ローマの玄関口テルミニ駅から北西に400m程のところにあるサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会は、ミケランジェロが設計したもので、観光客も多く訪れる観光スポットです。これは古代ローマの浴場(テルマエ)の残骸を再利用したもの、というのもガイドブックなどに書かれています。しかしその浴場がどんなものだったのかは説明されることがほとんどなく、実は辺り一帯に浴場の名残が散らばっていることもあまり知られていません。





サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会

 まず最初に有名なサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の正面に立ってみましょう。(地図①)

散策ルート。

 入口のある正面の壁は丸く窪んでいます。他では見たことがない独特な形です。この形は浴場の壁をそのまま使ったことに因ります。しかし壁と言っても建物の外壁ではなくて、もともとは浴室の内壁でした。今立っている教会正面のこの場所は、カルダリウム(caldarium)と呼ばれる浴室の中なのです。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の正面。

 この教会は1561年に教皇ピウス4世の名で建設が始まり、ミケランジェロの設計に従って造られました。当時はおそらく周りの壁が崩れて内壁が剥き出しになっていて、それを教会の正面入り口にしたのです。ミケランジェロが浴室の元の姿を知っていたのかどうかはわかりませんが、この窪んだ壁面をそのまま正面入り口にするなんていう発想は常人では思いつきそうもありません。伝えられるミケランジェロの人となりはあまり好きではないのですが、やはり天才であることは認めざるを得ません。

 古代ローマの浴場は巨大で浴室も複数ありましたが、ここにあったカルダリウム(caldarium)は日本語では「高温浴室」と訳されるもので、床下から壁の中のダクトに熱した空気を通して室内を熱したサウナのようなものです。

 ポンペイのフォロ浴場にカルダリウムが当時の形で残っていますが、規模はかなり差があるものの同じ構造で、やはり一方の壁が円形です。この姿を見ると、やはり浴室内の窪んだ内壁を教会の正面入口にするというのは普通の発想ではないと感じます。

 フォロ浴場では円形の壁の上は半円のドームで、床には一本足のテーブルのような円形の水盤が置かれています。ここには冷水が張られていました。厳かな信仰の場にこれから入ろうと心を鎮める教会の入り口前の空間は、かつて汗を流して暑く火照った体を冷ます場所でした。

 さて、物乞いの老女がいる入り口からサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会に入ってみます。入ったところは丸い部屋で、天井はドームになっています。ドームの中央から色ガラスを通った光が差し込み荘厳な雰囲気です。ここはテピダリウム(tepidarium)、微温浴室でした。ここも床下と壁の中を蒸気が通っていて、カルダリウムより低音のほどよい温かさに保たれていました。今の荘厳な雰囲気とは対象的に、脱力してゆっくりと温まり寛ぐ浴室です。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会を入ったところにあるドーム天井の部屋。

 その奥にはアーチ型のヴォールト天井の巨大な空間があり、正面奥にかまぼこ型の天井の空間が伸び、奥に祭壇があります。祭壇に向かって椅子が並んでいて、真剣に祈りを捧げる人がいます。壁には荘厳な雰囲気の巨大な宗教画がいくつも掛けられています。左右にもドーム天井の空間があり、両方とも宗教画が掛けられています。

 この中央の空間はフリギダリウム(frigidarium)、冷水浴室だったところで、カルダリウムやテピダリウムで温まった体を冷ます冷水のプールがあったところです。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会中央のヴォールト天井の巨大な空間。
壁にはたくさんの宗教画が掛けられています。
入り口から入って右側。
入り口から入って左側。

 ディオクレティアヌス浴場は紀元前140年に造られたマルキア水道から給水していました。ディオクレティアヌス浴場が造られたのは紀元300年頃ですから、440年前という遠い昔に造られた水道です。440年経ってもなお水を供給し続けていたのですから驚きです。日本に置き換えると、本能寺の変が起きた頃に造られたものが今でもまだ機能している、ということですからね(本能寺の変は1582年)。

共和国広場とアウラ・オッタゴナ

 1ユーロ納めてロウソクに火を灯したら、微温浴室だったドームの部屋を通って、高温浴室だった教会の外に出てみます。

 教会を出るとその前は円形の共和国広場です。正面にはナイアディの泉(Fontana delle Naiadi)の噴水が噴き上げ、噴水の向こう側には円形の広場の半周に渡って弧を描く4階建ての建物があります。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会前から見た共和国広場。

 ナイアディの噴水(Fountain of the Naiads)は、ディオクレティアヌス浴場に給水していたマルキア水道を19世紀に教皇ピウス9世が修復、再利用した Acqua Pia Antica Marcia も終端施設として造られたものです。

 全体として見た目はヨーロッパによくある円形の広場という感じですが、この広場全体が古代ローマ時代には浴場の中でした。弧を描いて建っている建物は、浴場の外壁の丸く飛び出したエセドラという部分の基礎の上に建てられたものです。この広場の元の名はエセドラ広場で、今でもそう呼ぶことがあるそうです。

 サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会と共和国広場だけでもかなりの広さですがこれは一部で、ディオクレティアヌス浴場はその両側から教会の背後にまで広がっていました。

 教会を出て右手、北西方向に進むとチェルナイア通りにぶつかり、通りの向こう側に沿ってれんが造りの古そうな建物が建っています(地図②)。八角形のホール(アウラ・オッタゴナ)という名の建物で、内部は円形の部屋になっており、1928年から1980までプラネタリウムとして使われていました。これも元は浴場だった建物です。北東側に少し離れて背後から見るとドーム型の屋根が載っているのが見えます。チェルナイア通りに面した南側の外壁が丸く窪んでいますが、これも教会の正面入り口と同じく浴場の内壁が剥き出しになったものです。

アウラ・オッタゴナ。
アウラ・オッタゴナの北東側の少し離れたところから見るとドームの屋根が見えます。
アウラ・オッタゴナの南東側の窪み。これも浴室の内壁。

浴場の外壁

 アウラ・オッタゴナを離れ、共和国広場から北に伸びるヴィットリオ・エマヌエーレ・オルランド通り(Via Vittorio Emanuele Orlando)を北西に進んで左手の建物が途切れたところから一本西側のトリノ通りに入るとすぐに、外観が円形のサン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会があります(地図③)。これはディオクレティアヌス浴場の丸い形の塔を再利用したもので、ここが浴場の外壁の北西の角に当たります。

サン・ベルナルド・アッレ・テルメ教会。
浴場の外壁の北東角にあった塔を再利用したもの。

 トリノ通りを南下すると、共和国広場の2つの建物を分けていたナツィオナーレ通りと交差します。この北東の角にはローマ三越があり(地図④)、ツアーでもよく訪れるので、この辺りは日本人も多く行き交っています。

ローマ三越。

 三越のある角を左折してナツィオナーレ通りを行くとすぐに共和国広場です。ちょうどサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の反対側に当たります。両側にエセドラの基礎の上に建てられた建物が丸く伸び、1階は列柱に支えられた回廊(ポルティコ)になっています(地図⑤)。1600年頃にエセドラは教会に転用され、その後1887~98年に今の建物が建てられました。

エセドラ跡の回廊(ポルティコ)。

 右折して南側のポルティコを進み、ディオクレティアヌス浴場通り(Via delle Terme di Diocleziano)からヴィミナーレ通りに出たら右折すると、すぐにレンガ造りの壁が丸く張り出しているのが見えます(地図⑥)。中央には駐車場の入り口が開き、西側にはリストランテの入り口があります。

浴場の南西の角にあった塔の残骸を利用した壁。
中央は奥にある駐車場への入口。左にはリストランテの入り口があります。

 これは共和国広場になったエセドラを挟んでテルメ教会と対照の位置、外壁の南西の角にあった塔の名残です。つまりテルメ教会からこの円形の塔の跡を結ぶ線が浴場の南西側の外壁の1辺ということになります。その長さは360mほどです。

 ヴィミナーレ通りを戻り共和国広場に出ると、向こう側にサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会が見えます。その右奥に巨大な建物が見えますが、これはローマ国立博物館です(地図⑦)。この建物も浴場の残骸を再利用したものです。

共和国広場の南西部から見たサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の外観。左の木の向こうが入り口です。
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会の右奥に国立ローマ博物館があります。
国立ローマ博物館の建物を正面から見たところ。

 国立ローマ博物館の脇を通るエンリコ・デ・ニコーラ通り(Viale Enrico de Nicola)を進むと、博物館の南東の敷地外に浴場の外壁の小さなエセドラの残骸である丸い壁が残っています(地図⑧)。これは浴場の南東の角近くにあった小さなエセドラです。つまり先程見た駐車場入口の開いた塔からこの辺りまでが南東側の1辺に当たり、320mほどです。

浴場の南東の角近くにあったエセドラの残骸。

 ディオクレティアヌス浴場は、共和国広場からサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ教会、その背後の国立ローマ博物館を含む一体に広がる巨大な浴場だったのです。

 ローマにある古代ローマの浴場といえばカラカラ浴場が有名です。カラカラ浴場はここと違って形をよく留めていますが、その外壁に囲まれた大きさは337m×328mというので、ディオクレティアヌス浴場の360m×320mとほぼ同じ規模です。しかし外壁に囲まれた敷地内に建つ浴室の建物の大きさは、カラカラ浴場が214m×110mなのに対してディオクレティアヌス浴場は280m×160mで、こちらの方が大きいものでした。 

ディオクレティアヌス浴場と現代の建物。
ディオクレティアヌス浴場と現代の建物。Googleマップを重ね合わせ。

皇帝ディオクレティアヌス

 ディオクレティアヌス浴場は紀元298年に、ディオクレティアヌスの共同皇帝でイタリア半島を含む西方を担当する正帝マクシミアヌスの命によって、ヴィミナーレの丘の上であるこの場所に建設が始まりました。この年の秋にマクシミアヌスはアフリカ遠征から帰ったところです。

 ディオクレティアヌスはローマ帝国を最初は2つ、後には4つに分けてそれぞれに担当の皇帝を置くテトラルキアを始めた皇帝です。自らは東方を治める正帝で、ニコメディアに拠点を置きました。ニコメディアは現在のトルコの首都イスタンブール、ここはディオクレティアヌスより後の時代にコンスタンティノープルが建設されるところですが、そこから東100kmのところにあるイズミットという都市の旧名です。マクシミアヌス浴場ではなく、東方担当でローマにいない皇帝の名が付けられたのは不思議な気がします。しかしテトラルキアではあくまでディオクレティアヌスがローマ帝国の最高権力者で他の3人より上位に位置付けられていましたし、軍人皇帝時代と呼ばれる不安定な状況からローマを再び安定に導いた有能な皇帝ですから、その名が顕彰されるのも当然のことでしょう。

 ディオクレティアヌスは305年に引退したので、この浴場は298年から305年の間のどこかで完成したことになります。ディオクレティアヌスは引退後、現代のクロアチアのスプリトに宮殿を造って隠棲しました。

 ディオクレティアヌスはキリスト教を迫害した皇帝としてキリスト教徒から大悪党のように言われますが、キリスト教を迫害した皇帝の名がついた浴場の跡がキリスト教の教会になっているというのも皮肉に感じます。

※Wikipedia日本語版にはディオクレティアヌスが306年にディオクレティアヌス浴場を建設したとありますが、ディオクレティアヌスは305年に引退しており、出典も示されていないので、間違いと判断しました。この記事ではWikipedia英語版の記載を元にしています。

行き方

 共和国広場はテルミニ駅から400mほどなので十分歩いていける距離です。

 共和国広場の真下に地下鉄A線の Repubblica 駅もあります。

 テルメ教会やその他の遺構はわかりにくいのでここに載せた地図を参考にしてください。

 共和国広場の南にある三角形の公園にドガリのオベリスクが建っています。

ドガリのオベリスク

 これはラムセス2世がヘリオポリスの太陽神殿に建てたもので、ローマに運ばれてパンテオン近くのイシス神殿、今サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会になっている場所に建っていました。

参考資料

更新履歴

  • 2020/2/21 新規投稿

 スペインのメリダにあるミラグロス水道橋は、柱に赤いラインが規則正しく入った独特の姿です。この人間の英知の象徴である水道橋の上に、今ではコウノトリが巣を造っていて、諸行無常を感じずにはいられません。





コウノトリの巣、ミラグロス水道橋

 メリダは今のスペイン西部からポルトガルにかけての地域に置かれたローマの属州ルシタニアの州都、エメリタ・アウグスタが起源です。この重要な都市に住む人々の生活を支えるため、コルナルボ水道、プルセルピナ水道、ラス・トーマス水道の3本の水道が引かれていました。首都ローマからはるか遠くに離れたここでも、ほとんど同じ水準の生活を送ることができたのです。

 このうち古代ローマ時代の姿が地上に残っているのは、プルセルピナ水道の一部であるミラグロス水道橋だけです。

 メリダの街は西に大河グアディアナ川、街の北側にこの支流アルバレガス川が流れています。この北のアルバレガス川を渡るのがミラグロス水道橋で、長さ190m程が残っています。

 3重のアーチで高さは25m、8階建のマンションに相当する大きなものです。白っぽい花崗岩の間に赤いレンガが規則正しく挟まれていて、他では見たことがない美しい外観です。

白っぽい花崗岩の間に赤いレンガが挟まれている独特の外観です。

 残念ながらアーチは所々失われています。川沿いを走る線路の街側には柱だけが7本残っています。

街側から川の方を見たところ。芝生の向こうが線路でその向こうが川原です。

 ミラグロス Milagros というのはスペイン語で「奇跡」(英語の miracle)という意味です。古代ローマの技術が失われた時代の人の目には奇跡と映ったのでしょう。各地にある「悪魔の橋」と同じようなものですね。

 柱のてっぺんやアーチの上にコウノトリの巣があって、夫婦で仲良く羽を休めています。正確にはこれはコウノトリの親戚のシュバシコウという鳥で、この名前は「朱色の嘴のコウノトリ」という意味です。もっともこれは朱色というより黄色ですね。いわゆるコウノトリは日本や中国など東アジアの鳥で、くちばしの色が黒です。ヨーロッパで赤ちゃんを運んでくると言われるのはもちろんこのシュバシコウの方です。アフリカで越冬するのだそうです。ここを訪れたのは10月終わりですから、この鳥たちはまもなくアフリカに旅立つのでしょう。

水道橋の残骸の上に巣を造っているコウノトリ(シュバシコウ)

 水道橋を街の方に150mくらい延長したところに、水道の終点である分水施設、カステルム・アクアエの遺跡があります。古代ローマ時代、ここは水道が城壁の中に入ってすぐの場所でした。ここで水は複数の鉛の水道管に分配されて目的地まで運ばれました。カステルム・アクアエの代表はローマのテルミニ駅近くのヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場にあるニンファエウム・アレクサンドリです。

 この分水施設はガイドブックに載っておらず、私はたまたま通りかかって知りました。水道橋のあるところからはまっすぐ行く道がなく、西側から街の中心部に向かうカルバリオ通りを行くと登り坂の途中にあります。

カルバリオ通り。
水道の分水施設(カステルム・アクアエ)。
かつては壁や彫刻に囲まれていました。

 ミラグロス水道橋のすぐ西側に架かる橋は古代ローマ時代に造られたアルバレガス橋です。グアディアナ川に架かるローマ橋は有名ですが、こちらは特に案内板などもありません。訪れたときには車や人が普通に渡っていて、古代ローマ橋だとは気付きませんでした。

ミラグロス水道橋のすぐ隣りにある古代ローマ橋アルバレガス橋。
アーチの美しい橋です。
普通に車や人が行き来しています。

水源はプルセルピナ貯水池

 ミラグロス水道橋を通るプルセルピナ水道は、メリダの北北西5kmにあるプルセルピナ貯水池から引かれています。これが水源かと思いきや、この貯水池に水を引き入れているのもまたローマ人が造った水道なのです。Googleマップの航空写真で見ると、貯水池の北側から北東にアデルファス川を3kmほど遡った辺りまで水道が続いているのが見えます。これも含めて水道の全長は10kmになります。

メリダの北にある「し」を右に傾けたようなのがプルセルピナ貯水池。

 スペインのこの辺りは雨の降り方が偏っていて、9月後半から5月にかけて雨が多く、6月から9月前半は極端に降水量が少なくなります。そのため貯水池が必要だったのでしょう。

