南仏プロヴァンスの街ニームのカステルム・アクアエ(castellum aquae)を紹介します。「何それ?」と思う人が大多数でしょう。しかも数多くのローマ遺跡が残るニームの中でも超マイナーな存在です。しかし古代ローマの水道の仕組みが解る貴重な遺跡です。




カステルム・アクアエとは?

 カステルム・アクアエ(castellum aquae)というのは水道の水を複数の経路に分配する施設です。ここから先は鉛製の水道管で最終目的地まで水が届けられました。

 古代ローマの都市には必ず水道があるので、水道の分水施設であるカステルム・アクアエはどんな都市にもあったはずですが、遺構はあまり残っていません。Wikipediaのカステルム・アクアエの項で紹介されているのも、ローマのテルミニ駅近くにあるニンファエウム・アレクサンドリとポンペイのものだけです。でもこのニームのものも載っていないので、もしかしたら地味だから紹介されないだけで他にもあるのかもしれません。現にスペインのメリダで街を歩いていたらカステルム・アクアエの遺跡に偶然出会いました。いずれにしてもなかなか見ることができないのは確かです。

形と機能

 ニームのカステルム・アクアエは直径5.9m、深さ1.4mの円形のプールです。道路からは奥に見える四角い空洞が水道につながっていたところで、ここから水が円形のプールに流れ込み、手前側にある直径40cmの10個の丸い穴につながった水道管に流れ出ていました。穴の大きさは同じに見えるので、水は均等に分配されていたと思われます。穴はプールの底から少し上がったところに開いていて、不純物を沈殿させて取り除く役割も果たしていました。

 ニーム、ローマ、ポンペイ 、メリダのものはどれも形や構造が違うようですが、このニームのものは一度説明を聞けばひと目で仕組みがわかります。古代ローマの水道の仕組みを知るにはうってつけです。

 水道からの入り口は少し角度が付けられています。おそらく中で水が渦を巻くようにするためで、それによって水が滞留することなく均等に水道管に流れ出る効果があったものと思われます。

 ポンペイに残るカステルム・アクアエは出口を個別に閉め切ることができるようになっていて、水が少ない時は給水先の調整ができたようですが、ここニームのものにはそのような設備は見つかっていません。同じ地中海沿いで夏に降水量が少ないのは一緒なので、調整は必要だと思うのですが、なぜ調整の設備がなかったのか理由はわかりません。水量の変化が少なかったのでしょうか。

 水道管は二つ一組になっていると言いますが、見た目ではよくわかりませんでした。ここから先、街にどのように配水されていたのかはよくわかっていません。

 歩道からは見えませんが手前の底には3つの排水口があり、下水に水を流してプールを空にすることができました。水槽の手前側の水道管があったはずのところの下にある蓋付きの溝が、この排水口から水を流す通り道です。空にするのは清掃や修復のためです。ローマの凄さはこうした施設をただ造るだけでなく、長期間に渡って維持管理したことですが、そのためにメンテナンスのための構造や設備が予めきちんと造り込んでありました。

壁に描かれていた絵

 プールの周囲には建物の土台や壁の残骸があります。今のようにプールが剥き出しで設置されていたのではなく、元は正方形の列柱の建物がプールを覆っていました。カステルムというのはその建物全体を指した言葉です。

 1844年に発見された当時、壁にはイルカと魚が描かれているのが見えていたそうです。今は色褪せて何も見えません。これは見てみたかった。ちなみにポンペイのものは今でも絵が残っています。

 若いころ日本の古代史研究者である上田正昭さんの授業で、高松塚古墳の壁画を発掘した時のことを聞いたことがあります。水に浸かった状態で発掘されたものが、水がなくなって空気に触れた途端、みるみる色あせたそうです。発掘は破壊だから慎重にやらなければならない、とおっしゃっていました。高松塚の壁画はその後カビで大幅に劣化し、今では剥がして修復した上で室内で保管されています。秦の始皇帝陵は技術が整うまでは発掘しないと決めているそうです。貴重な遺産を将来に残すためにはこれも一つのやり方です。でも箸墓に埋まっているもの(卑弥呼が魏から贈られた銅鏡100枚?)と、始皇帝陵の水銀の川と海が広がる地下世界はやっぱり見てみたいものです。

http://www.romanaqueducts.info/aquasite/index.html

水道のルートと水道橋

 この水道の水源はニームから北北東に直線距離で20km離れたユゼスにある湧き水です。水道はユゼスとニームの間にある台地を大きく東の方に迂回しているため、全長が50kmもあります。更にユゼスとニームの間にはガルドン川が流れていて、水道は川を橋で越えています。これが誰もが知るローマ水道橋の代表選手、ポン・デュ・ガールです。首都ローマの外にあるものでは一番有名と言っていいと思いますが、実物を見てもその巨大さに圧倒されます。

