2018年5月1日、1日でローマ市内の遺跡42個を一筆書きで歩いて巡った記録です。
【遺跡1】チルコ・マッシモ
南東端から見たチルコ・マッシモ。左がパラティーノの丘。
時刻 9:20
一筆書き遺跡巡りのスタート地点は地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅。ホテルのあるテルミニ駅から地下鉄でやって来ました。 駅を出ると道の反対側に戦車競技場、チルコ・マッシモが広がっています。どんよりした雲が垂れ込めて今にも雨が降りそうです。跡巡りは全部徒歩なので気掛かりです。 階段で競技場部分に降り、かつてのスピナと言う中央分離帯の上にある道を、犬の散歩をしている人と行き交いながら縦断して北西に進みます。 チルコ・マッシモは全体で25万人収容できたという戦車競技場です。ここには古くから競技場がありましたが、カエサルとアウグストゥスが巨大な施設を作りました。 この広大な競技場を馬に惹かれた戦車が駆け回ったのです。きっとコーナーでは激しいぶつかり合いがあったでしょう。大迫力なのが想像できます。古代ローマ人が熱狂したのもわかります。 スピナにはエジプトから運ばれたオベリスクが2本建っていました。一つは紀元前10年にアウグストゥスが建てたもので現在ポポロ広場の四大河の噴水の上にあるもの。もう一つは紀元357年にコンスタンティウス2世が建てたもので現在モンテ・チトーリオ広場に建っているものです。どちらも後で訪れます。
【遺跡2】パラティーノの丘
チルコ・マッシモの競技場から見上げたパラティーノの丘のドムス・セプティミ・セウェリ。
時刻 9:31
右手、チルコ・マッシモの北東側は皇帝の住居があったパラティーノの丘です。 アウグストゥスは競技場の中央に皇帝観覧席を設けましたが、これは後にパラティーノの丘の皇帝住居と接続され、住居から直接観覧席に出られるようになりました。 見えている巨大な建物は、2世紀末から3世紀初めに第20代皇帝セプティミウス・セウェルスが建てたドムス・セプティミ・セウェリです。
【遺跡3】フォロ・ボアリオ
道路側からテベレ川側を見たところ。手前がトリトンの噴水。
時刻 9:56
雨が降ってきました。チルコ・マッシモの北西端を登り、左側の道を進んで交差点を右折すると、右側に超有名スポットである真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があり、行列ができています。この辺り一体がフォルム・ボアリオ(フォルム・ボアリウム)です。 フォロ・ボアリオは「牛市場」という意味です。王政ローマ時代、すなわち紀元前6世紀以前に牛市場があり、その後傍らにテベレ川の港が設けられて商業の中心になりました。 道路のテベレ川側が公園として整備されていて、二つの神殿と18世紀に造られたトリトンの噴水があります。 政治の中心フォロ・ロマーノに比べて地味で無名なので、人が全くいません。私はこういう珍しいのを見てワクワクしていますが、辺りはうら寂しい雰囲気です。 真実の口も実は古代ローマの遺物で、排水溝の蓋とか、道路の向かいにあるヘラクレス・ヴィクトール神殿の天井の中央の穴を塞ぐ蓋(英語版wiki)とか言われています。13世紀に教会の壁に付けられ、17世紀にこの場所に移されました。映画ローマの休日の影響でみんな行列を作って口に手を入れていますが、お金を払って行列に並び排水口の蓋の模様に手を突っ込む暇はないので、ちら見するだけで済ませます。ちゃんと見ていないのでこれは遺跡の数にカウントしません。
【遺跡4】エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿)
フォロ・ボアリオ南側の円形のエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿。
時刻 9:57
広場の奥、テベレ川寄りに形の違う神殿が2つあります。 南側の丸い方はエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿) で、紀元前2世紀に建てられたと言われています。20本の柱のうち19本が古代のまま残っています。元は柱の上に帯状のアーキトレーブという装飾帯があり、その上に屋根が乗っていました。 ヘラクレス・ウィクトールというのは勝利者ヘラクレスという意味で、コリントスの戦いでアカイア同盟軍を破った共和政ローマの軍人ルキウス・ムンミウス・アカイクスにより建てられたと言われています。 12世紀以降は教会に転用されていました。
【遺跡5】ポルトゥヌス神殿
フォロ・ボアリオ北側の四角いポルトゥヌス神殿。 後ろに見える塔は真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。
時刻 9:58
