イベリア半島の西部を南北に走る街道、通称銀の道の中程に位置するサラマンカ。その南の入り口に当たるのがトルメス川に架けられたローマ橋です。





ローマ橋

 サラマンカのローマ橋は街の南側を流れるトルメス川に架かる橋で、全長は370mほどです。

橋の南のたもとから。大聖堂が見えます。

 26個のアーチからなりますが、ローマ時代のまま残っているのは街に近い北側の15個のアーチです。

街のある北側の15個のアーチが古代ローマ時代からそのまま残っているものです。
街の近くの橋の上。土台は古代ローマ時代からそのまま残っています。

 建造はトラヤヌス帝の時代とも言われますが、建築年代を示す文字や考古学的な証拠はなくはっきりしません。

 元は真ん中に要塞があって北と南に分かれていました。数多くのスペインの街を描いたAnton van den Wyngaerdeという人が、1570年にサラマンカのスケッチを残していますが、これに橋の中央の塔が描かれています。今の姿からはどの辺りに要塞があったのかは判然としません。

 1626年に起きたサン・ポリカルポの洪水で橋の南側が崩壊し、この後の修復で中央の塔と要塞が撤去されました。

街の対岸、南側は後に再建されたものです。

 20世紀初めまでは街に入る唯一の橋で、2本目の橋が建設されてからも車道として使われていましたが、1973年に新しい橋が建設されて歩道になりました。

今は歩行者専用です。

 ローマ橋の下のトルメス川は西進してポルトガル国境でルシタニア属州の北の境界線であるドゥエロ川に合流し、更に西に流れてポルトガルのポルトで大西洋に注ぎます。イベリア半島中央部はメセタと呼ばれる広大な大地が占めていて、全体として西に向かって傾斜しています。そのためトルメス川とドゥエロ川は西に向かって流れているのです。他にもトレドからルシタニア属州中央部を流れ、リスボンで大西洋に注ぐタホ川(ポルトガルではテージョ川)、メリダを流れるグアディアナ川、南部のコルドバやセビリアを流れるグアダルキビール川も東から西に流れています。

トルメス川。この水はポルトで大西洋に注ぎます。

サラマンカの歴史

 旧市街はトルメス川の北岸から坂道を登った高台にあります。南に川が流れる高台という守るのに適した地形なので、古くから街がありました。

ローマ橋から旧市街に建つ大聖堂を見上げたところ。

 橋の街側のたもとにある首が欠けた動物の石像がそのことを証明しています。これはイベリア半島で数多く出土している Verraco というイノシシの石像で、ローマ以前にルシタニアに住んでいたウェットーネース族(vetones)が残したものです。この像は記録にはたびたび登場しますが、いつからここにあるのかは不明です。今の位置に置かれたのは1993年だそうです。

ローマ橋の北のたもと近くに立つ Verraco というイノシシの石像。

  紀元前220年にサラマンカはイベリア半島に早くから進出していたカルタゴに征服されました。征服したのは第二次ポエニ戦争でローマを苦しめた将軍ハンニバルです。ローマも紀元前3世紀からイベリア半島に進出していましたが、イベリア半島全体に勢力を広げたのは3次に渡るポエニ戦争でカルタゴを破ってからです。サラマンカもポエニ戦争後にローマの支配下に入り、古代ローマ都市となりました。サラマンカの古代ローマ時代の名はサルマンティカ(Slmantica)です。

 残念ながら古代ローマの遺跡は橋以外には残っていません。

銀の道

 イベリア半島のちょうど真ん中辺りにスペインの首都マドリードがありますが、サラマンカはそこから西北西に170kmほどのところにある都市です。スペインの西の端で、ポルトガル国境まで100km程という位置にあります。13世紀にスペイン最古の大学が開校し、大学の街として有名です。

 古代からメリダとアストルガを結ぶ銀の道の中継点として非常に重要な役割を果たしていた、と多くの解説には書いてあります。

 銀の道はイベリア半島西部にある南のエメリタ・アウグスタ(現代のメリダ)と北のアストリカ・アウグスタ(現代のアストルガ)という大都市を結ぶローマ街道として造られたとされています。今でも高速道路が通っているこの区間に古代ローマ時代の街道があったであろうことは想像がつきます。

 エメリタ・アウグスタ(メリダ)はルシタニア属州の首都でした。ルシタニア属州はイベリア半島西部にアウグストゥスが置いた属州で、南北の広がりは大体中央の3分の1ほどの大西洋に面した地域です。エメリタ・アウグスタ(メリダ)はその南端にあり、ローマ本国と太いパイプで繋がっていました。アルプスを越えて南フランスを横断するドミティア街道、イベリア半島の南岸を走るアウグスタ街道、そしてその途中のヒスパリス(現代のセビリア)からアウグスタ街道の支線というルートです。

 一方アストリカ・アウグスタ(アストルガ)のあるイベリア半島北西部はアウグストゥスが征服した比較的新しい領土です。サラマンカを通る街道によってイベリア半島西部の中央から北部がローマと直結されることになりますから、この街道はこの地域の征服とその後の経営に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

 そして後にはアストルガの近くにラスメドゥラス金山がローマの下で操業を始めます。金の輸送にも使われることでこの道は商業的な役割を果たすことになりました。ラスメドゥラス金山はその枯渇がローマ滅亡の原因の一つと言われるほど重要なものでした。

 ただイベリア半島北西部はヒスパニア・タラコネンシスとして半島の東側と一つの属州にされていました。その州都タラコ(現代のタラゴナ)からカエサル・アウグスタ(現代のサラゴサ)を経て半島北部までエブロ川を遡り、そこから西に進んでアストリカ・アウグスタ(アストルガ)に至る街道もあります。同じ属州内を行くこちらの方がメインルートではないかとも思えるので、銀の道と呼ばれるルートとその中継点としてのサラマンカが当時どこまで重要なものだったのかは疑問があります。

 実は銀の道と呼ばれる街道の建設やその名前の起源は諸説あってわかっていないようです(Wikipediaスペイン語版)。銀の道が有名なのは巡礼路としてです。多くの人がメリダより南にあるセビリアからスタートし、アストルガを超えてサンティアゴ・デ・コンポステーラまでのルートを歩くのです。つまり「銀の道」というのは観光ルートとして売り出されたことで有名になったのではないでしょうか。

行き方

 マドリードからスペイン国鉄 Renfe の高速列車 Alvia で最速1時間36分です。

 私はレンタカーで首都マドリードのバハラス空港からセゴビア、アビラを経て夕方日が沈む直前にサラマンカに到着し、スペイン国営の宿泊施設であるパラドールに泊まりました。パラドールというと修道院や古城を修復したものが多いのですが、ここは新しい建物で普通のホテルという感じです。

 このパラドールはトルメス川の南岸から少し坂を登ったところにあります。部屋からトルメス川の北岸の高台にある旧市街に建つ大聖堂が見えました。

パラドールからトルメス川越しに朝の旧市街を望む。

 城壁と聖人の町と言われるアビラ。その城壁は古代ローマの城壁の跡に建てられたものです。ただし最初に断っておきますが、古代ローマ遺跡は何も出てきません。





古代ローマ時代の街だったアビラ

 アビラは今でも街が全周に渡って城壁に囲まれています。この城壁は11世紀に建造されたものですが、その際に古代ローマ時代の城壁の跡を利用して造られました。

 Wikipedia英語版によるとアルカサル門とラストロ門の下に古代ローマ時代の切り石積みが残っている、というようなことが書かれていますが、それが見えている石積みなのか埋もれていて見えないのかわかりません。実際に見ても古代ローマ時代のものが見えているのかどうかはわかりませんでした。

南東部の東側にあるアルカサル門。
南東端とラストロ門の間の城壁。
南側のラストロ門。

 古代ローマの街は長方形だと言いますが、アビラの城壁は少しいびつです。スペイン北西部にルーゴという街があり、ここは紛れもない古代ローマ時代の城壁がほぼそのまま残っていますが、こちらもいびつで長方形とは言い難い形です。平地ではないアビラに正確な長方形の城壁を作るのは無理でしょうから、元からこんな形だったのでしょう。

 古代ローマの街は中心で直交する二本の通りが街を貫いて通っていました。今もちょうど真ん中あたりに通りがあるので、おそらくそれが名残でしょう。ただ後に建てられた建物に遮られて、街を端から端までは貫いてはいません。

ここは旧市街の東側にあるカテドラル広場。右手の建物がカテドラルです。
左側の道がちょうど街の中央部を東西に走っていますが、
途中にある建物で遮られて街を貫いてはいません。

街の全体像

 アビラには主要なローマ街道は通っていません。8世紀にイスラム教徒の支配を受け、城壁が再建されたのはレコンキスタ後ですが、交通の要衝でもないこの地方都市になんでこんなに立派な城壁を再建したのかわかりません。何か理由があったと思われますが。

 街の西側にはアダハ川が流れています。対岸にクアトロポスデスというモニュメントが建つ展望台があり、ここからは城壁に囲まれた街の全体像が眺められます。ここから見ると西側の川の方に向かって突き出した周囲から盛り上がった台地の上に街が築かれていて、街全体が西に緩やかに傾斜していることがわかります。

クアトロ・ポステスから臨む
城壁に囲まれたアビラの街。

 ここから見る街全体の姿は古代ローマ時代とそう変わらないのではないでしょうか。当時は周囲に何もなく、高い城壁が聳えてその中にだけぎっしりと建物が建ち、その中で古代ローマの文化的な生活が営まれていたのです。その光景は元からここに住んでいた人の目には驚異的なものと映ったでしょう。

 西の城壁の下は急斜面で川に落ち込んでいます。守るのに適した地形です。そういう場所ですから古代ローマ人が来る以前から人が住んでいて、Verracoと呼ばれるイノシシの石像も残っています。お隣のサラマンカでは古代ローマ橋のたもとにこのVerracoが飾ってあるのですが、このイノシシの石像はローマ支配以前のイベリア半島で造られていたもので、400個以上見つかっているそうです。

 ちなみにこのクアトロポステスを古代ローマ時代のものと紹介していることがありますが、それは間違いです。1157年にペスト退散を祈念して始まったサン・レオナルドへの巡礼の記念碑で、今残っているのは1566年に建てられたものとのことです。

聖人の街

 この街のもう一つの顔である「聖人」というのは聖テレサという修道女のことで、16世紀に修道院改革を進めた人だそうです。街の南東部のアルカサル門の脇にはテレサ像があります。10月15日がテレサの記念日だそうで、そのためでしょう、私が訪れた10月26日にはテレサ像にたくさんの花束が供えられ、大きな花絵が飾ってありました。