 乾燥した大地に水が染み込んで失われるのを防ぐため、水源から水道を引いて貯水池に水を確実に送り込み、そこに水を貯めることで、1年を通して安定的に水を供給できるようにしたのです。貯水池は南北1.2km、東西1km程もある巨大なものです。西側に石を積み上げたダムがあって水を堰き止めています。これはコンクリートの基礎に花崗岩を積み上げて造られたものです。ダムとしては現役で、古代のものと知らなければ最近造られたものと思ってしまいそうです。

 取水口は水中にあり、地下の水路でメリダの街まで水を運びました。ローマ水道というと水道橋が目立つのでずっと地上を通ったと思いがちですが、実際には地下を通ったり山をトンネルで貫くところも多いので、この水道が地下を通っていたというのも珍しいことではありません。

 造られたのは1世紀と言われています。メリダではコルナルボ水道が一番古いので、この水道は人口増加で増設されたものと思われます。メリダにはトラヤヌスの凱旋門があり、グアディアナ川に架かるローマ橋ができたのもトラヤヌスの時代です。古代ローマでは皇帝や貴族が私費を投じて公共事業を行いましたから、イベリア半島出身のこの皇帝の時代に街が発展して人口が増え、そのために水道橋が増設されたとしても不思議はありません。トラヤヌスの在位は紀元98年から117年ですから、2世紀初めに建造された可能性が高いと思います。

古代の水道橋を材料にしたサン・ラザロ水道橋(ラス・トーマス水道)

 ミラグロス水道橋からアルバレガス川を上流(東)に約1.1kmのところにサン・ラザロ水道橋があります。これは16世紀にアラブ人が造ったものですが、もともとここには古代ローマ時代の水道橋が通っていました。北から北東にかけての複数の川を水源とし、地下を通って引かれた水道でした。

夕方のサン・ラザロ水道橋。

 古代ローマ時代のものは街のそばに柱3本が残るだけです。古代ローマのものは間に赤いレンガが挟まったミラグロス水道橋と同じ造りです。

街の近くに古代ローマ時代の残骸がわずか柱3本だけ残っています。

 サン・ラザロ水道橋は古代の水道橋の柱を再利用したそうですが、古代ローマ時代の3本の柱とサン・ラザロ水道橋は少しずれていて両者はルートが違いますから、ほとんど造り替えられていることが判ります。

右がサン・ラザロ水道橋、左が古代ローマの水道橋です。
古代ローマの水道橋はサン・ラザロ水道橋とルートがずれています。

 南端近くでは古代ローマの公衆浴場が発掘中です。

発掘中の古代ローマの公衆浴場。
側には戦車競技場もあります。庶民の娯楽の場所だったのでしょう。

 サン・ラザロ水道橋の周囲は住宅地です。生活用の通路が水道橋に開けられていて、買い物や散歩の人、子供たちが通り抜けていきます。東側に接して公園があり、いろいろな年齢の子供たちが遊んでいました。

サン・ラザロ水道橋に開けられた生活用の通路。両側に構想アパートが建っています。
公園で子どもたちが遊んでいました。

最古のコルナルボ水道

 メリダで最初に作られたのがコルナルボ水道です。

 コルナルボ水道はメリダの街の北西14kmほどにあるコルナルボ貯水池から引かれています。最初に造られたときはダムはなく、川から取水していました。後にプルセルピナダムが造られた頃にこちらにもダムが建設され、貯水池からの取水に切り替えられました。プルセルピナ貯水池と同じように、この貯水池も更に上流に水道が続いていて、これによって水を効率よく集めることができるようになっていました。

 この水道はほとんどが地下を通っていて、水道橋もありませんでしたから、目立った遺構は残っていません。街には東側から入ります。街中に僅かに遺跡が残っているようです。

行き方

 マドリードからメリダへは列車で約5時間です。高速鉄道AVEが建設中で、これができれば劇的に早くなるはずです。距離が同じくらいのコルドバまでAVEで1時間40分ですから、同程度で行けるようになるでしょう。2023年完成予定とされていますが、スペインですから本当にできるか定かではありません。

 ミラグロス水道橋とサン・ラザロ水道橋は駅や中心地から歩いて行けます。どちらも街の北側を流れるアルバレガス川に架かる橋ですが、川の手前を鉄道が通っていて、線路を越える必要があります。

 ミラグロス水道橋は街の北側に坂を下り、線路の下に開けられた通路を潜って河原に出たところにあります。

ミラグロス水道橋に通じる線路を潜る通路。

 サン・ラザロ水道橋の方はエストレ・マドゥーラ通りの南側にある歩行者用のトンネルで線路を潜ります。この入り口が非常に判りにくいので注意してください。Googleマップで経路検索しても、道があると認識していないようで、ここを通るルートは表示されません。(2020年2月現在)

 ミラグロス水道橋や駅のある西側からだと、エストレ・マドゥーラ通りを東に行き、線路をくぐらず直進する坂道を登ったところに通路の入口があります。

 円形闘技場の方から行く場合はカボ・ベルデ通りを北上し、線路の手前でエストレ・マドゥーラ通りに左折してすぐの右側です

中央の下り坂を降りると線路を潜る歩道です。

 古代ローマ時代の3本の柱は街に近い南側で水道橋が途切れるところの脇にあります。家のすぐ側に接するように建っています。

 サン・ラザロ水道橋の東にはこれも古代ローマ時代の戦車競技場の遺跡があります。ここは古代の戦車競技場の姿がよく残っています。

 メリダは中心都市であり続けたにもかかわらず、古代ローマの遺跡がたくさん残っています。国立ローマ博物館の展示物も見事なものが大量にあります。古代ローマ好きなら1日見ていても飽きることはないでしょう。

参考資料

更新履歴

  • 2020/4/9 新規投稿

 2018年5月1日、1日でローマ市内の遺跡42個を一筆書きで歩いて巡った記録です。





【遺跡1】チルコ・マッシモ

南東端から見たチルコ・マッシモ。左がパラティーノの丘。

時刻 9:20

 一筆書き遺跡巡りのスタート地点は地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅。ホテルのあるテルミニ駅から地下鉄でやって来ました。
 駅を出ると道の反対側に戦車競技場、チルコ・マッシモが広がっています。どんよりした雲が垂れ込めて今にも雨が降りそうです。跡巡りは全部徒歩なので気掛かりです。
 階段で競技場部分に降り、かつてのスピナと言う中央分離帯の上にある道を、犬の散歩をしている人と行き交いながら縦断して北西に進みます。
 チルコ・マッシモは全体で25万人収容できたという戦車競技場です。ここには古くから競技場がありましたが、カエサルとアウグストゥスが巨大な施設を作りました。
 この広大な競技場を馬に惹かれた戦車が駆け回ったのです。きっとコーナーでは激しいぶつかり合いがあったでしょう。大迫力なのが想像できます。古代ローマ人が熱狂したのもわかります。
 スピナにはエジプトから運ばれたオベリスクが2本建っていました。一つは紀元前10年にアウグストゥスが建てたもので現在ポポロ広場の四大河の噴水の上にあるもの。もう一つは紀元357年にコンスタンティウス2世が建てたもので現在モンテ・チトーリオ広場に建っているものです。どちらも後で訪れます。

【遺跡2】パラティーノの丘

チルコ・マッシモの競技場から見上げたパラティーノの丘のドムス・セプティミ・セウェリ。

時刻 9:31

 右手、チルコ・マッシモの北東側は皇帝の住居があったパラティーノの丘です。
 アウグストゥスは競技場の中央に皇帝観覧席を設けましたが、これは後にパラティーノの丘の皇帝住居と接続され、住居から直接観覧席に出られるようになりました。
 見えている巨大な建物は、2世紀末から3世紀初めに第20代皇帝セプティミウス・セウェルスが建てたドムス・セプティミ・セウェリです。

【遺跡3】フォロ・ボアリオ

道路側からテベレ川側を見たところ。手前がトリトンの噴水。

時刻 9:56

 雨が降ってきました。チルコ・マッシモの北西端を登り、左側の道を進んで交差点を右折すると、右側に超有名スポットである真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があり、行列ができています。この辺り一体がフォルム・ボアリオ(フォルム・ボアリウム)です。
 フォロ・ボアリオは「牛市場」という意味です。王政ローマ時代、すなわち紀元前6世紀以前に牛市場があり、その後傍らにテベレ川の港が設けられて商業の中心になりました。
 道路のテベレ川側が公園として整備されていて、二つの神殿と18世紀に造られたトリトンの噴水があります。
 政治の中心フォロ・ロマーノに比べて地味で無名なので、人が全くいません。私はこういう珍しいのを見てワクワクしていますが、辺りはうら寂しい雰囲気です。
 真実の口も実は古代ローマの遺物で、排水溝の蓋とか、道路の向かいにあるヘラクレス・ヴィクトール神殿の天井の中央の穴を塞ぐ蓋(英語版wiki)とか言われています。13世紀に教会の壁に付けられ、17世紀にこの場所に移されました。映画ローマの休日の影響でみんな行列を作って口に手を入れていますが、お金を払って行列に並び排水口の蓋の模様に手を突っ込む暇はないので、ちら見するだけで済ませます。ちゃんと見ていないのでこれは遺跡の数にカウントしません。

【遺跡4】エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿)

フォロ・ボアリオ南側の円形のエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿。

時刻 9:57

 広場の奥、テベレ川寄りに形の違う神殿が2つあります。
 南側の丸い方はエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿) で、紀元前2世紀に建てられたと言われています。20本の柱のうち19本が古代のまま残っています。元は柱の上に帯状のアーキトレーブという装飾帯があり、その上に屋根が乗っていました。
  ヘラクレス・ウィクトールというのは勝利者ヘラクレスという意味で、コリントスの戦いでアカイア同盟軍を破った共和政ローマの軍人ルキウス・ムンミウス・アカイクスにより建てられたと言われています。
 12世紀以降は教会に転用されていました。

【遺跡5】ポルトゥヌス神殿

フォロ・ボアリオ北側の四角いポルトゥヌス神殿。後ろに見える塔は真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

時刻 9:58

 北側にある四角いのがポルトゥヌス神殿です。紀元前75年に建設された港の神ポルトゥヌスに捧げられた神殿です。
 フォロ・ボアリオの脇にあったテベレ川の港はローマに物資を運び込む玄関口で、この港を守る神殿です。

【遺跡6】ヤヌス門(ジアノ凱旋門)

道路の東側にあるヤヌス門(別名ジアノ凱旋門)。道路を挟んだこの辺り一帯がフォロ・ボアリオで、背後はパラティーノの丘。

時刻 9:59

 真東の方向に見えるのがヤヌス門、別名ジアノ凱旋門です。4世紀初めに既存の建物の部材を寄せ集めて造らた4面の門です。壁龕(くぼみ)にはきっと彫像があったのでしょう。
 これが何なのかはわかっていませんが、コンスタンティヌス帝の顕彰記念門、市場の境界を表す門、牛市場の商人の避難所といった説があります(英語版Wikipedia)。
 排水口クロアカ・マクシマの真上に建っています。

【遺跡7】アエミリウス橋(ポンテ・ロット)

パラティーノ橋からテベレ川の上流を見たところ。左手にある途中で途切れている橋がアエミリウス橋、別名ポンテ・ロット(壊れた橋)。向こう側に見えるのはファブリキウス橋。

時刻 10:03

 ポルトゥヌス神殿の北側を回って西に行くとすぐにテベレ川で、パラティーノ橋を渡ってテベレ川の西岸、トランステベレ地区に一旦渡ります。
 右側にある橋の残骸は古代ローマ時代の橋、アエミリウス橋で、ローマで一番古い橋です。
 「壊れた橋」という意味のポンテ・ロットという別名がついています。1887年に今渡っているパラティーノ橋を架けるために壊されたとのことです。邪魔なところだけ壊したのですね。
 この辺りの東岸に大排水口クロアカ・マクシマがあるのですが見落としてしまいました。

【遺跡8】ティベリーナ島

パラティーノ橋から見たティベリーナ島。

時刻 10:04

 右手の上流側にテベレ川の中洲ティベリーナ島が見えます。
 紀元前3世紀にペストが流行したときに医療の神アスクレピオスの神殿が建てられて病人が収容されました。16世紀に病院が建てられそれが今も残っています。古代の医療の聖地が未だに医療に関係あるところが面白いですね。
 島は船を象って装飾されていました。

【遺跡9】ケスティウス橋

テベレ川西岸の川原に降りてケスティウス橋を見上げたところ。対岸がティベリーナ島。川原でマラソン大会をやっていました。

時刻 10:08

 西岸のトランステベレ地区とティベリーナ島を結ぶのがケスティウス橋です。
 紀元前1世紀、島の反対側のファブリキウス橋より後に架けられた橋です。その後4世紀に改築されましたが、そのときにはマルケッルス劇場を取り壊して得られた建材を使ったそうです。
 19世紀終わりに川幅を拡張するのに伴い架け替えられましたが、中央のアーチは2/3が元の橋の部材です。
 このとき西岸ではマラソン大会をやっていました。

【遺跡10】ファブリキウス橋

テベレ川東岸の川原に降りてファブリキウス橋を見上げたところ。対岸がティベリーナ島。

時刻 10:23

 ティベリーナ島とテベレ川東岸を結ぶのがファブリキウス橋です。
 紀元前62年に架けられた現存する最も古いローマの石造アーチ橋です。
 東岸の橋の欄干には両側とも4つの顔のある大理石の石柱が取り付けられています。このためこの橋はクアトロ・チャピ橋 Ponte dei Quattro Capi 、4つの頭の橋という別名がついています。顔がすり減っていて古そうな感じですが、これは1840年に近くのグレゴリオ・デッラ・ディウィナ・ピエタ聖堂から移設されたもので、元はマルケッルス劇場の近くにあったヤヌス神殿に関連するものと考えられるそうです。ヤヌスは境界の神で表と裏の二面の顔を持ちます。
 真ん中の小さな孔は、洪水時に水が通ることで水圧を逃がすためのものだそうです。
 アーチに「ファブリキウス」と刻まれているのが見えます。ファブリキウスは今の石造の橋の建設を監督した道路長官の名です。
(移設については”Claridge, Amanda (1998). Rome: An Oxford Archaeological Guide. Oxford: Oxford Univ. Press”による。Wikipediaはこの書籍を注として載せているが、Wikipedia自体の記述は日本語版も英語版も間違っています。)

東岸側のアーチの下流側に「FABRICIVS(ファブリキウス)」と刻まれているのが見えます。

【遺跡11】オッタヴィアのポルティコ

前面の壁だけが残るオッタヴィアのポルティコ。

時刻 10:32

 ファブリキウス橋を渡って左斜め前に伸びる道を進むとオッタヴィアのポルティコがあります。マルチェッロ劇場の裏手に当たり、建物の前面の壁だけが残っています。どんな建物だったのかちょっと想像がつきません。
 初代皇帝アウグストゥスが建造して姉の名を付けた建物で、図書館、集会所、学校がありました。オッタヴィア(オクタウィア)は兄アウグストゥスと夫アントニウスの間で大変な苦労をした人ですが、人々の尊敬を集めた人物です。
 右手にマルケッルス劇場の建物がありますが、柵があって直接行けないのでいったん橋のたもとまで戻ります。

【遺跡12】フォロ・オリトリオ

古代の青果市場、フォロ・オリトリオ。

時刻 10:38

 ファブリキウス橋のたもとに青果市場、フォロ・オリトリオがあります。
 かつては神殿が3つ並んでいて、傍らに建つサン・ニコラ聖堂の壁面に列柱が埋もれています。このときは修復中で覆いがかけられていて見えませんでした。

【遺跡13】共和制期の凱旋行列の道筋にあった凱旋歩廊

凱旋行列の通り道。

時刻 10:41

 真実の口からヴェネツィア広場に通じる大通りに出ると、交差点の向こう側に見えるのが共和制期の凱旋行列の道筋にあった凱旋歩廊です。凱旋式のパレードは北から来てフォルム・ボアリウムを通りフォロ・ロマーノに入って行ったらしいので、その通り道と思われます。(ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢治)

【遺跡14】マルケッルス劇場

【遺跡15】ソシウスのアポロン神殿

人が住んでいるマルケッルス劇場と、柱が3本だけ残るソシウスのアポロン神殿。
ソシウスのアポロン神殿は紀元前5世紀という古い時代に作られたもの。

時刻 10:42

 大通りはマルケッルス劇場の横を通って右に緩やかにカーブして登っていきます。
 マルケッルス劇場はカエサルが着工してアウグストゥスが完成させた劇場です。マルケッルスはアウグストゥスの姉オクタウィアの息子の名で、後継者候補として期待していたようですが、18才で早逝しました。
 右側に柱が3本だけ残っているのが紀元前5世紀に創建されたソシウスのアポロン神殿です。
 マルケッルス劇場は今ではアパートになっていて中に人が住んでいます。