北側にある四角いのがポルトゥヌス神殿です。紀元前75年に建設された港の神ポルトゥヌスに捧げられた神殿です。 フォロ・ボアリオの脇にあったテベレ川の港はローマに物資を運び込む玄関口で、この港を守る神殿です。
【遺跡6】ヤヌス門(ジアノ凱旋門)
道路の東側にあるヤヌス門(別名ジアノ凱旋門)。道路を挟んだこの辺り一帯がフォロ・ボアリオ で、背後はパラティーノの丘。
時刻 9:59
真東の方向に見えるのがヤヌス門、別名ジアノ凱旋門です。4世紀初めに既存の建物の部材を寄せ集めて造らた4面の門です。壁龕(くぼみ)にはきっと彫像があったのでしょう。 これが何なのかはわかっていませんが、コンスタンティヌス帝の顕彰記念門、市場の境界を表す門、牛市場の商人の避難所といった説があります(英語版Wikipedia)。 排水口クロアカ・マクシマの真上に建っています。
【遺跡7】アエミリウス橋(ポンテ・ロット)
パラティーノ橋からテベレ川の上流を見たところ。左手にある途中で途切れている橋がアエミリウス橋、別名ポンテ・ロット(壊れた橋)。 向こう側に見えるのはファブリキウス橋。
時刻 10:03
ポルトゥヌス神殿の北側を回って西に行くとすぐにテベレ川で、パラティーノ橋を渡ってテベレ川の西岸、トランステベレ地区に一旦渡ります。 右側にある橋の残骸は古代ローマ時代の橋、アエミリウス橋で、ローマで一番古い橋です。 「壊れた橋」という意味のポンテ・ロットという別名がついています。1887年に今渡っているパラティーノ橋を架けるために壊されたとのことです。邪魔なところだけ壊したのですね。 この辺りの東岸に大排水口クロアカ・マクシマがあるのですが見落としてしまいました。
【遺跡8】ティベリーナ島
パラティーノ橋から見たティベリーナ島。
時刻 10:04
右手の上流側にテベレ川の中洲ティベリーナ島が見えます。 紀元前3世紀にペストが流行したときに医療の神アスクレピオスの神殿が建てられて病人が収容されました。16世紀に病院が建てられそれが今も残っています。古代の医療の聖地が未だに医療に関係あるところが面白いですね。 島は船を象って装飾されていました。
【遺跡9】ケスティウス橋
テベレ川西岸の川原に降りてケスティウス橋を見上げたところ。対岸がティベリーナ島。川原でマラソン大会をやっていました。
時刻 10:08
西岸のトランステベレ地区とティベリーナ島を結ぶのがケスティウス橋です。 紀元前1世紀、島の反対側のファブリキウス橋より後に架けられた橋です。その後4世紀に改築されましたが、そのときにはマルケッルス劇場を取り壊して得られた建材を使ったそうです。 19世紀終わりに川幅を拡張するのに伴い架け替えられましたが、中央のアーチは2/3が元の橋の部材です。 このとき西岸ではマラソン大会をやっていました。
【遺跡10】ファブリキウス橋
テベレ川東岸の川原に降りてファブリキウス橋を見上げたところ。対岸がティベリーナ島。
時刻 10:23
ティベリーナ島とテベレ川東岸を結ぶのがファブリキウス橋です。 紀元前62年に架けられた現存する最も古いローマの石造アーチ橋です。 東岸の橋の欄干には両側とも4つの顔のある大理石の石柱が取り付けられています。このためこの橋はクアトロ・チャピ橋 Ponte dei Quattro Capi 、4つの頭の橋という別名がついています。顔がすり減っていて古そうな感じですが、これは1840年に近くのグレゴリオ・デッラ・ディウィナ・ピエタ聖堂から移設されたもので、元はマルケッルス劇場の近くにあったヤヌス神殿に関連するものと考えられるそうです。ヤヌスは境界の神で表と裏の二面の顔を持ちます。 真ん中の小さな孔は、洪水時に水が通ることで水圧を逃がすためのものだそうです。 アーチに「ファブリキウス」と刻まれているのが見えます。ファブリキウスは今の石造の橋の建設を監督した道路長官の名です。 (移設については”Claridge, Amanda (1998). Rome: An Oxford Archaeological Guide. Oxford: Oxford Univ. Press”による。Wikipediaはこの書籍を注として載せているが、Wikipedia自体の記述は日本語版も英語版も間違っています。)
東岸側のアーチの下流側に「FABRICIVS(ファブリキウス)」と刻まれているのが見えます。
【遺跡11】オッタヴィアのポルティコ
前面の壁だけが残るオッタヴィアのポルティコ。
時刻 10:32
ファブリキウス橋を渡って左斜め前に伸びる道を進むとオッタヴィアのポルティコがあります。マルチェッロ劇場の裏手に当たり、建物の前面の壁だけが残っています。どんな建物だったのかちょっと想像がつきません。 初代皇帝アウグストゥスが建造して姉の名を付けた建物で、図書館、集会所、学校がありました。オッタヴィア(オクタウィア)は兄アウグストゥスと夫アントニウスの間で大変な苦労をした人ですが、人々の尊敬を集めた人物です。 右手にマルケッルス劇場の建物がありますが、柵があって直接行けないのでいったん橋のたもとまで戻ります。
