港町オスティア〜オスティア・アンティカ遺跡(イタリア)

 オスティアはかつて首都ローマの港湾都市として栄えたところで、建物が豊富に残っています。特にモザイクはバラエティーに富んでいて見応え充分。私はポンペイよりオスティアの方がお気に入りです。





オスティア概要

 ローマ中心部を流れるテヴェレ川がティレニア海に注ぐ河口の近くにオスティア・アンティカ遺跡があります。ローマ中心のフォロ・ロマーノから南西方向に22kmほどのところです。

 古代の首都ローマに住む膨大な数の人々の生活を維持するために、領内各地から小麦やワイン、オリーブオイルなどの食料品を始めとする様々な生活必需品が大量に運び込まれました。また贅沢な欲求を満たすため、周辺地域や遠く中国やインド、アフリカなどから高級品や珍品も持ち込まれました。それらの産物の多くが船でオスティアまでやってきて、テヴェレ川を遡ってローマまで運ばれたのです。

 オスティア・アンティカ遺跡は今は海から4kmほど内陸にありますが、これはテヴェレ川が運ぶ土砂で海が埋め立てられたためで、古代には海辺の都市でした。

 街は城壁に囲まれ、その東側のローマ門にはローマから通じていたオスティエンセ街道(Via Ostiensis)がつながっていました。今の遺跡の入り口を入ってすぐのところです。

オスティアのローマ門につながるオスティエンセ街道。
オスティアの玄関口、ローマ門。

 ローマ門から、ローマ都市を東西に貫くデクマヌス・マクシムス通りが伸びています。通りは途中から南寄りに折れ、反対側の端にあるマリーナ門まで通じています。マリーナ門を出た先は海でした。

港湾都市ならではの施設、同業者組合広場

 港湾都市ならではの独特の施設が「同業組合広場」です。

 街の北西部、ローマ劇場の舞台の背後にフォロがあり、これをコの字型に61の小部屋が取り囲んでいます。この多くは船主の事務所と考えられています。部屋は4m四方の大きさで、入口は中央のフォロの方に開いています。そして部屋の手前の床には漫画チックでかわいらしいモザイク画が描かれています。その絵柄は取り扱っている物や、商人の故郷に因むものと言われています。

ローマ劇場の向こう側がフォロで、その周囲をコの字型に部屋が取り囲んでいるのが「同業組合広場」。

 一番多いのは魚や船ですが、それらの姿はバラエティーに富んでいます。

 海神のような絵柄もあります。航海の安全祈願でしょうか。

 底の尖った容器はアンフォラという陶器製の容器で、ワインやオリーブオイルの運搬に使われたものです。

 粉を挽く石臼は小麦を扱っていたということでしょうか。

 象の絵もあります。象か象牙を扱っていたのか、それとも故郷に象がいたのか。

 故郷の街を象徴する建造物を描いたと思われるものも。

 こちらは文字だけのもの。

 何かを作っているように見えます。

 上に描かれた人物像は誰なんでしょうか?

生活の跡

 オスティアには商人、船主、船乗り、倉庫を経営する者、たくさんの荷役労働者とそれらを仲介する者、そしてそれらの人々の生活を支える者が住んでいたはずです。その生活の匂いのするものがたくさん残されています。

 高層住宅インスラは数多く残っています。これはディアナの家と呼ばれるもので4〜5階建てだったそうです。
庶民の住宅インスラ

高層住宅インスラ。

 ディアナの家の近くに飲食店テルモポリウムがあります。店内にはカウンターがあり、壁にフレスコ画が掛かっています。フレスコ画には左側には器に載せられた豆のようなものと蕪、中央にはコップ、右側には壁に吊るされた食べ物か楽器のようなものが描かれています。観賞用の芸術作品とはとても思えません。看板のようなものでしょうか。

