰もが学んでいるはずで、「オクタビアヌス」という名で認識している人も含めれば知名度は抜群なはずです。しかし残念ながら印象が地味で一般にはあまり人気がありません。義父のカエサルが派手派手なエピソードに彩られていて人々を惹きつけ、フォロ・ロマーノにあるカエサル神殿に今も花が絶えないのとは対照的です。

フォロ・ロマーノのカエサル神殿には花が絶えません。

 見た目がおそろしく地味で被葬者も人気がないので、アウグストゥス廟は観光地としては一般には無名で、観光ガイドにもあまり載っていません。小さなものも網羅している「地球の歩き方」にはさすがに載っていますが、おすすめ度を表す星は一つもついていません。(おすすめ度は黄色い三ツ星、緑の三ツ星、二つ星、一つ星、星なしの5段階です。)

当初の姿

 当たり前ですが最初からこんな廃墟だったわけではありません。

 紀元前7年、廟が完成した21年後という早い時期に、ストラボンという地理学者がその様子を「地理誌」に書き残しています。それによると、白大理石造りの基壇の上に常緑樹の茂みに覆われた土墳があり、頂きにアウグストゥスの像が載っていたといいます。白と緑のコントラストが美しい壮大な建造物だったことでしょう。

 白大理石作りの基壇というのは、おそらく傍らに立つとすぐ近くに見える一番外側の壁です。この壁は今は立っている地表面から2mくらいの高さしかありませんが、テベレ川に近いこの辺りは2000年の間に土砂が厚く積もっていて、当時の地表面は4mくらい下にありました。つまり元はこの壁が聳え立っていて、その外側に大理石かトラバーチンが貼ってあって白く輝いていたのでしょう。

 コロッセオを始めほとんどの古代ローマの建造物はかつて大理石やトラバーチンに覆われて白く輝いていました。他ならぬアウグストゥスが自分の成果として、「ローマをレンガの町として引き継ぎ大理石の町を残した」と言ったとスウェトニウスの「ローマ皇帝伝」に記されています。しかし大理石やトラバーチンはルネサンス期以降に建築や彫刻の材料とするために取り去られてしまいました。

 現在中央部に見える外側から2番目の壁との間に土が盛られ、木が植えられていたものと思われます。当時のものではないでしょうが、今もここには木が立っています。

 そして航空写真を見ると、外から見える2重の壁の内側に、更に2重の円形の壁があるのがわかります。

 外から3番目の壁は建物を支えていた壁と思われます。頂上にあったというアウグストゥス像は周りから見えるようになっていたはずなので、おそらく3番目の壁の上の建物は木の上まで達する高さで、その頂上にアウグストゥス像が載っていたのでしょう。

 一番内側の壁は周囲に壁龕(くぼみ)があり、骨壷を収める埋葬施設だったと考えられています。骨壷や遺骨は残念ながら失われてしまいました。410年のアラリック率いる東ゴート族のローマ略奪で破壊されたそうです。

 現在外から中央に見る外側から2番目の壁の高さは周囲の建物の4〜5階位でせいぜい10数mほどと、特に高いものではありません。しかし4mくらい下にあった当時の地表面から、今はない中央の神殿の頂点までの高さは42mほどもあったといいます。42mというとマンションの14〜5階に当たります。コロッセオが高さ48mなので、アウグストゥス廟はこれに迫る高さで聳え立っている大迫力の建造物だったのです(コロッセオ付近の地表面は当時とほぼ同じ。)

 廟の南側にアーチ状の入り口がありました。航空写真で手前に見えるのが入り口とそれに続く通路です。入り口の外側には左右にはオベリスクが建てられていました。

 中世には城に転用されたものの12世紀には廃棄されて放置され、それでこんな無残な姿になってしまったのです。20世紀になってムッソリーニが整備し、周辺の家屋を取り壊しました。2016年から修復工事が行われ、2021年に第1次の修復が完成しました。

復元図と当時の姿を連想させるもの

 現在は4重の壁が残っているだけで、ストラボンの記述も簡単なので当初の正確な姿はわからず、様々な想像を交えた復元図が発表されています。2018年に訪れたときに復元工事中の現場を囲む壁に復元図が描かれていましたが、おそらくこれが発掘などの最新情報を反映しているものと思われます。

復元工事中の壁に書かれていた復元図。

Mausoleum of Augustus

 アウグストゥス廟に近いテベレ川の対岸に、サンタンジェロ城という同じような円筒形の建造物があります。もともとはこれも墓で、アウグストゥス廟から160年ほど後に皇帝ハドリアヌスが造ったものですから、当然アウグストゥス廟の影響を受けているはずです。大きさもサンタンジェロ城が直径70m、高さ40数m、アウグストゥス廟が直径60m、高さ42mですから似たようなものです。

 川の対岸から見るサンタンジェロ城はそびえ立っているという印象を受けますが、かつてのアウグストゥス廟も同じような印象だったのではないでしょうか。頂上に像が載っているところも同じです。(今サンタンジェロ城の頂上に載っているのは天使像で、これが現在の名前の由来ですが、かつてはハドリアヌスが戦車を牽く像が載っていました。)

サンタンジェロ城。かつてのアウグストゥス廟はこんな壮大な建造物だったのでしょう。

 アウグストゥス廟の復元図では、中央部に円柱に囲まれた円形の神殿のようなものが載っています。似たようなものにローマのフォロ・ボアリオにあるヘラクレス・ウィクトール神殿や、フランスにあるアルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)があります。アウグストゥスのアルプス平定を記念したアルプスのトロフィーも、頂上にアウグストゥス像が載っていました。

フォロ・ボアリオにあるヘラクレス・ウィクトール神殿。


南仏にあるアルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)の復元模型。傍らの小さな博物館に置いてあります。


 入り口の左右に建てられていたオベリスクは地中から掘り起こされ、現在は別の場所にありますが現存しています。一本は16世紀に発見され、テルミニ駅に近いサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の裏側の広場に、もう一本は18世紀に発見され、大統領官邸であるクイリナーレ宮殿の前の広場の噴水の上にあります。表面に碑文が彫られておらず、エジプト産の石材を使ってローマで造られたものと考えられています。

サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂前にあるオベリスク。
クイリナーレ広場のオベリスク。


 アウグストゥス廟は、紀元前350年に造られて世界七不思議に挙げられたハリカルナッソスのマウソロス霊廟、エジプトのアレキサンドリアにあったアレクサンダー大王墓に影響を受けた、とかそれらを模したとも言われます。しかしマウソロス霊廟は建物が残っていない廃墟、アレクサンダー大王墓の方は場所さえ不明で、類似点がどれほどのものかは全くわかりません。

立地

 アウグストゥス廟が建つのはかつてローマを取り囲んでいたセルウィウス城壁の外で、カンプス・マルティウス(マルスの野)と呼ばれていたエリアです。ローマの発展に伴い市域は城壁外に広がり、カンプス・マルティウスも開発されていきました。アウグストゥス廟ができた紀元前28年当時には、カピトリーノの丘に近い南側にポンペイウス劇場が既に存在していました。(紀元前44年3月に元老院の臨時の開催場となり、カエサルが暗殺されたのはこのポンペイウス劇場です。)



 しかし先程のストラボンによると霊廟の周辺は広い杜でした。周りに何もないところにサンタンジェロ城のような巨大な建物がそびえる立っているというのが、当時の人の目から見たアウグストゥス廟の印象だったはずです。大迫力で迫ってくるものだったに違いありません。

 ポンペイウス劇場などがあったカンプス・マルティウスの南側のエリアにはその後パンテオンなど多くの建物が建設されましたが、アウグストゥス廟がある北側には長らく建物がなかったようです。

 

 アウグストゥス廟から東に100mのところをコルソ通り(Via del Corso)が通っています。これはかつてのフラミニア街道です。カピトリーノの丘の北の麓にあったセルウィウス城壁のフォンティナリス門(Porta Fontinalis)を起点とし、アドリア海沿いのリミニ(古代の名称はアリミヌム Ariminum)に至っていました。アウグストゥス廟は門から1.5kmの地点にあります。今では建物が密集していてコルソ通りからアウグストゥス廟は見えませんが、当時は街道沿いを歩く人の目に大迫力で迫ってきたことでしょう。

 古代ローマ人はよく街道沿いに墓を建てましたから、アウグストゥス廟もその伝統に則っていますが、規模が他の墓とはレベルが違います。アウグストゥス=「尊厳者」という名を贈られ、後に初代ローマ皇帝と言われる人ですから、巨大な墓を造っても不思議はありません。

 前後はわかりませんが同じころ、アッピア街道沿いにチェチーラ・メテッラの墓が建てられました。こちらは直径29.5m、高さ21.7mなので、アウグストゥス廟は直径が3倍、高さが2倍という規模です。この人はカエサルの三頭政治で有名なクラッススの息子の妻です。コンスルを勤めた人の妻という程度でこの規模なのですから、アウグストゥス廟はむしろ小さいと言えるかもしれません。

アッピア街道沿いにあるチェチーラ・メテッラの墓。


 ストラボンによればアウグストゥス廟の周囲の森の中に、アウグストゥスを火葬した跡が白大理石の周壁に囲まれて残されていたそうです。

 フラミニア街道沿いのアウグストゥス廟のすぐ南には、紀元前10〜9年にアラ・パキス(アウグストゥスの平和の祭壇)とアウグストゥスの日時計が造られました。アウグストゥス廟と共に、アウグストゥスの偉大さを人々に強烈に印象づけたことでしょう。

 アラ・パキスはローマに平和をもたらしたアウグストゥスを称える祭壇です。今ではアウグストゥス廟の西側、細い通りを挟んだ隣にある白い現代的な建物の博物館内に復元されています。私は2007年に訪れたときは時間が遅くて閉館後、2018年に訪れたときは休館日で、ガラス越しにしか見たことがありませんが、緻密な彫刻に覆われた祭壇は圧巻です。この博物館の建物は周囲から浮いている上に中の祭壇ともまるで合っていません。評判が悪く建て替えが予定されているそうです。ぜひアウグストゥス廟と一体で当時を偲ぶことができるような形にしてほしいものです。

 アウグストゥスの日時計はオベリスクの影を利用したものです。そのオベリスクは今では当時建っていた場所の少し南に当たるモンテチトーリオ広場に建っています。このオベリスクはアウグストゥス廟の入り口に立っていたものとは違って本当にエジプトにあったものが運ばれてきたもので、表面にヒエログリフが刻まれています。紀元前10年にアウグストゥスがエジプトのヘリオポリスから運んできたもので、今ポポロ広場にあるものと一緒に運ばれてきました(これはチルコ・マッシモの中央に建てられました)。この2本が、アウグストゥスが征服したエジプトからローマに運ばれた最初のオベリスクです。

アウグストゥスの日時計だったオベリスク。現在はモンテ・チトーリオ広場に建つ。


アウグストゥスの寂しさ

 アウグストゥス廟ができたのは紀元前28年。なんとこのときアウグストゥスはまだ36才です。アウグストゥスは体が弱く、特にお腹をよく壊したと言われていますから、そんなに長生きするとは思っていなかったのかもしれません。しかし実際には紀元14年、76歳まで生き、アウグストゥス廟ができてから実際にそこに葬られるまでには42年の歳月が流れました。その間ずっとローマを安定させ、人々の尊敬を集め続けたのは驚異的なことです。

 しかしこの長命は必ずしも幸福なことではなかったかもしれません。アウグストゥス廟ができて5年後の紀元前23年、アウグストゥスが41才のとき最初にここに葬られたのは、甥で後継者として期待していたマルケッルスでした。なんと19才での早逝です。現在アパートとして使われているマルケッルス劇場は彼にちなんでアウグストゥスが名付けたものです。

 紀元前12年、アウグストゥスが52才のときにはアグリッパが亡くなりここに葬られました。体が頑丈で、アウグストゥスに代わって軍事面を分担し、共にローマ帝国を創り上げたと言っていい盟友の死です。

 紀元前4年と2年、アウグストゥスが60才と62才のときには養子のガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルが葬られました。アウグストゥスの姉、大ユリアとアグリッパの子供で、この二人も後継者として期待をかけていました。

 盟友アグリッパに先立たれ、後継者として期待していた若者たちも早々に亡くし、晩年はどんな思いで過ごしていたのでしょうか。

行き方

 観光スポットとしてマイナーなので案内などもなく、離れたところから見えないのでわかりにくいのが実情です。

 有名観光地から行くので一番わかりやすいのはポポロ広場からのルートです。ポポロ広場から、双子の教会の右側のリペッタ通りをまっすぐ南に約450m南下するとアウグストゥス廟の西側に出ます。

 リペッタ通りはナボーナ広場とパンテオンの間を通っているので、そちらから北上してもたどり着けます。こちらは700mほどです。

 スペイン広場(スペイン階段)からは西に約500mの距離です。まっすぐ通じる道がないのでややわかりにくいかもしれません。

 2018年に訪れたときはちょうど修復の真っ最中で、周囲を2mくらいの壁が取り囲んでいました。壁には先に紹介した復元図や解説、動画を流すモニターが設置されていました。

 修復工事は2016年から行われていましたが、これが完成して2021年3月1日に一般公開されました。4月21日まではオープン記念で無料公開されていて、明日にでも駆けつけたいところですが、新型コロナウィルスのために訪れることができないのがなんとも残念です。