【遺跡12】フォロ・オリトリオ
古代の青果市場、フォロ・オリトリオ。
時刻 10:38
ファブリキウス橋のたもとに青果市場、フォロ・オリトリオがあります。 かつては神殿が3つ並んでいて、傍らに建つサン・ニコラ聖堂の壁面に列柱が埋もれています。このときは修復中で覆いがかけられていて見えませんでした。
【遺跡13】共和制期の凱旋行列の道筋にあった凱旋歩廊
凱旋行列の通り道。
時刻 10:41
真実の口からヴェネツィア広場に通じる大通りに出ると、交差点の向こう側に見えるのが共和制期の凱旋行列の道筋にあった凱旋歩廊です。凱旋式のパレードは北から来てフォルム・ボアリウムを通りフォロ・ロマーノに入って行ったらしいので、その通り道と思われます。(ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢治)
【遺跡14】マルケッルス劇場
【遺跡15】ソシウスのアポロン神殿
人が住んでいるマルケッルス劇場と、柱が3本だけ残るソシウスのアポロン神殿。 ソシウスのアポロン神殿は紀元前5世紀という古い時代に作られたもの。
時刻 10:42
大通りはマルケッルス劇場の横を通って右に緩やかにカーブして登っていきます。 マルケッルス劇場はカエサルが着工してアウグストゥスが完成させた劇場です。マルケッルスはアウグストゥスの姉オクタウィアの息子の名で、後継者候補として期待していたようですが、18才で早逝しました。 右側に柱が3本だけ残っているのが紀元前5世紀に創建されたソシウスのアポロン神殿です。 マルケッルス劇場は今ではアパートになっていて中に人が住んでいます。
【遺跡16】インスラ
高層建築であることがはっきりわかるインスラ。今の地面の高さは3階です。後に教会として使われたときの鮮やかな壁画が残っています。
時刻 10:51
マルケッルス劇場から更に登ると右側にカンピドリオ広場に登る階段であるコルドナータ、その隣にはアラコエリのサンタ・マリア聖堂に登る階段があります。この二つの階段の左下に埋もれるようにある建物の残骸は、庶民が住んだ高層住宅、インスラです。 周囲が掘り込まれていて、地下に2階分が埋もれていることが判ります。全体では4階建てですが、考古学者によると最低5階はあったそうです(英語版Wikipedia)。2000年前の古代ローマには、5階から7階建てのインスラという高層アパートが建ち並んでいたのです。まるで今の街並みと変わりませんよね。本当に驚きです。 人通りはとても多いのですが、古代ローマの驚異を目の当たりにできるすごい遺跡なのに、立ち止まる人はほとんどいません。私も以前来た時には知らずに通り過ぎてしまいました。 塔や色鮮やかな壁画は教会になっていたときのものです。たまに立ち止まる人もいますが、この壁画を見ている人が多いようです。 ひとりでしばし感慨に浸ります。
【遺跡17】カストルとポルックス像
カンピドリオの丘に登る大階段コルドナータ。 頂上の両側にあるカストルとポルックス像が目立ちます。
時刻 10:57
カンピドリオの丘への大階段コルドナータの両側にそびえるのはカストルとポルックス像です。 ここからテベレ川の方に下った辺りで出土した破片をもとに復元したものです。(ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢治) 有名観光地なので雨でも観光シーズンでなくても関係なく混んでいます。 カストルとポルックスの像が目立ちすぎてほとんどの人は目を留めませんが、カンピドリオ広場の縁にはカストルとポルックスの両側にもう3個ずつ建っているものがあります。どれもミケランジェロがこの広場を飾るために持ってきてしまったものです。
こんな風に右に3個、そして左側にも対照に3個並んでいます。
【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン
コルドナータから見て右端に建つこの円柱はアッピア街道の第1マイルストーン。現地にはレプリカが建っています。
コルドナータから見て左端に建つのはアッピア街道の第7マイルストーン。
時刻 10:57
カストルとポルックス像から一番離れた両端に建つ円柱はアッピア街道のマイルストーンです。右側は第1マイルストーン、左側は第7番目のマイルストーンで、一番上にそれぞれ「Ⅰ」(ローマ数字の1)、「VIⅠ」(ローマ数字の7)と刻まれているのがはっきりわかります。もともと第1マイルストーンが建っていた現地にはレプリカが建っています。 「全ての道はローマに通ず」のローマ街道の第一号であるアッピア街道、その第1番目と第7番目のマイルストーンです。ものすごく面白いと思うのですが、ほとんどの人はこの存在に気付きもしません。