【遺跡16】インスラ

高層建築であることがはっきりわかるインスラ。今の地面の高さは3階です。後に教会として使われたときの鮮やかな壁画が残っています。

関連記事⇒ 庶民の住宅インスラ

時刻 10:51

 マルケッルス劇場から更に登ると右側にカンピドリオ広場に登る階段であるコルドナータ、その隣にはアラコエリのサンタ・マリア聖堂に登る階段があります。この二つの階段の左下に埋もれるようにある建物の残骸は、庶民が住んだ高層住宅、インスラです。
 周囲が掘り込まれていて、地下に2階分が埋もれていることが判ります。全体では4階建てですが、考古学者によると最低5階はあったそうです(英語版Wikipedia)。2000年前の古代ローマには、5階から7階建てのインスラという高層アパートが建ち並んでいたのです。まるで今の街並みと変わりませんよね。本当に驚きです。
 人通りはとても多いのですが、古代ローマの驚異を目の当たりにできるすごい遺跡なのに、立ち止まる人はほとんどいません。私も以前来た時には知らずに通り過ぎてしまいました。
 塔や色鮮やかな壁画は教会になっていたときのものです。たまに立ち止まる人もいますが、この壁画を見ている人が多いようです。
 ひとりでしばし感慨に浸ります。

【遺跡17】カストルとポルックス像

カンピドリオの丘に登る大階段コルドナータ。
頂上の両側にあるカストルとポルックス像が目立ちます。

時刻 10:57

 カンピドリオの丘への大階段コルドナータの両側にそびえるのはカストルとポルックス像です。
 ここからテベレ川の方に下った辺りで出土した破片をもとに復元したものです。(ローマ古代散歩 小森谷慶子・賢治)
 有名観光地なので雨でも観光シーズンでなくても関係なく混んでいます。
 カストルとポルックスの像が目立ちすぎてほとんどの人は目を留めませんが、カンピドリオ広場の縁にはカストルとポルックスの両側にもう3個ずつ建っているものがあります。どれもミケランジェロがこの広場を飾るために持ってきてしまったものです。

こんな風に右に3個、そして左側にも対照に3個並んでいます。

【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

コルドナータから見て右端に建つこの円柱はアッピア街道の第1マイルストーン。現地にはレプリカが建っています。
コルドナータから見て左端に建つのはアッピア街道の第7マイルストーン。

時刻 10:57

 カストルとポルックス像から一番離れた両端に建つ円柱はアッピア街道のマイルストーンです。右側は第1マイルストーン、左側は第7番目のマイルストーンで、一番上にそれぞれ「Ⅰ」(ローマ数字の1)、「VIⅠ」(ローマ数字の7)と刻まれているのがはっきりわかります。もともと第1マイルストーンが建っていた現地にはレプリカが建っています。
 「全ての道はローマに通ず」のローマ街道の第一号であるアッピア街道、その第1番目と第7番目のマイルストーンです。ものすごく面白いと思うのですが、ほとんどの人はこの存在に気付きもしません。

参考:アッピア街道現地の第1マイルストーン

【遺跡19】コンスタンティヌス1世・2世像

コルドナータから見て左から2番目は皇帝コンスタンティヌス1世の像
コルドナータから見て右から2番目は皇帝コンスタンティヌス2世の像。

時刻 10:57

 左から2番目は皇帝コンスタンティヌス1世の像です。台座に「CONSTANTIN AUG」と書かれているのは CONSTANTIN AUGUSTUS でコンスタンティヌス1世のことを表します。コンスタンティヌス1世は4世紀初めのキリスト教を公認したと言われる皇帝です。
 そして右から二番目はその子供、皇帝コンスタンティヌス2世の像です。こちらの台座は「CONSTANTIN CAES」、CONSTANTIN CAESAR でコンスタンティヌス2世のことを表します。コンスタンティヌス2世は皇帝になって3年、23歳で権力争いに破れ没しました。

【遺跡20】マリウスのトロフィー

カストルとポルックスう像の両脇はマリウスのトロフィーと呼ばれるもので、元はテルミニ駅近くのカステルム・アクアエに飾られていました。
なんだかよくわからない像ですが、戦利品を寄せ集めた像なのだそうです。

時刻 10:57

 皇帝像の内側はマリウスのトロフィーと呼ばれるものです。
 見た目からは何だかさっぱりわかりませんが、戦利品を寄せ集めた像なのだそうです。元はテルミニ駅近くのヴィットーリオ・エマヌエーレ2世広場にあるニンファエウム・アレクサンドリに飾られていました。ニンファエウム・アレクサンドリは水道の終端施設(カステルム・アクアエ)です。
 マリウスはカエサルの叔父ですが、本当はこのトロフィーはマリウスとは関係なく、11代皇帝ドミティアヌスのためのものと言われています。
 それにしても広場を飾るためによくもまあこれだけいろいろなものを集めたものです。この他にも階段コルドナータの登り口にあるライオン像もイシス神殿から出土した古代のものだそうです。残念ながら知らずに見過ごしてしまいました。

参考:ローマ水道

【遺跡21】マルクス・アウレリウス騎馬像

キリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世と間違われたために残ったマルクス・アウレリウス騎馬像。本物は博物館の中です。

時刻 11:04

 カンピドリオ広場の真ん中にはマルクス・アウレリウス騎馬像があります。
 これはレプリカで、本物は広場脇のカピトリーニ博物館の中にあります。
 紀元175年に造られましたがもともとあった場所は不明で、フォロ・ロマーノともコロンナ広場とも言われているそうです。(英語版Wikipedis)
 これが残ったのはキリスト教を公認した皇帝コンスタンティヌス1世と間違われたからだそう。
 ここは古代ローマ時代にはユピテル神殿があった場所で、今の広場はミケランジェロ設計です。両側は博物館、南側はフォロ・ロマーノです。両方とも前回2007年に見ているのでこのときは寄りませんでした。

【遺跡22】トッレ・アルジェンティーナ広場

時刻 11:21

 コルドナータを降り、正面に伸びるアラコエリ通りを北西に進みます。共和制の頃のローマ市内を囲んでいたセルウィウス城壁の外で、カンプス・マルティウス、マルスの野と呼ばれる地域に入りました。東西に走るボッテーゲ・オスクレ通りに出たら左折し西に200mちょっと進むと、右側に建物のない広い空間が現れます。
 ここは古代の神殿が発掘されたトッレ・アルジェンティーナ広場で、4つの神殿の跡があります。
この広場はネコが多いことでも有名で、野良猫の保護施設があるそうです。

【遺跡23】ポンペイウス劇場

ポンペイウス劇場の観客席の半円形の土台の上に建てられた建物。


時刻 11:29

 トッレ・アルジェンティーナ広場の北を東西に走るヴィットリオ・ヴェネト2世大通りを西に200mほど行くと、左手にあまり目立たないサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会があります。この教会の先を左に100m入ると、右斜めに枝分かれする道があります。
 この道と両側の建物はほぼ半円形を描いています。これは紀元前55年に完成したポンペイウス劇場の名残で、観客席の半円形の土台の上に建物が建てられているためにこんな形をしています。ポンペイウス劇場自体は残念ながら何も残っていません。外周部分に一部壁が残っているらしいのですが、このときは知らなかったので見そびれました。
 ポンペイウス劇場ぼ東側には列柱が立ち並ぶ広大な長方形の広場がありました。紀元前44年3月15日、改修工事中だったフォロ・ロマーノの元老院議場に替えてこの広場で元老院が開催され、出席のために訪れたカエサルが対立者たちにめった刺しにされて殺されました。

【遺跡24】ポンペイウス劇場の柱(カンチェッレリア宮)

カンチェッレリア宮の中庭のアーチを支える柱はポンペイウス劇場の座席を支える柱を転用したもの。


時刻 11:41

 ヴィットリオ・ヴェネト2世大通りを更に西に160mほど行くとカンチェッレリア宮があります。
 カンチェッレリア宮は16世紀に完成した宮殿ですが、この外壁のトラバーチンはポンペイウス劇場のもので、中庭のアーチを支える柱はポンペイウス劇場の座席を支える柱でした。このときは外壁は残念ながら改装中で覆いが掛けられていて見えませんでした。
 柱はエジプトの花崗岩でできていて赤っぽい色をしています。4世紀にサン・ロレンツォ・イン・タマーゾ教会に使われ、それが更にここに転用されました。
 中庭の端に石の欠片が並べてあるのですが、これももしかしてポンペイウス劇場から来たものでしょうか

【遺跡25】ナヴォーナ広場

長円形のナヴォーナ非リバはドミティアヌス競技場の跡。


時刻 11:56

 カンッチェッレリア宮からヴィットリオ・エマヌエーレ2世大通りを挟んで北に100mのところにナボーナ広場があります。
 雨がちょっと強くなってきました。
 この楕円形の広場は、紀元1世紀に11代皇帝ドミティアヌスが造った陸上競技場であるドミティアヌス競技場の跡です。ポンペイウス劇場と同じようにここも観客席の土台の上に建物が立ち、かつて競技場だった場所を取り囲んでいます。
 今のような広場になったのは16世紀から17世紀にかけてです。

【遺跡26】アゴナリス・オベリスク(四大河の噴水)

ベルニーニ作、四大河の噴水の上に建つのはオベリスク。


時刻 12:00

 広場には3つの噴水がありますが、中央にある四大河の噴水の上にオベリスクが建っています。
 このオベリスクは1世紀にドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られたものです。ここにあった競技場と同じ人物が造ったものですが、もともと競技場に建っていたわけではありません。そもそもここは陸上競技場なのでオベリスクを建てられる中央のスピナはありませんでした。
 このオベリスクは最初この少し東側にあったイシス神殿の前に建てられました。その後4世紀にアッピア街道沿いのマクセンティウス競技場に移され、更に17世紀にこの噴水を作るためにここに移されました。
 この四大河の噴水は、ローマではいたるところに登場する商売上手なベルニーニ作です。ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川、ドナウ川を擬人化したのだそうです。でもなぜラプラタ川?

参考:マクセンティウス競技場

【遺跡27】マクテオ・オベリスク

パンテオン前の広場にもオベリスクが建ちます。

時刻 12:31

 ナボーナ広場を北側から出て路地を東に200mほど進むと、右手の路地の向こうにパンテオンの大きなドームが見えます。
 大混雑のパンテオンの前のロトンダ広場に建つオベリスクはエジプトから運ばれてこの近くのイシス神殿に建てられていたもので、18世紀にこの広場が造られたときにここに建てられました。

【遺跡28】パンテオン

アグリッパが作ったパンテオン。
現在残るのはハドリアヌスが再建したものです。

時刻 12:31

 パンテオンは初代皇帝アウグストゥスの右腕であったアグリッパが創建した神殿で、今残っているのはハドリアヌスが再建したものです。正面にはアグリッパの名が記されています。
 パンテオンに入る行列がパンテオンの前のロトンダ広場を斜めに横切って北東の端までつながっていましたが、チケットを買うなどの時間がかかるものがないので意外と列は早く進み、5~6分で中に入れました。(パンテオン入場は無料です。)
 ドームは直径、高さとも43mもあり、外から見ても中から見てもその巨大さに圧倒されます。
 パンテオンから出てきた頃には雨がやみました。

【遺跡29】ミネルバ・オベリスク

ベルニーニ作の象の上にオベリスクが載った像。

時刻 12:58

 パンテオンの左側の道を進むと、ちょうどパンテオンの南東に当たるところにミネルバ広場があります。その中央には可愛らしい象の彫刻があり、ミネルヴァのひよこと呼ばれています。これもベルニーニの作です。
 そして象の背中にはオベリスクが乗っています。1世紀末頃にエジプトから運ばれてイシス神殿に建てられていたものです。
 そのエジプトの女神イシスを祀るイシス神殿は、この広場の東にありました。これまでに見たナヴォーナ広場のものやパンテオン前のものも建っていたところです。今はサンタ・マリア・ソープラ・ミネルヴァ聖堂という教会が建っています。後ろの修復中のものがその教会です。
 パンテオンの南の方にパンテオンと同じくアグリッパが造ったアグリッパ浴場の残骸がありますが、知らずに見落としてしまいました。

【遺跡30】モンテチトーリオ・オベリスク

モンテ・チトーリオ広場に建つオベリスクは元アウグストゥスの日時計の柱だったもの。

時刻 13:09

 パンテオンから北東に向かい、路地をジグザグに200mほど進むとモンテ・チトーリオ広場に出ます。
 この広場にもオベリスクが建っています。アウグストゥスが紀元前10年にヘリオポリスからローマに運び、この近くにあったらしい「アウグストゥスの日時計」の柱にしたものです。アウグストゥスの日時計がどんなものだったか見てみたいですね。どこかに復元してくれないかな。
 元々ヘリオポリスでは、今ポポロ広場に建っているフラミニオ・オベリスクと対で建っていました。
 広場北側のモンテチトーリオ宮殿はイタリア代議院議事堂です。代議員は下院に当たりますが、上院に当たるのはなんと「元老院」。そうそう、そうでなきゃ。

【遺跡31】マルクス・アウレリウスの記念柱

マルコマンニ戦争の様子を刻んだマルクス・アウレリウスの記念柱。

時刻 13:14

 そのすぐ東にコロンナ広場があり、そこにはマルクス・アウレリウスの記念柱が建っています。
 2世紀後半の第16代皇帝、哲人皇帝と言われるマルクス・アウレリウス・アントニヌスの功績を顕彰する記念碑です。リアルで動きのある人の姿がものすごい細かさで描かれています。作る手間を考えると気が遠くなりそう。
 このレリーフは北方で起きたマルコマンニ戦争の様子を螺旋状に刻んだものです。フォーリ・インペリアーリのトラヤヌスの記念柱と同じ形式です。マルクス・アウレリウス帝はこの遠征中に亡くなりました。

気が遠くなるような細かい浮き彫り。

【遺跡32】ハドリアヌス神殿

柱列だけが残るハドリアヌス神殿。

時刻 13:20

 コロンナ広場の南西端の道を南下すると建物の前に柱列だけが並ぶハドリアヌス神殿跡があります。
 残っているのは北面の柱列だけなので、全体像は全くわかりません。

【番外1】トレビの泉

時刻 13:34

トレビの泉背後に彫られたアグリッパがヴィルゴ水道の建設を指図する浮き彫り。

 ハドリアヌス神殿から東に進み、300mほど行くとトレビの泉です。超定番スポットなので大混雑で、特に泉の近くは大変な人だかりです。泉自体に興味はないので近づくのはやめにします。
 古代のものではないので、もちろん今回見た遺跡にはカウントしません。
 トレヴィの泉は、紀元前19年にアグリッパが造ったヴィルゴ水道が15世紀に修復されアックア・ヴェルジネとして蘇ったときに、水道の終点として造られたものです。そして泉背後の壁面の右上には、水源となった湧水を乙女が指し示すという、ヴィルゴ水道の伝説の場面を描いたレリーフがあります。そして左上にはアグリッパがヴィルゴ水道の建設を指図している姿が描かれています。
 アグリッパ好きとしてこれはしっかりと押さえておきます。

トレビの泉背後に彫られた水源の湧水を乙女が指し示す浮き彫り。
観光客でごった返すトレビの泉。

【遺跡33】クイリナーレ・オベリスク

【遺跡34】セラピス神殿の群像

大統領官邸であるクイリナーレ宮殿前に建つオベリスクはアウグストゥス廟の前に建てられていたもの。そして根本に建つ像はセラピス神殿にあった悍馬を制する双子神カストルとポルックス像。

時刻 13:41

 トレビの泉の東側はローマ七丘の一つクイリナーレの丘です。トレビの泉から南下して左側の坂道を登っていくと、クイリナーレ宮殿があります。
 そろそろ疲れてきて坂道が足にとても堪えます。
 クイリナーレ宮殿は大統領官邸です。先ほどのモンテチトーリオ宮殿もそうですが、警備員はいるものの警備はかなり簡素です。
 宮殿前のクイリナーレ広場にはまたまたオベリスクが建っています。ローマで作られてアウグストゥス廟の前に2本セットで建てられていたもので、碑文がありません。セットの片割れは、テルミニ駅近くにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の裏手、エスクイリーノ広場のものです。
 そして根本に飾られているのは悍馬を制する双子神カストルとポルックス像で、この西側にあったセラピス神殿にあったものが、後にコンスタンティヌス浴場に移されたものと考えられているとのことです。(とんぼの本 ローマ古代散歩)