参考文献

更新履歴

  • 2021/3/27 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。
  • 2021/4/23 骨壷破壊が410年のローマ略奪によることを追記。

 首都ローマの超有名観光スポットでいつも行列ができている真実の口から道を挟んだ向かい側に、人もまばらな広場があります。丸と四角の二つの神殿が建つこの場所はフォルム・ボアリウムといい、共和制のころから商業の中心として賑わい続けた場所でした。


フォルム・ボアリウムの場所

 ティベリーナ島下流のテベレ川東岸に小さな公園があり、丸と四角の2つの神殿が建っています。これがフォルム・ボアリウムです。ここは北をカピトリーノの丘、東をパラティーノの丘、南をアヴェンティーノの丘に囲まれたテベレ河畔の平地で、古くから商業の中心として栄えたところでした。

 公園の東側を通るのは、ヴェネティア広場からカンピドリオ広場の大階段の下を抜けマルケッルス劇場の脇を下る大通りです。大通りの向かい側にはサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があって、ちょうどその道路沿いにある真実の口にはいつも行列ができています。それに対してフォルム・ボアリウムは閑散としています。

2つの神殿

 フォルム・ボアリウム内には丸と四角の2つの神殿があります。道路寄りにある噴水はトリトンの噴水といい18世紀に造られたものです。

 南側の丸い神殿はエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿、勝利者ヘラクレス神殿) で、紀元前2世紀に建てられたと言われています。オリーブ油商が勝利神ヘラクレスに献じたともされますが、本当の目的はわかっていません。

 周囲には大理石のコリント式の柱が等間隔に20本あります。柱のうち19本が古代のまま残っています。

エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿、勝利者ヘラクレス神殿)。
エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿の大理石のコリント式柱。

 元は柱の上に帯状のアーキトレーブという装飾帯があり、その上にドーム型の屋根が乗っていたと考えられています。しかし周囲を柱が囲む円形の神殿で残っているものはなく、元の姿が想像できません。南仏にあるアルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)は上段が円形です。屋根がドーム型ではありませんが、雰囲気はこの復元模型の上段部分のような感じだったのかもしれません。

アルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)。南仏ニースの近くにあります。


 この神殿はローマに残る最も古い大理石建築です。失われたものもあるでしょうが、後の初代皇帝アウグストゥス(在位は紀元前27年〜紀元14年)が「煉瓦の街を受けついで大理石の街を残した」と言っているくらいですから、紀元前2世紀当時、大理石建築は相当珍しいものだったはずです。大理石は当時はイタリア半島外部から輸入される貴重品だったので、このことはこの神殿の重要性を物語っています。

 道路の向かい側にある、みんなが料金を払ってまで手を突っ込んでありがたがっている真実の口は、実はこのヘラクレス・ヴィクトール神殿の排水口の蓋だったと言われています。神殿のドーム型屋根の中央にはパンテオンと同じように丸い穴が空いていて、そこから雨水が入ったのでこれを排水するためとか、牛商人が生贄に捧げた牛の血を排水するため、といった説があります。13世紀に取り外されて教会の壁に付けられ、17世紀に今の場所に移されました。

真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

 北側にある四角い神殿はポルトゥヌス神殿(フォルトゥーナ・ヴィリーレ神殿)で、紀元前4世紀から3世紀に建設された後、何度か再建されています。港の神ポルトゥヌスに捧げられた神殿という説が有力です。

ポルトゥヌス神殿。
ポルトゥヌス神殿は北が正面。
背後に見える塔は真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

牛市場から商業の中心へ

 フォルム・ボアリウムは牛市場という意味で、かつて王政時代というので紀元前6世紀以前に牛市場があったためにこう呼ばれていたといいます。

 古い時代からここは南北に走る街道と東西に走る街道とが交差する地点で、ティレニア海と内陸の都市を結ぶ交通の要衝でした。そしてローマが共和政になる紀元前6世紀にこの広場のテベレ河畔に Portus Tiberinus という港が建設されました。

 ローマという都市は内陸にあり、テベレ川は物資を運び入れる重要なルートでした。テベレ川の河口はローマから南西に直線距離で23kmのところにあり、ここにオスティアという港湾都市がありました。オスティアは7世紀後半に建設されたと神話では言っているので、Portus Tiberinus が建設されたのと時期は近く、おそらく両者は一体で整備されたのではないでしょうか。現在の河口はテベレ川が運ぶ土砂に埋め立てられて古代のオスティアから5km近く先に移動してしまいましたが、今でも古代オスティアは見事な遺跡として姿を留めています。



 地中海を通ってオスティアに船で運ばれてきた物資はオスティアで平底船に積み替えられ、テベレ川を河畔から牛か奴隷に引かれて遡り、フォルム・ボアリウムの川原で荷揚げされました。広場には荷物を保管するための倉庫群が建てられていたといいます。

 都市ローマを取り囲んでいたセルウィウス城壁はフォルム・ボアリウム東側の現在の道路の辺りを通っていたので、フォルム・ボアリウムは城壁の外です。この場所は都市ローマと外界とを結ぶ結節点でした。またフォルム・ボアリウムと対岸のトラステベレ地区はアエミリウス橋で結ばれ、共に外国人の居留地でした。

 アエミリウス橋は2世紀に建設されたローマで最初の石橋で、このことからこのルートの重要性がわかります。1887年に取り壊されて同じ場所にパラティーノ橋が架けられましたが、上流側に橋の残骸が残っていて、ポンテ・ロット、壊れた橋と呼ばれています。

今ポンテ・ロット、壊れた橋と呼ばれている橋。
フォルム・ボアリウムと対岸のトラステベレ地区を結ぶアエミリウス橋でローマ発の石橋です。

 フォルム・ボアリウムは商業の中心であると同時に聖域でもありました。

 ローマ建国以前、真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の場所にヘラクレスを祀る大祭壇がありました。ヘラクレスがアヴェンティーノの丘に住む牛泥棒のカークスを退治してくれたとされていて、牛飼いたちが信奉していたといいます。

 15世紀にヘラクレス祭壇の遺構から発見された鍍金を施した青銅のヘラクレス像がカピトリーノ美術館に展示されています。右手に混紡を握り、左手に黄金の林檎を持つ高さ2.4mの黄金の像です。共和制のころのローマ人たちが拝んでいる姿を想像してこの像を見るとワクワクします。

ヘラクレスの祭壇跡から発掘されたヘラクレス像。現在カピトリーノ美術館にあります。
カピトリーノ美術館 / CC BY-SA

 そして紀元前4世紀から3世紀にポルトゥヌス神殿、紀元前2世紀にエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿が建てられます。この2つは共に教会に転用され、そのおかげで今も残っています。

フォロ・ロマーノとフォルム・ボアリウム

 港が建設された紀元前6世紀といえば、大排水溝クロマカマクシマが建設され、沼地から乾いた土地となった窪地にフォロ・ロマーノの建設が始まった頃です。

 クロアカ・マクシマは今のフォロ・ロマーノからカピトリーノの丘とパラティーノの丘の間を抜け、フォルム・ボアリウムの下を通ってパラティーノ橋の横でテベレ川に注いでいます。クロアカ・マクシマができる以前、雨水はフォロ・ロマーノから同じルートを通ってテベレ川に注いでいたはずです。フォルム・ボアリウムの辺りでテベレ川は東に大きく屈曲していますから、フォルム・ボアリウムのある場所は水はけが悪い湿地帯で、川が増水すれば水浸しになる場所だったことでしょう。

 クロアカ・マクシマの建設によって政治の中心フォロ・ロマーノ、商業の中心フォルム・ボアリウム、両方の建設が可能になったのです。

 カエサルなどの有名人が縦横に活躍するフォロ・ロマーノに比べるとフォルム・ボアリウムは地味で印象が薄いのですが、この二つはローマの繁栄を支える政治と経済の中心としてその重要性は並ぶものだったはずです。

港の移転

 やがて Portus Tiberinus が手狭になり、紀元前193年に港の移転が決まりました。移転先はフォルム・ボアリウムより下流、アヴェンティーノの丘の南にあるエンポリウムです。

 紀元前201年に第二次ポエニ戦争が終わりってイベリア半島の領土が拡大し、平和になって消費が増えたこととが相まって各地からの物資の流入が飛躍的に増えたものと思われます。

 その後この場所には集合住宅インスラなども増えていきましたが、引き続き商業地、聖域としても栄え続けたようです。

 帝政期に入るころにはフォルム・ボアリウムの東にあって市内との間を隔てていたセルウィウス城壁はもはや意味がなくなっていましたから、東のカピトリーノの丘の麓までが一つの広場となっていたでしょう。そのカピトリーノの丘の麓にはヤヌス門、別名ジアノ凱旋門があります。4世紀初めに既存の建物の部材を寄せ集めて造られた4面の門です。この建物の目的はわかっていませんが、市場の境界を表す門とか商人の避難所といった説があるそうで、広場の商業活動と一体だった可能性があります。クロアカ・マクシマはちょうどこの門の下を通っています。

行き方

 フォロ・ロマーノの西、真実の口から道路を挟んだ反対側ですが、意外と行きにくい場所です。

 Bocca Della Verita’(真実の口)というバス停が広場の脇にあります。

 歩くならヴェネティア広場、カンピドリオ広場の大階段の下、マルケッルス劇場のいずれかから大通りを道なりに下っていけばたどり着きます。カンピドリオ広場の大階段の下から1.3kmほどです。

 私が訪れたのは南側のチルコ・マッシモからで、ここからパラティーノ橋で対岸に渡ってティベリーナ島に行きました。



 入場料は必要なく、自由に広場に入り二つの神殿を間近から見ることができます。神殿内部に入ることはできません。

参考文献

  • ローマ古代散歩(小森谷慶子・賢二) とんぼの本・新潮社
  • パラーディオのローマ 古代遺跡・教会案内(ヴォーン・ハート・ピーター・ヒックス編、桑木野幸司訳、白水社)
  • Wikipedia(日本語版、英語版、フランス語版)

更新履歴

  • 2020/9/12 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

 スペインのメリダには二つのローマ橋があり、このうち西のグアディアナ川に架かる橋は現存する古代ローマ橋の中で最長です。メリダは古代ローマ時代から交通の要衝で、二つの橋も街道網の一部でした。




グアディアナ川に架かるローマ橋

現存最長のローマ橋

 メリダの街の西側を南東から北西の方向にグアディアナ川が流れています。この川はマドリードの南東部を水源とし、メセタと呼ばれるイベリア半島中央部の大地を西に流れて大西洋に注ぐ大河です。

 ここに架かるローマ橋は全長792mあり、現存する古代ローマ橋の中で最長です。すたすた歩いても片道10分はかかります。実際に渡ったとき、最初は古代ローマに思いを馳せいろいろ見ながら歩いていましたが、そのうち無言でひたすら歩いているだけの自分に気付きました。渡り切って振り返ると橋が一直線にずっと向こうまで伸びていて遠くにメリダの街並みが見え、「これをまた歩いて戻らなきゃ行けないのか。」と嫌になってしまいました。はるばるこの街にやって来た古代の旅人も「やっと街に着いたと思ったらまだこんなに歩かなきゃ行けないの?」と心が折れそうになったかもしれません。

 橋は60個のアーチからなります。ローマ橋というと私はアーチが5個くらいの橋をイメージしますが、それを完全に超越しています。アーチが60個連なる姿って、想像だけで思い描くのはちょと無理です。

 橋は歩行者専用ですが観光用ではなく、街に出入りする人々が行き交っている生きた橋です。

対岸の勾配を登ったところから街の方を見たところ。街が遠い。古代にはこのあたりに凱旋門があったようです。

生い立ちの異なる3つの区間

 橋は3つの区間、すなわち街側から中洲まで、中洲から対岸まで、対岸の陸地部分で大きく生い立ちが異なります。

 最初の区間は街側の端から、中洲に降りる Humilladero と呼ばれる坂道が南に直角に取り付けられているところまでの130mです。この部分は当初の姿を一番良く留めていると考えられています。

 ローマン・コンクリートの芯を切石で覆っていて、10個のアーチからなります。

 橋脚の基礎部分は上流側が丸く張り出していますが、これは水の圧力を緩和するための水よけ(カットウォーター)です。またアーチの間には小さな窓のようなアーチが開いていて、増水したときにここを水が通り抜けることで橋への圧力を減じるようになっていました。この小アーチは首都ローマのティベリーナ島に架かるファブリキウス橋など多くのローマ橋で見られます。古代ローマ橋が今でも数多く形を保っているのは頑丈なだけではなく、これらの構造で橋への負担を軽減しているからです。水よけや水を逃す穴は Humilladero の坂道やそれを降りた中洲からよく見えます。

街に近い部分は当初の姿をよく留めています。橋脚には丸い水よけ(カットウォーター)がつけられて水の圧力を緩和しています。橋のたもとに見える壁のようなものは9世紀にアラブ人が築いたアルカサバという要塞です。古代ローマ時代にはここに城壁があり、橋を渡ったところに城門がありました。
上流側から見たところ。橋脚に洪水時に水を抜けさせる小さなアーチが開いています。
ローマのファブリキウス橋にも洪水時に水を通り抜けさせる小アーチが開いています。