参考:アッピア街道現地の第1マイルストーン
【遺跡19】コンスタンティヌス1世・2世像
コルドナータから見て左から2番目は皇帝コンスタンティヌス1世の像
コルドナータから見て右から2番目は皇帝コンスタンティヌス2世の像。
時刻 10:57
左から2番目は皇帝コンスタンティヌス1世の像です。台座に「CONSTANTIN AUG」と書かれているのは CONSTANTIN AUGUSTUS でコンスタンティヌス1世のことを表します。コンスタンティヌス1世は4世紀初めのキリスト教を公認したと言われる皇帝です。 そして右から二番目はその子供、皇帝コンスタンティヌス2世の像です。こちらの台座は「CONSTANTIN CAES」、CONSTANTIN CAESAR でコンスタンティヌス2世のことを表します。コンスタンティヌス2世は皇帝になって3年、23歳で権力争いに破れ没しました。
【遺跡20】マリウスのトロフィー
カストルとポルックス像の両脇はマリウスのトロフィーと呼ばれるもので、元はテルミニ駅近くのカステルム・アクアエに飾られていました。
なんだかよくわからない像ですが、戦利品を寄せ集めた像なのだそうです。
時刻 10:57
皇帝像の内側はマリウスのトロフィーと呼ばれるものです。 見た目からは何だかさっぱりわかりませんが、戦利品を寄せ集めた像なのだそうです。元はテルミニ駅近くのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世広場にあるニンファエウム・アレクサンドリに飾られていました。ニンファエウム・アレクサンドリは水道の終端施設(カステルム・アクアエ)です。 マリウスはカエサルの叔父ですが、本当はこのトロフィーはマリウスとは関係なく、11代皇帝ドミティアヌスのためのものと言われています。 それにしても広場を飾るためによくもまあこれだけいろいろなものを集めたものです。この他にも階段コルドナータの登り口にあるライオン像もイシス神殿から出土した古代のものだそうです。残念ながら知らずに見過ごしてしまいました。
参考:ローマ水道
【遺跡21】マルクス・アウレリウス騎馬像
キリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世と間違われたために残ったマルクス・アウレリウス騎馬像。本物は博物館の中です。
時刻 11:04
カンピドリオ広場の真ん中にはマルクス・アウレリウス騎馬像があります。 これはレプリカで、本物は広場脇のカピトリーニ博物館の中にあります。 紀元175年に造られましたがもともとあった場所は不明で、フォロ・ロマーノともコロンナ広場とも言われているそうです。(英語版Wikipedis) これが残ったのはキリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世と間違われたからだそう。 ここは古代ローマ時代にはユピテル神殿があった場所で、今の広場はミケランジェロ設計です。両側は博物館、南側はフォロ・ロマーノです。両方とも前回2007年に見ているのでこのときは寄りませんでした。
【遺跡22】トッレ・アルジェンティーナ広場
時刻 11:21
コルドナータを降り、正面に伸びるアラコエリ通りを北西に進みます。共和制の頃のローマ市内を囲んでいたセルウィウス城壁の外で、カンプス・マルティウス、マルスの野と呼ばれる地域に入りました。東西に走るボッテーゲ・オスクレ通りに出たら左折し西に200mちょっと進むと、右側に建物のない広い空間が現れます。 ここは古代の神殿が発掘されたトッレ・アルジェンティーナ広場で、4つの神殿の跡があります。 この広場はネコが多いことでも有名で、野良猫の保護施設があるそうです。
【遺跡23】ポンペイウス劇場
ポンペイウス劇場の観客席の半円形の土台の上に建てられた建物。
時刻 11:29
トッレ・アルジェンティーナ広場の北を東西に走るヴィットリオ・ヴェネト2世大通りを西に200mほど行くと、左手にあまり目立たないサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会があります。この教会の先を左に100m入ると、右斜めに枝分かれする道があります。 この道と両側の建物はほぼ半円形を描いています。これは紀元前55年に完成したポンペイウス劇場の名残で、観客席の半円形の土台の上に建物が建てられているためにこんな形をしています。ポンペイウス劇場自体は残念ながら何も残っていません。外周部分に一部壁が残っているらしいのですが、このときは知らなかったので見そびれました。 ポンペイウス劇場ぼ東側には列柱が立ち並ぶ広大な長方形の広場がありました。紀元前44年3月15日、改修工事中だったフォロ・ロマーノの元老院議場に替えてこの広場で元老院が開催され、出席のために訪れたカエサルが対立者たちにめった刺しにされて殺されました。