ポン・デュ・ガールはこのカステルム・アクアエに給水する水道の途中にあります。

 ポン・デュ・ガールは紀元前にアグリッパによって造られた、と以前は言われていて、いまだに旅行ガイドやネットでその説明をよく見かけます。しかし最新の研究では、ポン・デュ・ガールを含めたこの水道が造られたのは1世紀後半と考えられています。当然ながら水道の構成要素であるカステルム・アクアエが造られたのもその時です。

 紀元前にカエサルが配下の退役兵に土地を与えたのが、ニームのローマ都市としての始まりです。それ以前から今のイタリアとスペインとを結ぶローマ街道であるドミティア街道上の都市として重要な位置を占めていましたが、1世紀にはこの辺りは平穏で大きな出来事がなく、そのため逆にどのような状態だったのかよく解りません。水道橋が新設されたのですから安定して発展し人口が増えていたのでしょう。

ニームの紋章、ヤシの木とワニ。

 同じ水道の一部でありながら、ポン・デュ・ガールに比べるとカステルム・アクアエは小さくてとても地味です。巨大建築も確かに驚異の存在ではあるのですが、私はインスラやパン屋、公衆トイレなんていうものが、古代ローマ人の現代に引けを取らない豊かな生活、いやもしかすると少なくとも精神的には現代人より豊かな生活を垣間見ることができて好きです。カステルム・アクアエもこれを見ると古代ローマ人の知恵と高度な技術に支えられた人々の豊かな生活が目に浮かぶようで、私にとってはポン・デュ・ガールと同じくらいの存在感があります。

行き方

 ニームはパリ・リヨン駅からTGVで3時間です。

 カステルムはニーム駅から北に1.6km、円形闘技場からは900mです。

 車の場合は道が細くて近くには停められないので、街中の駐車場に入れて歩くのがいいでしょう。円形闘技場の南東側には大きな地下駐車場があります。

 カステルム・アクアエがあるのはニームの市街地の北部、北に向かって上り坂になったところで、ニーム大学の西側の外壁に沿うランペス通り(Rue de la Lampeze)沿いにあります。円形闘技場やメゾン・カレからは北、マーニュの塔の東に当たります。

 非常に判りにくい場所にある上に案内はほとんどなく、ランペス通りも細い道なので、私は散々迷った後にやっとたどり着きました。今ならGoogleマップに ”Castellum Aquae” として載っていますからルート検索すれば簡単にたどり着けるでしょう。

 ニーム大学の建物は元は17世紀に建てられたフォート・ボーバン(Fort Vauban)という要塞で、その後刑務所に使われた後、1995年に大学になりました。見た目はまさに要塞です。

 ニームには見栄えがして判りやすいローマ遺跡があります。展示が分かり易い円形闘技場、保存状態がよく美しい神殿メゾン・カレ、城壁に設けられた見張り塔であるマーニュ塔です。円形闘技場には剣闘士の種類がイラスト付きで説明されていて、見ているだけで面白く、剣闘士の姿や試合の様子の理解が深まりました。

参考文献

更新履歴

  • 2020/3/3 新規投稿

 ローマの玄関口テルミニ駅の南東にあるマッジョーレ門(ポルタ・マッジョーレ)は水道橋の一部として造られたもので、上に2本の水道が通っています。しかしこの周辺を通る水道はこれだけではなく、水道が渋滞していると言ってもよいほどの混雑ぶりです。


マッジョーレ門

 ローマの玄関口フィウミチーノ空港、通称レオナルド・ダ・ヴィンチ空港からノン・ストップの急行列車レオナルド・エクスプレスでローマ入りすると、左に急カーブして間もなくテルミニ駅に到着という辺りで、左の車窓から白い門が見えます。今回の主役はこのマッジョーレ門(ポルタ・マッジョーレ)とその周辺です。

