地味だけれど重要な地フォルム・ボアリウム[フォロ・ボアリオ]−首都ローマの商業の中心(イタリア)

 首都ローマの超有名観光スポットでいつも行列ができている真実の口から道を挟んだ向かい側に、人もまばらな広場があります。丸と四角の二つの神殿が建つこの場所はフォルム・ボアリウムといい、共和制のころから商業の中心として賑わい続けた場所でした。


フォルム・ボアリウムの場所

 ティベリーナ島下流のテベレ川東岸に小さな公園があり、丸と四角の2つの神殿が建っています。これがフォルム・ボアリウムです。ここは北をカピトリーノの丘、東をパラティーノの丘、南をアヴェンティーノの丘に囲まれたテベレ河畔の平地で、古くから商業の中心として栄えたところでした。

 公園の東側を通るのは、ヴェネティア広場からカンピドリオ広場の大階段の下を抜けマルケッルス劇場の脇を下る大通りです。大通りの向かい側にはサンタ・マリア・イン・コスメディン教会があって、ちょうどその道路沿いにある真実の口にはいつも行列ができています。それに対してフォルム・ボアリウムは閑散としています。

2つの神殿

 フォルム・ボアリウム内には丸と四角の2つの神殿があります。道路寄りにある噴水はトリトンの噴水といい18世紀に造られたものです。

 南側の丸い神殿はエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿、勝利者ヘラクレス神殿) で、紀元前2世紀に建てられたと言われています。オリーブ油商が勝利神ヘラクレスに献じたともされますが、本当の目的はわかっていません。

 周囲には大理石のコリント式の柱が等間隔に20本あります。柱のうち19本が古代のまま残っています。

エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿(ヘラクレス・ウィクトール神殿、勝利者ヘラクレス神殿)。
エルコレ・ヴィンチィトーレ神殿の大理石のコリント式柱。

 元は柱の上に帯状のアーキトレーブという装飾帯があり、その上にドーム型の屋根が乗っていたと考えられています。しかし周囲を柱が囲む円形の神殿で残っているものはなく、元の姿が想像できません。南仏にあるアルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)は上段が円形です。屋根がドーム型ではありませんが、雰囲気はこの復元模型の上段部分のような感じだったのかもしれません。

アルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)。南仏ニースの近くにあります。


 この神殿はローマに残る最も古い大理石建築です。失われたものもあるでしょうが、後の初代皇帝アウグストゥス(在位は紀元前27年〜紀元14年)が「煉瓦の街を受けついで大理石の街を残した」と言っているくらいですから、紀元前2世紀当時、大理石建築は相当珍しいものだったはずです。大理石は当時はイタリア半島外部から輸入される貴重品だったので、このことはこの神殿の重要性を物語っています。

 道路の向かい側にある、みんなが料金を払ってまで手を突っ込んでありがたがっている真実の口は、実はこのヘラクレス・ヴィクトール神殿の排水口の蓋だったと言われています。神殿のドーム型屋根の中央にはパンテオンと同じように丸い穴が空いていて、そこから雨水が入ったのでこれを排水するためとか、牛商人が生贄に捧げた牛の血を排水するため、といった説があります。13世紀に取り外されて教会の壁に付けられ、17世紀に今の場所に移されました。

真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

 北側にある四角い神殿はポルトゥヌス神殿(フォルトゥーナ・ヴィリーレ神殿)で、紀元前4世紀から3世紀に建設された後、何度か再建されています。港の神ポルトゥヌスに捧げられた神殿という説が有力です。

ポルトゥヌス神殿。
ポルトゥヌス神殿は北が正面。
背後に見える塔は真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会。

牛市場から商業の中心へ

 フォルム・ボアリウムは牛市場という意味で、かつて王政時代というので紀元前6世紀以前に牛市場があったためにこう呼ばれていたといいます。

 古い時代からここは南北に走る街道と東西に走る街道とが交差する地点で、ティレニア海と内陸の都市を結ぶ交通の要衝でした。そしてローマが共和政になる紀元前6世紀にこの広場のテベレ河畔に Portus Tiberinus という港が建設されました。

 ローマという都市は内陸にあり、テベレ川は物資を運び入れる重要なルートでした。テベレ川の河口はローマから南西に直線距離で23kmのところにあり、ここにオスティアという港湾都市がありました。オスティアは7世紀後半に建設されたと神話では言っているので、Portus Tiberinus が建設されたのと時期は近く、おそらく両者は一体で整備されたのではないでしょうか。現在の河口はテベレ川が運ぶ土砂に埋め立てられて古代のオスティアから5km近く先に移動してしまいましたが、今でも古代オスティアは見事な遺跡として姿を留めています。



 地中海を通ってオスティアに船で運ばれてきた物資はオスティアで平底船に積み替えられ、テベレ川を河畔から牛か奴隷に引かれて遡り、フォルム・ボアリウムの川原で荷揚げされました。広場には荷物を保管するための倉庫群が建てられていたといいます。

 都市ローマを取り囲んでいたセルウィウス城壁はフォルム・ボアリウム東側の現在の道路の辺りを通っていたので、フォルム・ボアリウムは城壁の外です。この場所は都市ローマと外界とを結ぶ結節点でした。またフォルム・ボアリウムと対岸のトラステベレ地区はアエミリウス橋で結ばれ、共に外国人の居留地でした。