Humilladero の坂道

 2番目は Humilladero の坂道から350m程のグアディアナ川の本流を渡る区間です。この区間の終わりは橋が対岸の陸地に掛かったところで、ここにも南側に河畔に下る坂道があり、San Antonio と呼ばれてます。

 この区間は自然や人の手により損傷したり破壊されたりして、何度も修復されました。その多くは記録も残されていませんが、橋の形式やアーチの大きさが様々であることでそれが判ります。

 街側、すなわち Humilladero の坂道から5つのアーチは他よりも大きく、上流側の水よけが三角形で上部がピラミッド型になっていて他と異なります。この部分は古代には橋ではなく巨大な五角形の水よけだったところで、これが両側の橋を同じ高さでつないでいました。それ以外の橋脚は街側と同じ丸い水よけです。

三角形で上部がピラミッド型となった水よけ。ここは古代には5角形の巨大な水よけがあり、17世紀にアーチ橋に置き換えられました。
橋のたもとにある説明板に5角形の巨大な水よけが描かれています。

San Antonio の坂道。

 3番目の区間は San Antonio の坂道から橋の西端までの280mほどです。この区間は部分的に補修されてはいますが当時の姿がよく残されていて、街に近い一つ目の区間と同じ大きさのアーチからなります。現在は San Antonio の坂道から先は陸地ですが、おそらく橋が架けられた当時は浅瀬だったか、洪水時だけ水があふれる河床だったのでしょう。大量の水が流れることがなかったため、こちら側は水よけも洪水時に水を通す小アーチもありません。

 Wikipediaスペイン語版によるとこちら側にはコンクリート製の土台の跡が残っていて、凱旋門などの装飾があったと考えられているそうです。メリダの国立ローマ博物館にある古代ローマ時代の街の模型には橋の上に凱旋門が一つ建てられています。古代ローマのコインの絵柄から一つ以上のアーチと扉があったことがわかるそうですが、ネットでいろいろ探してみたものの残念ながらそのコインは見つけることができませんでした。

3番目の区間は今では陸の上です。
橋の終点は地面の高さまで坂を下ります。

建造の歴史

 もともとグアディアナ川のこの場所には二つの中洲があり、川の流路が3分割されていたと思われます。最初に作られたのはそれぞれの岸から中洲までの橋と二つの中洲を結ぶ中央の橋の3本で、橋は接続されておらず中洲に下りるようになっていました。

 次の段階として、街側の中洲に巨大な五角形の水よけが建設されて、街側と中央の橋が同じ高さで連結されました。また中央の橋と対岸側の橋はアーチ橋で連結されました。

 巨大な五角形の水よけは17世紀に5個のアーチに置き換えられて今の姿になりました。

メリダの国立ローマ博物館にある古代ローマ時代の街の模型。街側の中洲にあるベース型のものが水よけです。街の対岸には凱旋門があります。

アルバレガス川にかかるローマ橋

 メリダの街の北側でグアディアナ川に東から支流のアルバレガス川が流れ込んでいます。ここにもうひとつのローマ橋が架けられています。

 こちらのローマ橋は長さ145mでアーチが4つと短い橋です。切石積みの外観はグアディアナ川のものとよく似ていることから、同じ時期に架けられたものと思われます。

 19世紀に欄干などが追加されましたが、それ以外は元の姿を留めています。アルバレス川は水量がさほど多くないので、橋脚には水よけや洪水時に水を通す穴はありませんが、街側に洪水に備えた2つの小さなアーチが開いています。

 この橋も歩行者専用で、生活のために人々が行き交う生きた橋です。

アルバレガス川にかかるローマ橋の上流側。切石積みでグアディアナ川のローマ橋とよく似ています。
生活のために人々が行き交う生きた橋です。

 100m東側に並行してミラグロス水道橋がアルバレス川を渡っています。この水道橋を通るプルセルピナ水道は1世紀から2世紀とローマ橋よりあとの時代に造られたものです。

 この水道橋は有名観光スポットでガイドブックにも必ず載っていますが、隣のローマ橋はまず載っていません。あまりにも普通に地元の人が通行していて案内板などもないので、古代の橋だと気付かずに見逃してしまう可能性が大です。私も訪れたときにはそれと知らず、でも側面の見た目がどう見てもローマ橋のようだったのでもしやと思い後で調べてみたらやはりそうでした。ミラグロス水道橋を見に行ったらその横のローマ橋もぜひ見てみて下さい。



100m東側に並行してミラグロス水道橋があります。

都市建設とローマ橋

 メリダは紀元前25年に造られた古代ローマ都市エメリタ・アウグスタ(Augusta Emerita)が起源です。アウグストゥスの時代にローマがイベリア半島のほぼ全てを手に入れ、紀元前25年から13年頃のどこかで属州を再編したときに西部に置かれたルシタニア属州の州都とされました。

 州都とされたのはここが東西と南北の街道が交差する交通の要衝で、二つの川に挟まれた地形が守るのに適していたからです。

 グアディアナ川に架かる橋は、街の中央にあるスペイン広場の南端から川に下る通りとほぼ一直線になっています。この通りは古代ローマ都市の中央を東西に貫いていたデクマヌス・マクシムスにほぼ相当します。つまり橋は街の中心線を延長したところに架かっていたことになります。

 グアディアナ川はローマ橋が架かっている辺りに中洲があって川の流路が分かれ、川幅も広くなっています。水深が浅く流れが緩やかだったためにここが橋をかける場所に選ばれたものと思われます。橋の位置が都市の位置を決めたと言ってもよく、この橋は都市エメリタ・アウグスタと一体でほぼ同時に建設されたものと考えられます。

国立ローマ博物館の模型。橋と通りが一直線になっていて、橋を渡ったところに城門があるのがわかります。

 北のアルバレガス川に架かる橋の方も都市を南北に貫くカルド・マクシムスという通りとつながっていました。こちらは一直線ではありませんが、カルド・マクシムスの北端の城門を出て少し右に折れ、坂を下った延長線上に架かっています。

 二つのローマ橋は街から北、西、南に向かう主要ルート上にあり、かつては自動車も通行できましたが、グアディアナ川に架かる橋は北側に並行するルシタニア橋ができた1991年から、アルバレガス川に架かる橋は1993年から歩行者専用になりました。

グアディアナ川のローマ橋の北側(下流側)に1991年に架けられたルシタニア橋。この橋ができるまではローマ橋の上を車が通っていました。

橋とローマ街道

 ではこの2つのローマ橋を渡った先、街道はどこに通じていたのでしょうか。

 メリダを出てグアディアナ川に架かるローマ橋を渡ったあと、街道は南に向かってヒスパニア・バエティカ属州に入り、セビリア(古代のヒスパリカ)に通じていました。属州の境界はメリダから80km南で、メリダはルシタニア属州内で南の端に近いところに位置しています。メリダ付近を除けばグアディアナ川が両属州の境界でした。

 アルバレス川に架かるローマ橋を渡った先では街道はそのまま北上し、サラマンカ(古代のサラマンティカ)を経てヒスパニア・タラコネンシス属州に入り、アストルガ(古代のアストゥリカ・アウグスタ)に通じていました。現代ではこの道は銀の道と呼ばれる巡礼ルートとなっています。「銀の道」というと銀の運搬に使われたように思ってしまいますが、実はその名はアラビア語で舗装道路を意味する “al-balat”から来ていて、つまり古代ローマ街道そのものを言い表した名前です。

 メリダから西には、当時同じルシタニア属州に属していた大西洋岸のリスボン(古代のオリシポ)との間に街道が通じていました。現在の西に向かう高速道路はメリダを出るとグアディアナ川を渡ってしばらく南岸を進みますが、一般道はグアディアナ川を渡らずに北岸を行きます。グアディアナ川は南西方向に流れていくので、真西にあるリスボンには川を渡らなくても行けます。古代のローマ街道がどちらのルートだったかわかりませんが、南岸を行くとすればグアディアナ川のローマ橋、北岸を行くとすればアルバレガス川のローマ橋を渡ってリスボンに向かったことになります。

 いずれにしてもメリダから北、南、西に向かうには橋を渡って行く必要があり、二つのローマ橋はイベリア半島の街道網の一部をなしていたことがわかります。

 東からメリダに至る街道はこれらの橋を渡る必要はありません。首都ローマ方面からは地中海沿いを進んでヒスパニア・タラコネンシス属州の州都タラゴナ(古代のタラコ)まできて、ここから内陸に入りサラゴサ(古代のカエサルアウグスタ)、イベリア半島中央のトレド(古代のトレトゥム)を経て東からメリダに入りました。南東方向にあるヒスパニア・バエティカ属州の州都コルドバからも街道が通じていましたが、これはメリダの東、グアディアナ川の南岸にあるメデリン(またはメデジン、Medellín、古代の Metellinum)でグアディアナ川を渡り、トレドからの街道と合流したと思われます。メデリンは紀元前79年とメリダよりずっと前に建設された古い街で、ローマ劇場跡が残ります。グアディアナ川に架けられた橋は中世に建設されたものですが、元は古代ローマ時代に造られた橋を架けかえたものと言われています。

行き方

 マドリードからメリダへは列車で約5時間です。高速鉄道AVEが建設中で、これができれば劇的に早くなるはずです。距離が同じくらいのコルドバまでAVEで1時間40分ですから、同程度で行けるようになるでしょう。2023年完成予定とされていますが、スペインですから本当にできるか定かではありません。

 私が訪れたのは朝でしたが、どちらの橋も通勤や買い物など生活のために渡っていると思われる人が数多く行き交っていました。まさに生きている橋です。

 グアディアナ川に架かるローマ橋は、スペイン広場から西に進み、アルカサバの北側を通って坂道を降ったところにあります。アルカサバは9世紀にアラブ人が築いた要塞ですが、これは古代ローマ時代に街の城壁と門の基礎の上に建設されたものです。河畔に坂を下る途中に古代ローマ時代の噴水の飾りだった浮き彫りが飾られていますが、これはグアディアナ川を擬人化したものだそうです。坂を下ったところはラウンド・アバウト(ロータリー)になっていて、その中央にはローマの象徴、狼の乳を飲むロムルスとレムスの像があります。

グアディアナ川を擬人化した古代ローマ時代の噴水の飾り。
ローマの象徴、狼の乳を飲むロムルスとレムスの像。

 グアディアナ川の橋は実際に渡ってみるととにかく長いので、対岸まで渡るなら十分に時間をとっておきましょう。いろいろ見ながら往復するなら最低でも30分は必要です。

 アルバレガス川の橋は古代のカルド・マクシムスの跡と思われるカルヴァリオ通り(Calle Calvario)を北に行き、城壁のあったと思われるところで右に折れて坂を下るとその延長線上にあります。坂を下ったところで線路が行く手を塞いでいるので、すぐ右手にあるトンネルを潜って川原に抜ければ橋に行くことができます。

古代のカルド・マクシムスに当たるカルバリオ通りを北に進むと坂を下った延長上にローマ橋、右手にはミラグロス水道橋があります。行く手を線路が遮っていますが右にトンネルがあって向こうに抜けられます。

 橋はミラグロス水道橋の西隣です。あまりにも普通に地元の人が通行していて案内板もなく、ガイドブックなどでも紹介されていることが少ないので、古代の橋だと気付かずに見逃してしまいそうです。私も訪れたときにはそれと知らず、でも側面の見た目がどう見てもローマ橋だったのでもしやと思い、後で調べてみたらやはりそうでした。

 メリダは中心都市であり続けたにもかかわらず、古代ローマの遺跡がたくさん残っています。国立ローマ博物館の展示物も見事なものが大量にあります。古代ローマ好きなら1日見ていても飽きることはないでしょう。



参考資料

更新履歴

  • 2020/7/4 新規投稿

 ローマの玄関口テルミニ駅から北西に400m程のところにあるサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会は、ミケランジェロが設計したもので、観光客も多く訪れる観光スポットです。これは古代ローマの浴場(テルマエ)の残骸を再利用したもの、というのもガイドブックなどに書かれています。しかしその浴場がどんなものだったのかは説明されることがほとんどなく、実は辺り一帯に浴場の名残が散らばっていることもあまり知られていません。


サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会

 まず最初に有名なサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の正面に立ってみましょう。(地図①)

散策ルート。

 入口のある正面の壁は丸く窪んでいます。他では見たことがない独特な形です。この形は浴場の壁をそのまま使ったことに因ります。しかし壁と言っても建物の外壁ではなくて、もともとは浴室の内壁でした。今立っている教会正面のこの場所は、カルダリウム(caldarium)と呼ばれる浴室の中なのです。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の正面。

 この教会は1561年に教皇ピウス4世の名で建設が始まり、ミケランジェロの設計に従って造られました。当時はおそらく周りの壁が崩れて内壁が剥き出しになっていて、それを教会の正面入り口にしたのです。ミケランジェロが浴室の元の姿を知っていたのかどうかはわかりませんが、この窪んだ壁面をそのまま正面入り口にするなんていう発想は常人では思いつきそうもありません。伝えられるミケランジェロの人となりはあまり好きではないのですが、やはり天才であることは認めざるを得ません。

 古代ローマの浴場は巨大で浴室も複数ありましたが、ここにあったカルダリウム(caldarium)は日本語では「高温浴室」と訳されるもので、床下から壁の中のダクトに熱した空気を通して室内を熱したサウナのようなものです。