【遺跡35】サルスティアーノ・オベリスク

スペイン階段の上に建つのは出所不明のオベリスク。

時刻 14:02

 もと来た坂道の途中から北に向かう路地に入り、北北西の方角に700mほど行くとスペイン広場です。これも超定番なので大混雑です。
 スペイン階段を登った先にはトリニタ・デイ・モンティ教会があり、その前にオベリスクが建っています。
 古代ローマで作られたものと考えられていますが、いつ誰が造ってどこに建てたものか不明です。ここに建てられたのは18世紀のことです。
 オベリスクの建つスペイン階段頂上部から見ると、6階建ての家並みを越えて遠くが見渡せます。古代ローマのインスラは7階建てもあったので、家並みはこれより高かったことになります。
 正面に伸びる道沿いにはブランド店が集まっているそうです。全く興味ありませんが。

【遺跡36】ピンチョ・オベリスク

ピンチョの丘に建つオベリスクは元はティヴォリのハドリアヌスの別荘にあったもの。

時刻 14:28

 サルスティアーノ・オベリスクが建つスペイン階段の上から北に連なるのがピンチョの丘です。ローマの街を望みながら北に向かいます。雨もやんだので、景色を眺めながらの歩きは爽快です。
 丘の北端に近いところを右手に入るとまたオベリスクがあります。そばで見るとエジプトの神聖文字がはっきりわかります。
 このオベリスクはハドリアヌス帝が造らせたもので、最初はティヴォリのハドリアヌスの別荘にありました。別荘の入口脇にあった、ハドリアヌスが寵愛した美少年アンティノウスの墓苑に建っていたのです。この墓苑は最近発掘されて明らかになったものです。(とんぼの本 ローマ古代散歩)
 その後は転々として、19世紀にここに建てられました。
 オベリスクの先はピンチョのテラスです。ひときわ混雑しています。この真下に超有名スポットであるポポロ広場があるために、そちらから人が回ってくるのです。ポポロ広場の脇には地下鉄駅もあるので便利なのです。

参考:ハドリアヌスの別荘

【遺跡37】フラミニオ・オベリスク

ポポロ広場に建つオベリスクはチルコ・マッシモの中央分離帯スピナに建っていたもの。

時刻 14:40

 ピンチョのテラスの横からスフィンクスの像が並ぶ坂を下るとポポロ広場です。広場の南端に双子の教会があり、その教会の間の道はローマから北に伸びるフラミニア街道です。ちょうど広場の北をアウレリアヌスの城壁が通っていて、そこにフラミニア門がありました。今はその場所に16世紀に建て替えられたポポロ門が建っています。これはうっかり見落としてしまいました。古代のものではないけれど見ておくのだった。
 そして広場の真ん中にはオベリスクがあります。アウグストゥスが紀元前10年にヘリオポリスからローマに運び、チルコ・マッシモの中央分離帯スピナに建てたものです。その後16世紀にここに建てられました。ヘリオポリスでは、先ほど見たモンテチトーリオ広場に建っているものと対でした。
 ルネッサンス以降、広場を造るといえばオベリスクを建てるのが定番になったようです。古代ローマではオベリスクはエジプトブームで建てたように思いますが、ルネッサンス以降のは単に飾るのに都合がよく見栄えもしたので使ったように感じます。

広場に降りる坂道の手すりにはスフィンクス。

【遺跡38】アウグストゥス廟

修復中のアウグストゥス廟。出来上がりが楽しみ。

時刻 15:00

 双子の教会の右側のリぺッタ通りを南下して500mほど行くとアウグストゥス廟があります。紀元前28年にアウグストゥス自身が霊廟として建てたものです。75歳まで生きたアウグストゥスがまだ36歳のときです。
 修復の真っ最中です。かなり大々的なもので、できあがりが楽しみです。

【遺跡39】アラ・パチス(平和の祭壇)

紀元前9年に元老院がアウグストゥスに奉献したアラ・パチス、アウグストゥスの平和の祭壇。

時刻 15:19

 アウグストゥス廟から道を挟んだ向かい側、テベレ川沿いにアラ・パチス、アウグストゥスの平和の祭壇があります。残念ながらこの日は休館日だったので、ガラス越しに眺めました。2007年は夕方になってしまい閉館で見られなかったので、今度こそと思ってきたのですが、残念。
 アラ・パチスは紀元前9年に元老院がアウグストゥスに奉献したもので、パクス・ロマーナ、ローマによる平和の訪れを象徴するものです。元はローマから北に伸びるフラミニア街道、今のコルソ通り沿いにありました。ここより南東の方角で、モンテチトーリオ宮殿の北側辺りです。地中に埋もれていた破片を繋ぎ合わせて復元したのが今の姿です。
 ガラスに顔を近づけ手で顔の周りを覆って反射を避けて見ると、大理石に細かくて写実的な人の姿がぎっしりと彫刻されているのが見えてきます。これはやはり近くでじっくり見たい。
 それにしてもこのガラス張りの建物、はやりのカフェか前衛芸術の美術館みたいで安っぽく、アラ・パチスの2000年の重みを台無しにしています。テベレ川沿いの景観にも全くそぐわず浮いています。そもそもアラ・パチスは元々川沿いにあったものではありません。ぜひ元あったところに、もっとその意義にふさわしい形で展示して欲しいものです。
 一休みしたくなり、入り口前のベンチのようなそうでないようなところに座ったら、雨に濡れた泥だか木ノ実だか鳥のふんだかわからないものがズボンに付いてしまいまい、印象はさらに悪くなりました。最悪です。

アラ・パチスの写実的な浮き彫り。

【遺跡40】サンタンジェロ城

ハドリアヌスが自らの霊廟として造ったサンタンジェロ城。

時刻 15:50

 蛇行するテベレ川に沿って南下します。歩いているうちに薄日がさしてきました。ちょっと気分が上向いてきました。
 川原は意外ときれいな道です。最初は閑散としていたのですが、途中のウンベルト1世橋は大勢の人が行き交っていました。この橋は昼にいたポポロ広場から200mくらのところで、そこからサン・ピエトロ寺院に行こうとするとちょうどルートに当たります。橋の上から上流側を見ると、ピンチョの丘からも見えていたサンティ・アンブロージョ・エ・カルロ・アル・コルソ教会のドームが目立ちます。教会の中が豪華で美しいそうです。
 アラ・パチスから900m程の対岸にサンタンジェロ城があります。ハドリアヌスが、自らの霊廟として造り始め、紀元139年、次の皇帝アントニヌス・ピウスのときに完成しました。
 墓というよりは城です。実際、401年にホノリウスがアウレリアヌス城壁を改修したときには城壁に要塞として組み込まれましたし、その後にも要塞として使われたことがあります。
 サン・タンジェロという名は城のてっぺんに建つ天使像に由来します。ここには元はハドリアヌスが4頭立ての戦車を引く像が設置されていたそうです。そっちを見たかった。

【遺跡41】アエリウス橋(サンタンジェロ橋)

サンタンジェロ城前のサンタンジェロ橋。欄干に天使像が並びます。

時刻 15:50

 カンプス・マルティウスとサンタンジェロ城を結ぶ橋はハドリアヌス自信が架けたものです。今はサンタンジェロ橋と呼ばれていますが、元はアエリウス橋という名でした。アエリウスというのはハドリアヌスの氏族名です。
 真ん中の3つのアーチが当時のまま残っています。
 橋はサン・ピエトロ寺院への参詣路としても使われたそうです。欄干の上にはベルニーニが制作を指揮した全部で10体の天使像が建っています。劇的なポーズで建つ天使像はそばで見ると迫力があります。ベルニーニはあまり好きではないけれど、人をあっと言わせるような演出はうまいですね。つい見入ってしまいます。
 サンタンジェロ橋を渡ったところがサンタンジェロ城の入り口ですが、前回2007年に入っているのでパス。城の前で左折すると、正面がサン・ピエトロ寺院です。

【遺跡42】バチカン・オベリスク

サン・ピエトロ広場に建つオベリスクは3代皇帝カリグラがこの辺りに造った円形競技場に建っていたもの。

時刻 16:18

 サン・ピエトロ寺院に着きました。この周辺だけは別の国、バチカン市国です。境目に低い柵が置いてありますが、パスポートチェックなどなく自由に入れます。広場を横切って中に入る長い行列ができています。これも前回入ったのでパス。薄日が射して来たので、巨大な噴水の水がキラキラ輝いてきれいです。
 サン・ピエトロ広場の真ん中には本日8本目のオベリスクが建っています。紀元37年に3代皇帝カリグラがアレキサンドリアからローマに運び、この辺りに造った円形競技場の中央分離帯スピナに建てました。ちょうどこの年にカリグラは重い病に合い、その後暴君に変わったというので、正常な時の最後の仕事かもしれません。
 これで本日の一筆書きの古代ローマ遺跡巡りは完了です。サン・ピエトロ寺院から700mほど北のオッタビアーノ駅から地下鉄A線でホテルのあるテルミニ駅に戻りました。時刻 15:50 16:16
 サン・ピエトロ寺院に着きました。この周辺だけは別の国、バチカン市国です。境目に低い柵が置いてありますが、パスポートチェックなどなく自由に入れます。広場を横切って中に入る長い行列ができています。これも前回入ったのでパス。薄日が射して来たので、巨大な噴水の水がキラキラ輝いてきれいです。
 サン・ピエトロ広場の真ん中には本日8本目のオベリスクが建っています。紀元37年に3代皇帝カリグラがアレキサンドリアからローマに運び、この辺りに造った円形競技場の中央分離帯スピナに建てました。ちょうどこの年にカリグラは重い病に合い、その後暴君に変わったというので、正常な時の最後の仕事かもしれません。
 これで本日の一筆書きの古代ローマ遺跡巡りは完了です。サン・ピエトロ寺院から700mほど北のオッタビアーノ駅から地下鉄A線でホテルのあるテルミニ駅に戻りました。

【番外2】セルウィウス城壁

テルミニ駅前に残るセルウィウスの城壁。

時刻 18:34

 そして駅前なので1個おまけの遺跡見物。セルウィウス城壁です。テルミニ駅の正面を出て右側、北東寄りにあります。
 セルウィウス城壁は紀元前4世紀ころ古代ローマの街を守っていた城壁です。
 テルミニ駅地下のマクドナルドのそばにも、埋もれていたセルウィウス城壁のかけらがあります。
 城壁の高さは最高10mくらいだったようですが、駅前で地上に顔を出しているは5mくらいなので、地下に5mほど埋もれていることになります。ちょうど今立っている辺りが当時の地面だったのでしょうか。
 ローマは掘ればいたるところにこうした遺跡があるのでしょうね。

テルミニ駅の地下のマクドナルドのそそばにあるセルウィウスの城壁。

 この日歩いた距離は23.9km、歩数32,409歩、登った階数28階でした。

 この旅行ではこの日を含め4日間で70個の古代ローマ遺跡を見ました。興味のある方は旅行記を御覧ください。

 南仏プロヴァンスの街ニームのカステルム・アクアエ(castellum aquae)を紹介します。「何それ?」と思う人が大多数でしょう。しかも数多くのローマ遺跡が残るニームの中でも超マイナーな存在です。しかし古代ローマの水道の仕組みが解る貴重な遺跡です。





カステルム・アクアエとは?

 カステルム・アクアエ(castellum aquae)というのは水道の水を複数の経路に分配する施設です。ここから先は鉛製の水道管で最終目的地まで水が届けられました。

 古代ローマの都市には必ず水道があるので、水道の分水施設であるカステルム・アクアエはどんな都市にもあったはずですが、遺構はあまり残っていません。Wikipediaのカステルム・アクアエの項で紹介されているのも、ローマのテルミニ駅近くにあるニンファエウム・アレクサンドリとポンペイのものだけです。でもこのニームのものも載っていないので、もしかしたら地味だから紹介されないだけで他にもあるのかもしれません。現にスペインのメリダで街を歩いていたらカステルム・アクアエの遺跡に偶然出会いました。いずれにしてもなかなか見ることができないのは確かです。

形と機能

 ニームのカステルム・アクアエは直径5.9m、深さ1.4mの円形のプールです。道路からは奥に見える四角い空洞が水道につながっていたところで、ここから水が円形のプールに流れ込み、手前側にある直径40cmの10個の丸い穴につながった水道管に流れ出ていました。穴の大きさは同じに見えるので、水は均等に分配されていたと思われます。穴はプールの底から少し上がったところに開いていて、不純物を沈殿させて取り除く役割も果たしていました。

 ニーム、ローマ、ポンペイ 、メリダのものはどれも形や構造が違うようですが、このニームのものは一度説明を聞けばひと目で仕組みがわかります。古代ローマの水道の仕組みを知るにはうってつけです。

 水道からの入り口は少し角度が付けられています。おそらく中で水が渦を巻くようにするためで、それによって水が滞留することなく均等に水道管に流れ出る効果があったものと思われます。

 ポンペイに残るカステルム・アクアエは出口を個別に閉め切ることができるようになっていて、水が少ない時は給水先の調整ができたようですが、ここニームのものにはそのような設備は見つかっていません。同じ地中海沿いで夏に降水量が少ないのは一緒なので、調整は必要だと思うのですが、なぜ調整の設備がなかったのか理由はわかりません。水量の変化が少なかったのでしょうか。

 水道管は二つ一組になっていると言いますが、見た目ではよくわかりませんでした。ここから先、街にどのように配水されていたのかはよくわかっていません。

 歩道からは見えませんが手前の底には3つの排水口があり、下水に水を流してプールを空にすることができました。水槽の手前側の水道管があったはずのところの下にある蓋付きの溝が、この排水口から水を流す通り道です。空にするのは清掃や修復のためです。ローマの凄さはこうした施設をただ造るだけでなく、長期間に渡って維持管理したことですが、そのためにメンテナンスのための構造や設備が予めきちんと造り込んでありました。

壁に描かれていた絵

 プールの周囲には建物の土台や壁の残骸があります。今のようにプールが剥き出しで設置されていたのではなく、元は正方形の列柱の建物がプールを覆っていました。カステルムというのはその建物全体を指した言葉です。

 1844年に発見された当時、壁にはイルカと魚が描かれているのが見えていたそうです。今は色褪せて何も見えません。これは見てみたかった。ちなみにポンペイのものは今でも絵が残っています。

 若いころ日本の古代史研究者である上田正昭さんの授業で、高松塚古墳の壁画を発掘した時のことを聞いたことがあります。水に浸かった状態で発掘されたものが、水がなくなって空気に触れた途端、みるみる色あせたそうです。発掘は破壊だから慎重にやらなければならない、とおっしゃっていました。高松塚の壁画はその後カビで大幅に劣化し、今では剥がして修復した上で室内で保管されています。秦の始皇帝陵は技術が整うまでは発掘しないと決めているそうです。貴重な遺産を将来に残すためにはこれも一つのやり方です。でも箸墓に埋まっているもの(卑弥呼が魏から贈られた銅鏡100枚?)と、始皇帝陵の水銀の川と海が広がる地下世界はやっぱり見てみたいものです。

http://www.romanaqueducts.info/aquasite/index.html

水道のルートと水道橋

 この水道の水源はニームから北北東に直線距離で20km離れたユゼスにある湧き水です。水道はユゼスとニームの間にある台地を大きく東の方に迂回しているため、全長が50kmもあります。更にユゼスとニームの間にはガルドン川が流れていて、水道は川を橋で越えています。これが誰もが知るローマ水道橋の代表選手、ポン・デュ・ガールです。首都ローマの外にあるものでは一番有名と言っていいと思いますが、実物を見てもその巨大さに圧倒されます。

ポン・デュ・ガールはこのカステルム・アクアエに給水する水道の途中にあります。

 ポン・デュ・ガールは紀元前にアグリッパによって造られた、と以前は言われていて、いまだに旅行ガイドやネットでその説明をよく見かけます。しかし最新の研究では、ポン・デュ・ガールを含めたこの水道が造られたのは1世紀後半と考えられています。当然ながら水道の構成要素であるカステルム・アクアエが造られたのもその時です。

 紀元前にカエサルが配下の退役兵に土地を与えたのが、ニームのローマ都市としての始まりです。それ以前から今のイタリアとスペインとを結ぶローマ街道であるドミティア街道上の都市として重要な位置を占めていましたが、1世紀にはこの辺りは平穏で大きな出来事がなく、そのため逆にどのような状態だったのかよく解りません。水道橋が新設されたのですから安定して発展し人口が増えていたのでしょう。

