アウレリアヌス城壁〜ローマ衰退の象徴(イタリア)

 ローマを取り囲むアウレリアヌス城壁は、今もローマの街のあちこちに痕跡を留めています。しかし帝政前半のパクス・ロマーナの時代のローマには城壁がありませんでした。3世紀にローマ帝国の国力が弱まって異民族の侵入を許すようになり、異民族から首都ローマを守るために建設されたのがこの城壁で、いわばローマ衰退の象徴とも言えます。


アウレリアヌス城壁とローマの衰退

 王政から共和制の時代のローマは、紀元前6世紀に第6代の王セルウィウス・トゥッリウスが築いたセルウィウス城壁に囲まれていました。帝政になるころには城壁を越えて市街地が広がっていましたが、新たな城壁が築かれることはなく、ローマは事実上城壁のない都市でした。これはローマ帝国が安定した政治体制の下、国境に置かれた軍団が鉄壁の守りを固めていて、都市ローマが攻められる可能性など考えられなかったためです。

 しかし3世紀になると地球全体の寒冷化が始まり、北方の異民族が食料不足を補うためローマ領内に侵入してくるようになりました。ローマ自体も農業生産力が落ちて社会が不安定になり、物理的な力を持つ軍人が皇帝の地位を占めるようになったほか、各地で皇帝を私称する軍人も現れ、防御力が弱体化しました。271年にはゲルマン人のひとつであるアレマンニ(アレマン人)がピアチェンツァの近くでアウレリアヌスが率いるローマ軍を破り、ローマに向かって移動するという事態が起きました。幸いこのときアレマンニはアドリア海に面したファーノで撃退されてローマに到達することはありませんでしたが、これをきっかけに都市ローマが異民族に攻撃されることに備えて建設されたのがアウレリアヌス城壁です。

 アウレリアヌス城壁は既存の建造物を城壁の一部として利用しているところが数多くあります。これは財政状況が厳しく、しかも危機は迫っていて短時間で造らなければならなかったためでしょう。レンガも既存の建物を取り壊して再利用したようです。かつての名誉を重んじるローマ人だったらこんなことは絶対にしなかった気がしますが、その甲斐あって5年で完成しました。

 4世紀初め、皇帝マクセンティウスは一部の城壁を2倍の高さにし、城門を改良しました。マクセンティウスはフォロ・ロマーノの南側に今も巨大な姿を残しているバシリカや、アッピア街道沿いの競技場など、他にもローマに巨大な建築物を造っています。

 401年、皇帝ホノリウスのときにも城壁と城門が改良されています。この年は西ゴート族がアラリックに率いられてイタリアに侵入した年です。このときテベレ川西岸のハドリアヌス廟、現在のサンタンジェロ城が防御ラインに組み込まれました。皇帝ホノリウス自身は最初はメディオラヌム(今のミラノ)、後にラヴェンナを拠点としていて、ローマにはいませんでした。

 410年には城壁建設、改修の甲斐なく、アラリック率いる東ゴート族がローマ市内に入り、3日間に渡ってローマは略奪されました。アウグストゥス廟の遺灰壺が破壊されたのはこのときのことです。

 いわゆる西ローマ帝国の滅亡後もイタリア半島は強力な支配勢力がなくて不安定な状態が長く続き、都市ローマが様々な勢力の攻撃にさらされる危機は何度も訪れました。ローマの支配者となったローマ教皇もアウレリアヌス城壁を補修して活用し続け、そのため今も城壁は多くの部分が残っています。

 ここでは実際に見た3箇所を紹介します。

実際に見た3箇所。

オスティエンセ門からアッピア門まで

 アウレリアヌス城壁を初めてみたのは、初めてローマを訪れた2007年3月、地下鉄B線のピラミデ(Piramide)駅前でした。同じ場所にあるローマ・ポルタ・サン・パオロ駅からローマ=リード線でオスティア遺跡に行った帰り、ここから東に2つ先のアッピア門(サン・セバスティアーノ門)まで歩きました。