 神様仏様を都合のよい時に拝むだけの私には、こういう宗教がらみのことはピンときませんが。

たくさんの花束が捧げられた聖テレサ像と花絵。
城壁に沿った道を歩く修道女。

行き方

 アビラはマドリードから車かバスで1時間半、鉄道で2時間ほどです。車の場合、マドリードから高速道路のみでアビラまで行けます。(A-6、AP-6、AP-51)

 古代ローマ橋が残るサラマンカからは車では高速道路A-50で1時間強、列車で1時間半。

 古代ローマ水道橋が残るセゴビアからは車で1時間弱。一般道で中間付近のビジャカスティン(Villacastín)まで行き、そこからは高速道路AP-51に乗ります。一般道も道はいいので運転は楽です。列車は直接結ぶ路線がなくかなり時間がかかります。

 車の場合、城壁の南東にあるアルカサル門の正面に聖テレサ広場(Plaza de Santa Teresa de Jesus)があり、この地下の駐車場に停めるのが便利です。駐車場の入口は広場の南側にあり、城壁沿いの道から入ります。街中の道が細いので予めGoogleマップなどで道をよく調べてから行きましょう。

アルカサル門川から見たテレサ広場(Plaza de Santa Teresa de Jesus)。この地下が駐車場です。

 私は2013年に朝マドリード空港を発ってセゴビア観光後にアビラに来て、その後は古代ローマ橋の残るサラマンカに行って宿泊しました。メリダやアルカンタラ橋などスペインの古代ローマ遺跡を巡ったこの旅の様子は旅行記をご覧ください。

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 アビラは「アビラ旧市街と市壁外の教会群」という名で世界遺産に登録されている通り、城壁の外にたくさんの教会があり、城壁の南側から見渡すと教会らしき建物がいくつか見えました。城壁内のカテドラルなども含め、キリスト教や教会に興味があればこれも面白いのではないでしょうか。もっとも私は古代ローマにしか興味がないので教会は一つも見ていないのですが。

アビラの大聖堂。
ラストロ門近くから南側を望む。町の外にも教会が見えます。

 ローマから遠く離れたスペイン北部の街、セゴビアにある水道橋です。橋脚がとても細身で優美な印象を受けるとともに、よくこれが2千年間壊れずに残ったものだという愛おしいような気分にもさせられます。

セゴビア水道橋(スペイン) Segovia Aqueduct (Spain)




細身で薄い水道橋

 この水道橋の特徴はなんんといってもこの橋脚の細さです。古代ローマの水道橋の代表格であるフランスのポン・デュ・ガールがどっしりとした印象を受けるのと対照的で、軽快で優美な姿です。

 急斜面に囲まれた丘の上にあったセゴビアの街に水を届けるために架けられた水道橋で、水道橋の北端が直接旧市街に接続しています。今は水道橋の下にも街が広がっています。真下は広場になっていて、水道橋の下は自由に通り抜けられるのですが、足元から見てみると橋脚は横から見て細いだけでなく厚みもなく、水道橋自体がかなり薄いことがわかります。これはもう頼りなく感じるほどで、台風の風が吹き付けたらバタンと倒れてしまうのではないかと心配になってしまいます。厚みは2.4mしかありません。2.4mというとだいたい駐車場の車1台分の幅です。その厚みで9階建てのマンションに相当する28.5mもの高さのものが建っているのです。

東側から見たところ。右手、北側は旧市街に接続しています。
マンションなら9階建ての高さ。高さの割に厚みがありません。
どの石にも表面に持ち上げるための窪みがあります。

水道橋の構造

 水道橋は2段のアーチからなり、下の1段目が全体の3分の2ほどを占めています。細い橋脚が長く伸びたこの形のために優美な感じが増していると同時に、余計に細くて頼りなく感じる気がします。

 橋は石のブロックを積み上げたものですが、漆喰などの接着剤は使っていないそうです。つまりぴったりと接触面が合うように精密に加工した石を積み上げただけでできているのです。こんなに薄い橋を石を積み上げるだけで作り、2千年経った今もしっかりと建っている、というのは驚異としか言いようがありません。悪魔が造ったという言い伝えあったといいますが、そう思うのも無理はないですね。

 使われている石は花崗岩で、セゴビアの東から南にかけて横たわるグアダラマ山脈などから切り出したものです。ちなみにボン=デュ=ガールは石灰岩です。古代ローマでは橋も街道もその地方で手に入る材料をうまく使っているのです。

 下から見上げた写真をよく見るとわかるのですが、どの石も表面に小さな窪みがあります。これは石を持ち上げるためのものだそうです。おそらく「やっとこ」みたいなものをこの窪みに当てて挟み、クレーンで持ち上げて積み上げたのだと思われます。

 水道橋の中央部には、上のアーチの足元にアーチ4個分に渡る横長の長方形の石積みがあって、その上に祠のような壁龕があります。長方形の部分には文字が刻印されていた形跡があります。元は金色の文字で建設者と建設日が刻印されていたと言いますが、残念ながら今は摩耗してしまい判読できません。

 西面の壁龕には赤ちゃんを抱いた女性像が収まっています。これはセゴビアの守護聖人である聖母フエンシスラの像で、16世紀に置かれたものです。フエンシスラを祀った教会がアルカサルの先にあり、9月25日に祭典があるそうです。フエンシスラ教会から見上げるアルカサルの姿が美しいそうですが、訪れたときは水道橋しか眼中になかったので見ていません。今思えば見ておけよかった。東面の壁龕にはこの街の創設者という伝説のあるヘラクレス像がかつてあったそうですが、今は空っぽです。

下段が極端に高い2段のアーチです。
中央部の上の方に見えるのが聖フエンシスラ像。

古代ローマの街

 水道橋が接続している北側の崖の上がセゴビアの旧市街で、古代ローマ時代の街があったところです。崖には階段が付けられていて旧市街まで登れます。途中のテラスから眺めると水道橋が立体的に感じられ、背景にはグアダラマ山脈も見えて、下から見るのとはまた違った迫力があります。

水道橋脇の階段で旧市街に登れます。
旧市街への入口。
旧市街に登る途中から見た水道橋。向こう側は緩やかな坂になっているのがわかります。

 水道橋は旧市街の台地上を40mほど行ったところで家の塀と一体化して消えています。Googleマップの衛星写真を見るとそこから40mほど西に円形の水を分配する施設と思われるものが見えます。ニームやメリダにも同じものがあり、おそらくここで街の各方面に水を分配していたものと思われます。ただ民家の敷地の中のようでよく判りません。

最後は塀と一体化してしまいます。
ニームの分水施設。
Googleマップを見るとこんな感じのものが見えるのですが。

上流に続く水道橋

 旧市街の反対側は緩やかな斜面で、水道橋は180mほど直線で伸びています。直線部分のアーチの数は全部で44個(上下足せば88個)あります。

 谷底の公園から南側には水道橋に沿って道があり、レストランのテーブルが並んでいます。テーブルの脇を通って登っていくと下のアーチがだんだん縮んでいき、最後のアーチは下段の高さが1mくらいしかありません。

 途中東側に水飲み場がありますが、いつの時代のものでしょうか。

 

水道橋脇の坂道にレストランのテーブルが並びます。
水道級脇にある水飲み場。
坂を登りきったところ。下段のアーチは高さ1mほどです。

 水道橋はここで120度左に折れ曲がって東に向きを変えて更に600mほど続いていて、1段のアーチが75個も連なっています。両側が切り立った崖になっている深い谷に架かっているような印象だったのでこれは意外でした。

 このあたりは水道橋の両側に細い道を挟んで住宅が建ち並んでいます。本当に全く普通の住宅で、世界遺産との取り合わせがなんとも不思議です。大きな扉の奥が駐車場になっている家もあります。前の道が狭いので出し入れが大変そうです。水道橋を傷つけたりしたら一大事ですから、こういう遺跡の近くに暮らすのは大変そうですね。

水道橋は折れ曲がって更に伸びています。
水道橋脇の家の車庫から車が出てきました。

 水道橋は右に向きを変えていき、道はずっとこれに沿って緩やかに登っていきます。やがてアーチが小さくなってなくなり、石積みの壁のようになります。

水道橋と道を挟んで全く普通の民家が立ち並びます。
上流側の最初のアーチ。

 最後のアーチのすぐ先に、水道橋を覆うように建物が建っています。これは水道施設の一部で、中には大きな水槽があり、水が一旦この水槽に溜まって不純物が沈殿することで浄化されるようになっています。

水道橋を覆うように建つ浄水場の建物。
水は中の水槽に一旦溜まり、不純物が沈殿してきれいになった水が反対側から流れ出ます。

 最後は道路に突き当たって断面を見せて途切れています。

 ここでは高さが1mほどなので上にある導水管の部分が見えます。幅は30cmくらいです。ポン・デュ・ガールは導水管の幅が1mくらいあり、水道橋も厚みが6mもありますが、これはニームという大都市に水を運ぶものだからです。大地の上の比較的小規模な街であるセゴビアに水を届けるこの水道は給水量も小さかったはずで、だから水道橋が細いのです。

水道橋が残っているのはここまで。
導水路は幅30cmほど
がっしりした印象のポン・デュ・ガール。

 水源はこの先15kmほど離れたフリオ川の堰です。道路の向こう側にも歩道が続いていますが、水道橋の遺構はなさそうで、ここから上流側の水道の経路がどうなっていたのかわかりません。

 訪れたときは知らなかったのですが、この先650mほど上流側にもう一つ沈殿槽の建物が残っています。これら二つの沈殿槽で浄化されてきれいになった水が街に入るようになっていました。

歴史

 水道橋には判読可能な碑文がないため建造年代は不明です。1世紀終わり頃の建造と言われていましたが、最近の研究では112年というのが有力なようです。これはスペイン出身の皇帝トラヤヌスの時代です。(トラヤヌスはセビリヤ近くのイタリカ出身です。)

 水道橋はこの地を支配していたイスラム教徒によって一部が破壊されたり、レコンキスタ後に修復されたりといったことがありましたが、なんと1906年まで街に水を供給していたそうです。(NHK世界ふれあい街歩き)

  セゴビアの旧市街は独立した台地の上にあります。北にはエレスマ川、南にはクラモレス川が流れて深い谷を作っていて、台地の北西端の真下で合流しています。そして水道橋が接続している南東側は崖で断ち切られたようになっています。四周が切り立った崖で守るのには最適な土地なので、古くから人が住んでいたようです。