 ポンペイのフォロ浴場にカルダリウムが当時の形で残っていますが、規模はかなり差があるものの同じ構造で、やはり一方の壁が円形です。この姿を見ると、やはり浴室内の窪んだ内壁を教会の正面入口にするというのは普通の発想ではないと感じます。

 フォロ浴場では円形の壁の上は半円のドームで、床には一本足のテーブルのような円形の水盤が置かれています。ここには冷水が張られていました。厳かな信仰の場にこれから入ろうと心を鎮める教会の入り口前の空間は、かつて汗を流して暑く火照った体を冷ます場所でした。

 さて、物乞いの老女がいる入り口からサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会に入ってみます。入ったところは丸い部屋で、天井はドームになっています。ドームの中央から色ガラスを通った光が差し込み荘厳な雰囲気です。ここはテピダリウム(tepidarium)、微温浴室でした。ここも床下と壁の中を蒸気が通っていて、カルダリウムより低音のほどよい温かさに保たれていました。今の荘厳な雰囲気とは対象的に、脱力してゆっくりと温まり寛ぐ浴室です。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会を入ったところにあるドーム天井の部屋。

 その奥にはアーチ型のヴォールト天井の巨大な空間があり、正面奥にかまぼこ型の天井の空間が伸び、奥に祭壇があります。祭壇に向かって椅子が並んでいて、真剣に祈りを捧げる人がいます。壁には荘厳な雰囲気の巨大な宗教画がいくつも掛けられています。左右にもドーム天井の空間があり、両方とも宗教画が掛けられています。

 この中央の空間はフリギダリウム(frigidarium)、冷水浴室だったところで、カルダリウムやテピダリウムで温まった体を冷ます冷水のプールがあったところです。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会中央のヴォールト天井の巨大な空間。
壁にはたくさんの宗教画が掛けられています。
入り口から入って右側。
入り口から入って左側。

 ディオクレティアヌス浴場は紀元前140年に造られたマルキア水道から給水していました。ディオクレティアヌス浴場が造られたのは紀元300年頃ですから、440年前という遠い昔に造られた水道です。440年経ってもなお水を供給し続けていたのですから驚きです。日本に置き換えると、本能寺の変が起きた頃に造られたものが今でもまだ機能している、ということですからね(本能寺の変は1582年)。

共和国広場とアウラ・オッタゴナ

 1ユーロ納めてロウソクに火を灯したら、微温浴室だったドームの部屋を通って、高温浴室だった教会の外に出てみます。

 教会を出るとその前は円形の共和国広場です。正面にはナイアディの泉(Fontana delle Naiadi)の噴水が噴き上げ、噴水の向こう側には円形の広場の半周に渡って弧を描く4階建ての建物があります。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会前から見た共和国広場。

 ナイアディの噴水(Fountain of the Naiads)は、ディオクレティアヌス浴場に給水していたマルキア水道を19世紀に教皇ピウス9世が修復、再利用した Acqua Pia Antica Marcia も終端施設として造られたものです。

 全体として見た目はヨーロッパによくある円形の広場という感じですが、この広場全体が古代ローマ時代には浴場の中でした。弧を描いて建っている建物は、浴場の外壁の丸く飛び出したエセドラという部分の基礎の上に建てられたものです。この広場の元の名はエセドラ広場で、今でもそう呼ぶことがあるそうです。

 サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会と共和国広場だけでもかなりの広さですがこれは一部で、ディオクレティアヌス浴場はその両側から教会の背後にまで広がっていました。

 教会を出て右手、北西方向に進むとチェルナイア通りにぶつかり、通りの向こう側に沿ってれんが造りの古そうな建物が建っています(地図②)。八角形のホール(アウラ・オッタゴナ)という名の建物で、内部は円形の部屋になっており、1928年から1980までプラネタリウムとして使われていました。これも元は浴場だった建物です。北東側に少し離れて背後から見るとドーム型の屋根が載っているのが見えます。チェルナイア通りに面した南側の外壁が丸く窪んでいますが、これも教会の正面入り口と同じく浴場の内壁が剥き出しになったものです。

アウラ・オッタゴナ。
アウラ・オッタゴナの北東側の少し離れたところから見るとドームの屋根が見えます。
アウラ・オッタゴナの南東側の窪み。これも浴室の内壁。

浴場の外壁

 アウラ・オッタゴナを離れ、共和国広場から北に伸びるヴィットリオ・エマヌエーレ・オルランド通り(Via Vittorio Emanuele Orlando)を北西に進んで左手の建物が途切れたところから一本西側のトリノ通りに入るとすぐに、外観が円形のサン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会があります(地図③)。これはディオクレティアヌス浴場の丸い形の塔を再利用したもので、ここが浴場の外壁の北西の角に当たります。

サン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会。
浴場の外壁の北東角にあった塔を再利用したもの。

 トリノ通りを南下すると、共和国広場の2つの建物を分けていたナツィオナーレ通りと交差します。この北東の角にはローマ三越があり(地図④)、ツアーでもよく訪れるので、この辺りは日本人も多く行き交っています。

ローマ三越。

 三越のある角を左折してナツィオナーレ通りを行くとすぐに共和国広場です。ちょうどサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の反対側に当たります。両側にエセドラの基礎の上に建てられた建物が丸く伸び、1階は列柱に支えられた回廊(ポルティコ)になっています(地図⑤)。1600年頃にエセドラは教会に転用され、その後1887~98年に今の建物が建てられました。

エセドラ跡の回廊(ポルティコ)。

 右折して南側のポルティコを進み、ディオクレティアヌス浴場通り(Via delle Terme di Diocleziano)からヴィミナーレ通りに出たら右折すると、すぐにレンガ造りの壁が丸く張り出しているのが見えます(地図⑥)。中央には駐車場の入り口が開き、西側にはリストランテの入り口があります。

浴場の南西の角にあった塔の残骸を利用した壁。
中央は奥にある駐車場への入口。左にはリストランテの入り口があります。

 これは共和国広場になったエセドラを挟んでテルメ教会と対照の位置、外壁の南西の角にあった塔の名残です。つまりテルメ教会からこの円形の塔の跡を結ぶ線が浴場の南西側の外壁の1辺ということになります。その長さは360mほどです。

 ヴィミナーレ通りを戻り共和国広場に出ると、向こう側にサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会が見えます。その右奥に巨大な建物が見えますが、これはローマ国立博物館です(地図⑦)。この建物も浴場の残骸を再利用したものです。

共和国広場の南西部から見たサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の外観。左の木の向こうが入り口です。
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の右奥に国立ローマ博物館があります。
国立ローマ博物館の建物を正面から見たところ。

 国立ローマ博物館の脇を通るエンリコ・デ・ニコーラ通り(Viale Enrico de Nicola)を進むと、博物館の南東の敷地外に浴場の外壁の小さなエセドラの残骸である丸い壁が残っています(地図⑧)。これは浴場の南東の角近くにあった小さなエセドラです。つまり先程見た駐車場入口の開いた塔からこの辺りまでが南東側の1辺に当たり、320mほどです。

浴場の南東の角近くにあったエセドラの残骸。

 ディオクレティアヌス浴場は、共和国広場からサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会、その背後の国立ローマ博物館を含む一体に広がる巨大な浴場だったのです。

 ローマにある古代ローマの浴場といえばカラカラ浴場が有名です。カラカラ浴場はここと違って形をよく留めていますが、その外壁に囲まれた大きさは337m×328mというので、ディオクレティアヌス浴場の360m×320mとほぼ同じ規模です。しかし外壁に囲まれた敷地内に建つ浴室の建物の大きさは、カラカラ浴場が214m×110mなのに対してディオクレティアヌス浴場は280m×160mで、こちらの方が大きいものでした。 

ディオクレティアヌス浴場と現代の建物。
ディオクレティアヌス浴場と現代の建物。Googleマップを重ね合わせ。

皇帝ディオクレティアヌス

 ディオクレティアヌス浴場は紀元298年に、ディオクレティアヌスの共同皇帝でイタリア半島を含む西方を担当する正帝マクシミアヌスの命によって、ヴィミナーレの丘の上であるこの場所に建設が始まりました。この年の秋にマクシミアヌスはアフリカ遠征から帰ったところです。

 ディオクレティアヌスはローマ帝国を最初は2つ、後には4つに分けてそれぞれに担当の皇帝を置くテトラルキアを始めた皇帝です。自らは東方を治める正帝で、ニコメディアに拠点を置きました。ニコメディアは現在のトルコの首都イスタンブール、ここはディオクレティアヌスより後の時代にコンスタンティノープルが建設されるところですが、そこから東100kmのところにあるイズミットという都市の旧名です。マクシミアヌス浴場ではなく、東方担当でローマにいない皇帝の名が付けられたのは不思議な気がします。しかしテトラルキアではあくまでディオクレティアヌスがローマ帝国の最高権力者で他の3人より上位に位置付けられていましたし、軍人皇帝時代と呼ばれる不安定な状況からローマを再び安定に導いた有能な皇帝ですから、その名が顕彰されるのも当然のことでしょう。

 ディオクレティアヌスは305年に引退したので、この浴場は298年から305年の間のどこかで完成したことになります。ディオクレティアヌスは引退後、現代のクロアチアのスプリトに宮殿を造って隠棲しました。

 ディオクレティアヌスはキリスト教を迫害した皇帝としてキリスト教徒から大悪党のように言われますが、キリスト教を迫害した皇帝の名がついた浴場の跡がキリスト教の教会になっているというのも皮肉に感じます。

※Wikipedia日本語版にはディオクレティアヌスが306年にディオクレティアヌス浴場を建設したとありますが、ディオクレティアヌスは305年に引退しており、出典も示されていないので、間違いと判断しました。この記事ではWikipedia英語版の記載を元にしています。

行き方

 共和国広場はテルミニ駅から400mほどなので十分歩いていける距離です。

 共和国広場の真下に地下鉄A線の Repubblica 駅もあります。

 テルメ教会やその他の遺構はわかりにくいので記事の最初に載せた地図を参考にしてください。

 共和国広場の南にある三角形の公園にドガリのオベリスクが建っています。

ドガリのオベリスク

 これはラムセス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建てたもので、ローマに運ばれてパンテオン近くのイシス神殿、今サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会になっている場所に建っていました。

参考資料

更新履歴

  • 2020/2/21 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

 スペインのメリダにあるミラグロス水道橋は、柱に赤いラインが規則正しく入った独特の姿です。この人間の英知の象徴である水道橋の上に、今ではコウノトリが巣を造っていて、諸行無常を感じずにはいられません。




コウノトリの巣、ミラグロス水道橋

 メリダは今のスペイン西部からポルトガルにかけての地域に置かれたローマの属州ルシタニアの州都、エメリタ・アウグスタが起源です。この重要な都市に住む人々の生活を支えるため、コルナルボ水道、プルセルピナ水道、ラス・トーマス水道の3本の水道が引かれていました。首都ローマからはるか遠くに離れたここでも、ほとんど同じ水準の生活を送ることができたのです。

 このうち古代ローマ時代の姿が地上に残っているのは、プルセルピナ水道の一部であるミラグロス水道橋だけです。

 メリダの街は西に大河グアディアナ川、街の北側にこの支流アルバレガス川が流れています。この北のアルバレガス川を渡るのがミラグロス水道橋で、長さ190m程が残っています。

 3重のアーチで高さは25m、8階建のマンションに相当する大きなものです。白っぽい花崗岩の間に赤いレンガが規則正しく挟まれていて、他では見たことがない美しい外観です。

白っぽい花崗岩の間に赤いレンガが挟まれている独特の外観です。

 残念ながらアーチは所々失われています。川沿いを走る線路の街側には柱だけが7本残っています。

街側から川の方を見たところ。芝生の向こうが線路でその向こうが川原です。

 ミラグロス Milagros というのはスペイン語で「奇跡」(英語の miracle)という意味です。古代ローマの技術が失われた時代の人の目には奇跡と映ったのでしょう。各地にある「悪魔の橋」と同じようなものですね。

 柱のてっぺんやアーチの上にコウノトリの巣があって、夫婦で仲良く羽を休めています。正確にはこれはコウノトリの親戚のシュバシコウという鳥で、この名前は「朱色の嘴のコウノトリ」という意味です。もっともこれは朱色というより黄色ですね。いわゆるコウノトリは日本や中国など東アジアの鳥で、くちばしの色が黒です。ヨーロッパで赤ちゃんを運んでくると言われるのはもちろんこのシュバシコウの方です。アフリカで越冬するのだそうです。ここを訪れたのは10月終わりですから、この鳥たちはまもなくアフリカに旅立つのでしょう。

水道橋の残骸の上に巣を造っているコウノトリ(シュバシコウ)

 水道橋を街の方に150mくらい延長したところに、水道の終点である分水施設、カステルム・アクアエの遺跡があります。古代ローマ時代、ここは水道が城壁の中に入ってすぐの場所でした。ここで水は複数の鉛の水道管に分配されて目的地まで運ばれました。カステルム・アクアエの代表はローマのテルミニ駅近くのヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場にあるニンファエウム・アレクサンドリです。

 この分水施設はガイドブックに載っておらず、私はたまたま通りかかって知りました。水道橋のあるところからはまっすぐ行く道がなく、西側から街の中心部に向かうカルバリオ通りを行くと登り坂の途中にあります。