 駅舎から外に出ると、駅前広場の向こう側にこぶりなピラミッドが建っています。 ピラミデ(Piramide)はイタリア語でピラミッドのことです。このピラミッドは紀元前12年頃に造られたガイウス・ケスティウス・エプロという貴族の墓です。このピラミッドの左側に、南西の方角から伸びてきた5mくらいの高さの茶色いレンガ積みの壁が接続されています。この壁がアウレリアヌス城壁です。工事を節約するために、紀元前に造られたピラミッド型の墓を城壁の一部として利用したのです。

貴族の墓であるピラミデ。左側につながっているのがアウレリアヌス城壁で、建設を節約するためにこの墓を壁の一部として利用しています。

 先にも書いたとおりアウレリアヌス城壁の高さは当初8m、マクセンティウスが一部を倍の16mにしましたが、この辺りの壁の高さは5〜6mです。ピラミデの周囲が彫り込まれているのを見ると当時の地表面は2mくらい下にあったようなので実際の高さは8mくらいで、当初造られたままと思われます。

 北側にも壁が接続されていて、これはすぐ脇にある道路で断ち切られていますが、道路の向こう側に続きがあり、直角方向を向いた城門に接続されています。港湾都市オスティアとの間を結ぶオスティエンセ街道を通すためのオスティエンセ門(Porta Ostiensis)です。現在は2km先の街道沿いにあるサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂にちなんでサン・パオロ門(Porta San Paolo)呼ばれています。市外の側に2つの半円形の塔があり、壁は内と外と二重になっているそうですが、このときは遠くから見ただけで構造は確認しませんでした。

ピラミデのすぐ北側にオスティエンセ門(Porta Ostiensis)【現在のサン・パオロ門(Porta San Paolo)】があります。

 オスティエンセ門の東側は道路で城壁がなくなっていますが、道路の向こう側から東にずっと城壁が残っています。東に伸びる城壁の北側は住宅地で、静かな上り坂の道が城壁に沿って続いています。ここはローマ7丘の一つ、アヴェンティーノの丘です。アヴェンティーノの丘は間に谷間があって2つに分かれており、ここは東側にある小アヴェンティーノの丘の南端部分です。

城壁の北側に沿って静かな上り坂の道が続いています。
城壁が通るのはる小アヴェンティーノの丘の南端部分で、丘の上は静かな住宅地です。

 城壁は3〜4mほどしかありません。丘の南端にあるので、丘の上である北側からみると低く見えます。南側、つまり市街の外側である丘の下から見ると8mくらいありそうです。

 城壁はやがて左にカーブし、サン・パオロ門から600mのところで直角に右に折れます。その先は南西に向かって下っていきます。

 右に折れてすぐのところで道路が城門の下を潜っています。古代にここには城門はなかったので、のちの時代に造られた入り口でしょう。住民にとっては城壁の存在は不便なものでしょうね。

小アヴェンティーノの丘の上で城壁を通り抜ける道路。

 900mほどで丘を下りきり、そこにアルデアティーナ門(Porta Ardeatina)があります。4つのアーチの下をカラカラ浴場の方から下ってきた大通りが通り抜けています。城門のような構造があるわけではなく、壁にアーチ側の穴が開けられて道路が通っているだけですが、ここはもともと城門があったところです。最初からこのような造りだったのか、当初の構造物が失われてこうなったのかはわかりません。

アルデアティーナ門(Porta Ardeatina)。カラカラ浴場の方から下ってきた大通りが通り抜けます。

 アルデアティーナ門から城壁の南側に沿う道路を東に向かいます。左側に城壁が高く聳え立っています。マクセンティウスが高さを2倍にした部分でしょうか。

アルデアティーナ門(Porta Ardeatina)とアッピア門(Porta Appia)【現在のサン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)】の間の城壁。高く聳え立っています。

 400mほどでアッピア門(Porta Appia)です。アッピア門(Porta Appia)は最初のローマ街道で「街道の女王」と言われるアッピア街道を通すための門です。現在は2km先にあるサン・セバスティアーノ教会(San Sebastiano fuori le mura)にちなんでサン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)と呼ばれています。これも2つの塔がある立派な城門です。下の部分は後に補強されたようで、塔の部分も四角い形になっています。