 水道橋のある南側は川がないので、崖と谷がどのように形成されたのかは謎です。古代ローマ人が防御のために人工的に造ったという可能性はあるのでしょうか。 ローマ以前の住民の技術でこのような地形の改良ができるとは思えません。元は川が流れていて谷を刻み、その後に流路が変わったのかもしれません。

 ローマがセゴビアをいつ征服したのかははっきりしませんが、紀元前80年ころとも言われています。ローマの街道網の中でセゴビアは特別重要な立地でもなく、しかも台地の上という限られた土地に造られた街なので、水道橋が目立つ割にローマ都市としての規模はさほどのものではなかったものと思われます。だから水道橋ができた時期も割と遅いのでしょう。

 セゴビアには水道橋以外に目立ったローマ遺跡が残っていませんが、そもそもそれほど大規模な建造物がなかったのかもしれません。古代ローマ時代も街は城壁に囲まれていたはずですが、今残っている城壁は11世紀に再建されたものです。

  台地の北東端に突き出したところに建つアルカサルは、古代ローマ時代の建物の土台の上に建てられていて、地下には古代ローマ時代に作られた基礎が残っています。アルカサルの建つところは狭い崖で切り離されていて、橋で渡ります。城塞として理想的な地形ですが、これも元々そうだったのか、城の防御のために人工的に造ったのかわかりません。

アルカサルの土台は古代ローマ時代位もの。
入口に深い谷があって橋で渡ります。

行き方

 セゴビアの玄関口は首都マドリードです。マドリードからは100kmほどで、日帰りでも十分行ける距離です。所要時間は車で1時間半、高速鉄道で30分、ローカル列車で2時間弱、バスで1時間半程度です。

 高速鉄道は早いのですが、駅がローカル鉄道とは別で、市街地から4.5kmほど離れているためバスに乗り継ぐ必要がありことに注意が必要です。

 車の場合は高速道路がセゴビアまで通じています。私はレンタカーでマドリード空港から行きましたが、なぜかマドリードを出てしばらくするとナビが高速を降りてグアダラマ山脈の峠を超える道を案内し始めて、距離的には短いのですが30分くらい余計に時間がかかってしまいました。2車線の道で峠もさほど高くありませんでしたが、山道なので運転に不慣れだと苦労しそうな道ですから要注意です。私は外国で山道を走ったことが何度かありますが、それでもこのときはこんな道を右側通行で走る心の準備ができておらず、しかもレンタカー初日だったので面食らいました。

マドリードからセゴビアまで高速道路が通じています。
なぜか途中で高速を降りて山越え。しかも霧がかかってます。

 水道橋の東側のパードレ・クラレ―通り(Av. del Padre Claret)の地下に新しい駐車場があり、これが水道橋に一番近くて便利です。ここは出口が水道橋の目の前で、地下から出ると目の前に水道橋が現れるのが面白いところです。他には少し離れますが水道橋の西方のエセキエル・ゴンサレス通り(Paseo Ezequiel González)にも地下駐車場があります。

パードレ・クラレ―通り地下の新しい駐車場。
水道橋の東側のカーブした坂道がパードレ・クラレ―通りで、その地下が駐車場です。
パードレ・クラレ―通り地下駐車場の出口は水道橋が目の前。

 旧市街には大聖堂やアルカサルといった見どころがあります。アルカサルはトンガリ屋根が特徴で、ディズニー映画「白雪姫」の城のモデルだそうです。ちなみに各地のディズニーランドにある城とは関係ありません。東京ディズニーランドにあるのはシンデレラ城でモデルはノイシュバンシュタイン城ですね。

旧市街の中心マヨール広場。左手が大聖堂、右手が市役所です。
丘の北の突端にあるトンガリ屋根のアルカサル。

 私は2013年に朝マドリード空港を発ってセゴビアに来ました。そしてセゴビア観光後は城壁の街アヴィラから古代ローマ橋の残るサラマンカに行って宿泊しました。メリダやアルカンタラ橋などスペインの古代ローマ遺跡を巡ったこの旅の様子は旅行記をご覧ください。

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 ポン・ジュリアンは南仏プロヴァンスにあるローマ橋で、ローマ本国とガリア、ヒスパニアを結ぶ経路であるドミティア街道上にあります。その名はジュリアス・シーザーの名と関連しています。




古代ローマ橋

 陽光がきらめきロマンチックなイメージの南仏プロヴァンス。その中でも美しい村が点在する観光スポットであるリュベロン地方に古代ローマ橋、ポン・ジュリアンはあります。現在のフランス南部は古代ローマ人からアルプスの向こう側のガリアという意味の「ガリア・トランサルピナ」という名で呼ばれていましたが、紀元前121年にローマが征服して属州とし、ガリア・ナルボネンシスと改名されました。紀元前118年頃にグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスによって、ローマ本国とガリア、スペインを結ぶ街道、ドミティア街道の建設が開始され、その経路上に造られたのがポン・ジュリアンです。

 ポン・ジュリアンの7kmほど東にアプト Apt という街がありますが、これは紀元前50年頃にカエサルによって建造された古代ローマの植民市アプタ・ユリア (Apta Julia)で、ポン・ジュリアン Pon Julien の名はこの街の名に由来します。”Julia”はユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)から取っているので、ポン・ジュリアンの名はカエサルの名に由来するというわけです。

橋の構造

 橋はリュベロンの採石場から切り出した石灰岩で造られています。リュベロン周辺の土壌は石灰岩が主流で、白い山肌や崖の他、建物も白っぽいものが多く見られます。

 橋は3つのアーチからなり、中央のアーチが両端より大きく、橋の上も中央がやや盛り上がっています。

 橋脚の上部にかまぼこ型の穴が開けられていますが、これは橋の重量を軽減すると共に、洪水時に水が通り抜けることで橋に圧力がかからないようにするためのものです。ローマのティベリーナ島とテヴェレ川東岸との間に架けられているファブリキウス橋にも同じ構造があります。

ローマのファブリキウス橋。

 写真で見る印象よりかなり大きく、高さは11.5mとマンションの4階ほどもあります。訪れたとき気楽に橋の上から見下ろしたら、手すりがチャチなせいもあって足がすくみました。

橋の上にいる人と比較すると橋の高さがわかります。

 長さは80m、幅は5.5mです。(大きさはWikipediaフランス語版より)最近まで自動車が通行できたそうですが、2005年に橋の損傷を防ぐために隣に新しい橋が架けられ、歩行者・自転車専用になりました。

幅は5.5m
2005年から歩行者・自転車専用になりました。

リュベロン地方

 リュベロン地方は東西に伸びるリュベロン山塊の南北に広がる平原で、ポン・ジュリアンはリュベロン山塊の北麓にあります。下を流れるのはカラヴォン川(Calavon)で、この北麓の平原を東西に走る川です。

カラヴォン川の川床は石灰岩なので真っ白です。

 現在ポン・ジュリアンは北のルシヨンと南のボニューを南北に結ぶ道路上にありますが、ドミティア街道は カラヴォン川に沿って東西に伸びていたはずなので、橋の前後で道はS字型に曲がっていたのでしょう。しかしドミティア街道に沿っている現代の地方道路D900はずっとカラヴォン川の北側を走りこの橋は通らないので、 イタリア側が橋の北なのか南なのか解りません。

ポン・ジュリアンの北側。元の道がどうなっていたのかわかりません。

 地図を見るとポン・ジュリアンの南からカラヴォン川に沿って西に伸びる細い道があり、北側には地方道路D900の南にゆるいカーブを描く細い道があります。これが旧ドミティア街道の跡である可能性が高いように思えます。つまりイタリア側からカラヴォン川の北岸を来て、ポン・ジュリアンで南岸に渡ったということです。カラヴォン川南岸を東に向かう道がないことからもこれが有力と思えます。

 しかしカラヴォン川の北側を東に伸びる道とポン・ジュリアンは角度的に一繋がりと見るのは無理がありそうなのが難点です。そもそもポン・ジュリアンは北側がやや西を向いているのですね。東隣の街 Apta Julia(現代のアプト)がカラヴォン川南岸、西隣の街 Ad Fines(現代のNotre-Dame de Lumières)が北岸にあるところを見ると逆のようにも思え、結局のところ本当のところはわかりません。

ローマとガリア、スペインを結ぶ道

 ドミティア街道はイタリアからアルプスを越えたところにあるブリアンソンから、 ガリア・ナルボネンシスの州都、スペインに近い地中海沿いの都市ナルボンヌを結んでいました。

 起点のブリアンソンには、ローマからポー平原西部のトリノを経てモンジュネーヴル峠(Col de Montgenèvre)でアルプスを越えて至ります。

 モンジュネーヴル峠はアルプス超えの峠の中では高度が低くなだらかです。古代ローマの軍人ポンペイウスは、紀元前77年のヒスパニア遠征でこの峠を利用しました。そのポンペイウスに勝ったライバルのカエサル(ジュリアス・シーザー)もガリア遠征でこの峠を何度か利用したそうです。

 終点のナルボンヌからはアウグスタ街道(Via Augusta)でヒスパニア(今のスペイン)、アクィタニア街道(Via Aquitania)で大西洋岸のボルドーに通じていました。また途中のアルルからは、アウグストゥスの盟友アグリッパが建設したアグリッパ街道によって、北海(アミアン)、ライン川(トリーア、ケルン)にも通じていました。

 この橋を渡る人々によってローマはヒスパニア、ガリア、ブリタニアに拡大していったのです。

行き方

 イギリス人作家ピーター・メイルが1989年に出した「南仏プロヴァンスの12か月」というリュベロンでの生活を書いたエッセイがベストセラーになり、欧米でリュベロンブームが巻き起こりました。交通の便はよくないのですが、大勢の人々が訪れるようになったのです。

 最寄りの都市はパリからTGVで2:45ほで着けるアヴィニョン、セザンヌで有名な同じくパリから3:10ほどのエクス=アン=プロヴァンスです。しかしリュベリン地方はどちらからも離れていて、公共交通機関がほとんどありませんから、レンタカーで巡るのがお勧めです。リュベロンの村を巡るツアーはありますが、ポン・ジュリアンはメジャーな観光地ではないので、訪れるツアーは残念ながら見たことがありません。

 観光客が訪れるのはポン・ジュリアンの北西10kmほどのゴルド、北4kmほどのルシヨン、南4kmほどのボニューなどです。ポン・ジュリアンに行くなら一緒に訪れるのがお勧めです。