カルバリオ通り。
水道の分水施設(カステルム・アクアエ)。
かつては壁や彫刻に囲まれていました。

 ミラグロス水道橋のすぐ西側に架かる橋は古代ローマ時代に造られたアルバレガス橋です。グアディアナ川に架かるローマ橋は有名ですが、こちらは特に案内板などもありません。訪れたときには車や人が普通に渡っていて、古代ローマ橋だとは気付きませんでした。

ミラグロス水道橋のすぐ隣りにある古代ローマ橋アルバレガス橋。
アーチの美しい橋です。
普通に車や人が行き来しています。

水源はプルセルピナ貯水池

 ミラグロス水道橋を通るプルセルピナ水道は、メリダの北北西5kmにあるプルセルピナ貯水池から引かれています。これが水源かと思いきや、この貯水池に水を引き入れているのもまたローマ人が造った水道なのです。Googleマップの航空写真で見ると、貯水池の北側から北東にアデルファス川を3kmほど遡った辺りまで水道が続いているのが見えます。これも含めて水道の全長は10kmになります。

メリダの北にある「し」を右に傾けたようなのがプルセルピナ貯水池。

 スペインのこの辺りは雨の降り方が偏っていて、9月後半から5月にかけて雨が多く、6月から9月前半は極端に降水量が少なくなります。そのため貯水池が必要だったのでしょう。

 乾燥した大地に水が染み込んで失われるのを防ぐため、水源から水道を引いて貯水池に水を確実に送り込み、そこに水を貯めることで、1年を通して安定的に水を供給できるようにしたのです。貯水池は南北1.2km、東西1km程もある巨大なものです。西側に石を積み上げたダムがあって水を堰き止めています。これはコンクリートの基礎に花崗岩を積み上げて造られたものです。ダムとしては現役で、古代のものと知らなければ最近造られたものと思ってしまいそうです。

 取水口は水中にあり、地下の水路でメリダの街まで水を運びました。ローマ水道というと水道橋が目立つのでずっと地上を通ったと思いがちですが、実際には地下を通ったり山をトンネルで貫くところも多いので、この水道が地下を通っていたというのも珍しいことではありません。

 造られたのは1世紀と言われています。メリダではコルナルボ水道が一番古いので、この水道は人口増加で増設されたものと思われます。メリダにはトラヤヌスの凱旋門があり、グアディアナ川に架かるローマ橋ができたのもトラヤヌスの時代です。古代ローマでは皇帝や貴族が私費を投じて公共事業を行いましたから、イベリア半島出身のこの皇帝の時代に街が発展して人口が増え、そのために水道橋が増設されたとしても不思議はありません。トラヤヌスの在位は紀元98年から117年ですから、2世紀初めに建造された可能性が高いと思います。

古代の水道橋を材料にしたサン・ラザロ水道橋(ラス・トーマス水道)

 ミラグロス水道橋からアルバレガス川を上流(東)に約1.1kmのところにサン・ラザロ水道橋があります。これは16世紀にアラブ人が造ったものですが、もともとここには古代ローマ時代の水道橋が通っていました。北から北東にかけての複数の川を水源とし、地下を通って引かれた水道でした。

夕方のサン・ラザロ水道橋。

 古代ローマ時代のものは街のそばに柱3本が残るだけです。古代ローマのものは間に赤いレンガが挟まったミラグロス水道橋と同じ造りです。

街の近くに古代ローマ時代の残骸がわずか柱3本だけ残っています。

 サン・ラザロ水道橋は古代の水道橋の柱を再利用したそうですが、古代ローマ時代の3本の柱とサン・ラザロ水道橋は少しずれていて両者はルートが違いますから、ほとんど造り替えられていることが判ります。

右がサン・ラザロ水道橋、左が古代ローマの水道橋です。
古代ローマの水道橋はサン・ラザロ水道橋とルートがずれています。

 南端近くでは古代ローマの公衆浴場が発掘中です。

発掘中の古代ローマの公衆浴場。
側には戦車競技場もあります。庶民の娯楽の場所だったのでしょう。

 サン・ラザロ水道橋の周囲は住宅地です。生活用の通路が水道橋に開けられていて、買い物や散歩の人、子供たちが通り抜けていきます。東側に接して公園があり、いろいろな年齢の子供たちが遊んでいました。

サン・ラザロ水道橋に開けられた生活用の通路。両側に構想アパートが建っています。
公園で子どもたちが遊んでいました。

最古のコルナルボ水道

 メリダで最初に作られたのがコルナルボ水道です。

 コルナルボ水道はメリダの街の北西14kmほどにあるコルナルボ貯水池から引かれています。最初に造られたときはダムはなく、川から取水していました。後にプルセルピナダムが造られた頃にこちらにもダムが建設され、貯水池からの取水に切り替えられました。プルセルピナ貯水池と同じように、この貯水池も更に上流に水道が続いていて、これによって水を効率よく集めることができるようになっていました。

 この水道はほとんどが地下を通っていて、水道橋もありませんでしたから、目立った遺構は残っていません。街には東側から入ります。街中に僅かに遺跡が残っているようです。

行き方

 マドリードからメリダへは列車で約5時間です。高速鉄道AVEが建設中で、これができれば劇的に早くなるはずです。距離が同じくらいのコルドバまでAVEで1時間40分ですから、同程度で行けるようになるでしょう。2023年完成予定とされていますが、スペインですから本当にできるか定かではありません。

 ミラグロス水道橋とサン・ラザロ水道橋は駅や中心地から歩いて行けます。どちらも街の北側を流れるアルバレガス川に架かる橋ですが、川の手前を鉄道が通っていて、線路を越える必要があります。

 ミラグロス水道橋は街の北側に坂を下り、線路の下に開けられた通路を潜って河原に出たところにあります。

ミラグロス水道橋に通じる線路を潜る通路。

 サン・ラザロ水道橋の方はエストレ・マドゥーラ通りの南側にある歩行者用のトンネルで線路を潜ります。この入り口が非常に判りにくいので注意してください。Googleマップで経路検索しても、道があると認識していないようで、ここを通るルートは表示されません。(2020年2月現在)

 ミラグロス水道橋や駅のある西側からだと、エストレ・マドゥーラ通りを東に行き、線路をくぐらず直進する坂道を登ったところに通路の入口があります。

 円形闘技場の方から行く場合はカボ・ベルデ通りを北上し、線路の手前でエストレ・マドゥーラ通りに左折してすぐの右側です

中央の下り坂を降りると線路を潜る歩道です。

 古代ローマ時代の3本の柱は街に近い南側で水道橋が途切れるところの脇にあります。家のすぐ側に接するように建っています。

 サン・ラザロ水道橋の東にはこれも古代ローマ時代の戦車競技場の遺跡があります。ここは古代の戦車競技場の姿がよく残っています。

 メリダは中心都市であり続けたにもかかわらず、古代ローマの遺跡がたくさん残っています。国立ローマ博物館の展示物も見事なものが大量にあります。古代ローマ好きなら1日見ていても飽きることはないでしょう。

参考資料

更新履歴

  • 2020/4/9 新規投稿

 2018年5月1日、1日でローマ市内の遺跡42個を一筆書きで歩いて巡った記録です。


【遺跡1】チルコ・マッシモ

南東端から見たチルコ・マッシモ。左がパラティーノの丘。

時刻 9:20

 一筆書き遺跡巡りのスタート地点は地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅。ホテルのあるテルミニ駅から地下鉄でやって来ました。
 駅を出ると道の反対側に戦車競技場、チルコ・マッシモが広がっています。どんよりした雲が垂れ込めて今にも雨が降りそうです。跡巡りは全部徒歩なので気掛かりです。
 階段で競技場部分に降り、かつてのスピナと言う中央分離帯の上にある道を、犬の散歩をしている人と行き交いながら縦断して北西に進みます。
 チルコ・マッシモは全体で25万人収容できたという戦車競技場です。ここには古くから競技場がありましたが、カエサルとアウグストゥスが巨大な施設を作りました。
 この広大な競技場を馬に惹かれた戦車が駆け回ったのです。きっとコーナーでは激しいぶつかり合いがあったでしょう。大迫力なのが想像できます。古代ローマ人が熱狂したのもわかります。
 スピナにはエジプトから運ばれたオベリスクが2本建っていました。一つは紀元前10年にアウグストゥスが建てたもので現在ポポロ広場の四大河の噴水の上にあるもの。もう一つは紀元357年にコンスタンティウス2世が建てたもので現在モンテ・チトーリオ広場に建っているものです。どちらも後で訪れます。

【遺跡2】パラティーノの丘

チルコ・マッシモの競技場から見上げたパラティーノの丘のドムス・セプティミ・セウェリ。

時刻 9:31

 右手、チルコ・マッシモの北東側は皇帝の住居があったパラティーノの丘です。
 アウグストゥスは競技場の中央に皇帝観覧席を設けましたが、これは後にパラティーノの丘の皇帝住居と接続され、住居から直接観覧席に出られるようになりました。
 見えている巨大な建物は、2世紀末から3世紀初めに第20代皇帝セプティミウス・セウェルスが建てたドムス・セプティミ・セウェリです。

【遺跡3】フォロ・ボアリオ

道路側からテベレ川側を見たところ。手前がトリトンの噴水。

時刻 9:56

 雨が降ってきました。チルコ・マッシモの北西端を登り、左側の道を進んで交差点を右折すると、右側に超有名スポットである真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があり、行列ができています。この辺り一体がフォルム・ボアリオ(フォルム・ボアリウム)です。
 フォロ・ボアリオは「牛市場」という意味です。王政ローマ時代、すなわち紀元前6世紀以前に牛市場があり、その後傍らにテベレ川の港が設けられて商業の中心になりました。
 道路のテベレ川側が公園として整備されていて、二つの神殿と18世紀に造られたトリトンの噴水があります。
 政治の中心フォロ・ロマーノに比べて地味で無名なので、人が全くいません。私はこういう珍しいのを見てワクワクしていますが、辺りはうら寂しい雰囲気です。
 真実の口も実は古代ローマの遺物で、排水溝の蓋とか、道路の向かいにあるヘラクレス・ヴィクトール神殿の天井の中央の穴を塞ぐ蓋(英語版wiki)とか言われています。13世紀に教会の壁に付けられ、17世紀にこの場所に移されました。映画ローマの休日の影響でみんな行列を作って口に手を入れていますが、お金を払って行列に並び排水口の蓋の模様に手を突っ込む暇はないので、ちら見するだけで済ませます。ちゃんと見ていないのでこれは遺跡の数にカウントしません。

【遺跡4】エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿)

フォロ・ボアリオ南側の円形のエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿。

時刻 9:57

 広場の奥、テベレ川寄りに形の違う神殿が2つあります。
 南側の丸い方はエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿) で、紀元前2世紀に建てられたと言われています。20本の柱のうち19本が古代のまま残っています。元は柱の上に帯状のアーキトレーブという装飾帯があり、その上に屋根が乗っていました。
  ヘラクレス・ウィクトールというのは勝利者ヘラクレスという意味で、コリントスの戦いでアカイア同盟軍を破った共和政ローマの軍人ルキウス・ムンミウス・アカイクスにより建てられたと言われています。
 12世紀以降は教会に転用されていました。

【遺跡5】ポルトゥヌス神殿

フォロ・ボアリオ北側の四角いポルトゥヌス神殿。後ろに見える塔は真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

時刻 9:58

 北側にある四角いのがポルトゥヌス神殿です。紀元前75年に建設された港の神ポルトゥヌスに捧げられた神殿です。
 フォロ・ボアリオの脇にあったテベレ川の港はローマに物資を運び込む玄関口で、この港を守る神殿です。

【遺跡6】ヤヌス門(ジアノ凱旋門)

道路の東側にあるヤヌス門(別名ジアノ凱旋門)。道路を挟んだこの辺り一帯がフォロ・ボアリオで、背後はパラティーノの丘。

時刻 9:59

 真東の方向に見えるのがヤヌス門、別名ジアノ凱旋門です。4世紀初めに既存の建物の部材を寄せ集めて造らた4面の門です。壁龕(くぼみ)にはきっと彫像があったのでしょう。
 これが何なのかはわかっていませんが、コンスタンティヌス帝の顕彰記念門、市場の境界を表す門、牛市場の商人の避難所といった説があります(英語版Wikipedia)。
 排水口クロアカ・マクシマの真上に建っています。

【遺跡7】アエミリウス橋(ポンテ・ロット)

パラティーノ橋からテベレ川の上流を見たところ。左手にある途中で途切れている橋がアエミリウス橋、別名ポンテ・ロット(壊れた橋)。向こう側に見えるのはファブリキウス橋。

時刻 10:03

 ポルトゥヌス神殿の北側を回って西に行くとすぐにテベレ川で、パラティーノ橋を渡ってテベレ川の西岸、トランステベレ地区に一旦渡ります。
 右側にある橋の残骸は古代ローマ時代の橋、アエミリウス橋で、ローマで一番古い橋です。
 「壊れた橋」という意味のポンテ・ロットという別名がついています。1887年に今渡っているパラティーノ橋を架けるために壊されたとのことです。邪魔なところだけ壊したのですね。
 この辺りの東岸に大排水口クロアカ・マクシマがあるのですが見落としてしまいました。