ニームの紋章、ヤシの木とワニ。

 同じ水道の一部でありながら、ポン・デュ・ガールに比べるとカステルム・アクアエは小さくてとても地味です。巨大建築も確かに驚異の存在ではあるのですが、私はインスラやパン屋、公衆トイレなんていうものが、古代ローマ人の現代に引けを取らない豊かな生活、いやもしかすると少なくとも精神的には現代人より豊かな生活を垣間見ることができて好きです。カステルム・アクアエもこれを見ると古代ローマ人の知恵と高度な技術に支えられた人々の豊かな生活が目に浮かぶようで、私にとってはポン・デュ・ガールと同じくらいの存在感があります。

行き方

 ニームはパリ・リヨン駅からTGVで3時間です。

 カステルムはニーム駅から北に1.6km、円形闘技場からは900mです。

 車の場合は道が細くて近くには停められないので、街中の駐車場に入れて歩くのがいいでしょう。円形闘技場の南東側には大きな地下駐車場があります。

 カステルム・アクアエがあるのはニームの市街地の北部、北に向かって上り坂になったところで、ニーム大学の西側の外壁に沿うランペス通り(Rue de la Lampeze)沿いにあります。円形闘技場やメゾン・カレからは北、マーニュの塔の東に当たります。

 非常に判りにくい場所にある上に案内はほとんどなく、ランペス通りも細い道なので、私は散々迷った後にやっとたどり着きました。今ならGoogleマップに ”Castellum Aquae” として載っていますからルート検索すれば簡単にたどり着けるでしょう。

 ニーム大学の建物は元は17世紀に建てられたフォート・ボーバン(Fort Vauban)という要塞で、その後刑務所に使われた後、1995年に大学になりました。見た目はまさに要塞です。

 ニームには見栄えがして判りやすいローマ遺跡があります。展示が分かり易い円形闘技場、保存状態がよく美しい神殿メゾン・カレ、城壁に設けられた見張り塔であるマーニュ塔です。円形闘技場には剣闘士の種類がイラスト付きで説明されていて、見ているだけで面白く、剣闘士の姿や試合の様子の理解が深まりました。

参考文献

 ローマの玄関口テルミニ駅の南東にあるマッジョーレ門(ポルタ・マッジョーレ)は水道橋の一部として造られたもので、上に2本の水道が通っています。しかしこの周辺を通る水道はこれだけではなく、水道が渋滞していると言ってもよいほどの混雑ぶりです。





マッジョーレ門

 ローマの玄関口フィウミチーノ空港、通称レオナルド・ダ・ヴィンチ空港からノン・ストップの急行列車レオナルド・エクスプレスでローマ入りすると、左に急カーブして間もなくテルミニ駅に到着という辺りで、左の車窓から白い門が見えます。今回の主役はこのマッジョーレ門(ポルタ・マッジョーレ)とその周辺です。

レオナルド・エクスプレス車窓から見たマッジョーレ門。
空港からテルミニ駅に向かうと到着直前に左側に見えます。

 マッジョーレ門の両側には茶色い壁が連なり、この壁はだいたい南東から北西の方向に、途中何度かカクカクと折れ曲がって伸びています。これは3世紀後半に造られた、ローマを取り囲むアウレリアヌス城壁です。ゲルマン人がアルプスを越えて侵入してきたことをきっかけにローマを守るために造られたアウレリアヌス城壁は、建設を早めるため多くの既存の建物を城壁に転用しました。マッジョーレ門付近もそうで、城壁になる前の姿は水道橋でした。

 マッジョーレ門は両側の城壁より高く、その飛び出た部分の側面を見ると四角い穴が縦に2個並んでいます。これが水道の導水管で、上がクラウディア水道、下が新アニオ水道です。両側の城壁の上の導水管は崩れてなくなってしまいましたが、おかげで断面がむき出しになって水道が通っていたことがひと目でわかるようになりました。(門の上が3層になっているので、水道が3段とよく誤解されますが、実際には水道は2段です。)

ポルタマッジョーレの上には2本の導水管が通っています。
上がクラウディア水道、下が新アニオ水道です。

 と、ここまでは観光ガイドなどにもよく書いてあり、「ああ、あれね。」って方もいるでしょう。もちろんこれだけでも充分すごいのですが、この場所にあったものやその変遷は今の姿を見ただけでは分からない複雑なものなのです。

水道はいったい何本?

 マッジョーレ門の南東側正面に立ってみます。テルミニ駅方面から来たならマッジョーレ門をくぐった反対側です。門の周辺は広場になっていて、こちら側がラビカノ広場、反対側がポルタ・マッジョーレ広場と呼ばれています。

 城壁は全体として左後方から右奥の方に伸びています。左後ろからまっすぐ伸びてきた城壁はすぐ左手で直角に右に折れ、正面を100mほど直線で横切ります。マッジョーレ門はその中央やや右寄りにあり、その右側では二つのアーチの下を路面電車が通っています。直線部分の右端で城壁は向こう側に約45度折れています。ここからは見えませんが、その先は90m程で線路に突き当たって一旦途切れ、更に線路の向こう側に続きがずっと伸びています。線路ができる前はつながっていたのでしょう。

左後ろ、南東の方角から伸びてきた城壁は、右に90度折れてマッジョーレ門に至ります。
北西側から見ると先が45度左に折れているのがわかります。

 今ではひとつながりのこの城壁は、実は二つの水道橋をつなげたものです。境目は正面の直線部分の右端です。クラウディア水道などを載せた水道橋は、左から来てマッジョーレ門を越えた後、境目の手前で左に直角に折れて向こう側に向かっていました。一方で、今はなくなってしまいましたが、右後方から別の水道橋が左側のクラウディア水道とほぼ並行に来ていて、右奥に伸びる部分につながっていました。

 境界のところをよく見ると、水道橋が手前からつながっていた痕跡があります。上部に二つ並ぶ四角い穴が導水管です。上面が崩れていますがその上にもう一つ導水管があったらしいこともわかります。つまりこちらは水道が3段重ねになった水道橋でした。下からマルキア水道、テプラ水道、ユリア水道です。マッジョーレ門の導水管と比べると低い位置を通っています。

右手に手前から水道橋がつながっていた痕跡があります。
上部に二つ並ぶ四角い穴が導水管です。

 今目に見える水道はこの5本ですが、この辺りを通っていた水道はまだあるのです。ローマ最古の水道であるアッピア水道、旧アニオ水道、古代最後に造られたアレクサンドリナ水道の3本で、これらは地下を通っていたので見えません。更に中世に造られたフェリクス水道もここを通っていました。

 結局ここには古代ローマの水道8本、中世の水道1本、合計9本の水道が通っているわけです。古代にはローマの街に11本の水道がありましたが、そのうち8本がここにひしめいていたことになります。

最初の水道、アッピア水道

 時代を追って見てみましょう。ここでもマッジョーレ門の南東側正面に立っているものとします。

 紀元前4世紀、ここはまだローマの街の外で、その当時ローマを囲んでいたセルウィウス城壁から1.2kmほど離れています。セルウィウス城壁のエスクイリーナ門(Porta Esquilina)を出て南東に向かう街道がこちらに向かって伸びていて、すぐそこで二手に分かれています。一つは東に向かうプラエネスティーナ街道、もう一つは東南東に向かうラビカナ街道です。ただし街道といってもこのときはまだアッピア街道ができる前なので、後の時代のような頑丈な舗装道路ではありません。

 今触れたローマ最初の高規格道路であるアッピア街道を作ったアッピウス・クラウディウス・カエクスは、ローマ最初の水道も造りました。それが紀元前312年にできたアッピア水道で、ここを通った最初の水道でもあります。後の水道より高度が低く、今立っている場所の右下辺りの地下を通っているので見ることはできません。

 この頃の首都ローマの人口は20万人程度です。当時の共和政ローマが支配するのは都市ローマを中心とする地域だけで、アペニン山脈に住んでいるサムニウム人と断続的に戦っていました。いつ攻め込まれるかもしれず、地上に水道を引いたのでは破壊されたら終わりです。だからアッピア水道はほとんどが地下を通っていました。アッピア水道はテベレ川沿いの港であるフォロ・ボアリウムまで通じていて、途中セルウィウス城壁の上を通り、アッピア街道の出発地点であるカペーナ門の上を通っていたとも言われています。

1本目の水道橋

 紀元前269年、ローマで2番目の旧アニオ水道が建設され、同じくここの地下を通ります。イタリア半島南部、長靴のかかとの付け根にあるタレントゥム(現在のターラント)を巡りエピロス王ピュロスと戦って勝利し、イタリア半島をほぼ手中に納めた頃です。この戦いの戦利品が旧アニオ水道の建設費用となりました。一旦平穏が訪れたのでしょう。カルタゴとのポエニ戦争が始まる5年前のことです。

 アニオ川上流を水源とするのでこの名で呼ばれていますが、もちろん「旧」と呼ばれるようになったのは「新」ができてからです。

 そしてポエニ戦争が終わった6年後、紀元前140年にマルキア水道の水道橋が造られ、右側に壁のように連なります。景観が一変したでしょう。

 法務官クィントゥス・マルキウス・レクスによって造られたもので、建設にはポエニ戦争と、ギリシアのコリントスとの戦いの戦利品が充てられました。首都ローマの人口は40万人程度に増えていました。

 これも水源はアニオ川上流域ですが、もはや周囲に敵はおらず攻め込まれる恐れもないので、ここまでの10kmくらいが地上にむき出しの水道橋です。

 紀元前126年、テプラ水道がマルキア水道の上に載せられて水道橋が高くなりました。グラックス兄弟の兄が暗殺され内乱の1世紀と呼ばれる時代に突入した頃です。

水道と水道橋の増殖

 そして紀元前33年、内乱の1世紀も収束に向かい、もうじきオクタヴィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を得ていわゆるローマ皇帝となるころ、オクタヴィアヌスの生涯の同志であったアグリッパがユリア水道を造りました。カエサルが建設を初めたので彼の氏族名から「ユリア水道」と名付けられた、という説もあります。

 これはまたもやマルキア水道の水道橋の上に載せられ、10kmくらいの間ずっと3段重ねでここまでやって来ることになりました。以前に造られたテプラ水道は、名前が「生ぬるい」を意味する “tepid” から来ているという通り、水温が高く飲料水に適さなかったため、このとき同時に造り替えられました。 

 考えてみるとマルキア水道の水道橋が造られたのは100年以上も前のことですから、これが健在で、それどころか上に新たに水道を付け足しても耐えられる状態にあるというのは驚くべきことです。建築技術のレベルの高さはもちろんですが、確実にメンテナンスする意思と、そのための組織や人を維持する強固な政治体制がなければ実現できないことです。

 この水道の下流、線路の向こう側に続く城壁の途中にティブルティーナ門があり、その壁面にはアウグストゥス帝による3つの水道の修復と、ティトゥス帝とカラカラ帝によるマルキア水道の修復を顕彰した碑文が刻まれています。

ティブルティーナ門。(Wikimedia)

 まだここに右側の水道橋だけしかないこの頃、分岐したばかりの二つの街道に挟まれたところに、パン屋エウリサケスの墓が造られます。マッジョレー門よりこっちが先に作られたのですね。上部はピラミッド型の屋根のようになっていました。マッジョーレ門もその両側の水道橋もまだなく、街道沿いの一等地にそびえ立つ表面をトラバーチンで装飾した白い墓はかなり目立ったはずです。

「パンはパン屋で」

マッジョーレ門の南東側に建つパン屋エウリサケスの墓。
マッジョーレ門より前に造られたものです。
上部のレリーフはパンの製造工程を描いたものです。

 そして右側の水道橋ができて200年になろうかという頃、新たな水道橋が左から正面を通過します。3代皇帝カリグラが造り始め、4代皇帝クラウディウスが紀元52年に完成させた、クラウディア水道と新アニオ水道を2段重ねにした水道橋です。都市ローマの人口はこの頃には80万人に達し、水の需要が急増したので、ユリア水道、クラウディア水道、新アニオ水道、更にここを通らないヴィルゴ水道(紀元前19年)、アルシエティナ水道(紀元前2年)と短い間に5本もの水道が造られました。

 この場所は左右と正面を水道橋の壁で塞がれることになりました。しかも新しい水道の導水管は、ちょうど右側の水道橋の上に載るくらいの高さで、右側のものよりかなり高く聳えています。相当窮屈で圧迫感を感じるようになったことでしょう。

 この水道橋がプラエネスティーナ街道、ラビカナ街道と交差するところに造られたのがプラエネスティーナ門、今マッジョーレ門と呼ばれる門です。トラバーチン製で白く美しい姿で造られたのは、圧迫感を些かでも感じないようにするためというのもあったのではないでしょうか。大きく2つのアーチがあるのは、直前で分岐した2つの街道を通すためで、右がプラエネスティーナ街道用、左がラビカナ街道用です。

 マッジョーレ門の上部には両面に碑文が刻まれています。3段になっている一番上の段、つまり新アニオ水道の導水管の壁面には皇帝クラウディウスによる水道建造を顕彰する碑文が、2段目、つまりクラウディウス水道の導水管の壁面には紀元51年の皇帝ウェスパシアヌスによる修復を顕彰する碑文が、そして3段目には紀元81年の皇帝ティトゥスによる修復を顕彰する碑文が刻まれています。(3段目の内側には導水管はありません。)

 二つ水道橋はすぐ近くまで接近していたものの、別々の水道橋なのでつながっていませんでした。つまり後にアウレリアヌス城壁になる時に間に壁が造られてひとつながりになったということです。

 なお右側のマルキア水道は手前で鉤形に曲がった復元模型もあり、それだとこの空間は四方を水道橋で囲まれることになります。そうだとするともはや外ではなくて中庭のような感じでしょう。

暴君ネロとドミティアヌスのプライベート水道

 クラウディウスの次の皇帝ネロは、クラウディア水道を分岐させてチェリオの丘に向かう分岐を造りました。Arcus CaelimontaniまたはArcus Neronianiと呼ばれています。左手で直角に曲がるところを直進した後、西南西のラテラノ大聖堂の方角に向かっていて、その登り坂に水道橋跡が残っています。ネロはチェリオの丘を超えたところ、今コロッセオがある付近に私邸である黄金宮殿や巨大な人工池を造りました。これらに必要大量の水を賄うためにこのクラウディア水道の分岐を造ったのです。

左がマッジョーレ門。右が分岐してチェリオの丘に向かうネロの水道。
ラテラノ大聖堂方面への上り坂にある水道橋跡。
向こうにラテラノ大聖堂前に建つオベリスクが見えます。

 その後皇帝ドミティアヌスはそれを更にパラティーノの丘まで延長しました。パラティーノの丘に東側の入り口から入場すると、丘の上に登る道の途中で水道橋跡が横切りますが、それがこの分岐水道です。マッジョーレ門周辺の標高は42mでクラウディア水道の高さは地上20mくらい、コロッセオのある谷間の標高は18m程なので、チェリオの丘からパラティーノの丘まで24mくらいの高さの水道橋が渡っていたことになります。スペインのセゴビアに残る水道橋が高さ28mなので、ちょうどあんな感じの景観がコロッセオの近くにあったのですね。

パラティーノの丘の東側の入り口から入ると丘に登る途中で水道橋跡が横切ります。
これがクラウディア水道の分岐です。

パラティーノの丘の東側の入り口近くの道路から見たクラウディア水道の分岐です。
左側がパラティーノの丘、道の向こうに見えるのがコンスタンティヌスの凱旋門、
その先はコロッセオです。

 パラティーノの丘にあったのは皇帝の私邸なので、ネロにしてもドミティアヌスにしてもこの分岐水道を個人のために造ったことになります。言うまでもなく他の水道は公共のためのものですから、これはかなり特異なことです。

 この姿で古代ローマの最盛期である200年を過ごします。首都ローマの人口は紀元164年に100万人を越えたと考えられているそうですが、クラウディア水道ができた頃の80万人から100万人に増えた程度なので、その間にはここを通らないトライアーナ水道(紀元109年)が造られただけでした。

ローマが衰えゆく頃

 そして200年近く経った226年、皇帝アレクサンデル・セウェルスによってアレクサンドリナ水道が造られました。ルートははっきりしないもののこの辺りの地下を通ったというのが通説です。

 ただし、水道のことが詳しく判るのは1世紀後半の水道長官フロンティヌスが「水道書」を残したからですが、この水道はそれより後に作られたため記録がなく、また高度が低くてここから3km手前のものを最後に地上に残存物がないため、本当にここを通っていたのかどうかわかっていません。