 レンタカーで行く場合、ポン・ジュリアンの近くに小さな道案内はありますが、Googleマップなどで案内させないとまずたどり着けません。私はレンタカーでアヴィニョンから来て、ゴルドからポン・ジュリアンに向かったのですが、途中道が狭く曲がりくねったところが多く、Googleマップのナビを見ながら走ったにもかかわらず分岐を曲がりそこねて何度か迷い、どちらの方向に進んでいるのかわからなくなりました。迷ったときに備えて時間に余裕を持っておいた方がいいでしょう。ただ迷ったおかげでミュールというこじんまりとした美しい村を見ることができました。

南仏リュベロンの村 ゴルド
なぜかゴルドの北にあるミュール(Murs)という村に来てしまいました。
リュベロン地方の細い道
ポン・ジュリアンの南にあるボニュー(Bonnieux)

 ドイツのロマンチック街道沿いにある都市アウグスブルク。その起源は紀元前15年、初代皇帝アウグストゥスの時代に造られた、ゲルマン人と向き合う最前線の軍団基地です。重要な場所ですが残念ながらその痕跡はほんのわずかしか残っていません。




わずかに残る痕跡

 アウグスブルク旧市街にある大聖堂の傍らに、文字が書かれた白いブロックや模様のある板、人間か神の浮き彫りなどが地面に直接置かれたり、レンガの壁に取り付けられたりしています。これらはここで発掘された古代ローマ時代の建物の残骸です。広場の真ん中には発掘された建物跡を見ることができます。

大聖堂の脇に発掘跡があります。
発掘跡の傍らに発掘されたものを飾ってあります。

入植地アウグスタ・ヴィンデリコルム

 アウグスブルクはドイツ南部、ミュンヘンの近くにある都市で、ドイツ南部を東西に走るドナウ川の南35km程のところ、支流のレヒ川沿いにあります。古代ローマ時代、ドナウ川の北にはゲルマン人が住んでいて、アウグスブルクはローマとゲルマン人の境界線を維持する拠点でした。

 カエサルがガリアを征服してライン川の西、ドナウ川の南をローマが支配するようになりましたが、アウグストゥスが初代皇帝となった後の紀元前15年、この地にこの境界線を維持するためにローマの軍団基地が設けられました。1世紀には入植地「アウグスタ・ヴィンデリコルム(Augusta Vindelicorum)」となり、その後時期ははっきりしませんが、ラエティア属州の州都とされました。ラエティア属州はアルプスの北側、現代のスイス東部、オーストリアのチロル地方からドイツ南部にまたがる地域です。

 アウグスブルクとローマ本国との間はクラウディア・アウグスタ街道で結ばれていました。現代の高速道路も鉄道もアルプスをブレンナー峠で越えますが、古代のクラウディア・アウグスタ街道はそれより西の方、アディジェ川を遡ったところにあるレッシェン峠(レージア峠)を超えます。現代と違う理由が地形の関係なのか住んでいる部族との関係によるのか、または他の理由なのかわかりません。

 アウグスブルクという名は「アウグスタ・ヴィンデリコルム」の一部である「アウグスタ」の名残です。「アウグスタ」は皇帝アウグストゥスに因んだもので、当時建設された多くの都市の名に付けられました。ドイツでは「アウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)」、イタリアでは「アウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(Augusta Praetoria Salassorum)」、スペインでは「エメリタ・アウグスタ」があって、それぞれトリーア、アオスタ、メリダという名となって現代でも都市として残っています。

古代ローマ遺跡

 これだけ重要な場所であり、当時それなりの施設があったに違いないアウグスブルクですが、残念ながら古代ローマ時代のものが何も残っていません。かろうじて冒頭に書いた大聖堂前の発掘跡を見ることができるだけです。

 ゲルマン人が住むエリアとのもう一つの境界線であるライン川方面には、支流であるモーゼル川沿い、現代のフランス国境近くにアウグスブルクに先駆けて都市が築かれました。これが現代のトリーアですが、こちらには古代ローマ時代の城門であるポルタ・ニグラ、円形闘技場、浴場跡などが残っています。

今でも残るフッガー家の邸宅、フッガーハウス。

 アウグスブルクはフッガー家の拠点として、15〜16世紀にはヨーロッパの経済の中心として栄えたので、その繁栄ゆえに都市が整備され、それに伴って遺跡が破壊されてしまったのでしょうか。

行き方

 鉄道が各都市から通じていて容易に行くことができます。最寄りの大都市はミュンヘンです。高速道路もミュンヘンから通じていて、車で行くのも容易です。大きな都市なので宿泊施設は数多くあります。ロマンティック街道沿いなのでツアーでも立ち寄ることが多いのですが、大聖堂はコースに入っていないかもしれませんし、仮に入っていたとしても大聖堂そのものを見るだけで遺跡の存在には気付かないかもしれません。ツアーガイドが紹介しなくても、遺跡は大聖堂の目の前の広場にあって目にするのは容易なので、ぜひ覚えておいてください。

宿泊したのはフッガーハウスの隣りにあるシュタイゲンベルガー・ドライ・モーレンホテル。裏手の外壁にアウグストゥスの絵がありました。

 ナボーナ広場はごちゃごちゃと建て込んだローマの街の中心部にある長円形の広大な空間です。周囲にはレストランやカフェが並んでいて、広場に3つある噴水を眺めながら食事やお茶ができるローマ観光の定番です。ここはかつて古代ローマ時代には陸上競技場で、その形がそのまま残っているのです。




陸上競技場

 競技場は紀元86年に第11代となるローマ皇帝ドミティアヌスにより開設されました。かつてのトラックが今の広場の部分に当たります。今その部分の長さが約250m、幅が約50mで、今の陸上競技場と比べるとかなり細長い形をしています。トラックの形はチルコ・マッシモと同じく一方が直線のU字型でした。

 広場を取り囲む建物は、競技場の観客席があった場所に建てられています。観客席は外側が30mありました。 外観はコロッセオと同じような姿だったと思われます。コロッセオは48mなのでそれよりやや 小さめですが、現代のマンションでいうと10階建くらいの高さに当たる相当高い高層建築です。古代ローマの建築技術は非常に優れていたので、この基礎は年月が経ったいまでも建物の土台として十分に機能しています。

 ところでここは陸上競技場ですが、古代ローマで陸上競技というイメージはありませんよね?首都ローマのコロッセオは剣闘士の競技場ですし、チルコ・マッシモは映画ベンハーで描かれた戦車競技場です。剣闘士競技場である円形闘技場や戦車競技場は古代ローマの数多くの都市で今でも見ることができますが、陸上競技場は他では見たことがありません。陸上競技といえばオリンピック発祥の古代ギリシャのイメージです。古代ローマは古代ギリシャから多くのものを受け継いでいるので、これもギリシャ趣味の一つとして取り入れられたのかもしれませんが、他で見ないところを見ると、あまり流行らなかったのかもしれません。オリンピックがここで開催されたわけでもありません。ローマがギリシアを支配下に置いた後も、オリンピック、すなわちオリュンピアの祭典はオリュンピアで開催されていて、それは393年まで続いています。

 古代の競技場がほとんどそのままの形で広場になって残っているのは本当に面白いのですが、陸上競技のイメージがないのでかつての姿を想像しようとしてもうまくいかず、今ひとつ実感が湧が湧きません。私に想像力がないだけですが。

 古代ローマが衰えると陸上競技も開催されなくなり、使われなくなった競技場は貧しい人々の住居となったそうです。今は広場になっている中央のトラックの部分は集会所のような使われ方をしていたようです。

広場と3つの噴水

 今のような広場になったのは16世紀から17世紀にかけてです。

 広場には3つの噴水があり、南にあるのがムーア人の噴水です。中央がイルカと格闘するムーア人で、その周りを4対の海神トリトンが囲むという場面だそうです。しかし口になにか咥えて吐いている人が4人、口から水を吐き出しているおじさんが4人、としか見えません。グロテスクです。この美的感覚が私には理解できません。

南のムーア人の噴水
よく見るとグロテスク

 広場の中央にあるのは四大河の噴水です。ローマではいたるところに登場する商売上手なベルニーニ作です。ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川、ドナウ川を擬人化したのだそうです。新大陸というと世界最大と言われるアマゾン川が思い浮かぶので、なぜラプラタ川なのか不思議でしたが、ラプラタ川は早くから拓かれていたので、これが新大陸の代表として採用されたようです。アマゾン川は当時は全く開拓されていない川でした。

中央の四大河の噴水はヴェルニーニ作
劇的で美しい噴水です。さすがヴェルニーニ。

 四大河の噴水の上にはオベリスクが建っています。このオベリスクは競技場を作ったドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られたものです。しかし最初に建てられたのはここではなく、少し東側にあったイシス神殿の前でした。エジプトの神イシスを祀るイシス神殿の前には、エジプトから運ばれたものも含めて数多くのオベリスクが建てられ、その後あちこちに移設されて今も残っています。このオベリスクは4世紀にアッピア街道沿いのマクセンティウス競技場に移され、更に17世紀にこの噴水を作るためにここに移されました。 マクセンティウス競技場は戦車競技場で、他の戦車競技場同様、中央にあるスピナと呼ばれる分離帯にオベリスクが建てられました。ちなみにここは陸上競技場なのでオベリスクを建てられる中央のスピナはありませんでした。

 四大河の噴水の横に建つのは、4世紀にこの場で殉教したアグネスを祀るサンタンニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂です。アグネスが殉教したのは、キリスト教を弾圧したということでキリスト教徒に嫌われているディオクレティアヌス帝のときのことです。

オベリスクと聖アグネスを祀る聖堂。

 北にあるのがネプチューンの噴水。他の二つと比べると印象が薄い気がします。

北のネプチューンの噴水。

 北の建物の外側に発掘された観客席が見えるようになっているのですが、2018年に訪れた時は知らずに見落としました。

行き方

 ローマの中心地なので容易に訪れることができます。地下鉄が通っていないエリアなので、徒歩かバスで訪れることになります。周辺は建物が入り組んでいます。どの方向から来ても、路地を歩いて外周の建物をくぐると噴水のある美しい広場が目の前に広がり、ちょっとした驚きに見舞われるでしょう。近くにパンテオンがあるのでこれとセットで訪れるのがおすすめ。

路地を歩いて外周の建物をくぐると噴水のある美しい広場が目の前に広がります。

 「全ての道はローマに通じる」で有名なローマ街道のうちで一番最初に造られたのがアッピア街道です。起点のカペーナ門からチェチーラ・メテッラの墓までの4kmほどを2018年5月に実際に歩いてみたので紹介します。