【遺跡8】ティベリーナ島

パラティーノ橋から見たティベリーナ島。

時刻 10:04

 右手の上流側にテベレ川の中洲ティベリーナ島が見えます。
 紀元前3世紀にペストが流行したときに医療の神アスクレピオスの神殿が建てられて病人が収容されました。16世紀に病院が建てられそれが今も残っています。古代の医療の聖地が未だに医療に関係あるところが面白いですね。
 島は船を象って装飾されていました。

【遺跡9】ケスティウス橋

テベレ川西岸の川原に降りてケスティウス橋を見上げたところ。対岸がティベリーナ島。川原でマラソン大会をやっていました。

時刻 10:08

 西岸のトランステベレ地区とティベリーナ島を結ぶのがケスティウス橋です。
 紀元前1世紀、島の反対側のファブリキウス橋より後に架けられた橋です。その後4世紀に改築されましたが、そのときにはマルケッルス劇場を取り壊して得られた建材を使ったそうです。
 19世紀終わりに川幅を拡張するのに伴い架け替えられましたが、中央のアーチは2/3が元の橋の部材です。
 このとき西岸ではマラソン大会をやっていました。

【遺跡10】ファブリキウス橋

テベレ川東岸の川原に降りてファブリキウス橋を見上げたところ。対岸がティベリーナ島。

時刻 10:23

 ティベリーナ島とテベレ川東岸を結ぶのがファブリキウス橋です。
 紀元前62年に架けられた現存する最も古いローマの石造アーチ橋です。
 東岸の橋の欄干には両側とも4つの顔のある大理石の石柱が取り付けられています。このためこの橋はクアトロ・チャピ橋 Ponte dei Quattro Capi 、4つの頭の橋という別名がついています。顔がすり減っていて古そうな感じですが、これは1840年に近くのグレゴリオ・デッラ・ディウィナ・ピエタ聖堂から移設されたもので、元はマルケッルス劇場の近くにあったヤヌス神殿に関連するものと考えられるそうです。ヤヌスは境界の神で表と裏の二面の顔を持ちます。
 真ん中の小さな孔は、洪水時に水が通ることで水圧を逃がすためのものだそうです。
 アーチに「ファブリキウス」と刻まれているのが見えます。ファブリキウスは今の石造の橋の建設を監督した道路長官の名です。
(移設については”Claridge, Amanda (1998). Rome: An Oxford Archaeological Guide. Oxford: Oxford Univ. Press”による。Wikipediaはこの書籍を注として載せているが、Wikipedia自体の記述は日本語版も英語版も間違っています。)

東岸側のアーチの下流側に「FABRICIVS(ファブリキウス)」と刻まれているのが見えます。

【遺跡11】オッタヴィアのポルティコ

前面の壁だけが残るオッタヴィアのポルティコ。

時刻 10:32

 ファブリキウス橋を渡って左斜め前に伸びる道を進むとオッタヴィアのポルティコがあります。マルチェッロ劇場の裏手に当たり、建物の前面の壁だけが残っています。どんな建物だったのかちょっと想像がつきません。
 初代皇帝アウグストゥスが建造して姉の名を付けた建物で、図書館、集会所、学校がありました。オッタヴィア(オクタウィア)は兄アウグストゥスと夫アントニウスの間で大変な苦労をした人ですが、人々の尊敬を集めた人物です。
 右手にマルケッルス劇場の建物がありますが、柵があって直接行けないのでいったん橋のたもとまで戻ります。

【遺跡12】フォロ・オリトリオ

古代の青果市場、フォロ・オリトリオ。

時刻 10:38

 ファブリキウス橋のたもとに青果市場、フォロ・オリトリオがあります。
 かつては神殿が3つ並んでいて、傍らに建つサン・ニコラ聖堂の壁面に列柱が埋もれています。このときは修復中で覆いがかけられていて見えませんでした。

【遺跡13】共和制期の凱旋行列の道筋にあった凱旋歩廊

凱旋行列の通り道。

時刻 10:41

 真実の口からヴェネツィア広場に通じる大通りに出ると、交差点の向こう側に見えるのが共和制期の凱旋行列の道筋にあった凱旋歩廊です。凱旋式のパレードは北から来てフォルム・ボアリウムを通りフォロ・ロマーノに入って行ったらしいので、その通り道と思われます。(ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢治)

【遺跡14】マルケッルス劇場

【遺跡15】ソシウスのアポロン神殿

人が住んでいるマルケッルス劇場と、柱が3本だけ残るソシウスのアポロン神殿。
ソシウスのアポロン神殿は紀元前5世紀という古い時代に作られたもの。

時刻 10:42

 大通りはマルケッルス劇場の横を通って右に緩やかにカーブして登っていきます。
 マルケッルス劇場はカエサルが着工してアウグストゥスが完成させた劇場です。マルケッルスはアウグストゥスの姉オクタウィアの息子の名で、後継者候補として期待していたようですが、18才で早逝しました。
 右側に柱が3本だけ残っているのが紀元前5世紀に創建されたソシウスのアポロン神殿です。
 マルケッルス劇場は今ではアパートになっていて中に人が住んでいます。

【遺跡16】インスラ

高層建築であることがはっきりわかるインスラ。今の地面の高さは3階です。後に教会として使われたときの鮮やかな壁画が残っています。

関連記事⇒ 庶民の住宅インスラ

時刻 10:51

 マルケッルス劇場から更に登ると右側にカンピドリオ広場に登る階段であるコルドナータ、その隣にはアラコエリのサンタ・マリア聖堂に登る階段があります。この二つの階段の左下に埋もれるようにある建物の残骸は、庶民が住んだ高層住宅、インスラです。
 周囲が掘り込まれていて、地下に2階分が埋もれていることが判ります。全体では4階建てですが、考古学者によると最低5階はあったそうです(英語版Wikipedia)。2000年前の古代ローマには、5階から7階建てのインスラという高層アパートが建ち並んでいたのです。まるで今の街並みと変わりませんよね。本当に驚きです。
 人通りはとても多いのですが、古代ローマの驚異を目の当たりにできるすごい遺跡なのに、立ち止まる人はほとんどいません。私も以前来た時には知らずに通り過ぎてしまいました。
 塔や色鮮やかな壁画は教会になっていたときのものです。たまに立ち止まる人もいますが、この壁画を見ている人が多いようです。
 ひとりでしばし感慨に浸ります。

【遺跡17】カストルとポルックス像

カンピドリオの丘に登る大階段コルドナータ。
頂上の両側にあるカストルとポルックス像が目立ちます。

時刻 10:57

 カンピドリオの丘への大階段コルドナータの両側にそびえるのはカストルとポルックス像です。
 ここからテベレ川の方に下った辺りで出土した破片をもとに復元したものです。(ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢治)
 有名観光地なので雨でも観光シーズンでなくても関係なく混んでいます。
 カストルとポルックスの像が目立ちすぎてほとんどの人は目を留めませんが、カンピドリオ広場の縁にはカストルとポルックスの両側にもう3個ずつ建っているものがあります。どれもミケランジェロがこの広場を飾るために持ってきてしまったものです。

こんな風に右に3個、そして左側にも対照に3個並んでいます。

【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

コルドナータから見て右端に建つこの円柱はアッピア街道の第1マイルストーン。現地にはレプリカが建っています。
コルドナータから見て左端に建つのはアッピア街道の第7マイルストーン。

時刻 10:57

 カストルとポルックス像から一番離れた両端に建つ円柱はアッピア街道のマイルストーンです。右側は第1マイルストーン、左側は第7番目のマイルストーンで、一番上にそれぞれ「Ⅰ」(ローマ数字の1)、「VIⅠ」(ローマ数字の7)と刻まれているのがはっきりわかります。もともと第1マイルストーンが建っていた現地にはレプリカが建っています。
 「全ての道はローマに通ず」のローマ街道の第一号であるアッピア街道、その第1番目と第7番目のマイルストーンです。ものすごく面白いと思うのですが、ほとんどの人はこの存在に気付きもしません。

参考:アッピア街道現地の第1マイルストーン

【遺跡19】コンスタンティヌス1世・2世像

コルドナータから見て左から2番目は皇帝コンスタンティヌス1世の像
コルドナータから見て右から2番目は皇帝コンスタンティヌス2世の像。

時刻 10:57

 左から2番目は皇帝コンスタンティヌス1世の像です。台座に「CONSTANTIN AUG」と書かれているのは CONSTANTIN AUGUSTUS でコンスタンティヌス1世のことを表します。コンスタンティヌス1世は4世紀初めのキリスト教を公認したと言われる皇帝です。
 そして右から二番目はその子供、皇帝コンスタンティヌス2世の像です。こちらの台座は「CONSTANTIN CAES」、CONSTANTIN CAESAR でコンスタンティヌス2世のことを表します。コンスタンティヌス2世は皇帝になって3年、23歳で権力争いに破れ没しました。

【遺跡20】マリウスのトロフィー

カストルとポルックス像の両脇はマリウスのトロフィーと呼ばれるもので、元はテルミニ駅近くのカステルム・アクアエに飾られていました。
なんだかよくわからない像ですが、戦利品を寄せ集めた像なのだそうです。

時刻 10:57

 皇帝像の内側はマリウスのトロフィーと呼ばれるものです。
 見た目からは何だかさっぱりわかりませんが、戦利品を寄せ集めた像なのだそうです。元はテルミニ駅近くのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世広場にあるニンファエウム・アレクサンドリに飾られていました。ニンファエウム・アレクサンドリは水道の終端施設(カステルム・アクアエ)です。
 マリウスはカエサルの叔父ですが、本当はこのトロフィーはマリウスとは関係なく、11代皇帝ドミティアヌスのためのものと言われています。
 それにしても広場を飾るためによくもまあこれだけいろいろなものを集めたものです。この他にも階段コルドナータの登り口にあるライオン像もイシス神殿から出土した古代のものだそうです。残念ながら知らずに見過ごしてしまいました。

参考:ローマ水道

【遺跡21】マルクス・アウレリウス騎馬像

キリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世と間違われたために残ったマルクス・アウレリウス騎馬像。本物は博物館の中です。

時刻 11:04

 カンピドリオ広場の真ん中にはマルクス・アウレリウス騎馬像があります。
 これはレプリカで、本物は広場脇のカピトリーニ博物館の中にあります。
 紀元175年に造られましたがもともとあった場所は不明で、フォロ・ロマーノともコロンナ広場とも言われているそうです。(英語版Wikipedis)
 これが残ったのはキリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世と間違われたからだそう。
 ここは古代ローマ時代にはユピテル神殿があった場所で、今の広場はミケランジェロ設計です。両側は博物館、南側はフォロ・ロマーノです。両方とも前回2007年に見ているのでこのときは寄りませんでした。

【遺跡22】トッレ・アルジェンティーナ広場

時刻 11:21

 コルドナータを降り、正面に伸びるアラコエリ通りを北西に進みます。共和制の頃のローマ市内を囲んでいたセルウィウス城壁の外で、カンプス・マルティウス、マルスの野と呼ばれる地域に入りました。東西に走るボッテーゲ・オスクレ通りに出たら左折し西に200mちょっと進むと、右側に建物のない広い空間が現れます。
 ここは古代の神殿が発掘されたトッレ・アルジェンティーナ広場で、4つの神殿の跡があります。
この広場はネコが多いことでも有名で、野良猫の保護施設があるそうです。

【遺跡23】ポンペイウス劇場

ポンペイウス劇場の観客席の半円形の土台の上に建てられた建物。


時刻 11:29

 トッレ・アルジェンティーナ広場の北を東西に走るヴィットリオ・ヴェネト2世大通りを西に200mほど行くと、左手にあまり目立たないサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会があります。この教会の先を左に100m入ると、右斜めに枝分かれする道があります。
 この道と両側の建物はほぼ半円形を描いています。これは紀元前55年に完成したポンペイウス劇場の名残で、観客席の半円形の土台の上に建物が建てられているためにこんな形をしています。ポンペイウス劇場自体は残念ながら何も残っていません。外周部分に一部壁が残っているらしいのですが、このときは知らなかったので見そびれました。
 ポンペイウス劇場ぼ東側には列柱が立ち並ぶ広大な長方形の広場がありました。紀元前44年3月15日、改修工事中だったフォロ・ロマーノの元老院議場に替えてこの広場で元老院が開催され、出席のために訪れたカエサルが対立者たちにめった刺しにされて殺されました。

【遺跡24】ポンペイウス劇場の柱(カンチェッレリア宮)

カンチェッレリア宮の中庭のアーチを支える柱はポンペイウス劇場の座席を支える柱を転用したもの。


時刻 11:41

 ヴィットリオ・ヴェネト2世大通りを更に西に160mほど行くとカンチェッレリア宮があります。
 カンチェッレリア宮は16世紀に完成した宮殿ですが、この外壁のトラバーチンはポンペイウス劇場のもので、中庭のアーチを支える柱はポンペイウス劇場の座席を支える柱でした。このときは外壁は残念ながら改装中で覆いが掛けられていて見えませんでした。
 柱はエジプトの花崗岩でできていて赤っぽい色をしています。4世紀にサン・ロレンツォ・イン・タマーゾ教会に使われ、それが更にここに転用されました。
 中庭の端に石の欠片が並べてあるのですが、これももしかしてポンペイウス劇場から来たものでしょうか

【遺跡25】ナヴォーナ広場

長円形のナヴォーナ非リバはドミティアヌス競技場の跡。


時刻 11:56

 カンッチェッレリア宮からヴィットリオ・エマヌエーレ2世大通りを挟んで北に100mのところにナボーナ広場があります。
 雨がちょっと強くなってきました。
 この楕円形の広場は、紀元1世紀に11代皇帝ドミティアヌスが造った陸上競技場であるドミティアヌス競技場の跡です。ポンペイウス劇場と同じようにここも観客席の土台の上に建物が立ち、かつて競技場だった場所を取り囲んでいます。
 今のような広場になったのは16世紀から17世紀にかけてです。

【遺跡26】アゴナリス・オベリスク(四大河の噴水)

ベルニーニ作、四大河の噴水の上に建つのはオベリスク。


時刻 12:00

 広場には3つの噴水がありますが、中央にある四大河の噴水の上にオベリスクが建っています。
 このオベリスクは1世紀にドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られたものです。ここにあった競技場と同じ人物が造ったものですが、もともと競技場に建っていたわけではありません。そもそもここは陸上競技場なのでオベリスクを建てられる中央のスピナはありませんでした。
 このオベリスクは最初この少し東側にあったイシス神殿の前に建てられました。その後4世紀にアッピア街道沿いのマクセンティウス競技場に移され、更に17世紀にこの噴水を作るためにここに移されました。
 この四大河の噴水は、ローマではいたるところに登場する商売上手なベルニーニ作です。ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川、ドナウ川を擬人化したのだそうです。でもなぜラプラタ川?