【遺跡24】ポンペイウス劇場の柱(カンチェッレリア宮)
カンチェッレリア宮の中庭のアーチを支える柱はポンペイウス劇場の座席を支える柱を転用したもの。
時刻 11:41
ヴィットリオ・ヴェネト2世大通りを更に西に160mほど行くとカンチェッレリア宮があります。 カンチェッレリア宮は16世紀に完成した宮殿ですが、この外壁のトラバーチンはポンペイウス劇場のもので、中庭のアーチを支える柱はポンペイウス劇場の座席を支える柱でした。このときは外壁は残念ながら改装中で覆いが掛けられていて見えませんでした。 柱はエジプトの花崗岩でできていて赤っぽい色をしています。4世紀にサン・ロレンツォ・イン・タマーゾ教会に使われ、それが更にここに転用されました。 中庭の端に石の欠片が並べてあるのですが、これももしかしてポンペイウス劇場から来たものでしょうか
【遺跡25】ナヴォーナ広場
長円形のナヴォーナ非リバはドミティアヌス競技場の跡。
時刻 11:56
カンッチェッレリア宮からヴィットリオ・エマヌエーレ2世大通りを挟んで北に100mのところにナボーナ広場があります。 雨がちょっと強くなってきました。 この楕円形の広場は、紀元1世紀に11代皇帝ドミティアヌスが造った陸上競技場であるドミティアヌス競技場の跡です。ポンペイウス劇場と同じようにここも観客席の土台の上に建物が立ち、かつて競技場だった場所を取り囲んでいます。 今のような広場になったのは16世紀から17世紀にかけてです。
【遺跡26】アゴナリス・オベリスク(四大河の噴水)
ベルニーニ作、四大河の噴水の上に建つのはオベリスク。
時刻 12:00
広場には3つの噴水がありますが、中央にある四大河の噴水の上にオベリスクが建っています。 このオベリスクは1世紀にドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られたものです。ここにあった競技場と同じ人物が造ったものですが、もともと競技場に建っていたわけではありません。そもそもここは陸上競技場なのでオベリスクを建てられる中央のスピナはありませんでした。 このオベリスクは最初この少し東側にあったイシス神殿の前に建てられました。その後4世紀にアッピア街道沿いのマクセンティウス競技場に移され、更に17世紀にこの噴水を作るためにここに移されました。 この四大河の噴水は、ローマではいたるところに登場する商売上手なベルニーニ作です。ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川、ドナウ川を擬人化したのだそうです。でもなぜラプラタ川?
参考:マクセンティウス競技場
【遺跡27】マクテオ・オベリスク
パンテオン前の広場にもオベリスクが建ちます。
時刻 12:31
ナボーナ広場を北側から出て路地を東に200mほど進むと、右手の路地の向こうにパンテオンの大きなドームが見えます。 大混雑のパンテオンの前のロトンダ広場に建つオベリスクはエジプトから運ばれてこの近くのイシス神殿に建てられていたもので、18世紀にこの広場が造られたときにここに建てられました。
【遺跡28】パンテオン
アグリッパが作ったパンテオン。 現在残るのはハドリアヌスが再建したものです。
時刻 12:31
パンテオンは初代皇帝アウグストゥスの右腕であったアグリッパが創建した神殿で、今残っているのはハドリアヌスが再建したものです。正面にはアグリッパの名が記されています。 パンテオンに入る行列がパンテオンの前のロトンダ広場を斜めに横切って北東の端までつながっていましたが、チケットを買うなどの時間がかかるものがないので意外と列は早く進み、5~6分で中に入れました。(パンテオン入場は無料です。) ドームは直径、高さとも43mもあり、外から見ても中から見てもその巨大さに圧倒されます。 パンテオンから出てきた頃には雨がやみました。
【遺跡29】ミネルバ・オベリスク
ベルニーニ作の象の上にオベリスクが載った像。
時刻 12:58
パンテオンの左側の道を進むと、ちょうどパンテオンの南東に当たるところにミネルバ広場があります。その中央には可愛らしい象の彫刻があり、ミネルヴァのひよこと呼ばれています。これもベルニーニの作です。 そして象の背中にはオベリスクが乗っています。1世紀末頃にエジプトから運ばれてイシス神殿に建てられていたものです。 そのエジプトの女神イシスを祀るイシス神殿は、この広場の東にありました。これまでに見たナヴォーナ広場のものやパンテオン前のものも建っていたところです。今はサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂という教会が建っています。後ろの修復中のものがその教会です。 パンテオンの南の方にパンテオンと同じくアグリッパが造ったアグリッパ浴場の残骸がありますが、知らずに見落としてしまいました。