アッピア街道とは

 アッピア街道はローマとイタリア半島の南端、長靴のかかとの後ろの真ん中あたりにあるブリンディシを結び、イタリア半島の南半分を縦断する街道です。

 その名は紀元前312年にこの街道の建設を元老院に要請したアッピウス・クラウディウス・カエクスに因みます。最初はカプアが終点でした。カプアはナポリの北にあり、ローマからわずか150kmほど。ローマ帝国のイメージからするとほんの近所です。しかし紀元前4世紀当時、こんな近所でさえローマの手中にはありませんでした。ローマは周辺の部族と戦って勝ちその領土を手に入れていきますが、当時はイタリア半島中部に住むサムニウム人と戦っている最中でした。このサムニウム戦争が紀元前290年に終わってようやくイタリア半島中部がローマの支配下に入ります。アッピア街道はこの戦争を有利に進め、支配を確実にするために造られた道路です。

 ローマの支配する領域の拡大につれアッピア街道は延長されました。紀元前272年に半島南部を制圧し、264に現在の終点ブリンディシまで延長されます。ブリンディシは地中海に出る港です。紀元前264年はカルタゴとのポエニ戦争が始まった年で、これ以降ローマの領土は海の向こうに広がっていきます。ローマを出発した軍隊を海外に送り出すことで、これ以降もアッピア街道は大きな役割を果たしました。

今回のルート

起点のカペーナ門

 チルコマッシモから南東にカラカラ浴場通り Viale delle Terme di Caracalla が伸びています。これがアッピア街道です。

チルコ・マッシモを背にカラカラ浴場通りを望む。これが古のアッピア街道。

 アッピア街道の起点はカペーナ門で、これは王制のころに起源を持つセルウィウス城壁に開けられた門の一つです。セルウィウス城壁の内部が当時のローマ市内ですから、外に向かう街道の出発点は当然この城壁の門ということになります。

 この辺りのどこかにカペーナ門があったはずです。道に沿って東側はカペーナ門広場 Piazza di Porta Capena という名が付いていますが、門自体が残されているわけでわありません。

 チルコ・マッシモの端から100mほどのところにある横断歩道近くになにかの残骸のようなものがあり、「INIZIO DELLA VIA APPIA」「アッピア街道の起点」と書かれたプレートが付けてあります。これがカペーナ門なのでしょうか。

カペーナ門?
汚れて読みにくいのですが「INIZIO DELLA VIA APPIA」(アッピア街道の起点)の文字。

 この残骸は薄いレンガを積み重ねたものです。テルミニ駅前にあるセルウィウス城壁は大きな石積みだったのでこれとは違いますが、地下街(マクドナルド横)にある城壁の基礎の部分は同じような薄いレンガを積み重ねたものでした。それに後で見るアウレリアヌス城壁は全体がこんな感じです。

テルミニ駅前のセルウィウス城壁。
テルミニ駅地下街のセルウィウス城壁。

 これがカペーナ門かどうかは微妙ですが、セルウィウス城壁の残骸である可能性は高そうに思えます。ただネットや本でこれに触れたものを見つけられなかったので真相は不明です。

 いずれにしてもこの辺りが起点であることは間違いありません。

アウレリアヌス城壁まで

 起点から歩き始めるとすぐに水飲み場があります。いつの時代からあったものかわかりませんが、ローマでよく見る先端を指で塞いで上に空いた穴から飛び出す水を飲むタイプのものです。

出口を指で塞ぎ上の穴から出る水を飲みます。
右手に見える巨大な建物がカラカラ浴場。

 間もなく右側にカラカラ浴場が見えてきます。

 アッピア街道が造られたのが紀元前300年頃で、カラカラ浴場が建てられたのは紀元200年頃。500年の隔たりがあります。今の日本に置き換えてみると、500年前は戦国時代で織田信長がまだ生まれていません。古代ローマという括りでアッピア街道もカラカラ浴場も一緒くたにしてしまいますが、両者が造られた時代はそれほど離れているわけです。

 起点から600m、カラカラ浴場の南端近くでカラカラ浴場大通りが右側に大きくカーブして逸れて行き、左からラテラノ聖堂につながるドルソ通り Via Druso が交差します。ここはヌマ・ポンピリオ広場 Piazzale Numa Pompilio という名がついています。ヌマ・ポンピリオはロムルスに継ぐローマ2代目の王の名で、ヌマが妻エゲリアと会っていた神聖な木立ちがあったのがここでした。

 アッピア街道は正面に伸びる石畳の細い道です。

ヌマ・ポンピリオ広場。右正面に伸びるのがアッピア街道で、すぐに分岐します。
古代の公衆トイレ Vespasiano?

 交差点の南にある謎の建物は古代の公衆トイレ Vespasiano と説明しているものもありますが、真相は不明です。

 すぐに道が二手に分かれます。分岐点には円柱形の道標が建っていて、右はサン・セバスチアーノ門通り、左はラティーナ門通りとあります。右のサン・セバスチアーノ門通りがアッピア街道です。

アッピア街道とラティーナ街道の分岐点。
左はラティーナ街道。
右はサン・セバスチアーノ門通り。アッピア街道です。

 左のラティーナ街道はアッピア街道より先に建設が始まった街道ですが、アッピア街道とは違って地形に沿って敷かれた道でした。

 アッピア街道は車は南行きの一方通行で、交通量はさほど多くありません。

アッピア街道。静かな道です。

 自転車に乗った観光客が思いのほか多く追い越していきます。貸自転車でアッピア街道巡りというのが流行っているようです。若い女性の単独行もいました。ローマもだいぶ治安がよくなったのですね。

 右にゆるやかにカーブする石畳の道は両側を3mくらいの壁に囲まれていて、ところどころに建物の入口があります。人通りはほとんどなくて静かです。

 途中左手にスキピオ家の墓所があります。スキピオ家は名門で執政官を大勢出しており、特に第2次ポエニ戦争でハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスは有名です。この墓はアッピア街道ができてまだそんなに経っていない紀元前280年頃に築かれました。アッピア街道沿いに墓が多数作られるようになる先駆けです。見学はツアーに参加してヘルメットを被って地下の墓に入るそうです。

緩やかな右カーブが続きます。もうすぐサン・セバチアーノ門。

ドルーススの凱旋門とサン・セバスチアーノ門

ドルーススの凱旋門とサン・セバチアーノ門。

 起点から1.4kmほどのところにドルーススの凱旋門とサン・セバスチアーノ門があります。

ドルーススの凱旋門。

 ドルーススは2代皇帝クラウディウスの弟ですが、実際にはこの人とは関係がなく、トラヤヌスの凱旋門が後に水道に転用されたものと考えられているそうです。トラヤヌスはローマ帝国の版図を最大にした皇帝であちこちに凱旋門がありますが(以前スペインのメリダのものを見ました。)、これもその一つだったのでしょうか。

 ここを通っていた水道はマルキア水道から分岐するアントニニアーナ水道で、紀元226年、マルクス・アウレリヌス・アントニヌス帝、通称カラカラ帝がカラカラ浴場に水を引くために造ったものです。たまたま便利な場所に凱旋門があったので、その上に水道を通したということのようです。

 ドルーススの凱旋門のすぐ先にサン・セバチアーノ門があります。

サン・セバチアーノ門。内部は城壁博物館として公開されています。

 アッピア街道の起点のカペーナ門があるセルウィウス城壁は、帝政になるころにはその外側まで市街地が広がり、また安定した統治でローマに敵が迫るようなこともなくなり、意味がなくなって廃れます。その後3世紀後半にローマの弱体化によって異民族の侵入が激しくなり、新たにローマを守るためにセルウィウス城壁より外側に造られたのがアウレリアヌス城壁で、これとアッピア街道との交点にあるのがこの門です。

 もとの名前はアッピア門で、実質的なアッピア街道の起点はここになりました。今でもここから通りの名が「アッピア・アンティカ通り (Via Appia Antica)」に変わります。

 アウレリアヌス城壁の外側に沿って道路が通っていて、サン・セバスティアーノ門を出たところが交差点になっています。その信号が青になると、サン・セバスティアーノ門の小さな開口部から車がぞろぞろと連なって出てくる様子がなんとなくユーモラスです。

 サン・セバスティアーノ門の内部は城壁博物館として公開されていて、門の屋上にも登ることができます。屋上からは北にこれまで歩いてきたカーブした道、南にはこれから行くアッピア街道、そして遠方には山並みが広がっています。入場は無料でした。(2018年5月)

起点の方向。
この先は「アッピア・アンティカ通り」。
サン・セバチアーノ門の屋上から南には山並が見えます。

 交差点の南東の隅に水飲み場があります。でもこの水を受ける容器、この形と大きさはどう見ても石棺です。ちょっと水を飲む気にはなりません。

水飲み場。どう見ても石棺と墓の銘版です、

 古代ローマ人は街道沿いに盛んに墓を築きました。アッピア街道沿いにもこの後見るチェチーラ・メテッラの墓を始めたくさん残っています。この水飲み場は多分この辺りの墓にあった石棺を再利用したのでしょう。蛇口の上にある夫婦らしき男女の像も、おそらく墓に付けられていた被葬者の像です。

第1マイルストーンからサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂

 サン・セバスチアーノ門から正面に向かうアッピア・アンティカ通り (Via Appia Antica) がかつてのアッピア街道です。

 アッピア・アンティカ通りというのは旧アッピア街道という意味。並行して東にアッピア・ヌオボ通り Via Appia Nuova、すなわち新アッピア街道があるのでそれに対する名です。

 交差点から100mほど進むと右側に最初のマイルストーンがあります。円柱の上の部分に「I」と書いてあります。ここが起点のカペーナ門から1マイル、約1.48kmです。

 実物はミケランジェロがカンピドリオ広場を飾るために持って行ってしまい、今ここにあるのは複製です。

 第1マイルストーンについては別記事も御覧ください。

関連記事⇒ アッピア街道の第1マイルストーン(イタリア)
関連記事⇒ 1日でローマ市内42個の遺跡を一筆書きで歩いて巡る(イタリア)
      【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

第1マイルストーン。
上にローマ数字で「I」とあります。

 ここは交通量が多くバスも頻繁に通りますが、歩道が狭いので気をつけないと危険です。マイルストーンの側は歩道がありません。

 マイルストーンを過ぎるとすぐに道路と鉄道の下をくぐります。テルミニ駅とフィウミチーノ空港を結ぶレオナルド・エクスプレスの通る線路です。

 ここで左側にあった細い歩道もなくなってしまいます。

歩道がありません。

 左にゲタの墓があるのですが気付かず見落としました。ゲタはカラカラの弟で当初は共同皇帝でしたが、兄カラカラに暗殺され、ダムナティオ・メモリアエ(名声の抹殺)を受けました。エジプトで発見され今はベルリンにある家族の板絵からはゲタの姿が削り取られ、フォロ・ロマーノの兄弟の父親セプティミウス・セウェルスの凱旋門からは銘文のゲタの記述が削られて別の言葉に変えられています。でもそれなのに墓は残っているというのはちょっと変です。実際ゲタは父親や兄と共にハドリアヌス霊廟、現在のサンタンジェロ城に埋葬されているともいわれていて、これがゲタの墓だという決定的な証拠はないようです。