レオナルド・エクスプレス車窓から見たマッジョーレ門。
空港からテルミニ駅に向かうと到着直前に左側に見えます。

 マッジョーレ門の両側には茶色い壁が連なり、この壁はだいたい南東から北西の方向に、途中何度かカクカクと折れ曲がって伸びています。これは3世紀後半に造られた、ローマを取り囲むアウレリアヌス城壁です。ゲルマン人がアルプスを越えて侵入してきたことをきっかけにローマを守るために造られたアウレリアヌス城壁は、建設を早めるため多くの既存の建物を城壁に転用しました。マッジョーレ門付近もそうで、城壁になる前の姿は水道橋でした。

 マッジョーレ門は両側の城壁より高く、その飛び出た部分の側面を見ると四角い穴が縦に2個並んでいます。これが水道の導水管で、上がクラウディア水道、下が新アニオ水道です。両側の城壁の上の導水管は崩れてなくなってしまいましたが、おかげで断面がむき出しになって水道が通っていたことがひと目でわかるようになりました。(門の上が3層になっているので、水道が3段とよく誤解されますが、実際には水道は2段です。)

ポルタマッジョーレの上には2本の導水管が通っています。
上がクラウディア水道、下が新アニオ水道です。

 と、ここまでは観光ガイドなどにもよく書いてあり、「ああ、あれね。」って方もいるでしょう。もちろんこれだけでも充分すごいのですが、この場所にあったものやその変遷は今の姿を見ただけでは分からない複雑なものなのです。

水道はいったい何本?

 マッジョーレ門の南東側正面に立ってみます。テルミニ駅方面から来たならマッジョーレ門をくぐった反対側です。門の周辺は広場になっていて、こちら側がラビカノ広場、反対側がポルタ・マッジョーレ広場と呼ばれています。

 城壁は全体として左後方から右奥の方に伸びています。左後ろからまっすぐ伸びてきた城壁はすぐ左手で直角に右に折れ、正面を100mほど直線で横切ります。マッジョーレ門はその中央やや右寄りにあり、その右側では二つのアーチの下を路面電車が通っています。直線部分の右端で城壁は向こう側に約45度折れています。ここからは見えませんが、その先は90m程で線路に突き当たって一旦途切れ、更に線路の向こう側に続きがずっと伸びています。線路ができる前はつながっていたのでしょう。

赤い線がアウレリアヌス城壁。

左後ろ、南東の方角から伸びてきた城壁は、右に90度折れてマッジョーレ門に至ります。
北西側から見ると先が45度左に折れているのがわかります。

 今ではひとつながりのこの城壁は、実は二つの水道橋をつなげたものです。境目は正面の直線部分の右端です。クラウディア水道などを載せた水道橋は、左から来てマッジョーレ門を越えた後、境目の手前で左に直角に折れて向こう側に向かっていました(下記地図の赤線)。一方で、今はなくなってしまいましたが、右後方から別の水道橋(マルキア水道、テプラ水道、ユリア水道)が左側のクラウディア水道とほぼ並行に来ていて、右奥に伸びる部分につながっていました。(下記地図の青線)

赤い線がクラウディア水道+新アニオ水道、青い線がマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道で、太線が今も残っている部分です。至近距離にあった2つの水道橋をつないでアウレリアヌス城壁が造られました。オレンジ色の線はネロが造ったクラウディア水道からの分岐です。

 境界のところをよく見ると、水道橋が手前からつながっていた痕跡があります(上記地図で青い細線と太線が接続する部分)。上部に二つ並ぶ四角い穴が導水管です。上面が崩れていますがその上にもう一つ導水管があったらしいこともわかります。つまりこちらは水道が3段重ねになった水道橋でした。下からマルキア水道、テプラ水道、ユリア水道です。マッジョーレ門の導水管と比べると低い位置を通っています。

右手に手前から水道橋がつながっていた痕跡があります。
上部に二つ並ぶ四角い穴が導水管です。

 今目に見える水道はこの5本ですが、この辺りを通っていた水道はまだあるのです。ローマ最古の水道であるアッピア水道、旧アニオ水道、古代最後に造られたアレクサンドリナ水道の3本で、これらは地下を通っていたので見えません。更に中世に造られたフェリクス水道もここを通っていました。