 城門の内部は城壁博物館(Museo delle Mura)になっていて、城壁や城門の中を見ることができます。

アッピア門(Porta Appia)【現在のサン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)】。内部は城壁博物館として公開されています。
城門の屋上から歩いてきた西側を見たところ。

 城門から100mほど南にはアッピア街道の1マイル地点を示すマイル・ストーンが建っています。マイル・ストーンの本物はミケランジェロがカンピドリオ広場に持っていってしまい、ここにあるのは複製です。1ローママイルは約1.6kmです。アッピア街道のもともとの起点は、王政ローマの頃に築かれたセルウィウス城壁のカペーナ門で、これはチルコ・マッシモのすぐ南側にありました。

アッピア街道の第1マイル・ストーン。サン・セバスティアーノ門(Porta San Sebastiano)から100mほどのところにあります。




ラテラノ大聖堂付近

 2018年、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂を訪れたあと、その脇を通る大通りを南東側に下っていくとアウレリアヌス城壁が横たわっていました。

 城壁はアッピア門(サン・セバスティアーノ門)の東で北に向きを変え、メトロニア門から再び東に伸びてこの場所に伸びてきています。

 ラテラノ大聖堂から下ってきた道は、城壁に開けられた穴の中を通過しています。真ん中に白くて装飾のあるいかにも「門」というところがあります。これはサン・ジョヴァンニ門(Porta S. Giovanni)で、16世紀に造られたものです。大聖堂にちなんで名付けられました、

ラテラノ大聖堂から南東に坂を下ったところを通るアウレリアヌス城壁。
中央にあるサン・ジョヴァンニ門(Porta S. Giovanni)。

 その両側にはかまぼこ型の穴が東に4個、西に3個、更に西側には四角くて高さが他のものと比べて極端に低い穴が空いています。サン・ジョヴァンニ門と、かまぼこ型の穴のうち東端を除く6個の下を、合わせて7つの車線が通過しています。一番東側のかまぼこ型の穴と、西側の小さな四角い穴は歩道です。

 すぐ西に城壁建設時に造られたアジナリア門(Porta Asinaria)があるのですが、2018年に訪れたときには存在を知らず見逃してしまいました。半円形の塔を両脇に備えた門で、これは古代の姿をよく残しているといいます。ここを通るのはアジナリア街道ですが、街道のルートははっきりしません。サン・ジョヴァンニ門ができてこちらは閉鎖されました。

マッジョーレ門周辺

 これも2018年のことですが、マッジョーレ門を水道橋見物を目的として訪れました。

 テルミニ駅の南にあるマッジョーレ門は、プラエネスティーナ街道とラビカナ街道がクラウディア水道と新アニオ水道を載せた水道橋の下を通り抜けるための門です。この水道橋と門がそのままアウレリアヌス城壁に転用されています。

 サン・ジョヴァンニ門から東に伸びる城壁は、南東の方角から来るクラウディア水道+新アニオ水道の水道橋に接続され、そこからマッジョーレ門まで500mに渡って水道橋をそのまま城壁としています。接続部分のすぐ手前ではカストレンセ円形闘技場の外壁の一部も城壁に転用されています。

マッジョーレ門。もともとあったクラウディア水道と新アニオ水道水道橋に開けられた門で、プラエネスティーナ街道とラビカナ街道が通ります。
南東方向からマッジョーレ門に向かう部分。

 マッジョーレ門の先でクラウディア水道+新アニオ水道の水道橋は直角に北に折れますが、すぐその先にあったマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の3段重ねの水道橋を城壁の続きとしています。このマルキア水道だった部分はイタリア鉄道の線路の向こう側に続いていています。

マッジョーレ門の東側はマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の3段重ねの水道橋を城壁に転用しています
マルキア水道+テプラ水道+ユリア水道を転用したアウレリアヌス城壁は線路を超えて続いています。

 テルミニ駅の東、マッジョーレ門から800mあたりにティブルティーナ街道を通すためのティブルティーナ門(Porta Tiburtina)があります。これもマッジョーレ門同様、もともと水道橋にあった門です。ティブルティーナ街道はティボリとの間を結ぶ街道で、後にはアドリア海沿いのオスティア・アテルニ(現在のペスカーラ)まで延長されました。ティボリの郊外には多くの貴族が別荘を作りましたが、皇帝ハドリアヌスの別荘が今も遺跡として残っています。