 サン・セバチアーノ門から800m程で道は3本に分かれます。左がアッピア街道です。

左がアッピア街道。左手の人が立っている前がドミネ・クォ・ヴァディス教会。
左の道の入口の壁に旧アッピア街道の銘版があります。
分岐点の手前の今ひとつ判りにくい案内板。

 分岐点の左側にあるドミネ・クォ・ヴァディス教会 Chiesa del Domine Quo Vadis は、ペトロがローマから逃れようとしているときに既に磔になって死んだイエスと行き合ったという伝承があるところだそうです。話としては面白いし、カトリックの総本山サン・ピエトロに祀られている人物に関係するところなのでもっと人が訪れるのかと思っていましたが、意外なことに閑散としています。キリスト教には興味がないので素通りします。

 アッピア街道は分岐した先で右にカーブすると、その先はずっと直線が続きます。やっとアッピア街道らしくなってきました。アッピア街道は軍隊を素早く通すために出来るだけ直線かつ勾配がないように敷いた道です。

 ヌマ・ポンピリオ広場の先で分岐した古代のラティーナ街道は同じくカプアまで通じていましたが、地形に沿っていて山越えもある道でした。それに対してアッピア街道は軍隊を素早く通すために出来るだけ直線かつ勾配がないように敷いた道です。

 しばらく歩くとカタコンベがあり、観光客で賑わっています。これも興味がないので素通り。

 直線が続くので運転の荒いイタリア人の車はかなりスピードを出しています。石畳の道なので大きな音がします。車がホコリを巻き上げ排気ガスを撒き散らしていくので目と喉が痛くなってきました。すれ違うときには車が端に寄って歩行者すれすれに通っていき、スピードをあまり落とさない車もあってときどきヒヤッとします。両側が塀で遮られているので逃げ場もありません。

 早くここを抜け出したいという気持ちでただひたすら急いで歩くという感じになってきました。古に思いを馳せながらアッピア街道を歩く、という事前に想像していたロマンティックなものとは程遠い状況です。

 自転車でアッピア街道を走ることを考えている人は、この道路状況を考えに入れて決めた方がいいでしょう。端的に言ってやめた方がいいです。

この幅の道を車が飛ばしていくので歩いているとちょっと怖い。

 斜め左にアッピア・ピニャテッリ街道 Via Appia Pignatelli が分岐し、そこから先は一方通行になります。車に怯えなくて済むようになりほっと一息つきます。

 分岐して300mちょっとのところにあるローマ7大巡礼聖堂の一つサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に観光客がたくさん入っていきます。これも素通り。3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたという聖セバスティアヌス を祀った聖堂で、アッピア門はこれにちなんでサン・セバスティアーノ門と呼ばれるようになりました。

マクセンティウスの競技場

マクセンティウス競技場の入り口。

 しばらく歩くと左手にマクセンティウスの競技場があります。ここは入場無料です。

 起点から約4km、サン・セバチアーノ門から2.6kmです。

 4世紀初めの皇帝マクセンティウスが造った馬車競技場で、郊外の別宅であるヴィッラに隣接しています。アウレリアヌス城壁からここまで2.6kmもあり、ローマ市民のために造ったものとは到底思えません。マクセンティウス個人用の競技場だったのでしょう。その証拠にこの競技場で開催された記録が残っているのは、309年のマクセンティウスの長男、14歳ほどで早世したウァレリウス・ロムルスの追悼式典だけです。ウァレリウス・ロムルスの円柱形の墓が競技場の横にあります。

マクセンティウス競技場。
中央分離帯スピナにはオベリスクが建っていました。

 馬車が走った競争路は元の姿がよく残っていて、スピナという全長296mの中央分離帯があるのが判ります。スペインのメリダにあるものはもっとはっきりとスピナや観客席の形がわかりますが、イタリアでは一番元の形をよく残しているものとのことです。

ナボーナ広場のオベリスク。かつてこの競技場に建っていました。

 中央分離帯にはオベリスクが建っていました。1世紀にドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られ、パンテオン近くのイシス神殿に建てられていたものを移設したものです。そして時を経て今はナヴォーナ広場の四大河の噴水の上にあります。

チェチーラ・メテッラの墓

 マクセンティウスの競技場から300mほど行くと、左手に円筒形のチェチーラ・メテッラの墓が聳え立っています。高さ21m、直径29mと、墓としてはとんでもなく巨大なものです。

チェチーラ・メテッラの墓。巨大です。

 被葬者のチェチーラ・メテッラはカエサル、ポンペイウスと第一回三頭政治という密約を結んだクラッススの息子の妻だそうです。夫のクラッスス一族は執政官や法務官を多数輩出した家柄で、本人も執政官を輩出した家の出です。しかし本人も夫も特に際立った事績はないのに、なぜこんな大きな墓に入っているのか謎です。息子のマルクス・リキニウス・クラッススはオクタヴィアヌスのもとで戦果を挙げそこそこ活躍した人なので、母親を敬っている立派な人ということを宣伝するためにこれを建てたのかもしれません。

 皇帝の墓であるアウグストゥス廟やハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)は大きくても当然ですが、考えてみたらその他に見た古代ローマ人の墓は執政官を務めたとはいえ無名のガイウス・ケスティウスのピラミデや、マッジョーレ門の間近に立つ解放奴隷のパン屋ユリサケスの墓で、やはりなぜそんな大きな墓なのか首をかしげるものでした。墓を建てるのは超一流からは外れた人の間で流行したものなのでしょうか。

チェチーラ CAECILIAという文字が見えます。
南側の建物は後世付け足されたもの。

 後に南側に接して建物が付け足され、要塞として使用されました。

 アッピア街道に面した城の壁にはチェチーラ・メテッラの墓の断片が取り付けられています。

当時の石畳

 チェチーラ・メテッラの墓から100mほど先にアッピア街道の元の石畳が残っています。

アッピア街道の石畳。

 黒くて大きな石は表面がデコボコで石と石の間には隙間が空いていますが、古代ローマ時代には隙間なく平らな石が敷き詰められていて、木の車輪の馬車がスムーズに進めました。ローマが滅びてメンテナンスされなくなり、風雨に削られて今のような姿になってしまったのです。

 2018年に訪れたのはここまでです。地図を見るとこの先もしばらく道は直線で続いています。最短コースを通したローマ街道の特徴がよくわかります。起点のカペーナ門からここまで約4kmで、ブリンディシまでの全長540kmのほんの0.7%にすぎません。アッピア街道の旅は始まったばかりです。(アッピア街道の延長は書かれているものによって数字がかなり違うのですが、ローマ=ブリンディシ間の距離からみて540km程度のはずです。)今度は車でローマから終点のブリンディシまでたどってみたいと思っています。

行き方

※下記は2019年7月現在の情報です。最新の情報をお確かめください。

ローマの公共交通運営会社 ATAChttps://www.atac.roma.it/index.asp?lingua=ENG

 ATACの118番のバスがローマ中心地と、今回訪れたチェチーラ・メテッラの墓より先にあるカパンネッレ Capannelle との間を、ほぼアッピア街道を経由して結んでいます。ローマ中心部に入ったバスはカンピドリオ広場の下、フォーリ・インペリアーリ、コロッセオと回ってそのままカパンネッレ方面に戻っていきます。

 ローマのバスは手を上げて乗る意志をはっきりと運転手に示さないと通過してしまうので要注意です。降りるときもバスの車内では停留所の案内放送がないので、車窓とスマートフォンの地図を見て降りたい停留所が次になったらボタンを押さなければなりません。

行き

 ローマ中心部を1周するバスに、カンピドリオ広場の下、ヴィットリオ・エマヌエーレ製記念堂の脇、フォーリ・インペリアーリ、コロッセオから乗車できます。

 アッピア街道の起点付近にあるバス停カラカラ浴場/カペーナ門 Terme Caracalla/Porta Capena からサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂 Basilica S. Sebastiano までは、旧アッピア街道をずっと辿ってきます。この停留所を出ると左折してアッピア・ピニャテッリ街道の方に行ってしまい、マクセンティウスの競技場やチェチーラ・メテッラの墓の前は通りませんが、チェチーラ・メテッラの墓まで500m程なので歩けます。

 頻繁に走っているのでこのバスを乗り継いで見たいところだけ見ることも可能です。

 カタコンベやサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂は観光客が多く、おそらく他にも降りる人がいるので降車はそんなに心配いらないはずです。

帰り

118番のバス停。手を降って乗るアピールをしないと通り過ぎるので注意。

 ローマ方面行きは一部ルートが違います。

 118番のバスが通るアッピア・ピニャテッリ街道 Via Appia Pignatelli は、チェチーラ・メテッラの墓付近では旧アッピア街道から500mほど東です。チェチーラ・メテッラの墓の200m先に両街道をつなぐ道があります。アッピア・ピニャテッリ街道に出たら、バス停は交差点のすぐ北側です。

 北行きはサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂には寄らず、アッピア・ピニャテッリ街道を直進します。

揺れと音がひどく乗り心地は最低。

 間もなくアッピア街道に合流して、先ほど歩いてきた石畳の道を豪快に飛ばします。ローマのバスは街中で突然燃える事故が何度も起きているほど老朽化がひどいのですが、乗ったバスもバネが全く効いていなくて、ガタガタガタガタものすごい音を立てて激しく揺れながら走りました。踏ん張っていないと体が跳ねて椅子から落ちそうなほどです。ちなみにバスの火災は私が訪れた直後の2018年の5月8日にあり、これでこの年9件目だったそうです。街中で高く炎を上げ、黒焦げの骨組みだけになった映像は衝撃的でした。2017年には22件起きたそうです。

 行きに歩いた時に見ていた通り、道がそんなに広くないのにすれ違うときもスピードを落とさずに右側の壁ギリギリを走り抜けます。右側の窓際に座っていたのですが、壁を擦りそうで怖くなり窓から離れたほどです。

チルコマッシモの西側を通って中心地に向かいます。

 ヌマ・ポンピリオ広場からサン・セバチアーノ門までは南方向の一方通行なので、門の手前で左折して西を迂回します。ヌマ・ポンピリオ広場でアッピア街道のルートに合流し、その後カペーナ門からチルコ・マッシモの西側を通ってローマ中心部に進みます。