 結局ここには古代ローマの水道8本、中世の水道1本、合計9本の水道が通っているわけです。古代にはローマの街に11本の水道がありましたが、そのうち8本がここにひしめいていたことになります。

最初の水道、アッピア水道

 時代を追って見てみましょう。ここでもマッジョーレ門の南東側正面に立っているものとします。

 紀元前4世紀、ここはまだローマの街の外で、その当時ローマを囲んでいたセルウィウス城壁から1.2kmほど離れています。セルウィウス城壁のエスクイリーナ門(Porta Esquilina)を出て南東に向かう街道がこちらに向かって伸びていて、すぐそこで二手に分かれています。一つは東に向かうプラエネスティーナ街道、もう一つは東南東に向かうラビカナ街道です。ただし街道といってもこのときはまだアッピア街道ができる前なので、後の時代のような頑丈な舗装道路ではありません。

 今触れたローマ最初の高規格道路であるアッピア街道を作ったアッピウス・クラウディウス・カエクスは、ローマ最初の水道も造りました。それが紀元前312年にできたアッピア水道で、ここを通った最初の水道でもあります。後の水道より高度が低く、今立っている場所の右下辺りの地下を通っているので見ることはできません。

 この頃の首都ローマの人口は20万人程度です。当時の共和政ローマが支配するのは都市ローマを中心とする地域だけで、アペニン山脈に住んでいるサムニウム人と断続的に戦っていました。いつ攻め込まれるかもしれず、地上に水道を引いたのでは破壊されたら終わりです。だからアッピア水道はほとんどが地下を通っていました。アッピア水道はテベレ川沿いの港であるフォロ・ボアリウムまで通じていて、途中セルウィウス城壁の上を通り、アッピア街道の出発地点であるカペーナ門の上を通っていたとも言われています。

1本目の水道橋

 紀元前269年、ローマで2番目の旧アニオ水道が建設され、同じくここの地下を通ります。イタリア半島南部、長靴のかかとの付け根にあるタレントゥム(現在のターラント)を巡りエピロス王ピュロスと戦って勝利し、イタリア半島をほぼ手中に納めた頃です。この戦いの戦利品が旧アニオ水道の建設費用となりました。一旦平穏が訪れたのでしょう。カルタゴとのポエニ戦争が始まる5年前のことです。

 アニオ川上流を水源とするのでこの名で呼ばれていますが、もちろん「旧」と呼ばれるようになったのは「新」ができてからです。

 そしてポエニ戦争が終わった6年後、紀元前140年にマルキア水道の水道橋が造られ、右側に壁のように連なります。景観が一変したでしょう。

 法務官クィントゥス・マルキウス・レクスによって造られたもので、建設にはポエニ戦争と、ギリシアのコリントスとの戦いの戦利品が充てられました。首都ローマの人口は40万人程度に増えていました。

 これも水源はアニオ川上流域ですが、もはや周囲に敵はおらず攻め込まれる恐れもないので、ここまでの10kmくらいが地上にむき出しの水道橋です。

 紀元前126年、テプラ水道がマルキア水道の上に載せられて水道橋が高くなりました。グラックス兄弟の兄が暗殺され内乱の1世紀と呼ばれる時代に突入した頃です。

水道と水道橋の増殖

 そして紀元前33年、内乱の1世紀も収束に向かい、もうじきオクタヴィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を得ていわゆるローマ皇帝となるころ、オクタヴィアヌスの生涯の同志であったアグリッパがユリア水道を造りました。カエサルが建設を初めたので彼の氏族名から「ユリア水道」と名付けられた、という説もあります。

 これはまたもやマルキア水道の水道橋の上に載せられ、10kmくらいの間ずっと3段重ねでここまでやって来ることになりました。以前に造られたテプラ水道は、名前が「生ぬるい」を意味する “tepid” から来ているという通り、水温が高く飲料水に適さなかったため、このとき同時に造り替えられました。 

 考えてみるとマルキア水道の水道橋が造られたのは100年以上も前のことですから、これが健在で、それどころか上に新たに水道を付け足しても耐えられる状態にあるというのは驚くべきことです。建築技術のレベルの高さはもちろんですが、確実にメンテナンスする意思と、そのための組織や人を維持する強固な政治体制がなければ実現できないことです。