 これが古代ローマ時代の11本のうち最後に造られた水道です。ネロ浴場の改築のために造ったと言われますが、紀元216年にカラカラ浴場が造られた時には、そこに水を引くためのアントニニアーナ水道をマルキア水道からの分岐で済ませています。それなのに元からあった浴場の改築のために新規の水道を引くというのは考えられません。この頃に人口が増えたとも思えず、軍人皇帝の直前の影の薄い皇帝(私はそんなのいたっけ?と思いました。)が、200年近くの空白の後になぜ水道を造ったのか、よくわかりません。

 アレクサンドリナ水道ができてから約50年後の紀元275年、アウレリアヌス帝によって二つの水道橋が城壁に組み込まれ、間に壁が造られてひとつながりになります。細い隙間が埋められただけなのであまり景観は変わらなかったと思われますが、城壁にするためにアーチの隙間を埋めたり、マッジョーレ門を閉め切れるようにするなどの改装はしたでしょう。

 かつて敵が破壊できないように地下に水道を通したのと比べると、大切な水道橋を城壁に転用してしまうというのは短絡的な発想と思えてしまいます。もう理念や誇りなどなく、近視眼的な実利だけで動く世界になってしまったのでしょう。

 4世紀末から5世紀初めの皇帝ホノリウスの頃、エウリサケスの墓を塔が覆いました。400年代にローマは西ゴート族のアラリックに率いられた軍勢に何度か囲まれ、410年には城壁内に侵入されていますが、これと関係あるのかもしれません。後に塔は取り去られますが、これによってピラミッド型の屋根や手前の部分が壊れてしまいました。取り去られた門の一部が左脇によけて置かれています。

18世紀の画家ピラネージが描いたマッジョーレ門の姿。
(東京大学総合図書館所蔵)

 そして476年、ロムルス・アウグストゥルスの退位によって西ローマ帝国は滅び、水道橋は次第にメンテナンスもされなくなって水を供給できなくなっていきました。

ローマ亡き後

 ずっと時代が下ってほとんどの水道はとっくに使い物にならなくなっていた1590年、教皇シクストゥス5世がフェリクス水道を造りました。これは過去の水道の遺構を再利用していますが、ここではクラウディア水道の水道橋からマッジョーレ門を通り、そのままアウレリアヌス城壁に沿ってマルキア水道につながるコースを取っているようです。

 マルキア水道の上流側やクラウディア水道の下流側はきれいになくなってしまいました。これらがいつどういう理由でなくなったのか判りません。古代ローマの建造物は2000年の間に徐々に壊れていったと思いがちです。しかし実際にはルネサンス期以降の芸術家やローマ教皇、政治家などが建築材料として持ち去ったり、素晴らしい彫刻や装飾を自分が造った広場や建物に好き勝手に移設したり、権力を誇示する建物の建設のために破壊したりすることで失われたものが多いのです。ここもそういう原因で姿を変えたのではないでしょうか。

 19世紀後半にはすぐ脇を鉄道が通り、マルキア水道の水道橋が断ち切られてしまいました。でもマッジョーレ門とこの場所が残って本当によかった。

この左側で水道橋は途切れ、線路の向こう側に続いています。

水道のルート

 ここを通る水道はローマの東か南東に水源がありますが、そのうちの4つ、旧アニオ水道、マルキア水道、クラウディア水道、新アニオ水道の水源は全てアニオ川上流域です。アニオ川はアペニン山脈を水源とし、ティボリの街の近くからハドリアヌスの別荘(ヴィッラ・アドリアーナ)の北側を通って西に流れ、ローマの北でテベレ川に合流する川です。おそらく土地の高度や傾斜の関係と思われますが、どの水道もティボリからはアニオ川を離れて南下して南を迂回していて、ローマには南東の方角からやって来ます。

 マッジョーレ門付近に来るまでの間、2つの水道橋はかなり長い距離の間すぐ近くを並んで通っています。ローマの南東8kmにある水道橋公園にはすぐ近くをほぼ平行に通っている2つの水道橋が残っています。そして面白いことに水道橋公園の北側では2回交差しています。なぜこのように交差するルートを採ったのかは謎です。

 しかしそもそもそんなにルートが被るのなら、クラウディア水道と新アニオ水道もマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の上に載せてしまえばいいのに、なぜそうしなかったのでしょうか。5段にしたらさすがに強度が耐えられないからでしょうか。それとも積み重ねるとメンテナンスが難しいからでしょうか。

水道の終点

 水道の終点はカステルム・アクアエという分水施設で、そこから先は青銅製の給水管で目的地まで水が届けられます。

 そのカステルム・アクアエの遺跡がマッジョーレ門の北西1kmにあるヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に残っています。ニンファエウム・アレクサンドリという遺跡で、その東の線路の近くにはここにつながっていたと思われる水道橋の断片も残っています。

 ここはアッピア水道の分水施設と言われていましたが、近年精密な測量が行われ、その結果から今ではクラウディア水道か新アニオ水道の分水施設と考えられています。

 かつてここにはマリウスのトロフィーと呼ばれるものがあり、これはルネサンス時代にカンピドリオの丘の正面階段コルドナータの上の欄干の内側に移されて今でも残っています。カストルとポルックスの像の両脇にあるものです。マリウスはカエサルの叔父なので、クラウディア水道や新アニオ水道が作られた時よりずっと昔の人で時代が合いません。しかしこのトロフィーは本当は11代皇帝ドミティアヌスのためのものらしく、それならすでにあったカステルム・アクアエに後から建てられたとすれば辻褄が合います。

カンピドリオの丘の正面階段コルドナータの上の欄干にあるマリウスのトロフィー。
元はニンファエウム・アレクサンドリにあったものです。

 しかし一方で、クラウディア水道と新アニオ水道のカステルム・アクアエとしてニンファエウム・アレクサンドリとは別の建造物を描いたものがあります。古代ローマ遺跡の絵を数多く描いた18世紀の画家ピラネージによるエッチングで、背景にマッジョーレ門が描かれていますが、明らかにもっとマッジョーレ門に近い場所です。この建造物は線路沿いに建つミネルウァ・メディカ神殿の南東100mにあったもので、干草小屋として使われていましたが1,880年に火災で失われました。

18世紀にピラネージが描いたクラウディア水道と新アニオ水道のカステルム。右後方にマッジョーレ門が見えます。
(東京大学総合図書館所蔵)

 フェリクス水道の末端施設はクイリナーレの丘にあるフェリクス水道の泉(Fontana dell’Acqua Felice)です。三越がある共和国広場から北西に200mのところにあります。これより前の1453年に教皇ニコラウス5世がヴィルゴ水道を修復していますが、これは今も機能していて、観光客が押し寄せるトレビの泉の水もこの水道のものです。しかしフェリクス水道の方は全く機能していません。

行き方

 テルミニ駅前から路面電車かバスで10数分です。

 歩く場合はテルミニ駅の南側を線路に沿う方向である南東に1.7km、20分ほどです。ただし途中は移民の多い地域で治安があまりよくありませんから、スリなどには要注意です。暗くなってからここを歩いて行くのは避けた方がいいでしょう。

 私は2018年にテルミニ駅から歩いて行きましたが、線路に一番近い道は少し行くと暗く薄汚れた感じになったので一本右側の通りに移りました。その後マーケットのようなところでは少しみすぼらしい服を着た人も多く行き交っていて、特に被害に遭ったわけではないもののちょっと緊張感がありました。

 ただしこれはテルミニ駅とマッジョーレ門の間の部分のことで、マッジョーレ門周辺や、その後向かったラテラノ大聖堂方面は特に気になるようなところはありませんでした。

 最初に書いた通り、ローマの玄関口レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とテルミニ駅を結ぶレオナルド・エクスプレスの車窓からもマッジョーレ門を一瞬見ることができます。列車は南側の一番近い線路を通り、駅が間近なのでスピードも遅いので、準備しておけば見落とすことはないはずです。テルミニ駅行き列車からは左側、空港行き列車からは右側です。

空港とローマ市内を結ぶレオナルド・エクスプレス。

参考資料

更新履歴

  • 2020/2/3 新規投稿

 オスティアはかつて首都ローマの港湾都市として栄えたところで、建物が豊富に残っています。特にモザイクはバラエティーに富んでいて見応え充分。私はポンペイよりオスティアの方がお気に入りです。





オスティア概要

 ローマ中心部を流れるテヴェレ川がティレニア海に注ぐ河口の近くにオスティア・アンティカ遺跡があります。ローマ中心のフォロ・ロマーノから南西方向に22kmほどのところです。

 古代の首都ローマに住む膨大な数の人々の生活を維持するために、領内各地から小麦やワイン、オリーブオイルなどの食料品を始めとする様々な生活必需品が大量に運び込まれました。また贅沢な欲求を満たすため、周辺地域や遠く中国やインド、アフリカなどから高級品や珍品も持ち込まれました。それらの産物の多くが船でオスティアまでやってきて、テヴェレ川を遡ってローマまで運ばれたのです。

 オスティア・アンティカ遺跡は今は海から4kmほど内陸にありますが、これはテヴェレ川が運ぶ土砂で海が埋め立てられたためで、古代には海辺の都市でした。

 街は城壁に囲まれ、その東側のローマ門にはローマから通じていたオスティエンセ街道(Via Ostiensis)がつながっていました。今の遺跡の入り口を入ってすぐのところです。

オスティアのローマ門につながるオスティエンセ街道。
オスティアの玄関口、ローマ門。

 ローマ門から、ローマ都市を東西に貫くデクマヌス・マクシムス通りが伸びています。通りは途中から南寄りに折れ、反対側の端にあるマリーナ門まで通じています。マリーナ門を出た先は海でした。

港湾都市ならではの施設、同業者組合広場

 港湾都市ならではの独特の施設が「同業組合広場」です。

 街の北西部、ローマ劇場の舞台の背後にフォロがあり、これをコの字型に61の小部屋が取り囲んでいます。この多くは船主の事務所と考えられています。部屋は4m四方の大きさで、入口は中央のフォロの方に開いています。そして部屋の手前の床には漫画チックでかわいらしいモザイク画が描かれています。その絵柄は取り扱っている物や、商人の故郷に因むものと言われています。

ローマ劇場の向こう側がフォロで、その周囲をコの字型に部屋が取り囲んでいるのが「同業組合広場」。

 一番多いのは魚や船ですが、それらの姿はバラエティーに富んでいます。

 海神のような絵柄もあります。航海の安全祈願でしょうか。

 底の尖った容器はアンフォラという陶器製の容器で、ワインやオリーブオイルの運搬に使われたものです。

 粉を挽く石臼は小麦を扱っていたということでしょうか。

 象の絵もあります。象か象牙を扱っていたのか、それとも故郷に象がいたのか。

 故郷の街を象徴する建造物を描いたと思われるものも。

 こちらは文字だけのもの。

 何かを作っているように見えます。

 上に描かれた人物像は誰なんでしょうか?

生活の跡

 オスティアには商人、船主、船乗り、倉庫を経営する者、たくさんの荷役労働者とそれらを仲介する者、そしてそれらの人々の生活を支える者が住んでいたはずです。その生活の匂いのするものがたくさん残されています。

 高層住宅インスラは数多く残っています。これはディアナの家と呼ばれるもので4〜5階建てだったそうです。
庶民の住宅インスラ

高層住宅インスラ。

 ディアナの家の近くに飲食店テルモポリウムがあります。店内にはカウンターがあり、壁にフレスコ画が掛かっています。フレスコ画には左側には器に載せられた豆のようなものと蕪、中央にはコップ、右側には壁に吊るされた食べ物か楽器のようなものが描かれています。観賞用の芸術作品とはとても思えません。看板のようなものでしょうか。

カウンターや中庭を備えた飲食店テルモポリウム。

 店の奥には中庭があり、このテラス席でも食事ができたようです。

奥にはテラス席。

 魚屋には大理石製の水槽と調理台が残され、床にはモザイク画が描かれています。

水槽と調理台を備えた魚屋。

 小麦を挽く石臼が残るパン屋。古代ローマ人はパンをパン屋で買っていたのです。
パンはパン屋で

石臼を備えたパン屋。

 これは水洗式の公衆便所。穴の空いたところが便器です。古代ローマ都市にはいくつもありました。

水洗式の公衆便所。

モザイク床

 モザイク床も数多く残っています。

 ネプチューン浴場は馬や神様の姿が躍動的で大迫力です。

ネプチューン浴場のモザイク。

 七賢人浴場は整腸の極意を表しているのだそうです。モザイク画というと芸術作品なのかと思ってしまいますが、こんなふうに情報を伝えるためのものもあるのですね。テルモポリウムの壁のフレスコ画もそうですが、現実的なところがローマらしい気がします。

七賢人浴場のモザイク。整腸の極意を表しているのだとか。
七賢人浴場のモザイク。

 名前が書かれている解放奴隷の邸宅の浴場もあります。しかしこの姿で何を訴えたいのでしょうか?

名前が書かれている解放奴隷の邸宅の浴場。

物流ルート

 1557年の洪水で川筋が変わってしまっていますが、かつては街の北側を直線的にテヴェレ川が流れていて、ここに港がありました。積荷はここで平底船に積み替えられ、櫂で漕いだり川岸から牛に曳かせてテヴェレ川を遡りローマに運ばれたといいます。

 テヴェレ川に沿って牛が歩く曳舟道がローマまで続いていたはずですが、今の地図や衛星写真を見ると道は途切れ途切れです。川筋が変わったり、使われなくなって道が埋もれたりしたのでしょう。

 ローマで積み荷を降ろした場所は初めはフォロ・ボアリウムでした。真実の口から道を挟んだところにある広場です。後にここは手狭になり、紀元前2世紀に少し下流のアヴェンティーノの丘の南側のりーパ港に移されました。

 その近くには使用済みのアンフォラの破片が廃棄されて高さ45m、周囲1kmもの山になったモンテ・テスタッチョ(Monte Testaccio)があります。

 ちょうどこの記事を書いている最中の2019年12月18日、ギリシャ西部の沖でアンフォラ6000個を積んだ古代ローマ時代の沈没船が見つかったというニュースがありました。おそらくオスティアに入港するはずだった船と、モンテ・テスタッチョに捨てられるはずだったアンフォラです。1隻で何千個も積んでいるのですから大きな山になるわけです。

新しい港湾施設ポルトゥス

 オスティアに隣接していた港はテヴェレ川が運ぶ土砂が堆積したため、4代皇帝クラウディウスがテヴェレ川の北岸にポルトゥス(Portus)と呼ばれる新しい港を造り、さらにトラヤヌスは六角形の大規模な港湾施設を造ったため、港の機能はそちらに移りました。

 トラヤヌス港の周囲にも遺跡が残っているらしいのですが、あるのは倉庫や船溜りなどの港湾施設で、住宅などはないようです。オスティアはポルトゥスが造られた後も人口が増えていったようで、人が住む街の機能は引き続きオスティアにあったのでしょう。その証拠に人口がピークを迎えるのも2世紀のことです。

 クラウディウスが新しく造ったポルトゥス港は海との間が2本の堤防で仕切られ、堤防の間の島に灯台がありました。この島はエジプトからネロ競技場に置くためのオベリスクを運んだ船を沈めて造ったそうです。そのオベリスクは今サン・ピエトロ広場の真ん中に建っているものです。

 ポルトゥスの辺りは今では陸になり、北側には現代のローマの玄関口であるフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)があります。

 トラヤヌスが造った六角形の港湾施設は、Googleマップの航空写真で見ると見事に形を留めています。レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の南側から離着陸すれば見えそうなのですが、残念ながらそのルートを飛んだことがありません。空港とローマ中心のテルミニ駅を結ぶ急行列車レオナルド・エクスプレスが空港を出てすぐ左にカーブする辺りでトラヤヌス港をかすめて走るので、2018年にローマを訪れたときには車窓からトラヤヌス港が見えないか目を凝らして見てみたのですが、間に木があって全く見えませんでした。

ローマとオスティアを結ぶ道

 ローマとオスティアを結ぶオスティエンセ街道のローマ側の起点はアヴェンティーノの丘の南東にあるセルウィウス城壁の Porta Raudusculana で、他に丘の南の Porta Lavernalis、フォロ・ボアリウムの近くのトリゲミナ門(Porta Trigemina)を出た道もオスティエンセ街道に合流していました。3世紀にアウレリアヌス城壁ができるとオスティエンセ門(Porta Ostiensis)から市外に出るようになりました。これは現在サン・パオロ門(Porta San Paolo)と呼ばれている門です。

 ポルトゥスが造られるとテヴェレ川の右岸に沿ってローマとポルトゥスを直線的に結ぶポルトゥエンセ通り(Via Portuensis)が敷かれ、後にはこちらがメインルートとなりました。ポルトゥエンセ通りの起点はアエミリウス橋(Pons Aemilius)です。この橋は今は残骸しか残っておらず、ポンテ・ロット(Ponte Rotto)、壊れた橋と呼ばれています。