カウンターや中庭を備えた飲食店テルモポリウム。

 店の奥には中庭があり、このテラス席でも食事ができたようです。

奥にはテラス席。

 魚屋には大理石製の水槽と調理台が残され、床にはモザイク画が描かれています。

水槽と調理台を備えた魚屋。

 小麦を挽く石臼が残るパン屋。古代ローマ人はパンをパン屋で買っていたのです。
パンはパン屋で

石臼を備えたパン屋。

 これは水洗式の公衆便所。穴の空いたところが便器です。古代ローマ都市にはいくつもありました。

水洗式の公衆便所。

モザイク床

 モザイク床も数多く残っています。

 ネプチューン浴場は馬や神様の姿が躍動的で大迫力です。

ネプチューン浴場のモザイク。

 七賢人浴場は整腸の極意を表しているのだそうです。モザイク画というと芸術作品なのかと思ってしまいますが、こんなふうに情報を伝えるためのものもあるのですね。テルモポリウムの壁のフレスコ画もそうですが、現実的なところがローマらしい気がします。

七賢人浴場のモザイク。整腸の極意を表しているのだとか。
七賢人浴場のモザイク。

 名前が書かれている解放奴隷の邸宅の浴場もあります。しかしこの姿で何を訴えたいのでしょうか?

名前が書かれている解放奴隷の邸宅の浴場。

物流ルート

 1557年の洪水で川筋が変わってしまっていますが、かつては街の北側を直線的にテヴェレ川が流れていて、ここに港がありました。積荷はここで平底船に積み替えられ、櫂で漕いだり川岸から牛に曳かせてテヴェレ川を遡りローマに運ばれたといいます。

 テヴェレ川に沿って牛が歩く曳舟道がローマまで続いていたはずですが、今の地図や衛星写真を見ると道は途切れ途切れです。川筋が変わったり、使われなくなって道が埋もれたりしたのでしょう。

 ローマで積み荷を降ろした場所は初めはフォロ・ボアリウムでした。真実の口から道を挟んだところにある広場です。後にここは手狭になり、紀元前2世紀に少し下流のアヴェンティーノの丘の南側のりーパ港に移されました。

 その近くには使用済みのアンフォラの破片が廃棄されて高さ45m、周囲1kmもの山になったモンテ・テスタッチョ(Monte Testaccio)があります。

 ちょうどこの記事を書いている最中の2019年12月18日、ギリシャ西部の沖でアンフォラ6000個を積んだ古代ローマ時代の沈没船が見つかったというニュースがありました。おそらくオスティアに入港するはずだった船と、モンテ・テスタッチョに捨てられるはずだったアンフォラです。1隻で何千個も積んでいるのですから大きな山になるわけです。

新しい港湾施設ポルトゥス

 オスティアに隣接していた港はテヴェレ川が運ぶ土砂が堆積したため、4代皇帝クラウディウスがテヴェレ川の北岸にポルトゥス(Portus)と呼ばれる新しい港を造り、さらにトラヤヌスは六角形の大規模な港湾施設を造ったため、港の機能はそちらに移りました。

 トラヤヌス港の周囲にも遺跡が残っているらしいのですが、あるのは倉庫や船溜りなどの港湾施設で、住宅などはないようです。オスティアはポルトゥスが造られた後も人口が増えていったようで、人が住む街の機能は引き続きオスティアにあったのでしょう。その証拠に人口がピークを迎えるのも2世紀のことです。

 クラウディウスが新しく造ったポルトゥス港は海との間が2本の堤防で仕切られ、堤防の間の島に灯台がありました。この島はエジプトからネロ競技場に置くためのオベリスクを運んだ船を沈めて造ったそうです。そのオベリスクは今サン・ピエトロ広場の真ん中に建っているものです。

 ポルトゥスの辺りは今では陸になり、北側には現代のローマの玄関口であるフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)があります。

 トラヤヌスが造った六角形の港湾施設は、Googleマップの航空写真で見ると見事に形を留めています。レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の南側から離着陸すれば見えそうなのですが、残念ながらそのルートを飛んだことがありません。空港とローマ中心のテルミニ駅を結ぶ急行列車レオナルド・エクスプレスが空港を出てすぐ左にカーブする辺りでトラヤヌス港をかすめて走るので、2018年にローマを訪れたときには車窓からトラヤヌス港が見えないか目を凝らして見てみたのですが、間に木があって全く見えませんでした。