 この水道の下流、線路の向こう側に続く城壁の途中にティブルティーナ門があり、その壁面にはアウグストゥス帝による3つの水道の修復と、ティトゥス帝とカラカラ帝によるマルキア水道の修復を顕彰した碑文が刻まれています。

ティブルティーナ門。(Wikimedia)

マルキア、テプラ、ユリア水道は線路の東側に続きがあり、テルミニ駅の東にティブルティーナ門があります。

 まだここに右側の水道橋だけしかないこの頃、分岐したばかりの二つの街道に挟まれたところに、パン屋エウリサケスの墓が造られます。マッジョレー門よりこっちが先に作られたのですね。上部はピラミッド型の屋根のようになっていました。マッジョーレ門もその両側の水道橋もまだなく、街道沿いの一等地にそびえ立つ表面をトラバーチンで装飾した白い墓はかなり目立ったはずです。

「パンはパン屋で」

マッジョーレ門の南東側に建つパン屋エウリサケスの墓。
マッジョーレ門より前に造られたものです。
上部のレリーフはパンの製造工程を描いたものです。

 そして右側の水道橋ができて200年になろうかという頃、新たな水道橋が左から正面を通過します。3代皇帝カリグラが造り始め、4代皇帝クラウディウスが紀元52年に完成させた、クラウディア水道と新アニオ水道を2段重ねにした水道橋です。都市ローマの人口はこの頃には80万人に達し、水の需要が急増したので、ユリア水道、クラウディア水道、新アニオ水道、更にここを通らないヴィルゴ水道(紀元前19年)、アルシエティナ水道(紀元前2年)と短い間に5本もの水道が造られました。

 この場所は左右と正面を水道橋の壁で塞がれることになりました。しかも新しい水道の導水管は、ちょうど右側の水道橋の上に載るくらいの高さで、右側のものよりかなり高く聳えています。相当窮屈で圧迫感を感じるようになったことでしょう。

 この水道橋がプラエネスティーナ街道、ラビカナ街道と交差するところに造られたのがプラエネスティーナ門、今マッジョーレ門と呼ばれる門です。トラバーチン製で白く美しい姿で造られたのは、圧迫感を些かでも感じないようにするためというのもあったのではないでしょうか。大きく2つのアーチがあるのは、直前で分岐した2つの街道を通すためで、右がプラエネスティーナ街道用、左がラビカナ街道用です。

 マッジョーレ門の上部には両面に碑文が刻まれています。3段になっている一番上の段、つまり新アニオ水道の導水管の壁面には皇帝クラウディウスによる水道建造を顕彰する碑文が、2段目、つまりクラウディウス水道の導水管の壁面には紀元51年の皇帝ウェスパシアヌスによる修復を顕彰する碑文が、そして3段目には紀元81年の皇帝ティトゥスによる修復を顕彰する碑文が刻まれています。(3段目の内側には導水管はありません。)

 二つ水道橋はすぐ近くまで接近していたものの、別々の水道橋なのでつながっていませんでした。つまり後にアウレリアヌス城壁になる時に間に壁が造られてひとつながりになったということです。

 なお右側のマルキア水道は手前で鉤形に曲がった復元模型もあり、それだとこの空間は四方を水道橋で囲まれることになります。そうだとするともはや外ではなくて中庭のような感じでしょう。

暴君ネロとドミティアヌスのプライベート水道

 クラウディウスの次の皇帝ネロは、クラウディア水道を分岐させてチェリオの丘に向かう分岐を造りました。Arcus CaelimontaniまたはArcus Neronianiと呼ばれています。左手で直角に曲がるところを直進した後、西南西のラテラノ大聖堂の方角に向かっていて、その登り坂に水道橋跡が残っています。ネロはチェリオの丘を超えたところ、今コロッセオがある付近に私邸である黄金宮殿や巨大な人工池を造りました。これらに必要な大量の水を賄うためにこのクラウディア水道の分岐を造ったのです。

左がマッジョーレ門。右が分岐してチェリオの丘に向かうネロの水道。
ラテラノ大聖堂方面への上り坂にある水道橋跡。
向こうにラテラノ大聖堂前に建つオベリスクが見えます。