 バスはローマの中心部を通り抜けてるので、他の人が降りる停留所で適当に降りてもなんとかなります。私は見覚えのあるフォーリ・インペリアーリで他の人が降りるのに続いて降りました。コロッセオまで歩けば地下鉄に乗れます。

カンピドリオ広場の階段コルドナータの下を通過。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の前からフォーリ・インペリアーリへ。

 ローマでポンペイウス劇場といってもガイドブックに出ているわけでもなく、知る人は少ないでしょう。

 それもそのはずで、劇場の形をなしていない、どころか、跡形もないと言っていい状態です。 しかしポンペイウス劇場は歴史上とても有名な事件の舞台となったところなので、そのかすかに残る痕跡をたどると当時の人々の息遣いが聞こえるような、不思議な実感が湧いてきます。



不自然な形の路地

 カンピドリオ広場の下から西に向かい、サンタンジェロ城に通じるヴェットリオ・エマヌエーレII世通り(Corso Vittorio Emanuele II)に入ると、しばらくして左側に目立たないサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(Sant’Andrea della Valle)があります。右に行くとパンテオンやナボーナ広場があって観光客が行き交っていますが、左は建物がぎっしり立て込んでいてこれといった名所はありません。

 この教会の先の路地を左に入ると、やがて右斜め前に分岐する路地が現れます。

右斜め前に分岐する路地

 路地は大抵は直線ですが、この道は大体同じような調子で左にカーブしていて、両側の建物まで弧を描いています。

カーブする道と建物。

 さらに進むとほぼ180度向きを変えて、元の道の延長線上で再び合流します。

ほぼ180度向きを変えて、元の道の延長線上で再び合流。

 この不自然なカーブが実は、古代ローマのポンペイウス劇場の名残なのです。

 古代ローマの劇場は舞台の正面に半円形で階段状の観客席が向き合う形です。カーブした路地や建物は東側を向いていたこの観客席部分です。

 古代ローマの建築はとてつもなく頑丈なので、建物や土台が再利用されているところが少なくありません。ここはポンペイウス劇場の観客席の半円形の部分の上に建物が建てられているためにこんな形をしているのです。

 カーブした道の外側にあるホテル テアトロ・ディ・ポンペオ、つまりは「ホテル・ポンペイウス劇場」というそのまんまの名前のホテルは、今では地下になっている劇場の観客席の下のカマボコ型天井の空間をレストランに使っているそうです。

左側の半円形の部分が観客席。そこから右手の道路の向こう側まで広場がありました。

ポンペイウス劇場で起きた有名な事件

 ここで起きた有名な事件というのはカエサルの暗殺です。

 英語読みのジュリアス・シーザーでシェークスピアの劇にもなったこの人は、間違いなく古代ローマ一番の有名人でしょう。「賽は投げられた」や、まさにこの暗殺された時の「ブルータスお前もか」という言葉も有名です。好き嫌いはあっても、今のフランス、イギリスを征服し、後継者に初代ローマ皇帝アウグストゥス (オクタヴィアヌス)を指定して、ローマがその後も長く続く礎を築いた功績は否定のしようがありません。

 カエサルが暗殺されたのは元老院議場でした。フォロ・ロマーノにはカエサルその人が建設した元老院議場「クリア・ユリア」が残っているので、そこが暗殺の舞台だと思っている人も多そうです。おまけにすぐ近くには、今でも花が絶えないカエサルを祀る神殿跡までそろっているので、勘違いしたとしても致し方ありません。 しかし当時フォロ・ロマーノの元老院議場はカエサルが建て替えの最中で未完成でした。そのためポンペイウス劇場が臨時の元老院議場となっていたのです。つまりカエサルは元老院に出席するために臨時の元老院議場であったポンペイウス劇場を訪れ、そこで暗殺されたわけです。

カエサルが建造したフォロ・ロマーノの元老院議場、クリア・ユリア。
フォロ・ロマーノのカエサル神殿。2000年後の今でも花が絶えません。

 この劇場を建てたポンペイウスは東方を征服した古代ローマの英雄で、かなり人気がありました。 ポンペイウス劇場が完成した紀元前55年当時、カエサルとポンペイウスは三頭政治と言われる密約で表面的には協力し合っていましたが、後に対立します。ポンペイウスはファルサルスの戦いでカエサルに敗北し、その後エジプトの裏切りに会って殺害されました。 そしてそのポンペイウスの造った劇場でカエサルが暗殺される。何か因縁を感じてしまいます。

 しかもカエサルはポンペイウス像の足元に倒れたとされています。さすがにそれは出来過ぎな気がしますが。

 ポンペイウス劇場は舞台の背後、方角でいうと東側に列柱が立ち並ぶ広大な長方形の広場がありました。この広場こそ元老院が開かれていた場所、つまりカエサルが殺された場所です。今では建物に埋め尽くされていて当時を偲ぶのは難しいのですが、紀元前44年3月15日にここにカエサルが立ち、対立者たちにめった刺しにされたのだと思うと、生々しい実感が湧いてきます。

ローマ劇場の元祖

 ポンペイウス劇場はローマで初めての常設の劇場でした。それまでの劇場は上演が終わったら取り壊す木造のものだったのです。

 軟弱だとして禁止されていたとか(だったらなぜ一時的ならいいのか?)、独裁者を出さないように禁止されていたとか(だったらなぜポンペイウス劇場は認められたのか?)とか説明されていますが、何が本当かわかりません。ただこのポンペイウス劇場が初めての常設劇場だったことは確かです。

 古代ギリシアの劇場は自然の斜面や窪地を利用してすり鉢型を造りましたが、ここポンペイウス劇場は平らな土地に建てられました。現代の競技場や野球場と同じ造りです。劇場を作るのに場所の制約がなくなったわけで、その後各地のローマ劇場の多くが平地に建てられています。

 ローマ街道や水道も自然の地形を利用するよりトンネルや橋で強引に通していたのと同じ精神でしょう。

劇場の全体像

 劇場と一体の広場は広大で、東端は東にある通りの向こう側のトッレ・アルジェンティーナ広場にまで達しています。

 トッレ・アルジェンティーナ広場は神殿が発掘されたところで、当時の地面が3〜4m下に見えています。今は地下にあるホテル テアトロ・ディ・ポンペオのカマボコ型天井の空間も、当時は地上にあったことがわかります。

トッレ・アルジェンティーナ広場。向こう側(西)にポンペイウス劇場がありました。

 元の姿を偲ぶには今も形を留めているものを見るのが一番です。

 よくローマ劇場の代表的なものと言われるのが南フランスのオランジュにあるローマ劇場で、残存状態はとてもよく、内部の構造と舞台背後のとんでもなく高い外壁はこれを見て想像することができます。ところがここでは自然の小山を利用して観客席が作られているので、観客席の背後の円形の外壁が存在しません。

オランジュのローマ劇場。
舞台背後の外観。(オランジュのローマ劇場)
観客席の下のかまぼこ型天井の通路。ポンペイウス劇場では観客席は平面に建てられた建造物ですが、オランジュのものは自然の岩山を利用しているので、ここは山をくり抜いたトンネルです、(オランジュのローマ劇場)

 観客席の円形の外観を想像するならマルケッルス劇場やコロッセオがいいかもしれません。でもこれらは円形なので全体像はやはり違っています。

マルケッルス劇場。観客席の外側はこんな感じだったはず。

 舞台の背後に列柱廊が連なっている姿は、残念ながら似たものがありません。

 結局のところ元の全体像を想像するのはとても難しいですね。

残骸

 ポンペイウス劇場は6世紀まで劇場として使われていました。

 ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びたのが476年なので、それからもしばらく使われていたわけです。しかし6世紀半ばに東ローマ帝国と東ゴート王国がイタリアで戦ったゴート戦争でローマの人口が激減したためついに使われなくなり、崩壊が始まりました。

 ルネサンスの頃、新たな建造物を飾るために古代ローマの建築物から大理石やトラバーチンが剥がされ持ち去られていきましたが、ここポンペイウス劇場から持ち去られたものが今では近くにあるカンチェッレリア宮を飾っています。トラバーチンが外壁に、観客席を支えていた赤っぽい円柱が中庭の周囲に使われています。

カンチェッレリア宮の中庭。
この赤っぽい柱が元はポンペイウス劇場の観客席を支えていました。

 ローマの地下鉄B線にピラミデ Piramide という駅があります。Piramide というのはイタリア語で「ピラミッド」のことで、その名の通り駅前広場にはピラミッドが建っています。 このピラミッドが実は紀元前12年頃に作られた古代ローマの遺跡で、執政官を務めたガイウス・ケスティウス・エプロという貴族の墓なのです。

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エジプトブーム

 日本人はエジプト好きですが、実は古代ローマ人もそれに全く引けを取らないエジプト好きでした。ローマにはエジプト文明を象徴するものであるオベリスクが、サン・ピエトロ広場のものを初めとして全部で13個も建っています。エジプトブームだったといってもいいでしょう。 墓をピラミッド型にするなんていうのも、そんなエジプトブームを象徴するものです。

双子の教会で有名なポポロ広場の真ん中にオベリスクが建っています。これはアウグストゥスがローマに運んだものです。
サン・ピエトロ広場の真ん中にもオベリスクが建っています。これは由来がはっきりしません。

 今ではピラミッド型の墓はこのピラミデ一つしかありませんが、かつてはいくつか建っていたそうです。

 サンタンジェロ城の近くにも建っていて、中世にはサンタンジェロ城近くのものがロムルスの墓、このピラミデがレムスの墓と呼ばれていました。ロムルスとレムスは狼に育てられた双子で、伝説のローマ建国者です。

 しかし16世紀に教皇アレクサンデル6世によって解体されてサン=ピエトロ大聖堂の階段に転用されたそうです。今や跡形もありません。

 サン・セバスチアーノ門からアッピア街道を6.3km行った街道沿いに建っている Mausoleo piramidale というのも、もともとはピラミッド型の墓でした。ただ残念ながら表面が崩れ落ちて原型を留めていません。

 ポポロ広場の手間にはフラミニア街道を挟んで2基、他にアウレリア街道沿いにも建っていたことが知られています。

世界七不思議

 ピラミッドは紀元前3世紀のギリシャの数学者・旅行家のフィロンが選んだ世界七不思議に挙げられていますが、古代ローマの時代からでさえ2千年という遠い遠い昔の驚異の古代建築だったわけで、私達と同じような感覚で見ていたのではないでしょうか。