【遺跡30】モンテチトーリオ・オベリスク
モンテ・チトーリオ広場に建つオベリスクは元アウグストゥスの日時計の柱だったもの。
時刻 13:09
パンテオンから北東に向かい、路地をジグザグに200mほど進むとモンテ・チトーリオ広場に出ます。 この広場にもオベリスクが建っています。アウグストゥスが紀元前10年にヘリオポリスからローマに運び、この近くにあったらしい「アウグストゥスの日時計」の柱にしたものです。アウグストゥスの日時計がどんなものだったか見てみたいですね。どこかに復元してくれないかな。 元々ヘリオポリスでは、今ポポロ広場に建っているフラミニオ・オベリスクと対で建っていました。 広場北側のモンテチトーリオ宮殿はイタリア代議院議事堂です。代議員は下院に当たりますが、上院に当たるのはなんと「元老院」。そうそう、そうでなきゃ。
【遺跡31】マルクス・アウレリウスの記念柱
マルコマンニ戦争の様子を刻んだマルクス・アウレリウスの記念柱。
時刻 13:14
そのすぐ東にコロンナ広場があり、そこにはマルクス・アウレリウスの記念柱が建っています。 2世紀後半の第16代皇帝、哲人皇帝と言われるマルクス・アウレリウス・アントニヌスの功績を顕彰する記念碑です。リアルで動きのある人の姿がものすごい細かさで描かれています。作る手間を考えると気が遠くなりそう。 このレリーフは北方で起きたマルコマンニ戦争の様子を螺旋状に刻んだものです。フォーリ・インペリアーリのトラヤヌスの記念柱と同じ形式です。マルクス・アウレリウス帝はこの遠征中に亡くなりました。
気が遠くなるような細かい浮き彫り。
【遺跡32】ハドリアヌス神殿
柱列だけが残るハドリアヌス神殿。
時刻 13:20
コロンナ広場の南西端の道を南下すると建物の前に柱列だけが並ぶハドリアヌス神殿跡があります。 残っているのは北面の柱列だけなので、全体像は全くわかりません。
【番外1】トレビの泉
時刻 13:34
トレビの泉背後に彫られたアグリッパがヴィルゴ水道の建設を指図する浮き彫り。
ハドリアヌス神殿から東に進み、300mほど行くとトレビの泉です。超定番スポットなので大混雑で、特に泉の近くは大変な人だかりです。泉自体に興味はないので近づくのはやめにします。 古代のものではないので、もちろん今回見た遺跡にはカウントしません。 トレヴィの泉は、紀元前19年にアグリッパが造ったヴィルゴ水道が15世紀に修復されアックア・ヴェルジネとして蘇ったときに、水道の終点として造られたものです。そして泉背後の壁面の右上には、水源となった湧水を乙女が指し示すという、ヴィルゴ水道の伝説の場面を描いたレリーフがあります。そして左上にはアグリッパがヴィルゴ水道の建設を指図している姿が描かれています。 アグリッパ好きとしてこれはしっかりと押さえておきます。
トレビの泉背後に彫られた水源の湧水を乙女が指し示す浮き彫り。
観光客でごった返すトレビの泉。
【遺跡33】クイリナーレ・オベリスク
【遺跡34】セラピス神殿の群像
大統領官邸であるクイリナーレ宮殿前に建つオベリスクはアウグストゥス廟の前に建てられていたもの。そして根本に建つ像はセラピス神殿にあった悍馬を制する双子神カストルとポルックス像。
時刻 13:41
トレビの泉の東側はローマ七丘の一つクイリナーレの丘です。トレビの泉から南下して左側の坂道を登っていくと、クイリナーレ宮殿があります。 そろそろ疲れてきて坂道が足にとても堪えます。 クイリナーレ宮殿は大統領官邸です。先ほどのモンテチトーリオ宮殿もそうですが、警備員はいるものの警備はかなり簡素です。 宮殿前のクイリナーレ広場にはまたまたオベリスクが建っています。ローマで作られてアウグストゥス廟の前に2本セットで建てられていたもので、碑文がありません。セットの片割れは、テルミニ駅近くにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の裏手、エスクイリーノ広場のものです。 そして根本に飾られているのは悍馬を制する双子神カストルとポルックス像で、この西側にあったセラピス神殿にあったものが、後にコンスタンティヌス浴場に移されたものと考えられているとのことです。(とんぼの本 ローマ古代散歩)
【遺跡35】サルスティアーノ・オベリスク
スペイン階段の上に建つのは出所不明のオベリスク。
時刻 14:02