 アエミリウス橋は2世紀に建設されたローマで最初の石橋で、このことからこのルートの重要性がわかります。1887年に取り壊されて同じ場所にパラティーノ橋が架けられましたが、上流側に橋の残骸が残っていて、ポンテ・ロット、壊れた橋と呼ばれています。

今ポンテ・ロット、壊れた橋と呼ばれている橋。
フォルム・ボアリウムと対岸のトラステベレ地区を結ぶアエミリウス橋でローマ発の石橋です。

 フォルム・ボアリウムは商業の中心であると同時に聖域でもありました。

 ローマ建国以前、真実の口があるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の場所にヘラクレスを祀る大祭壇がありました。ヘラクレスがアヴェンティーノの丘に住む牛泥棒のカークスを退治してくれたとされていて、牛飼いたちが信奉していたといいます。

 15世紀にヘラクレス祭壇の遺構から発見された鍍金を施した青銅のヘラクレス像がカピトリーノ美術館に展示されています。右手に混紡を握り、左手に黄金の林檎を持つ高さ2.4mの黄金の像です。共和制のころのローマ人たちが拝んでいる姿を想像してこの像を見るとワクワクします。

ヘラクレスの祭壇跡から発掘されたヘラクレス像。現在カピトリーノ美術館にあります。
カピトリーノ美術館 / CC BY-SA

 そして紀元前4世紀から3世紀にポルトゥヌス神殿、紀元前2世紀にエルコレ・ヴィンチィトーレ神殿が建てられます。この2つは共に教会に転用され、そのおかげで今も残っています。

フォロ・ロマーノとフォルム・ボアリウム

 港が建設された紀元前6世紀といえば、大排水溝クロマカマクシマが建設され、沼地から乾いた土地となった窪地にフォロ・ロマーノの建設が始まった頃です。

 クロアカ・マクシマは今のフォロ・ロマーノからカピトリーノの丘とパラティーノの丘の間を抜け、フォルム・ボアリウムの下を通ってパラティーノ橋の横でテベレ川に注いでいます。クロアカ・マクシマができる以前、雨水はフォロ・ロマーノから同じルートを通ってテベレ川に注いでいたはずです。フォルム・ボアリウムの辺りでテベレ川は東に大きく屈曲していますから、フォルム・ボアリウムのある場所は水はけが悪い湿地帯で、川が増水すれば水浸しになる場所だったことでしょう。

 クロアカ・マクシマの建設によって政治の中心フォロ・ロマーノ、商業の中心フォルム・ボアリウム、両方の建設が可能になったのです。

 カエサルなどの有名人が縦横に活躍するフォロ・ロマーノに比べるとフォルム・ボアリウムは地味で印象が薄いのですが、この二つはローマの繁栄を支える政治と経済の中心としてその重要性は並ぶものだったはずです。

港の移転

 やがて Portus Tiberinus が手狭になり、紀元前193年に港の移転が決まりました。移転先はフォルム・ボアリウムより下流、アヴェンティーノの丘の南にあるエンポリウムです。

 紀元前201年に第二次ポエニ戦争が終わりってイベリア半島の領土が拡大し、平和になって消費が増えたこととが相まって各地からの物資の流入が飛躍的に増えたものと思われます。

 その後この場所には集合住宅インスラなども増えていきましたが、引き続き商業地、聖域としても栄え続けたようです。

 帝政期に入るころにはフォルム・ボアリウムの東にあって市内との間を隔てていたセルウィウス城壁はもはや意味がなくなっていましたから、東のカピトリーノの丘の麓までが一つの広場となっていたでしょう。そのカピトリーノの丘の麓にはヤヌス門、別名ジアノ凱旋門があります。4世紀初めに既存の建物の部材を寄せ集めて造られた4面の門です。この建物の目的はわかっていませんが、市場の境界を表す門とか商人の避難所といった説があるそうで、広場の商業活動と一体だった可能性があります。クロアカ・マクシマはちょうどこの門の下を通っています。

行き方

 フォロ・ロマーノの西、真実の口から道路を挟んだ反対側ですが、意外と行きにくい場所です。

 Bocca Della Verita’(真実の口)というバス停が広場の脇にあります。

 歩くならヴェネティア広場、カンピドリオ広場の大階段の下、マルケッルス劇場のいずれかから大通りを道なりに下っていけばたどり着きます。カンピドリオ広場の大階段の下から1.3kmほどです。

 私が訪れたのは南側のチルコ・マッシモからで、ここからパラティーノ橋で対岸に渡ってティベリーナ島に行きました。



 入場料は必要なく、自由に広場に入り二つの神殿を間近から見ることができます。神殿内部に入ることはできません。

参考文献

  • ローマ古代散歩(小森谷慶子・賢二) とんぼの本・新潮社
  • パラーディオのローマ 古代遺跡・教会案内(ヴォーン・ハート・ピーター・ヒックス編、桑木野幸司訳、白水社)
  • Wikipedia(日本語版、英語版、フランス語版)

更新履歴

  • 2020/9/12 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

Posted by roma-fan