 その後皇帝ドミティアヌスはそれを更にパラティーノの丘まで延長しました。パラティーノの丘に東側の入り口から入場すると、丘の上に登る道の途中で水道橋跡が横切りますが、それがこの分岐水道です。コロッセオのある谷間の標高は18m、パラティーノの丘は45mなので、チェリオの丘からパラティーノの丘まで27mくらいの高さの水道橋が渡っていたことになります。スペインのセゴビアに残る水道橋が高さ28mなので、それと同じくらいの高さの水道が横切る景観がコロッセオの近くにあったのですね。

パラティーノの丘の東側の入り口から入ると丘に登る途中で水道橋跡が横切ります。
これがクラウディア水道の分岐です。

パラティーノの丘の東側の入り口近くの道路から見たクラウディア水道の分岐です。
左側がパラティーノの丘、道の向こうに見えるのがコンスタンティヌスの凱旋門、
その先はコロッセオです。

 パラティーノの丘にあったのは皇帝の私邸なので、ネロにしてもドミティアヌスにしてもこの分岐水道を個人のために造ったことになります。言うまでもなく他の水道は公共のためのものですから、これはかなり特異なことです。

 この姿で古代ローマの最盛期である200年を過ごします。首都ローマの人口は紀元164年に100万人を越えたと考えられているそうですが、クラウディア水道ができた頃の80万人から100万人に増えた程度なので、その間にはここを通らないトライアーナ水道(紀元109年)が造られただけでした。

ローマが衰えゆく頃

 そして200年近く経った226年、皇帝アレクサンデル・セウェルスによってアレクサンドリナ水道が造られました。ルートははっきりしないもののこの辺りの地下を通ったというのが通説です。

 ただし、水道のことが詳しく判るのは1世紀後半の水道長官フロンティヌスが「水道書」を残したからですが、この水道はそれより後に作られたため記録がなく、また高度が低くてここから3km手前のものを最後に地上に残存物がないため、本当にここを通っていたのかどうかわかっていません。

 これが古代ローマ時代の11本のうち最後に造られた水道です。ネロ浴場の改築のために造ったと言われますが、紀元216年にカラカラ浴場が造られた時には、そこに水を引くためのアントニニアーナ水道をマルキア水道からの分岐で済ませています。それなのに元からあった浴場の改築のために新規の水道を引くというのは考えられません。この頃に人口が増えたとも思えず、軍人皇帝の直前の影の薄い皇帝(私はそんなのいたっけ?と思いました。)が、200年近くの空白の後になぜ水道を造ったのか、よくわかりません。

 アレクサンドリナ水道ができてから約50年後の紀元275年、アウレリアヌス帝によって二つの水道橋が城壁に組み込まれ、間に壁が造られてひとつながりになります。細い隙間が埋められただけなのであまり景観は変わらなかったと思われますが、城壁にするためにアーチの隙間を埋めたり、マッジョーレ門を閉め切れるようにするなどの改装はしたでしょう。

 かつて敵が破壊できないように地下に水道を通したのと比べると、大切な水道橋を城壁に転用してしまうというのは短絡的な発想と思えてしまいます。もう理念や誇りなどなく、近視眼的な実利だけで動く世界になってしまったのでしょう。

 4世紀末から5世紀初めの皇帝ホノリウスの頃、エウリサケスの墓を塔が覆いました。400年代にローマは西ゴート族のアラリックに率いられた軍勢に何度か囲まれ、410年には城壁内に侵入されていますが、これと関係あるのかもしれません。後に塔は取り去られますが、これによってピラミッド型の屋根や手前の部分が壊れてしまいました。取り去られた門の一部が左脇によけて置かれています。

18世紀の画家ピラネージが描いたマッジョーレ門の姿。
(東京大学総合図書館所蔵)

 そして476年、ロムルス・アウグストゥルスの退位によって西ローマ帝国は滅び、水道橋は次第にメンテナンスもされなくなって水を供給できなくなっていきました。

ローマ亡き後

 ずっと時代が下ってほとんどの水道はとっくに使い物にならなくなっていた1590年、教皇シクストゥス5世がフェリクス水道を造りました。これは過去の水道の遺構を再利用していますが、この場所ではクラウディア水道の水道橋からマッジョーレ門を通り、そのままアウレリアヌス城壁に沿ってマルキア水道につながるコースを取っているようです。