もと来た坂道の途中から北に向かう路地に入り、北北西の方角に700mほど行くとスペイン広場です。これも超定番なので大混雑です。 スペイン階段を登った先にはトリニタ・デイ・モンティ教会があり、その前にオベリスクが建っています。 古代ローマで作られたものと考えられていますが、いつ誰が造ってどこに建てたものか不明です。ここに建てられたのは18世紀のことです。 オベリスクの建つスペイン階段頂上部から見ると、6階建ての家並みを越えて遠くが見渡せます。古代ローマのインスラは7階建てもあったので、家並みはこれより高かったことになります。 正面に伸びる道沿いにはブランド店が集まっているそうです。全く興味ありませんが。
【遺跡36】ピンチョ・オベリスク
ピンチョの丘に建つオベリスクは元はティヴォリのハドリアヌスの別荘にあったもの。
時刻 14:28
サルスティアーノ・オベリスクが建つスペイン階段の上から北に連なるのがピンチョの丘です。ローマの街を望みながら北に向かいます。雨もやんだので、景色を眺めながらの歩きは爽快です。 丘の北端に近いところを右手に入るとまたオベリスクがあります。そばで見るとエジプトの神聖文字がはっきりわかります。 このオベリスクはハドリアヌス帝が造らせたもので、最初はティヴォリのハドリアヌスの別荘にありました。別荘の入口脇にあった、ハドリアヌスが寵愛した美少年アンティノウスの墓苑に建っていたのです。この墓苑は最近発掘されて明らかになったものです。(とんぼの本 ローマ古代散歩) その後は転々として、19世紀にここに建てられました。 オベリスクの先はピンチョのテラスです。ひときわ混雑しています。この真下に超有名スポットであるポポロ広場があるために、そちらから人が回ってくるのです。ポポロ広場の脇には地下鉄駅もあるので便利なのです。
参考:ハドリアヌスの別荘
【遺跡37】フラミニオ・オベリスク
ポポロ広場に建つオベリスクはチルコ・マッシモの中央分離帯スピナに建っていたもの。
時刻 14:40
ピンチョのテラスの横からスフィンクスの像が並ぶ坂を下るとポポロ広場です。広場の南端に双子の教会があり、その教会の間の道はローマから北に伸びるフラミニア街道です。ちょうど広場の北をアウレリアヌスの城壁が通っていて、そこにフラミニア門がありました。今はその場所に16世紀に建て替えられたポポロ門が建っています。これはうっかり見落としてしまいました。古代のものではないけれど見ておくのだった。 そして広場の真ん中にはオベリスクがあります。アウグストゥスが紀元前10年にヘリオポリスからローマに運び、チルコ・マッシモの中央分離帯スピナに建てたものです。その後16世紀にここに建てられました。ヘリオポリスでは、先ほど見たモンテチトーリオ広場に建っているものと対でした。 ルネッサンス以降、広場を造るといえばオベリスクを建てるのが定番になったようです。古代ローマではオベリスクはエジプトブームで建てたように思いますが、ルネッサンス以降のは単に飾るのに都合がよく見栄えもしたので使ったように感じます。
広場に降りる坂道の手すりにはスフィンクス。
【遺跡38】アウグストゥス廟
修復中のアウグストゥス廟。出来上がりが楽しみ。
時刻 15:00
双子の教会の右側のリぺッタ通りを南下して500mほど行くとアウグストゥス廟があります。紀元前28年にアウグストゥス自身が霊廟として建てたものです。75歳まで生きたアウグストゥスがまだ36歳のときです。 修復の真っ最中です。かなり大々的なもので、できあがりが楽しみです。
【遺跡39】アラ・パチス(平和の祭壇)
紀元前9年に元老院がアウグストゥスに奉献したアラ・パチス、アウグストゥスの平和の祭壇。
時刻 15:19
アウグストゥス廟から道を挟んだ向かい側、テベレ川沿いにアラ・パチス、アウグストゥスの平和の祭壇があります。残念ながらこの日は休館日だったので、ガラス越しに眺めました。2007年は夕方になってしまい閉館で見られなかったので、今度こそと思ってきたのですが、残念。 アラ・パチスは紀元前9年に元老院がアウグストゥスに奉献したもので、パクス・ロマーナ、ローマによる平和の訪れを象徴するものです。元はローマから北に伸びるフラミニア街道、今のコルソ通り沿いにありました。ここより南東の方角で、モンテチトーリオ宮殿の北側辺りです。地中に埋もれていた破片を繋ぎ合わせて復元したのが今の姿です。 ガラスに顔を近づけ手で顔の周りを覆って反射を避けて見ると、大理石に細かくて写実的な人の姿がぎっしりと彫刻されているのが見えてきます。これはやはり近くでじっくり見たい。 それにしてもこのガラス張りの建物、はやりのカフェか前衛芸術の美術館みたいで安っぽく、アラ・パチスの2000年の重みを台無しにしています。テベレ川沿いの景観にも全くそぐわず浮いています。そもそもアラ・パチスは元々川沿いにあったものではありません。ぜひ元あったところに、もっとその意義にふさわしい形で展示して欲しいものです。 一休みしたくなり、入り口前のベンチのようなそうでないようなところに座ったら、雨に濡れた泥だか木ノ実だか鳥のふんだかわからないものがズボンに付いてしまいまい、印象はさらに悪くなりました。最悪です。