ローマとオスティアを結ぶ道

 ローマとオスティアを結ぶオスティエンセ街道のローマ側の起点はアヴェンティーノの丘の南東にあるセルウィウス城壁の Porta Raudusculana で、他に丘の南の Porta Lavernalis、フォロ・ボアリウムの近くのトリゲミナ門(Porta Trigemina)を出た道もオスティエンセ街道に合流していました。3世紀にアウレリアヌス城壁ができるとオスティエンセ門(Porta Ostiensis)から市外に出るようになりました。これは現在サン・パオロ門(Porta San Paolo)と呼ばれている門です。

 ポルトゥスが造られるとテヴェレ川の右岸に沿ってローマとポルトゥスを直線的に結ぶポルトゥエンセ通り(Via Portuensis)が敷かれ、後にはこちらがメインルートとなりました。ポルトゥエンセ通りの起点はアエミリウス橋(Pons Aemilius)です。この橋は今は残骸しか残っておらず、ポンテ・ロット(Ponte Rotto)、壊れた橋と呼ばれています。

行き方

 ローマ市街地の南部にあるローマ・ポルタ・サン・パオロ(Roma Porta S. Paolo) 駅からローマ=リード線で30分ほどのオスティア・アンティカ(Ostia Antica)駅で降り、徒歩10分で入り口に着きます。

 ローマ・ポルタ・サン・パオロ駅に行くにはテルミニ駅を通る地下鉄B線に乗ってピラミデ駅(Piramide)で降ります。駅名が違いますが地下鉄から地上に登るとすぐ左側に隣接してホームがあります。外から見ると、規模は小さいのですがターミナル駅らしい立派な駅舎です。

ピラミデ〜古代ローマはエジプトかぶれ(イタリア)

 ローマ=リード線は地下鉄と同じ ATAC の運営で、キップも共通です。

ローマ・ポルタ・サン・パオロ(Roma Porta S. Paolo) 駅。

 ローマ=リード線の沿線は生活感が強く感じられる路線で、乗っている人は皆、いかにも地元の人という感じです。最初はちょっと薄汚れて落書きだらけの建物が並び、しばらく走ると、きれいな高層マンションが立ち並ぶニュータウンのようなところを通ります。

 オスティア・アンティカ駅は閑散とした郊外の駅という感じ。私が2008年に訪れたときは電車を降りたのは10人ほどで、いずれも地元の人のようでした。

オスティア・アンティカ駅のホーム。
列車が行ってしまうと人気がなくなりました。

 閑散とした駅前には重要な遺跡が近くにありそうな雰囲気は皆無。

オスティア・アンティカ駅の外観。
閑散としていて観光地の雰囲気は皆無。

 何か案内はないかと辺りを見て回り、ようやく道路にかかる歩道橋の手前に落書きだらけの看板を見つけました。

 看板に従い、歩道橋を渡ってまっすぐ進むと200mほどで突き当り、左に進むとオスティア遺跡の入場口がありました。

オスティア・アンティカ駅前の様子。
正面の歩道橋を渡って真っすぐ進み、突き当りを左に行きます。
この先が遺跡の入口。

 入り口には人がたくさんいました。バスや車で来る人がほとんどのようです。平日のせいか、先生に率いられた中学生か高校生の集団の姿もあってにぎやかでした。

 ここで入場料を支払って遺跡に入ります。

オスティア・アンティカの入口。

 ローマ=リード線の電車は落書きのない新型と、落書きだらけの旧型があります。行きは新型できれいだったのですが、帰りに来たのは落書きだらけの旧型で、乗るのをためらうほどでした。

落書きで埋め尽くされた電車。乗るのをためらってしまいます。
車内も落書きだらけ。
ちょっと不良っぽい中学生くらいの3人組が乗っていて音楽をかけて粋がっていたのですが、途中駅で降りた跡の座席にはみかんの皮が残されていました。不良の行動も日本とは違っています。

参考文献

ローマ古代散歩 小森谷慶子・小森谷賢治 とんぼの本(新潮社)

古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活 アルベルト・アンジェラ (著)、関口 英子 (翻訳))(河出書房新社)

平成22年度日本大学文理学部資料館展示会 古代ローマの港町オスティア 日本大学文理学部資料館

2010年国際シンポジウム:『オスティアとポンペイ:遺跡保存の現況と古代ローマ港湾都市研究の最前線』
河と海の間の港町オスティア マルコ・サンジョルジョ(高久 充 訳)

Posted by roma-fan