 マルキア水道の上流側やクラウディア水道の下流側はきれいになくなってしまいました。これらがいつどういう理由でなくなったのか判りません。古代ローマの建造物は2000年の間に徐々に壊れていったと思いがちです。しかし実際にはルネサンス期以降の芸術家やローマ教皇、政治家などが建築材料として持ち去ったり、素晴らしい彫刻や装飾を自分が造った広場や建物に好き勝手に移設したり、権力を誇示する建物の建設のために破壊したりすることで失われたものが多いのです。ここもそういう原因で姿を変えたのではないでしょうか。

 19世紀後半にはすぐ脇を鉄道が通り、マルキア水道の水道橋が断ち切られてしまいました。でもマッジョーレ門とこの場所が残って本当によかった。

この左側で水道橋は途切れ、線路の向こう側に続いています。

水道のルート

 ここを通る水道はローマの東か南東に水源がありますが、そのうちの4つ、旧アニオ水道、マルキア水道、クラウディア水道、新アニオ水道の水源は全てアニオ川上流域です。アニオ川はアペニン山脈を水源とし、ティボリの街の近くからハドリアヌスの別荘(ヴィッラ・アドリアーナ)の北側を通って西に流れ、ローマの北でテベレ川に合流する川です。おそらく土地の高度や傾斜の関係と思われますが、どの水道もティボリからはアニオ川を離れて南下して南を迂回していて、ローマには南東の方角からやって来ます。

 マッジョーレ門付近に来るまでの間、2つの水道橋はかなり長い距離の間すぐ近くを並んで通っています。ローマの南東8kmにある水道橋公園にはすぐ近くをほぼ平行に通っている2つの水道橋が残っています。そして面白いことに水道橋公園の北側では2回交差しています。なぜこのように交差するルートを採ったのかは謎です。

 しかしそもそもそんなにルートが被るのなら、クラウディア水道と新アニオ水道もマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の上に載せてしまえばいいのに、なぜそうしなかったのでしょうか。5段にしたらさすがに強度が耐えられないからでしょうか。それとも積み重ねるとメンテナンスが難しいからでしょうか。

水道の終点

 水道の終点はカステルム・アクアエという分水施設で、そこから先は青銅製の給水管で目的地まで水が届けられます。

 そのカステルム・アクアエの遺跡がマッジョーレ門の北西1kmにあるヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に残っています。ニンファエウム・アレクサンドリという遺跡で、その東の線路の近くにはここにつながっていたと思われる水道橋の断片も残っています。

 ここはアッピア水道の分水施設と言われていましたが、近年精密な測量が行われ、その結果から今ではクラウディア水道か新アニオ水道の分水施設と考えられています。

終点にある分水施設(カステルム・アクアエ)の遺跡、ニンファエウム・アレクサンドリ。クラウディア水道か新アニオ水道の水道のものと考えられています。

ニンファエウム・アレクサンドリまでの想像されるルート。途中の太線部分に水道橋の一部が残っています。

 かつてここにはマリウスのトロフィーと呼ばれるものがあり、これはルネサンス時代にカンピドリオの丘の正面階段コルドナータの上の欄干の内側に移されて今でも残っています。カストルとポルックスの像の両脇にあるものです。マリウスはカエサルの叔父なので、クラウディア水道や新アニオ水道が作られた時よりずっと昔の人で時代が合いません。しかしこのトロフィーは本当は11代皇帝ドミティアヌスのためのものらしく、それならすでにあったカステルム・アクアエに後から建てられたとすれば辻褄が合います。

カンピドリオの丘の正面階段コルドナータの上の欄干にあるマリウスのトロフィー。
元はニンファエウム・アレクサンドリにあったものです。

 しかし一方で、クラウディア水道と新アニオ水道のカステルム・アクアエとしてニンファエウム・アレクサンドリとは別の建造物を描いたものがあります。古代ローマ遺跡の絵を数多く描いた18世紀の画家ピラネージによるエッチングで、背景にマッジョーレ門が描かれていますが、明らかにもっとマッジョーレ門に近い場所です。この建造物は線路沿いに建つミネルウァ・メディカ神殿の南東100mにあったもので、干草小屋として使われていましたが1,880年に火災で失われました。ピラネージはニンファエウム・アレクサンドリも描いていますが、これをユリア水道の貯水槽としています。

18世紀にピラネージが描いたクラウディア水道と新アニオ水道のカステルム。右後方にマッジョーレ門が見えます。
(東京大学総合図書館所蔵)