参考:マクセンティウス競技場

【遺跡27】マクテオ・オベリスク

パンテオン前の広場にもオベリスクが建ちます。

時刻 12:31

 ナボーナ広場を北側から出て路地を東に200mほど進むと、右手の路地の向こうにパンテオンの大きなドームが見えます。
 大混雑のパンテオンの前のロトンダ広場に建つオベリスクはエジプトから運ばれてこの近くのイシス神殿に建てられていたもので、18世紀にこの広場が造られたときにここに建てられました。

【遺跡28】パンテオン

アグリッパが作ったパンテオン。
現在残るのはハドリアヌスが再建したものです。

時刻 12:31

 パンテオンは初代皇帝アウグストゥスの右腕であったアグリッパが創建した神殿で、今残っているのはハドリアヌスが再建したものです。正面にはアグリッパの名が記されています。
 パンテオンに入る行列がパンテオンの前のロトンダ広場を斜めに横切って北東の端までつながっていましたが、チケットを買うなどの時間がかかるものがないので意外と列は早く進み、5~6分で中に入れました。(パンテオン入場は無料です。)
 ドームは直径、高さとも43mもあり、外から見ても中から見てもその巨大さに圧倒されます。
 パンテオンから出てきた頃には雨がやみました。

【遺跡29】ミネルバ・オベリスク

ベルニーニ作の象の上にオベリスクが載った像。

時刻 12:58

 パンテオンの左側の道を進むと、ちょうどパンテオンの南東に当たるところにミネルバ広場があります。その中央には可愛らしい象の彫刻があり、ミネルヴァのひよこと呼ばれています。これもベルニーニの作です。
 そして象の背中にはオベリスクが乗っています。1世紀末頃にエジプトから運ばれてイシス神殿に建てられていたものです。
 そのエジプトの女神イシスを祀るイシス神殿は、この広場の東にありました。これまでに見たナヴォーナ広場のものやパンテオン前のものも建っていたところです。今はサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂という教会が建っています。後ろの修復中のものがその教会です。
 パンテオンの南の方にパンテオンと同じくアグリッパが造ったアグリッパ浴場の残骸がありますが、知らずに見落としてしまいました。

【遺跡30】モンテチトーリオ・オベリスク

モンテ・チトーリオ広場に建つオベリスクは元アウグストゥスの日時計の柱だったもの。

時刻 13:09

 パンテオンから北東に向かい、路地をジグザグに200mほど進むとモンテ・チトーリオ広場に出ます。
 この広場にもオベリスクが建っています。アウグストゥスが紀元前10年にヘリオポリスからローマに運び、この近くにあったらしい「アウグストゥスの日時計」の柱にしたものです。アウグストゥスの日時計がどんなものだったか見てみたいですね。どこかに復元してくれないかな。
 元々ヘリオポリスでは、今ポポロ広場に建っているフラミニオ・オベリスクと対で建っていました。
 広場北側のモンテチトーリオ宮殿はイタリア代議院議事堂です。代議員は下院に当たりますが、上院に当たるのはなんと「元老院」。そうそう、そうでなきゃ。

【遺跡31】マルクス・アウレリウスの記念柱

マルコマンニ戦争の様子を刻んだマルクス・アウレリウスの記念柱。

時刻 13:14

 そのすぐ東にコロンナ広場があり、そこにはマルクス・アウレリウスの記念柱が建っています。
 2世紀後半の第16代皇帝、哲人皇帝と言われるマルクス・アウレリウス・アントニヌスの功績を顕彰する記念碑です。リアルで動きのある人の姿がものすごい細かさで描かれています。作る手間を考えると気が遠くなりそう。
 このレリーフは北方で起きたマルコマンニ戦争の様子を螺旋状に刻んだものです。フォーリ・インペリアーリのトラヤヌスの記念柱と同じ形式です。マルクス・アウレリウス帝はこの遠征中に亡くなりました。

気が遠くなるような細かい浮き彫り。

【遺跡32】ハドリアヌス神殿

柱列だけが残るハドリアヌス神殿。

時刻 13:20

 コロンナ広場の南西端の道を南下すると建物の前に柱列だけが並ぶハドリアヌス神殿跡があります。
 残っているのは北面の柱列だけなので、全体像は全くわかりません。

【番外1】トレビの泉

時刻 13:34

トレビの泉背後に彫られたアグリッパがヴィルゴ水道の建設を指図する浮き彫り。

 ハドリアヌス神殿から東に進み、300mほど行くとトレビの泉です。超定番スポットなので大混雑で、特に泉の近くは大変な人だかりです。泉自体に興味はないので近づくのはやめにします。
 古代のものではないので、もちろん今回見た遺跡にはカウントしません。
 トレヴィの泉は、紀元前19年にアグリッパが造ったヴィルゴ水道が15世紀に修復されアックア・ヴェルジネとして蘇ったときに、水道の終点として造られたものです。そして泉背後の壁面の右上には、水源となった湧水を乙女が指し示すという、ヴィルゴ水道の伝説の場面を描いたレリーフがあります。そして左上にはアグリッパがヴィルゴ水道の建設を指図している姿が描かれています。
 アグリッパ好きとしてこれはしっかりと押さえておきます。

トレビの泉背後に彫られた水源の湧水を乙女が指し示す浮き彫り。
観光客でごった返すトレビの泉。

【遺跡33】クイリナーレ・オベリスク

【遺跡34】セラピス神殿の群像

大統領官邸であるクイリナーレ宮殿前に建つオベリスクはアウグストゥス廟の前に建てられていたもの。そして根本に建つ像はセラピス神殿にあった悍馬を制する双子神カストルとポルックス像。

時刻 13:41

 トレビの泉の東側はローマ七丘の一つクイリナーレの丘です。トレビの泉から南下して左側の坂道を登っていくと、クイリナーレ宮殿があります。
 そろそろ疲れてきて坂道が足にとても堪えます。
 クイリナーレ宮殿は大統領官邸です。先ほどのモンテチトーリオ宮殿もそうですが、警備員はいるものの警備はかなり簡素です。
 宮殿前のクイリナーレ広場にはまたまたオベリスクが建っています。ローマで作られてアウグストゥス廟の前に2本セットで建てられていたもので、碑文がありません。セットの片割れは、テルミニ駅近くにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の裏手、エスクイリーノ広場のものです。
 そして根本に飾られているのは悍馬を制する双子神カストルとポルックス像で、この西側にあったセラピス神殿にあったものが、後にコンスタンティヌス浴場に移されたものと考えられているとのことです。(とんぼの本 ローマ古代散歩)

【遺跡35】サルスティアーノ・オベリスク

スペイン階段の上に建つのは出所不明のオベリスク。

時刻 14:02

 もと来た坂道の途中から北に向かう路地に入り、北北西の方角に700mほど行くとスペイン広場です。これも超定番なので大混雑です。
 スペイン階段を登った先にはトリニタ・デイ・モンティ教会があり、その前にオベリスクが建っています。
 古代ローマで作られたものと考えられていますが、いつ誰が造ってどこに建てたものか不明です。ここに建てられたのは18世紀のことです。
 オベリスクの建つスペイン階段頂上部から見ると、6階建ての家並みを越えて遠くが見渡せます。古代ローマのインスラは7階建てもあったので、家並みはこれより高かったことになります。
 正面に伸びる道沿いにはブランド店が集まっているそうです。全く興味ありませんが。

【遺跡36】ピンチョ・オベリスク

ピンチョの丘に建つオベリスクは元はティヴォリのハドリアヌスの別荘にあったもの。

時刻 14:28

 サルスティアーノ・オベリスクが建つスペイン階段の上から北に連なるのがピンチョの丘です。ローマの街を望みながら北に向かいます。雨もやんだので、景色を眺めながらの歩きは爽快です。
 丘の北端に近いところを右手に入るとまたオベリスクがあります。そばで見るとエジプトの神聖文字がはっきりわかります。
 このオベリスクはハドリアヌス帝が造らせたもので、最初はティヴォリのハドリアヌスの別荘にありました。別荘の入口脇にあった、ハドリアヌスが寵愛した美少年アンティノウスの墓苑に建っていたのです。この墓苑は最近発掘されて明らかになったものです。(とんぼの本 ローマ古代散歩)
 その後は転々として、19世紀にここに建てられました。
 オベリスクの先はピンチョのテラスです。ひときわ混雑しています。この真下に超有名スポットであるポポロ広場があるために、そちらから人が回ってくるのです。ポポロ広場の脇には地下鉄駅もあるので便利なのです。

参考:ハドリアヌスの別荘

【遺跡37】フラミニオ・オベリスク

ポポロ広場に建つオベリスクはチルコ・マッシモの中央分離帯スピナに建っていたもの。

時刻 14:40

 ピンチョのテラスの横からスフィンクスの像が並ぶ坂を下るとポポロ広場です。広場の南端に双子の教会があり、その教会の間の道はローマから北に伸びるフラミニア街道です。ちょうど広場の北をアウレリアヌスの城壁が通っていて、そこにフラミニア門がありました。今はその場所に16世紀に建て替えられたポポロ門が建っています。これはうっかり見落としてしまいました。古代のものではないけれど見ておくのだった。
 そして広場の真ん中にはオベリスクがあります。アウグストゥスが紀元前10年にヘリオポリスからローマに運び、チルコ・マッシモの中央分離帯スピナに建てたものです。その後16世紀にここに建てられました。ヘリオポリスでは、先ほど見たモンテチトーリオ広場に建っているものと対でした。
 ルネッサンス以降、広場を造るといえばオベリスクを建てるのが定番になったようです。古代ローマではオベリスクはエジプトブームで建てたように思いますが、ルネッサンス以降のは単に飾るのに都合がよく見栄えもしたので使ったように感じます。

広場に降りる坂道の手すりにはスフィンクス。

【遺跡38】アウグストゥス廟

修復中のアウグストゥス廟。出来上がりが楽しみ。

時刻 15:00

 双子の教会の右側のリぺッタ通りを南下して500mほど行くとアウグストゥス廟があります。紀元前28年にアウグストゥス自身が霊廟として建てたものです。75歳まで生きたアウグストゥスがまだ36歳のときです。
 修復の真っ最中です。かなり大々的なもので、できあがりが楽しみです。

【遺跡39】アラ・パチス(平和の祭壇)

紀元前9年に元老院がアウグストゥスに奉献したアラ・パチス、アウグストゥスの平和の祭壇。

時刻 15:19

 アウグストゥス廟から道を挟んだ向かい側、テベレ川沿いにアラ・パチス、アウグストゥスの平和の祭壇があります。残念ながらこの日は休館日だったので、ガラス越しに眺めました。2007年は夕方になってしまい閉館で見られなかったので、今度こそと思ってきたのですが、残念。
 アラ・パチスは紀元前9年に元老院がアウグストゥスに奉献したもので、パクス・ロマーナ、ローマによる平和の訪れを象徴するものです。元はローマから北に伸びるフラミニア街道、今のコルソ通り沿いにありました。ここより南東の方角で、モンテチトーリオ宮殿の北側辺りです。地中に埋もれていた破片を繋ぎ合わせて復元したのが今の姿です。
 ガラスに顔を近づけ手で顔の周りを覆って反射を避けて見ると、大理石に細かくて写実的な人の姿がぎっしりと彫刻されているのが見えてきます。これはやはり近くでじっくり見たい。
 それにしてもこのガラス張りの建物、はやりのカフェか前衛芸術の美術館みたいで安っぽく、アラ・パチスの2000年の重みを台無しにしています。テベレ川沿いの景観にも全くそぐわず浮いています。そもそもアラ・パチスは元々川沿いにあったものではありません。ぜひ元あったところに、もっとその意義にふさわしい形で展示して欲しいものです。
 一休みしたくなり、入り口前のベンチのようなそうでないようなところに座ったら、雨に濡れた泥だか木ノ実だか鳥のふんだかわからないものがズボンに付いてしまいまい、印象はさらに悪くなりました。最悪です。