アラ・パチスの写実的な浮き彫り。
【遺跡40】サンタンジェロ城
ハドリアヌスが自らの霊廟として造ったサンタンジェロ城。
時刻 15:50
蛇行するテベレ川に沿って南下します。歩いているうちに薄日がさしてきました。ちょっと気分が上向いてきました。 川原は意外ときれいな道です。最初は閑散としていたのですが、途中のウンベルト1世橋は大勢の人が行き交っていました。右手に見えているドームはサン・ピエトロ大聖堂です。この橋は昼にいたポポロ広場から200mくらのところで、そこからサン・ピエトロ大聖堂に行こうとするとちょうどルートに当たります。 アラ・パチスから900m程の対岸にサンタンジェロ城があります。ハドリアヌスが、自らの霊廟として造り始め、紀元139年、次の皇帝アントニヌス・ピウスのときに完成しました。 墓というよりは城です。実際、401年にホノリウスがアウレリアヌス城壁を改修したときには城壁に要塞として組み込まれましたし、その後にも要塞として使われたことがあります。 サン・タンジェロという名は城のてっぺんに建つ天使像に由来します。ここには元はハドリアヌスが4頭立ての戦車を引く像が設置されていたそうです。そっちを見たかった。
※2021/4/24 サン・ピエトロ大聖堂サンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ教会のものと誤解していたので訂正しました。
【遺跡41】アエリウス橋(サンタンジェロ橋)
サンタンジェロ城前のサンタンジェロ橋。欄干に天使像が並びます。
時刻 15:50
カンプス・マルティウスとサンタンジェロ城を結ぶ橋はハドリアヌス自信が架けたものです。今はサンタンジェロ橋と呼ばれていますが、元はアエリウス橋という名でした。アエリウスというのはハドリアヌスの氏族名です。 真ん中の3つのアーチが当時のまま残っています。 橋はサン・ピエトロ寺院への参詣路としても使われたそうです。欄干の上にはベルニーニが制作を指揮した全部で10体の天使像が建っています。劇的なポーズで建つ天使像はそばで見ると迫力があります。ベルニーニはあまり好きではないけれど、人をあっと言わせるような演出はうまいですね。つい見入ってしまいます。 サンタンジェロ橋を渡ったところがサンタンジェロ城の入り口ですが、前回2007年に入っているのでパス。城の前で左折すると、正面がサン・ピエトロ寺院です。
【遺跡42】バチカン・オベリスク
サン・ピエトロ広場に建つオベリスクは3代皇帝カリグラがこの辺りに造った円形競技場に建っていたもの。
時刻 16:18
サン・ピエトロ寺院に着きました。この周辺だけは別の国、バチカン市国です。境目に低い柵が置いてありますが、パスポートチェックなどなく自由に入れます。広場を横切って中に入る長い行列ができています。これも前回入ったのでパス。薄日が射して来たので、巨大な噴水の水がキラキラ輝いてきれいです。 サン・ピエトロ広場の真ん中には本日8本目のオベリスクが建っています。紀元37年に3代皇帝カリグラがアレキサンドリアからローマに運び、この辺りに造った円形競技場の中央分離帯スピナに建てました。ちょうどこの年にカリグラは重い病に合い、その後暴君に変わったというので、正常な時の最後の仕事かもしれません。 これで本日の一筆書きの古代ローマ遺跡巡りは完了です。サン・ピエトロ寺院から700mほど北のオッタビアーノ駅から地下鉄A線でホテルのあるテルミニ駅に戻りました。
【番外2】セルウィウス城壁
テルミニ駅前に残るセルウィウスの城壁。
時刻 18:34
そして駅前なので1個おまけの遺跡見物。セルウィウス城壁です。テルミニ駅の正面を出て右側、北東寄りにあります。 セルウィウス城壁は紀元前4世紀ころ古代ローマの街を守っていた城壁です。 テルミニ駅地下のマクドナルドのそばにも、埋もれていたセルウィウス城壁のかけらがあります。 城壁の高さは最高10mくらいだったようですが、駅前で地上に顔を出しているは5mくらいなので、地下に5mほど埋もれていることになります。ちょうど今立っている辺りが当時の地面だったのでしょうか。 ローマは掘ればいたるところにこうした遺跡があるのでしょうね。
テルミニ駅の地下のマクドナルドのそそばにあるセルウィウスの城壁。
この日歩いた距離は23.9km、歩数32,409歩、登った階数28階でした。
この旅行ではこの日を含め4日間で70個の古代ローマ遺跡を見ました。興味のある方は旅行記を御覧ください。
更新履歴
2020/3/15 新規投稿
2021/4/10 地図を掲載
2021/4/24 ウンベルトⅠ世橋から見えるサン・ピエトロ大聖堂のドームをサンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ教会のものと誤解していたので訂正。