行き方

 ローマ市街地の南部にあるローマ・ポルタ・サン・パオロ(Roma Porta S. Paolo) 駅からローマ=リード線で30分ほどのオスティア・アンティカ(Ostia Antica)駅で降り、徒歩10分で入り口に着きます。

 ローマ・ポルタ・サン・パオロ駅に行くにはテルミニ駅を通る地下鉄B線に乗ってピラミデ駅(Piramide)で降ります。駅名が違いますが地下鉄から地上に登るとすぐ左側に隣接してホームがあります。外から見ると、規模は小さいのですがターミナル駅らしい立派な駅舎です。

ピラミデ〜古代ローマはエジプトかぶれ(イタリア)

 ローマ=リード線は地下鉄と同じ ATAC の運営で、キップも共通です。

ローマ・ポルタ・サン・パオロ(Roma Porta S. Paolo) 駅。

 ローマ=リード線の沿線は生活感が強く感じられる路線で、乗っている人は皆、いかにも地元の人という感じです。最初はちょっと薄汚れて落書きだらけの建物が並び、しばらく走ると、きれいな高層マンションが立ち並ぶニュータウンのようなところを通ります。

 オスティア・アンティカ駅は閑散とした郊外の駅という感じ。私が2008年に訪れたときは電車を降りたのは10人ほどで、いずれも地元の人のようでした。

オスティア・アンティカ駅のホーム。
列車が行ってしまうと人気がなくなりました。

 閑散とした駅前には重要な遺跡が近くにありそうな雰囲気は皆無。

オスティア・アンティカ駅の外観。
閑散としていて観光地の雰囲気は皆無。

 何か案内はないかと辺りを見て回り、ようやく道路にかかる歩道橋の手前に落書きだらけの看板を見つけました。

 看板に従い、歩道橋を渡ってまっすぐ進むと200mほどで突き当り、左に進むとオスティア遺跡の入場口がありました。

オスティア・アンティカ駅前の様子。
正面の歩道橋を渡って真っすぐ進み、突き当りを左に行きます。
この先が遺跡の入口。

 入り口には人がたくさんいました。バスや車で来る人がほとんどのようです。平日のせいか、先生に率いられた中学生か高校生の集団の姿もあってにぎやかでした。

 ここで入場料を支払って遺跡に入ります。

オスティア・アンティカの入口。

 ローマ=リード線の電車は落書きのない新型と、落書きだらけの旧型があります。行きは新型できれいだったのですが、帰りに来たのは落書きだらけの旧型で、乗るのをためらうほどでした。

落書きで埋め尽くされた電車。乗るのをためらってしまいます。
車内も落書きだらけ。
ちょっと不良っぽい中学生くらいの3人組が乗っていて音楽をかけて粋がっていたのですが、途中駅で降りた跡の座席にはみかんの皮が残されていました。不良の行動も日本とは違っています。

参考文献

ローマ古代散歩 小森谷慶子・小森谷賢治 とんぼの本(新潮社)

古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活 アルベルト・アンジェラ (著)、関口 英子 (翻訳))(河出書房新社)

平成22年度日本大学文理学部資料館展示会 古代ローマの港町オスティア 日本大学文理学部資料館

2010年国際シンポジウム:『オスティアとポンペイ:遺跡保存の現況と古代ローマ港湾都市研究の最前線』
河と海の間の港町オスティア マルコ・サンジョルジョ(高久 充 訳)

 アオスタの西にある細く切り立ったコーニュ渓谷に架けられた水道橋で、橋の上を歩いて渡ることができます。導水管の下に保守用の空間がある独特な構造です。この水道の目的は都市への飲料水供給ではなく、農地の灌漑と鉄鉱石の洗浄でした。





水道橋の全体像

 アオスタから西に8kmほどのところで、アオスタ渓谷を流れるドラ・バルテア川に南側からグランド・エイヴィア川(Grand Eyvia)が流れ込んでいます。急勾配でアオスタ渓谷に流れ下るこの川を5kmほど遡ったところに古代ローマの水道橋、ポン・デル(Pont d’Ael)が残っています。

 水道橋は同じ名の小さな集落の脇にあり、グランド・エイヴィア川が刻んだコーニュ渓谷を渡っています。橋の長さは50m。谷の中央部は垂直に切り立った深い崖で水面は66mも下にあり、この深く切れ込んだ部分を内径は14mのアーチが跨いでいます。長さ50mという橋の大きさに比べてアーチが小さく感じるので、壁のような印象です。

 橋の上部は幅2.26mとのことなので、セゴビア水道橋と同じくらいです。

 川はかなりの急流で、滝と言ってもいいほどです。

川の上流はかなり傾斜が急です。
川の下流。

 水道橋の上は歩いて渡ることができて、ハイキングコースの一部になっています。私が訪れた3月初めには路面に雪が残っていました。歩ける部分は幅が1.4m程と細いのですが、両側に高さ1.4m、厚さ30cmくらいの壁が連なっているおかげで深い谷は覗き込まなければ見えず、高いところが苦手な私でも渡れます。

 この歩いている部分が水路が通っていたところです。側壁は元は60cm程の厚さがあり、上は蓋で塞がれていて、幅1m、高さ2m程の長方形の空間でした。その下から1.3mが水路です。

橋の上を渡ることができます。元はここが水路でした。

修理用の通路といわれている空間

 この水道橋の特徴は、水路の下に人が通れる通路があることです。これは水漏れをチェック、修理するためのものと言われています。中は高さが3.88mもあるそうですから、人が楽に通れる空間です。外から見るとこの部分には上下2列に明り取りと言われている窓が並んでいるのがわかります。しかし天井、すなわち水路の底が遠過ぎてチェックできないような気もします。ポン・デュ・ガールを始め他のローマ水道橋にはこんな設備はないはずですが、本当に点検用なんでしょうか。

水路の下に通路があります。明り取りと言われている穴が空いているのが分かります。

 集落側の橋のたもとには見学用の建物があって、階下から水道橋の下の通路に道がついています。しかし私が訪れた3月にはシーズンオフで営業しておらず、対岸の入り口も鍵がかかっていて、残念ながらこの監視通路には入れませんでした。

見学施設の入口。
下の階から橋の下の通路に行けるようになっています。

水道の経路

 水道橋の両側には水道がどう続いていたのか、現地で見たときにはさっぱりわかりませんでした。

 街と反対側の東岸が水道の上流にあたりますが、北から東にかけては急な登り勾配で水道が通せるような地形ではなく、南側は下り坂の道なので勾配が逆です。橋は接岸部の辺りが登り坂になっているのですが、そこは橋の床も壁も素材が違っていて後から造られたことがわかります。どうも原型を留めていないようなのです。Mathias Döringという研究者によると、上流はトンネルから直接橋につながっていたようです。確かに橋の床面をそのまま延長すると東岸では地面に潜ってしまいそうです。トンネルの入り口は自然に崩れたか、後から道をつけたときに意図して破壊したか、またはその両方でしょう。

東のたもと。坂になっています。

 水道の下流になる西側では、橋から左方向に川と平行に伸びる道がありこれが街の中を貫いていますが、これが下り勾配を描ける唯一のルートという気がします。Mathias Döringの推定図でも水道はその方向に伸びています。

 水道の源流は橋の下を流れるグランド・エイヴィア川で、ここから2.9km上流で川から水道が分岐していました。急斜面の崖を削って水道を通したようで、今でも上部が開いた溝が一部が残っているそうです。

水道の目的

 この水道はてっきりアオスタに生活用水を届けるためのものだと思っていました。しかしMathias Döringによるとそうではなく、農地の灌漑、鉄鉱石の運搬と洗浄が目的とのことです。

 グランド・エイヴィア川がドラ・バルテア川に合流するところにアイマヴィル (Aymavilles)という村があり、ここから東にかけてのドラ・バルテア川南岸は高台になっています。この200ヘクタール程の土地には今ブドウ畑が広がっていますが、まさにここが古代ローマ時代にこの水道による灌漑用水によって農地となったところのようです。

 アーチの上に碑文が残っていて、これに「アウグストゥス が13回目のコンスル(執政官)の時」とあるので、この水道橋が紀元前2年に造られたことがわかります。(英語版Wikipediaには紀元前3年とあるのですが、同じくWikipediaのコンスル一覧では紀元前2年です。しかし現地の案内看板には “3 a.C.”とあって、本当の建築年代がよくわかりません。いずれにしても紀元前後です。)紀元前25年に3000人の退役軍人の入植でスタートしたアオスタ(当時の名はアウグスタ・プラエトリア・サラッソルム Augusta Praetoria Salassorum)も、紀元前11年にはアルペス・ポエニナエ属州の州都となったこともあって人口が増え、新たな農地が必要になったのでしょう。

 アオスタ渓谷は幅が狭く、川の周囲は増水すれば水没する湿地帯だったと思われますから、この広い高台はアオスタ周辺で農地に適した貴重な場所だったはずです。水道の終点はこの農地のエリアと考えられていて、水道の全長は6kmと短めです。

 鉄鉱石はグランド・エイヴィア川周辺で産出し、古代ローマ時代にも採掘されていました。後に中世から操業された鉱山が1979年まで創業していたそうです。

 水道はポン・デルの手前で分岐してグランド・エイヴィア川の左岸を下るルートもあり、その下流に鉄鉱石の洗浄施設があったようです。しかし運搬というのはどうやったのでしょうか。筏のようなものに乗せて水道に浮かせて流したのでしょうか。ちなみに最初私は鉄鉱石を運ぶために橋が痛むので点検用通路があるのかと思ったのですが、鉄鉱石用の水道は橋の手前で分岐してしまうので違いますね。 

行き方

 SVAP がアオスタと水道橋の上流にあるコーニュ(Cogne)とを結ぶバスを運行していて、Pont d’Aèl まで24分です(2019年12月現在)。ただレンタカーで訪れたときにバス停は見かけなかったので、どこで乗り降りするのか不明です。

 アオスタ起点で車で行く場合、一般道SS26を西に5km程行ったところからSR47に入り、ドラ・バルテア川の南岸に渡ってアイマヴィル (Aymavilles)の街を通り登っていきます。SR47に入ってから5.6kmの地点で右に分岐し、1.2kmほど下るとポン・デル(Pont d’Ael)の街の入口の駐車場に到着です。SS26からSR47が分岐するとすぐ高速道路入り口への道が分岐するので、間違えて高速道路に入らないように注意しましょう。

 高速道路で来た場合は Aosta Ovest/St Pierre 出口で降りてSR47に入ります。

 駐車場から小さな集落の中の道を250m、3分歩けば水道橋です。

SR47の分岐。この跡すぐに高速道路への入り口が分岐します。
アイマヴィルの街の入口には美しい装飾の教会があります。
その前のヘアピンカーブを抜けて登っていきます。
古城の近くで再び向きを180度変えます。
斜面をぐんぐん登っていきます。
遠くにサン・ピエール城を見下ろします。
SR47からポン・デルへの分岐。
分岐から下っていくとポン・デルの街の入口の駐車場です。
駐車場にある案内板。この先の道を250m歩けば水道橋です。
ポン・デルの集落にある小さな礼拝所。

 グランド・エイヴィア川の上流には開けた盆地があり、コーニュ(Cogne )という村があります。ここは標高4,061mのグラン・パラディーゾ(Gran Paradiso)の麓に広がるリゾート地で、辺りは1922年に指定されたイタリアで最も古い国立公園、グラン・パラディーゾ国立公園です。

 ポン・サン・マルタン(Pont-Saint-Martin)はアオスタ渓谷の入り口近くにあるローマ橋です。一つのアーチで川を越えていて、そのアーチの幅(スパン)は35.6mあり、現在に残るローマ橋のアーチとしては最大のものです。





橋の場所

 ガリアに通じるローマ街道がアオスタ渓谷に入ってすぐのところにあります。アオスタ渓谷を刻んだドラ・バルテア川に沿って伸びている街道が、北のアルプス方面から流れて来る支流のリュス(Lys)川を渡ることろにこの古代ローマ橋が架かっています。橋の周辺は同名の村の中心になっています。

 高速道路や鉄道はドラ・バルテア川沿いを通っていますが、この橋はそこから1kmくらい北に離れていて、リュス川が山から盆地に流れ出る直前のところに架かっています。ドラ・バルテア川とリュス川が合流するこの盆地は増水すれば水没する湿地帯だったと思われ、そのため山際に迂回して街道を通したのです。今でもこの辺りの街並みは川沿いではなく、北の山際に沿っています。

 アオスタを経てアルプスを越えガリアに至るこの街道が整備されたのはアウグストゥスの時代で、この橋が架けられたのもその時と思われます。

橋の形

 橋はリュス川の両岸の間を一つのアーチで跨いでいます。アーチのスパン(直径)は35.6mあり、これは今に残っているローマ橋のアーチのスパンとしては最大です。(The Oxford Encyclopedia of Ancient Greece and Rome)他にスパンの大きなアーチとしては、首都ローマのティベリーナ島の東側に架かるファブリキウス橋のものが24.5m、ポン・デュ・ガールのものが最大24.4mありますが、それより遥かに大きなものです。

 橋の上は両側から中央に向けて一定の勾配で登っていて、断面図にすれば二等辺三角形の二辺のような形です。勾配はそのまま接続する道にまで続いていて、ここを通る人は一定の勾配で登ってきて橋中央部の頂点に至り、そこからまた一定の勾配で降っていくことになります。

 道幅は4.6m。ローマ街道の一部ですから十分に車両がすれ違える幅が橋の上でも確保されています。

橋の上は両側から中央に向けて一定の勾配で登っていてます。

 橋の中央に立つとかなり高く感じます。川面からの高さは20mほど。下流になる西側はドラ・バルテア川の対岸の山並みが望めて爽快な眺めです。

橋の中央の一番高いところから西を望んだところ。

橋の周辺

 橋の北側、アオスタ側は、橋から続くローマ通りという名の道が左にカーブしながら下って今の車道に合流しています。おそらくこれがかつてのローマ街道のルートだったのでしょう。

ローマ通りから橋の方を見たところ。建物の下をくぐった先が橋です。

 南側の道は急坂でジグザグに2度折り返して現在の車道の橋のたもとに下っています。古代ローマ街道がこんな形だったとは思えませんが、 当時のルートはわかりません。 おそらく緩やかに傾斜した道があったと思われますが、崖が迫っている上に辺りは建物が密集していてそれらしい道がないのです。

南側の道はジグザグになっています。ローマ街道がこんな形のはずはないのですが。

 南のたもとには3階建ての建物が橋に接して建っています。私が訪れたときには3階のバルコニーから住人らしきおじさんが外を眺めていました。現代の人が住む普通の住宅と古代の建造物が一体化しています。2000年前に造られて今も使われる橋の脇に住むなんて、自分もその歴史を紡ぐ一員となったような気分を味わえそうで、羨ましく感じます。でもこういうのはヨーロッパ各地にありますね。代表は遺跡それ自体がアパートになっているローマのマルチェッロ劇場でしょう。

3階のバルコニーからおじさんが外を眺めています。

巡礼路

 橋の北のたもとには門が建っていて、これをくぐって橋に出入りするようになっています。そして橋の中央部の一番高いところには東側に祠があります。門も祠も後の時代に造られたものと思われますが、一体で礼拝施設という感じです。

橋の中央部の祠と北のたもとの門。

 祠の足元には黄色いペンキで巡礼者の姿が描かれていて、今も現役の巡礼路であることがわかります。ここはフランチジェナ街道(Via Francigena)という中世から続くヴァチカンへの巡礼路の経路なのです。イギリス国教会の中心地であるカンタベリーからドーバー海峡を渡り、フランス、スイスを縦断し、グラン・サン・ベルナール峠を越え、ここを通ってローマまで続いています。たどるルートは古代ローマ街道と重なる部分が多いと思われ、少なくともスイスのマルティニからグラン・サン・ベルナール峠を越えてローマまでは古代のローマ街道そのものです。

足元には巡礼路を表すマークが描かれています。

悪魔の橋

 西ローマ帝国滅亡後に建設技術が失われると、各地で悪魔が橋をかけたという伝説が生まれましたが、ここにも悪魔がトゥールの聖マルティヌスとの取り引きで橋をかけたという伝説がありました。今の橋の名は、聖マルティヌスのフランス語名サン・マルタン(San Martin)から来ています。橋の上の祠の中に祀られているのもこの聖人でしょう。