SevenWondersOfTheWorld

 よく現代の世界七不思議としてピラミッドと共にコロッセオが挙げられますが、古代ローマ人にしてみたらコロッセオはできたばかりの現代建築です。今ではそのコロッセオも驚異の古代建築の仲間入りをしているのですから、不思議な感じがします。古代ローマ人は自分たちが作ったものがピラミッドと並んで語られるようになるなんて思ってもみなかったでしょう。それを知ったら喜ぶかもしれません。

古代ローマ人にとってはできたばかりの現代建築だったコロッセオが、現代の世界七不思議としてピラミッドと並べて語られているのです。

ピラミデの姿

 高さは37m。クフ王のピラミッドの高さ137mにはもちろんはるかに及びませんし、古代ローマの建築物としてもとりたてて大きいものではありません。しかし実際にそばで見上げてみるとかなりの存在感で聳え立っている感じです。墓の主の財力や功績を見る人に植え付ける目的は十分に果たしたでしょう。

 表面は大理石に覆われ、修復の甲斐あって白く輝いています。エジプトのピラミッドも元は大理石に覆われていたといいますから、こんな感じだったのでしょう。 側面には文字が見えます。ガイウス・ケスティウス・エプロという人の墓だということもその文字でわかるのです。

上段に被葬者であるケスティウスの名前、下段には17世紀にこれを修復したローマ教皇アレクサンデル7世の名が刻まれています。

 このピラミッドは有名なギザのピラミッドと比べると傾斜がかなり急で、メロエ王国のピラミッドの方が形が似ています。ナイル川上流、今のスーダンのヌビア地域にあったクシュ文明のメロエ王国では、エジプトの影響を受けてピラミッドを作っていましたが、ローマはこのメロエ王国を紀元前23年に攻撃しています。ちょうど時代が合うので、もしかするとガイウス・ケスティウスはこの攻撃に参加していて、その功績を誇るためにメロエ王国のピラミッドに似せた墓を造ったのかもしれません。

Sudan Meroe Pyramids 2001
メロエ王国のピラミッド。

 墓室は塞がれていて元々は入り口はありませんでした。1660年に開けられたときの記録が残っていて、内部はフレスコ画で装飾されていたとのことですが、それも今はほとんど残っていません。

その後

 両側に壁がつながっていますが、これはアウレリアヌスの城壁です。

 3世紀にローマの力が弱まり、それまで長い間城壁を必要としなかったローマも外敵の脅威にさらされるようになって、皇帝アウレリアヌスの時代に城壁が再び築かれました。このアウレリアヌスの城壁は既存の建造物を再利用してそれらをつなぐように築かれましたが、このときピラミデも城壁の一部になったのです。

両側に壁がつながっているのがわかります。右手はサン・パオロ門。

 すぐそばにはオスティエンセ街道への出入り口であるサン・パオロ門(ポルタ・サン・パオロ)があります。

サン・パオロ門。

 地下鉄ピラミデ駅と同じ場所にイタリア鉄道とローマ=リード線の駅がありますが、こちらはポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo を名乗っています。ローマ=リード線は古代のオスティエンセ街道と同じルートでオスティアとの間を結んでいます。

日本人による修復

 私が訪れたのは2008年ですが、その後2012年から2015年にかけて修復され、更に美しくなったそうです。玄室も調査、修復されて、修復後は日にち限定ですが内部が公開されているそうです。公開日に合わせてぜひまた訪れてみたいと思います。

 ところでこの修復は、日本でブランド品の輸入を手がける八木通商の支援で実施されたとのこと。会社の成長に寄与してくれたイタリアへの恩返しでやったことだそうで、変に宣伝していないのに好感がもてます。残念ながらwikipediaにも書いてありませんが、日本人ならぜひ知っておくべきです。

訪問ガイド

 地下鉄B線のピラミデ駅を出ると駅前広場の向こう側にあります。

地下鉄ピラミデ駅、右奥がローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo 駅。

  同じ場所にイタリア鉄道(旧国鉄)のローマ・オスティエンセ駅(Roma Ostiense)とローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ駅(Porta S. Paolo)があります。 ローマ・テルミニ駅とフィウミチーノ空港とを結ぶレオナルド・エクスプレスがここを通過しますが、車窓からちらっとこのピラミデを見ることができます。

ローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo 駅の正面。

 ここが始発のローマ・リード線に乗るとオスティア・アンティカ遺跡に行くことができます。

 ピラミデもその一部になっているアウレリウスの城壁がここから東の方にかけてよく残っていて、ほぼ城壁に沿って歩くことができます。

アウレリアヌス城壁。

 現代のローマは7階建てくらいの建物が連なっていますが、実は2000年前のローマもこれとあまり変わらない姿をしていました。そこに建ち並んでいたのが庶民の住宅、インスラです。



出会い

 ローマ観光の定番、ミケランジェロが設計したカンピドリオの丘に登る階段、コルドナータの左に、多くの人は通り過ぎてしまう遺跡があります。見た目が地味なので足を止める人が少ないのも致し方ありません。何を隠そう私も最初にローマを訪れたときには、この前をたしかに通ったはずなのですが全く記憶にありません。実はこれが庶民の住宅である「インスラ」の遺跡です。

 そのローマ訪問のとき、もともと国内外を問わず遺跡好きだった私は、この後オスティア遺跡を訪れました。ポンペイに比べるとあまり知られていませんが、古代の港町であったオスティアは非常に多くの建造物や見事なモザイク床が多く残されていて、古代ローマ好きなら必見の場所です。そこにインスラはありました。

 ガイドブックとして見ていたとんぼの本「ローマ古代散歩」(小森谷 慶子, 小森谷 賢二著)には、「ディアナの家」と呼ばれるこのインスラは、4階建ての集合住宅だったと書かれていました。

 えっ、4階建ての高層アパートが2000年前の古代ローマにあったの?

インスラの姿

 この旅行で遅まきながら古代ローマの魅力に目覚めた私は、それから色々な本を読み耽りましたが、そこにはインスラが古代ローマの都市には数多く建てられていたこと、それは庶民の住宅であること、首都ローマには9階建てのものもあったと言われていることを知りました。古代ローマのイメージが根底から覆されました。

オスティア・アンティカ ディアナの家
オスティア・アンティカのディアナの家の中庭。
オスティア・アンティカのディアナの家の壁の装飾。当時はレンガむき出しではなく、きれいに装飾されていました。

 Wikipediaによると、皇帝アウグストゥスが火災と倒壊を防ぐためインスラの高さを70ローマンフィート (約20m)に制限したとのことです。現代のマンションの1階は約3mなので、20mというのは6〜7階くらいに当たります。6〜7階建てに制限したのですから、9階建てがあった可能性は十分あります。実は私が今住んでいるマンションは9階建てです。この高さの建物が2000年前の都市に建ち並んでいたなんて、自分の中にあった常識が根底から覆される気分です。現代のローマは7階建てくらいの建物が連なっていますが、2000年前のローマもこれとあまり変わらない姿をしていたということですね。

インスラでの生活

 当然ながらエレベーターなどない時代ですから、上の階には階段で上がることになります。その不便さのため上の階ほど家賃が安く、下の階に金持ちが、上に行くほど貧しい人々が住んでいました。

オスティア・アンティカのディアナの家の上階に登る階段。

 水道や下水の施設はあったようですが、窓から糞尿を投げ捨てる人が多く、ローマの町は悪臭が漂っていたそうです。先進的なところと原始的なところが同居しているのが不思議なところですが、先進的とか原始的という評価自体が自分の勝手な思い込みによって枠をはめているだけなのかもしれません。

 オスティアのインスラのある一角にはパン屋や飲食店があります。2000年前の人々は4階建ての集合住宅に住み、近所のパン屋でパンを買い、食堂で食事したりワインを飲んだりしていたのです。これはもう現代の生活と同じです。

オスティア・アンティカのパンや。粉挽き用の石臼や窯があります。
オスティア・アンティカのテルモポリウム(飲食店)。カウンターやワインの入ったアンフォラという壺を置く場所、中庭があります。

 古代ローマに高層建築が建ち並んでいた2000年前、日本は弥生時代で、人々は竪穴式住居に住んでいました。ヨーロッパではローマ帝国滅亡後、中世には住宅が質素なものに変わり自給自足の生活に戻りました。竪穴式住居のようなものからビルが立ち並ぶ現代まで文明は一方向に進化してきた、と思っていましたが、インスラが立ち並ぶ古代ローマの光景と生活を思うと、文明は常に進化してきたという考えは間違いだと気づきます。今後も人間は行ったり来たりを続けるんじゃないでしょうか。

再びローマのインスラ

 最初のローマ訪問で目にしているはずのインスラ。2018年に再びそこを訪れました。

 前回はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の方から来てコルドナータを登ったので、この前を通ったことは間違いありません。でもやはりこれを見たという記憶は全くなく、写真も撮っていません。

 小雨のぱらつく中、大勢の人々が行き交いますが、やはり足を止める人は多くありません。たまに立ち止まって見ている人もいますが、視線の先にあるのは後世に教会に転用されたときに描かれたキリスト教の絵です。他に見ているのは、先生に連れられた社会科見学の生徒くらいですね。

 現在の地上に出ているのは2階建てで、その上に後世に付け足されたと思われる塔が乗った姿をしています。

ローマのインスラ

 建物の手前が道路から深く彫り込まれていて、覗き込むと5〜6m下に当時の1階を見ることができます。現在の地面の高さにあるのは3階で、もともとは4階建てであったことがわかります。

下を覗き込むと当時の1階まで見ることができます。今の地面と同じ高さにある3階部分に、後世に教会に転用されたときに描かれた宗教画があります。

 1階は間口が広いので、店舗だったのでしょう。カンピドリオの丘の麓という立地は超1等地のように思えますが、そんな場所に庶民の住宅が建っていたというのは意外です。

 アウグストゥスが高さ制限をしたのは作りが雑で倒壊することがあったからだそうですが、こうしてみるとかなりしっかりした建物という印象です。これが立ち並ぶ街並みは、やはり今のローマの街並みと変わらないものだったのではないでしょうか。

 建物の右端は、コルドナータの左に接している、14世紀に作られたアラコエリのサンタ・マリア聖堂に登る階段に喰い込んだようになっています。インスラを壊してその上に階段を造ったのですね。

訪問ガイド

 ローマのインスラはカンピドリオ広場に登るコルドナータと呼ばれる階段とサンタ・マリア聖堂に登る階段の左側にあります。

 オスティアは地下鉄B線ピラミデ駅で同じ場所の地上にあるPorta S. Paolo駅 から出るローマ・リード線に乗り換え、オスティア・アンティーカ Ostia Antica 駅まで30分ほど。