アラ・パチスの写実的な浮き彫り。

【遺跡40】サンタンジェロ城

ハドリアヌスが自らの霊廟として造ったサンタンジェロ城。

時刻 15:50

 蛇行するテベレ川に沿って南下します。歩いているうちに薄日がさしてきました。ちょっと気分が上向いてきました。
 川原は意外ときれいな道です。最初は閑散としていたのですが、途中のウンベルト1世橋は大勢の人が行き交っていました。右手に見えているドームはサン・ピエトロ大聖堂です。この橋は昼にいたポポロ広場から200mくらのところで、そこからサン・ピエトロ大聖堂に行こうとするとちょうどルートに当たります。
 アラ・パチスから900m程の対岸にサンタンジェロ城があります。ハドリアヌスが、自らの霊廟として造り始め、紀元139年、次の皇帝アントニヌス・ピウスのときに完成しました。
 墓というよりは城です。実際、401年にホノリウスがアウレリアヌス城壁を改修したときには城壁に要塞として組み込まれましたし、その後にも要塞として使われたことがあります。
 サン・タンジェロという名は城のてっぺんに建つ天使像に由来します。ここには元はハドリアヌスが4頭立ての戦車を引く像が設置されていたそうです。そっちを見たかった。

※2021/4/24 サン・ピエトロ大聖堂サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ教会のものと誤解していたので訂正しました。

【遺跡41】アエリウス橋(サンタンジェロ橋)

サンタンジェロ城前のサンタンジェロ橋。欄干に天使像が並びます。

時刻 15:50

 カンプス・マルティウスとサンタンジェロ城を結ぶ橋はハドリアヌス自信が架けたものです。今はサンタンジェロ橋と呼ばれていますが、元はアエリウス橋という名でした。アエリウスというのはハドリアヌスの氏族名です。
 真ん中の3つのアーチが当時のまま残っています。
 橋はサン・ピエトロ寺院への参詣路としても使われたそうです。欄干の上にはベルニーニが制作を指揮した全部で10体の天使像が建っています。劇的なポーズで建つ天使像はそばで見ると迫力があります。ベルニーニはあまり好きではないけれど、人をあっと言わせるような演出はうまいですね。つい見入ってしまいます。
 サンタンジェロ橋を渡ったところがサンタンジェロ城の入り口ですが、前回2007年に入っているのでパス。城の前で左折すると、正面がサン・ピエトロ寺院です。

【遺跡42】バチカン・オベリスク

サン・ピエトロ広場に建つオベリスクは3代皇帝カリグラがこの辺りに造った円形競技場に建っていたもの。

時刻 16:18

 サン・ピエトロ寺院に着きました。この周辺だけは別の国、バチカン市国です。境目に低い柵が置いてありますが、パスポートチェックなどなく自由に入れます。広場を横切って中に入る長い行列ができています。これも前回入ったのでパス。薄日が射して来たので、巨大な噴水の水がキラキラ輝いてきれいです。
 サン・ピエトロ広場の真ん中には本日8本目のオベリスクが建っています。紀元37年に3代皇帝カリグラがアレキサンドリアからローマに運び、この辺りに造った円形競技場の中央分離帯スピナに建てました。ちょうどこの年にカリグラは重い病に合い、その後暴君に変わったというので、正常な時の最後の仕事かもしれません。
 これで本日の一筆書きの古代ローマ遺跡巡りは完了です。サン・ピエトロ寺院から700mほど北のオッタビアーノ駅から地下鉄A線でホテルのあるテルミニ駅に戻りました。時刻 15:50 16:16
 サン・ピエトロ寺院に着きました。この周辺だけは別の国、バチカン市国です。境目に低い柵が置いてありますが、パスポートチェックなどなく自由に入れます。広場を横切って中に入る長い行列ができています。これも前回入ったのでパス。薄日が射して来たので、巨大な噴水の水がキラキラ輝いてきれいです。
 サン・ピエトロ広場の真ん中には本日8本目のオベリスクが建っています。紀元37年に3代皇帝カリグラがアレキサンドリアからローマに運び、この辺りに造った円形競技場の中央分離帯スピナに建てました。ちょうどこの年にカリグラは重い病に合い、その後暴君に変わったというので、正常な時の最後の仕事かもしれません。
 これで本日の一筆書きの古代ローマ遺跡巡りは完了です。サン・ピエトロ寺院から700mほど北のオッタビアーノ駅から地下鉄A線でホテルのあるテルミニ駅に戻りました。

【番外2】セルウィウス城壁

テルミニ駅前に残るセルウィウスの城壁。

時刻 18:34

 そして駅前なので1個おまけの遺跡見物。セルウィウス城壁です。テルミニ駅の正面を出て右側、北東寄りにあります。
 セルウィウス城壁は紀元前4世紀ころ古代ローマの街を守っていた城壁です。
 テルミニ駅地下のマクドナルドのそばにも、埋もれていたセルウィウス城壁のかけらがあります。
 城壁の高さは最高10mくらいだったようですが、駅前で地上に顔を出しているは5mくらいなので、地下に5mほど埋もれていることになります。ちょうど今立っている辺りが当時の地面だったのでしょうか。
 ローマは掘ればいたるところにこうした遺跡があるのでしょうね。

テルミニ駅の地下のマクドナルドのそそばにあるセルウィウスの城壁。

 この日歩いた距離は23.9km、歩数32,409歩、登った階数28階でした。

 この旅行ではこの日を含め4日間で70個の古代ローマ遺跡を見ました。興味のある方は旅行記を御覧ください。

更新履歴

  • 2020/3/15 新規投稿
  • 2021/4/10 地図を掲載
  • 2021/4/24 ウンベルトⅠ世橋から見えるサン・ピエトロ大聖堂のドームをサンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ教会のものと誤解していたので訂正。

 南仏プロヴァンスの街ニームのカステルム・アクアエ(castellum aquae)を紹介します。「何それ?」と思う人が大多数でしょう。しかも数多くのローマ遺跡が残るニームの中でも超マイナーな存在です。しかし古代ローマの水道の仕組みが解る貴重な遺跡です。




カステルム・アクアエとは?

 カステルム・アクアエ(castellum aquae)というのは水道の水を複数の経路に分配する施設です。ここから先は鉛製の水道管で最終目的地まで水が届けられました。

 古代ローマの都市には必ず水道があるので、水道の分水施設であるカステルム・アクアエはどんな都市にもあったはずですが、遺構はあまり残っていません。Wikipediaのカステルム・アクアエの項で紹介されているのも、ローマのテルミニ駅近くにあるニンファエウム・アレクサンドリとポンペイのものだけです。でもこのニームのものも載っていないので、もしかしたら地味だから紹介されないだけで他にもあるのかもしれません。現にスペインのメリダで街を歩いていたらカステルム・アクアエの遺跡に偶然出会いました。いずれにしてもなかなか見ることができないのは確かです。

形と機能

 ニームのカステルム・アクアエは直径5.9m、深さ1.4mの円形のプールです。道路からは奥に見える四角い空洞が水道につながっていたところで、ここから水が円形のプールに流れ込み、手前側にある直径40cmの10個の丸い穴につながった水道管に流れ出ていました。穴の大きさは同じに見えるので、水は均等に分配されていたと思われます。穴はプールの底から少し上がったところに開いていて、不純物を沈殿させて取り除く役割も果たしていました。

 ニーム、ローマ、ポンペイ 、メリダのものはどれも形や構造が違うようですが、このニームのものは一度説明を聞けばひと目で仕組みがわかります。古代ローマの水道の仕組みを知るにはうってつけです。

 水道からの入り口は少し角度が付けられています。おそらく中で水が渦を巻くようにするためで、それによって水が滞留することなく均等に水道管に流れ出る効果があったものと思われます。

 ポンペイに残るカステルム・アクアエは出口を個別に閉め切ることができるようになっていて、水が少ない時は給水先の調整ができたようですが、ここニームのものにはそのような設備は見つかっていません。同じ地中海沿いで夏に降水量が少ないのは一緒なので、調整は必要だと思うのですが、なぜ調整の設備がなかったのか理由はわかりません。水量の変化が少なかったのでしょうか。

 水道管は二つ一組になっていると言いますが、見た目ではよくわかりませんでした。ここから先、街にどのように配水されていたのかはよくわかっていません。

 歩道からは見えませんが手前の底には3つの排水口があり、下水に水を流してプールを空にすることができました。水槽の手前側の水道管があったはずのところの下にある蓋付きの溝が、この排水口から水を流す通り道です。空にするのは清掃や修復のためです。ローマの凄さはこうした施設をただ造るだけでなく、長期間に渡って維持管理したことですが、そのためにメンテナンスのための構造や設備が予めきちんと造り込んでありました。

壁に描かれていた絵

 プールの周囲には建物の土台や壁の残骸があります。今のようにプールが剥き出しで設置されていたのではなく、元は正方形の列柱の建物がプールを覆っていました。カステルムというのはその建物全体を指した言葉です。

 1844年に発見された当時、壁にはイルカと魚が描かれているのが見えていたそうです。今は色褪せて何も見えません。これは見てみたかった。ちなみにポンペイのものは今でも絵が残っています。

 若いころ日本の古代史研究者である上田正昭さんの授業で、高松塚古墳の壁画を発掘した時のことを聞いたことがあります。水に浸かった状態で発掘されたものが、水がなくなって空気に触れた途端、みるみる色あせたそうです。発掘は破壊だから慎重にやらなければならない、とおっしゃっていました。高松塚の壁画はその後カビで大幅に劣化し、今では剥がして修復した上で室内で保管されています。秦の始皇帝陵は技術が整うまでは発掘しないと決めているそうです。貴重な遺産を将来に残すためにはこれも一つのやり方です。でも箸墓に埋まっているもの(卑弥呼が魏から贈られた銅鏡100枚?)と、始皇帝陵の水銀の川と海が広がる地下世界はやっぱり見てみたいものです。

http://www.romanaqueducts.info/aquasite/index.html

水道のルートと水道橋

 この水道の水源はニームから北北東に直線距離で20km離れたユゼスにある湧き水です。水道はユゼスとニームの間にある台地を大きく東の方に迂回しているため、全長が50kmもあります。更にユゼスとニームの間にはガルドン川が流れていて、水道は川を橋で越えています。これが誰もが知るローマ水道橋の代表選手、ポン・デュ・ガールです。首都ローマの外にあるものでは一番有名と言っていいと思いますが、実物を見てもその巨大さに圧倒されます。

ポン・デュ・ガールはこのカステルム・アクアエに給水する水道の途中にあります。

 ポン・デュ・ガールは紀元前にアグリッパによって造られた、と以前は言われていて、いまだに旅行ガイドやネットでその説明をよく見かけます。しかし最新の研究では、ポン・デュ・ガールを含めたこの水道が造られたのは1世紀後半と考えられています。当然ながら水道の構成要素であるカステルム・アクアエが造られたのもその時です。

 紀元前にカエサルが配下の退役兵に土地を与えたのが、ニームのローマ都市としての始まりです。それ以前から今のイタリアとスペインとを結ぶローマ街道であるドミティア街道上の都市として重要な位置を占めていましたが、1世紀にはこの辺りは平穏で大きな出来事がなく、そのため逆にどのような状態だったのかよく解りません。水道橋が新設されたのですから安定して発展し人口が増えていたのでしょう。

ニームの紋章、ヤシの木とワニ。

 同じ水道の一部でありながら、ポン・デュ・ガールに比べるとカステルム・アクアエは小さくてとても地味です。巨大建築も確かに驚異の存在ではあるのですが、私はインスラやパン屋、公衆トイレなんていうものが、古代ローマ人の現代に引けを取らない豊かな生活、いやもしかすると少なくとも精神的には現代人より豊かな生活を垣間見ることができて好きです。カステルム・アクアエもこれを見ると古代ローマ人の知恵と高度な技術に支えられた人々の豊かな生活が目に浮かぶようで、私にとってはポン・デュ・ガールと同じくらいの存在感があります。

行き方

 ニームはパリ・リヨン駅からTGVで3時間です。

 カステルムはニーム駅から北に1.6km、円形闘技場からは900mです。

 車の場合は道が細くて近くには停められないので、街中の駐車場に入れて歩くのがいいでしょう。円形闘技場の南東側には大きな地下駐車場があります。

 カステルム・アクアエがあるのはニームの市街地の北部、北に向かって上り坂になったところで、ニーム大学の西側の外壁に沿うランペス通り(Rue de la Lampeze)沿いにあります。円形闘技場やメゾン・カレからは北、マーニュの塔の東に当たります。

 非常に判りにくい場所にある上に案内はほとんどなく、ランペス通りも細い道なので、私は散々迷った後にやっとたどり着きました。今ならGoogleマップに ”Castellum Aquae” として載っていますからルート検索すれば簡単にたどり着けるでしょう。

 ニーム大学の建物は元は17世紀に建てられたフォート・ボーバン(Fort Vauban)という要塞で、その後刑務所に使われた後、1995年に大学になりました。見た目はまさに要塞です。

 ニームには見栄えがして判りやすいローマ遺跡があります。展示が分かり易い円形闘技場、保存状態がよく美しい神殿メゾン・カレ、城壁に設けられた見張り塔であるマーニュ塔です。円形闘技場には剣闘士の種類がイラスト付きで説明されていて、見ているだけで面白く、剣闘士の姿や試合の様子の理解が深まりました。

参考文献

更新履歴

  • 2020/3/3 新規投稿