 ティブルティーナ門から北は水道橋とは別ルートで新たに建設されたようです。その間約1.3kmの距離を新たに建設することなく、水道橋を転用することで済ませているわけです。



その他の箇所

 マルキア水道から離れた城壁は、テルミニ駅の北東にあるローマ国立中央図書館をコの字型取り囲むように走っています。図書館の場所には皇帝の親衛隊(プラエトリアニ)の兵舎(カストラ・プラエトリア)がありました。アウレリアヌス城壁はこの兵舎の外壁を利用しています。

 城壁は兵舎(カストラ・プラエトリア)から北西にテベレ川方面に伸び、現在のポポロ広場のすぐ北を通ります。

 途中のサラリア門は410年のローマ略奪の際、アラリック率いる東ゴート族がローマに侵入したところです。この門は残っていません。

 現在のポポロ広場の北にはフラミニア門(orta Flaminia)がありました。アドリア海沿いのリミニとの間を結ぶフラミニア街道を通すための門です。現在この場所にあるのは16世紀に建て替えられたもので、ポポロ門と呼ばれています。2018年、ここも存在を知らず見逃しました。

 城壁はそこからしばらくテベレ川の東岸沿いを南下しますが、遺物は残っていません。

ウンベルト1世橋から下流方面を見たところ。左岸をアウレリアヌス城壁が通っていました。正面の橋はサンタンジェロ城の正面にあるサンタンジェロ橋、右手の尖塔はサン・ピエトロ大聖堂。

 ハドリアヌス霊廟(現在のサンタンジェロ城)の正面にあるアエリウス橋(現在のサンタンジェロ橋)の東のたもとにはコルネリア門(Porta Cornelia)、またはアウレリア=サンクティ・ペトゥリ門 (Porta Aurelia-Sancti Petri)と呼ばれる城門がありました。皇帝ホノリウスがハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)を城壁に組み込んだというのは、サンタンジェロ城の周囲を取り囲む城壁を築いて防御ラインとしたということでしょう。そのときの姿がどのようだったのかは、その後も何度となく改修されているのではっきりしません。

ハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)とアエリウス橋(現在のサンタンジェロ橋)。

 ティベリーナ島の上流に架かるシスト橋から、下流のエンポリウムと呼ばれる港があったあたりまで、テベレ川が東のフォロ・ロマーノの方向に大きく屈曲しています。アウレリアヌス城壁はここでは対岸のトランス・テベレ地区を囲っていました。

 北のセプティミアーナ門(Porta Settimiana)、中央のアウレリア門(サン・パンクラツィオ門)、南のポルテーぜ門(Porta Portese)が残っていますが、いずれも再建されたものです。

行き方

オスティエンセ門(サン・パオロ門)

 地下鉄B線ピラミデ(Piramide)駅、イタリア鉄道(旧国鉄)ローマ・オスティエンセ(Roma Ostiense)駅、ローマ・リード線ポルタ・サン・パオロ(Porta S. Paolo)駅下車。

アッピア門(サン・セバスティアーノ門)

 バス停 Porta S. Sebastiano下車。中心地の主要観光地から118番バスあり。

アジナリア門、サン・ジョヴァンニ門

 地下鉄A線サン・ジョヴァンニ (San Giovanni)駅下車。

マッジョーレ門

 バス停、路面電車駅の P.Za Di Porta Maggiore下車。

参考文献

  • ローマ古代散歩(小森谷慶子・賢二) とんぼの本・新潮社
  • パラーディオのローマ 古代遺跡・教会案内(ヴォーン・ハート・ピーター・ヒックス編、桑木野幸司訳、白水社)
  • 皇帝たちの都ローマ(青柳正親著) 中公新書
  • Wikipedia(日本語版、英語版、イタリア語版)
  • 城壁博物館(Museo delle Mura)公式サイト

更新履歴

  • 2021/4/24 新規投稿

Posted by roma-fan