 その伝説というのは、巡礼中にここを通りかかったマルティヌスが悪魔と取引し、最初の生き物の魂と引き換えに一晩で橋を架けてもらったというものです。翌日、聖マルティネスは子供と犬が遊んでいたボールを橋の上に投げ、それを追った犬が悪魔の犠牲となり、村人は助かりました。(Wikipediaイタリア語版の”Pont-Saint-Martin (Italia)”)各地の悪魔の橋の伝説は登場人物が違うだけでどれも同じような話です。

 川岸の歩道に下って橋を見上げると、その高さに驚かされます。悪魔がかけたと思うのも無理ありません。

河原の道から見上げると高さに圧倒されます。

行き方

 ポン・サン・マルタンというイタリア鉄道(トレニタリア)の駅があります。ローカル線で列車本数が少ないので時刻を確かめて行きましょう。 ポン・サン・マルタン(Pont S.Martin)駅から橋までは約1kmあります。

 高速道路がドラ・バルテア川沿いを走っていて、ずばり Pont Saint Martin という名の出口があります。一番近い大都市はミラノで、車で1時間45分ほどです。トリノ からは1時間25分、アオスタからは1時間です。

高速道路の Pont Saint Martin 出口。

 橋のすぐそばが街の中心で、北岸の川沿いに駐車場とバス停があり、ここにはミラノと結ぶ直通バスが発着します。

橋はポン・サン・マルタン村の中心部、店やホテル、バス停があるところのすぐそばです。
バス停からはミラノとの間を結ぶバスが発着します。

 駐車場側から橋の上に行くには、橋の下に開けられたトンネルを潜って一旦上流側に行き、左手の階段を登って引き返します。

橋の下をくぐって一旦上流側に行きます。
折り返すように階段を登り、左に行くと橋の上に出ます。

 南岸は車道からジグザグの坂が橋の上に通じています。

 西3kmにドンナスのローマ街道跡、4.5kmにバール城砦(Forte di Bard)があり、一緒に訪れるのがお勧めです。

ドンナス村の古代ローマ街道跡。
バール城塞(Forte di Bard)。
バール城塞の斜行エレベーター。

 イタリア北西部からアルプスを越えてガリアに至る街道がアオスタ渓谷に入ってすぐのところに街道跡が残っています。崖を削って作った道で、門のように3mほどの短いトンネルがあるのが特徴です。岩に轍が刻まれていて、道の上に立つとここを確かに人が通ったのだという実感が湧いてきます。





街道跡

 イタリア北部、長靴型の半島の付け根に横たわるポー平原から、その北西方向に伸びるアオスタ渓谷を遡り、アルプスをグラン・サン・ベルナール峠もしくはプチ・サン・ベルナール峠で越えてガリアに至る道がありました。その街道がアオスタ渓谷に入ってすぐのドンナス村の集落の西に、100mほどのローマ街道跡が残っています。

 ローマ街道というと普通は石で舗装した道ですが、ここでは崖を削って道を造ってあり、路面は岩盤そのものです。

 両側に山が迫って谷が狭まっていますから、元は崖っぷちを川が流れていて、崖を削って道を通すしかなかったのだと思われます。

 石畳には車輪によって刻まれた二筋の轍がはっきりと残っています。2000年前の人々が確かにここを通っていたのだということが実感として感じられて、うれしくなってしまいます。

二筋の轍がくっきりと刻まれています。
2000年前の人々が確かにここを通っていたのです。

アーチ

 そして面白いのが岩をくり抜いたトンネルです。わずか3m程の区間だけ崖を削らずに残して、その中をくり抜いて道を通しているのです。中世には扉が付けられていたそうですから徴税のための関所として使われていたと思われますが、古代ローマ時代には往来は自由で関所はなかったはずです。一体なんのために設けられたのでしょうか。

ここだけ崖を削り残しています。

 凱旋門に見えなくもありません。アッピア街道のローマとナポリの中間辺りにあるテッラチーナにも、同じように崖を削って街道を通したところがあり、そこには崖を削って造った凱旋門があります。しかしテッラチーナのものは誰が見ても凱旋門という代物。ここドンナスのものは装飾も文字もなく、凱旋門にしては高さや幅に比べて奥行きが長すぎてバランスが取れていないようにも思え、凱旋門というには無理があります。

 ガリア方面から攻め込まれたときの防御施設だったのかもしれません。アルプスの向こうはガリアですし、そもそもアオスタ辺りがアウグストゥスの時代にようやく征服できた土地です。このルートかどうかは定かではありませんが、かつてカルタゴの将軍ハンニバルが象を連れてアルプスを越え、攻め込んできたこともあります。そう考えると防御のためというのもありそうです。

何のための構造物なのでしょうか。

マイルストーン

 アーチからアオスタ方向に100mほどのところにマイルストーンがあります。アッピア街道の第一マイルストーンと同じ円柱形ですが、後ろは崖と一体化しています。崖から円柱形の表側3/4だけを削り出したようです。

一見普通のマイルストーンのようです。
しかし後ろは崖とつながっています。
崖を削って円筒形にしたのです。

 円柱を造って置いた方が楽なような気もしますが、石があるからそのまま有効活用したということでしょうか。その場の状況に応じて臨機応変に柔軟にやった、とも言えますが、なんとなく適当に行き当たりばったりでやったようにも手を抜いているようにも思えます。でも頭を使っていることは確かです。譲れない理念はしっかりあるけれど、ちゃんと守るべきことが押さえられていれば、それ以外の部分は頭を使って柔軟に手を抜いたり楽したりする、というように私には思えます。ここでは高性能な舗装道路を造りマイルストーンを設置する、というのが絶対に譲れないところで、材料や造り方は二の次だったのではないでしょうか。古代ローマのこういう柔軟性、適当さが好きです。

 一番上には「XXXVI」と彫られているのがはっきり見えます。数字の36ですから、36マイル=53.3kmに当たります(1ローママイルは1.48km)。ここから50kmというとアオスタがそのくらいで、他に大きな都市が見当たりませんから、アオスタからの距離なのでしょう。

XXXVI=36マイルを示します。

 そもそもマイルストーンの数字ってどういう定義なのでしょう。今まで漠然とローマからの距離を書くのかと思っていました。でもそれだと数字が大きくなりすぎるので、それぞれの街道の起点からの距離でしょうか。起点というとローマに近い側かと思っていましたが、この数字がアオスタからの距離だとするとそれも違います。この街道の起点がアオスタだったのでしょうか。今後調べてみたいと思います。

ガリア街道?

 ここを通るのは、ポー平原の真ん中にあるプリチェンツァからガリアに抜ける街道です。

 プリチェンツァは古代にはプラケンティアという名で、二つの主要街道(エミリア街道とポストゥミア街道)が交差する交通の要衝でした。そこからメディオラヌム(現代のミラノ)を経て、イヴレーアという街からアオスタ渓谷に入ります。この街道跡があるのはそこから17kmほど渓谷に入ったところです。

 アオスタ渓谷を遡ってアルプス山脈を超えるルートには古くから道が通っていましたが、ローマ街道として整備されたのはアウグストゥスの時代以降と思われます。なぜならアオスタ周辺を征服したのはアウグストゥスだからで、それは紀元前25年のことです。この石畳やアーチ、それとすぐ東にあるローマ橋ポン・サン・マルタンもローマ街道整備の一環として造られたのでしょう。

 アオスタからは街道が2つに別れ、北にグラン・サン・ベルナール峠でスイスに、西にプチ・サン・ベルナール峠を超えてフランスに抜けています。アルプスを越えてガリアに至るローマ街道は、紀元前2世紀にポー平原の西のモンジュネーヴル峠を超えるドミティア街道が造られ、これがメインルートでした。しかしガリア北部(フランス)や東部(スイス、ドイツ)に行く場合にはアオスタ渓谷経由のこちらのルートの方が近道なので、この街道の整備後はガリア北部、東部へのメインルートになったと思われます。

 ところでこの街道は名前がわかりません。Wikipedia英語版をはじめ “Via delle Gallie” という名を載せているところがありますが、これは「ガリアの道」という意味のイタリア語です。単に道を説明しているだけのように思え、元々の名前かどうか微妙です。他には”Via Publica “(共和国街道?)や “Via Delle Gallie Consular”(ガリア執政官街道?)というのも見かけました。アッピア街道に始まるローマ街道には、建設したケンソルや属州総督などの名前がつけられることが多いのですが、そのような名前は見当たりませんでした。名無しなんでしょうか。それとも記録が残っていないだけなのでしょうか。重要な街道なのに不思議です。

行き方

 ドンナスにイタリア鉄道(トレニタリア)の駅があります。ローカル線で列車本数が少ないので時刻を確かめて行きましょう。

 高速道路がドラ・バルテア川沿いを走っていて、最寄りの出口は Pont Saint Martin です。一番近い大都市はミラノで車で1時間45分ほどです。トリノ からは1時間25分、アオスタからは1時間です。

 大きな駐車場があって、ドンナスの集落から西に700m程のところにあるロータリー(ラン・アバウト)から駐車場に降る分岐があります。

ロータリー(ラン・アバウト)から駐車場への分岐があります。
道路を潜った右手に古代ローマ街道跡があります。

 東3kmに古代ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont Saint Martin)があり、一緒に訪れるのがお勧めです。

東隣の村にある古代ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont Saint Martin)。

 アオスタ渓谷には古城が散在していますが、ドンナスのローマ街道跡から西に1.5kmのところにバール城砦(Forte di Bard)という岩山に聳える巨大な古城があります。

 城の西側の道路沿いに駐車場の入り口があり、3つの斜行エレベーターで上まで登れます。西に500m程のところには Hone Bard駅がありますが、ここは通過する列車もあるので要注意です。

バール城塞(Forte di Bard)。
バール城塞の斜行エレベーター。

 イベリア半島の西部を南北に走る街道、通称銀の道の中程に位置するサラマンカ。その南の入り口に当たるのがトルメス川に架けられたローマ橋です。





ローマ橋

 サラマンカのローマ橋は街の南側を流れるトルメス川に架かる橋で、全長は370mほどです。

橋の南のたもとから。大聖堂が見えます。

 26個のアーチからなりますが、ローマ時代のまま残っているのは街に近い北側の15個のアーチです。

街のある北側の15個のアーチが古代ローマ時代からそのまま残っているものです。
街の近くの橋の上。土台は古代ローマ時代からそのまま残っています。

 建造はトラヤヌス帝の時代とも言われますが、建築年代を示す文字や考古学的な証拠はなくはっきりしません。

 元は真ん中に要塞があって北と南に分かれていました。数多くのスペインの街を描いたAnton van den Wyngaerdeという人が、1570年にサラマンカのスケッチを残していますが、これに橋の中央の塔が描かれています。今の姿からはどの辺りに要塞があったのかは判然としません。

 1626年に起きたサン・ポリカルポの洪水で橋の南側が崩壊し、この後の修復で中央の塔と要塞が撤去されました。

街の対岸、南側は後に再建されたものです。

 20世紀初めまでは街に入る唯一の橋で、2本目の橋が建設されてからも車道として使われていましたが、1973年に新しい橋が建設されて歩道になりました。

今は歩行者専用です。

 ローマ橋の下のトルメス川は西進してポルトガル国境でルシタニア属州の北の境界線であるドゥエロ川に合流し、更に西に流れてポルトガルのポルトで大西洋に注ぎます。イベリア半島中央部はメセタと呼ばれる広大な大地が占めていて、全体として西に向かって傾斜しています。そのためトルメス川とドゥエロ川は西に向かって流れているのです。他にもトレドからルシタニア属州中央部を流れ、リスボンで大西洋に注ぐタホ川(ポルトガルではテージョ川)、メリダを流れるグアディアナ川、南部のコルドバやセビリアを流れるグアダルキビール川も東から西に流れています。

トルメス川。この水はポルトで大西洋に注ぎます。

サラマンカの歴史

 旧市街はトルメス川の北岸から坂道を登った高台にあります。南に川が流れる高台という守るのに適した地形なので、古くから街がありました。

ローマ橋から旧市街に建つ大聖堂を見上げたところ。

 橋の街側のたもとにある首が欠けた動物の石像がそのことを証明しています。これはイベリア半島で数多く出土している Verraco というイノシシの石像で、ローマ以前にルシタニアに住んでいたウェットーネース族(vetones)が残したものです。この像は記録にはたびたび登場しますが、いつからここにあるのかは不明です。今の位置に置かれたのは1993年だそうです。

ローマ橋の北のたもと近くに立つ Verraco というイノシシの石像。

  紀元前220年にサラマンカはイベリア半島に早くから進出していたカルタゴに征服されました。征服したのは第二次ポエニ戦争でローマを苦しめた将軍ハンニバルです。ローマも紀元前3世紀からイベリア半島に進出していましたが、イベリア半島全体に勢力を広げたのは3次に渡るポエニ戦争でカルタゴを破ってからです。サラマンカもポエニ戦争後にローマの支配下に入り、古代ローマ都市となりました。サラマンカの古代ローマ時代の名はサルマンティカ(Slmantica)です。

 残念ながら古代ローマの遺跡は橋以外には残っていません。

銀の道

 イベリア半島のちょうど真ん中辺りにスペインの首都マドリードがありますが、サラマンカはそこから西北西に170kmほどのところにある都市です。スペインの西の端で、ポルトガル国境まで100km程という位置にあります。13世紀にスペイン最古の大学が開校し、大学の街として有名です。

 古代からメリダとアストルガを結ぶ銀の道の中継点として非常に重要な役割を果たしていた、と多くの解説には書いてあります。

 銀の道はイベリア半島西部にある南のエメリタ・アウグスタ(現代のメリダ)と北のアストリカ・アウグスタ(現代のアストルガ)という大都市を結ぶローマ街道として造られたとされています。今でも高速道路が通っているこの区間に古代ローマ時代の街道があったであろうことは想像がつきます。

 エメリタ・アウグスタ(メリダ)はルシタニア属州の首都でした。ルシタニア属州はイベリア半島西部にアウグストゥスが置いた属州で、南北の広がりは大体中央の3分の1ほどの大西洋に面した地域です。エメリタ・アウグスタ(メリダ)はその南端にあり、ローマ本国と太いパイプで繋がっていました。アルプスを越えて南フランスを横断するドミティア街道、イベリア半島の南岸を走るアウグスタ街道、そしてその途中のヒスパリス(現代のセビリア)からアウグスタ街道の支線というルートです。

 一方アストリカ・アウグスタ(アストルガ)のあるイベリア半島北西部はアウグストゥスが征服した比較的新しい領土です。サラマンカを通る街道によってイベリア半島西部の中央から北部がローマと直結されることになりますから、この街道はこの地域の征服とその後の経営に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

 そして後にはアストルガの近くにラスメドゥラス金山がローマの下で操業を始めます。金の輸送にも使われることでこの道は商業的な役割を果たすことになりました。ラスメドゥラス金山はその枯渇がローマ滅亡の原因の一つと言われるほど重要なものでした。

 ただイベリア半島北西部はヒスパニア・タラコネンシスとして半島の東側と一つの属州にされていました。その州都タラコ(現代のタラゴナ)からカエサル・アウグスタ(現代のサラゴサ)を経て半島北部までエブロ川を遡り、そこから西に進んでアストリカ・アウグスタ(アストルガ)に至る街道もあります。同じ属州内を行くこちらの方がメインルートではないかとも思えるので、銀の道と呼ばれるルートとその中継点としてのサラマンカが当時どこまで重要なものだったのかは疑問があります。

 実は銀の道と呼ばれる街道の建設やその名前の起源は諸説あってわかっていないようです(Wikipediaスペイン語版)。銀の道が有名なのは巡礼路としてです。多くの人がメリダより南にあるセビリアからスタートし、アストルガを超えてサンティアゴ・デ・コンポステーラまでのルートを歩くのです。つまり「銀の道」というのは観光ルートとして売り出されたことで有名になったのではないでしょうか。

行き方

 マドリードからスペイン国鉄 Renfe の高速列車 Alvia で最速1時間36分です。

 私はレンタカーで首都マドリードのバハラス空港からセゴビア、アビラを経て夕方日が沈む直前にサラマンカに到着し、スペイン国営の宿泊施設であるパラドールに泊まりました。パラドールというと修道院や古城を修復したものが多いのですが、ここは新しい建物で普通のホテルという感じです。

 このパラドールはトルメス川の南岸から少し坂を登ったところにあります。部屋からトルメス川の北岸の高台にある旧市街に建つ大聖堂が見えました。

パラドールからトルメス川越しに朝の旧市街を望む。