 フェリクス水道の末端施設はクイリナーレの丘にあるフェリクス水道の泉(Fontana dell’Acqua Felice)です。三越がある共和国広場から北西に200mのところにあります。フェリクス水道建造より前の1453年に教皇ニコラウス5世がヴィルゴ水道を修復していますが、これは今も機能していて、観光客が押し寄せるトレビの泉の水もこの水道のものです。しかしフェリクス水道の方は全く機能していません。

行き方

 テルミニ駅前から路面電車かバスで10数分です。(P.Za Di Porta Maggiore下車)

 歩く場合はテルミニ駅の南側を線路に沿う方向である南東に1.7km、20分ほどです。ただし途中は移民の多い地域で治安があまりよくありませんから、スリなどには要注意です。暗くなってからここを歩いて行くのは避けた方がいいでしょう。

 私は2018年にテルミニ駅から歩いて行きましたが、線路に一番近い道は少し行くと暗く薄汚れた感じになったので一本右側の通りに移りました。その後マーケットのようなところでは少しみすぼらしい服を着た人も多く行き交っていて、特に被害に遭ったわけではないもののちょっと緊張感がありました。

 ただしこれはテルミニ駅とマッジョーレ門の間の部分のことで、マッジョーレ門周辺や、その後向かったラテラノ大聖堂方面は特に気になるようなところはありませんでした。

 最初に書いた通り、ローマの玄関口レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とテルミニ駅を結ぶレオナルド・エクスプレスの車窓からもマッジョーレ門を一瞬見ることができます。列車は南側の一番近い線路を通り、駅が間近なのでスピードも遅いので、準備しておけば見落とすことはないはずです。テルミニ駅行き列車からは左側、空港行き列車からは右側です。

空港とローマ市内を結ぶレオナルド・エクスプレス。

参考資料

更新履歴

  • 2020/2/3 新規投稿
  • 2020/9/4 ドミティアヌスの水道の高さを訂正
  • 2021/4/9 水道の経路を描いた地図を追加
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。
  • 2021/4/12 ピラネージがニンファエウム・アレクサンドリをユリア水道の貯水槽としていることを追記。
  • 2021/4/24 バス停名追記。

 オスティアはかつて首都ローマの港湾都市として栄えたところで、建物が豊富に残っています。特にモザイクはバラエティーに富んでいて見応え充分。私はポンペイよりオスティアの方がお気に入りです。




オスティア概要

 ローマ中心部を流れるテヴェレ川がティレニア海に注ぐ河口の近くにオスティア・アンティカ遺跡があります。ローマ中心のフォロ・ロマーノから南西方向に22kmほどのところです。

 古代の首都ローマに住む膨大な数の人々の生活を維持するために、領内各地から小麦やワイン、オリーブオイルなどの食料品を始めとする様々な生活必需品が大量に運び込まれました。また贅沢な欲求を満たすため、周辺地域や遠く中国やインド、アフリカなどから高級品や珍品も持ち込まれました。それらの産物の多くが船でオスティアまでやってきて、テヴェレ川を遡ってローマまで運ばれたのです。

 オスティア・アンティカ遺跡は今は海から4kmほど内陸にありますが、これはテヴェレ川が運ぶ土砂で海が埋め立てられたためで、古代には海辺の都市でした。

 街は城壁に囲まれ、その東側のローマ門にはローマから通じていたオスティエンセ街道(Via Ostiensis)がつながっていました。今の遺跡の入り口を入ってすぐのところです。

オスティアのローマ門につながるオスティエンセ街道。
オスティアの玄関口、ローマ門。

 ローマ門から、ローマ都市を東西に貫くデクマヌス・マクシムス通りが伸びています。通りは途中から南寄りに折れ、反対側の端にあるマリーナ門まで通じています。マリーナ門を出た先は海でした。

港湾都市ならではの施設、同業者組合広場

 港湾都市ならではの独特の施設が「同業組合広場」です。

 街の北西部、ローマ劇場の舞台の背後にフォロがあり、これをコの字型に61の小部屋が取り囲んでいます。この多くは船主の事務所と考えられています。部屋は4m四方の大きさで、入口は中央のフォロの方に開いています。そして部屋の手前の床には漫画チックでかわいらしいモザイク画が描かれています。その絵柄は取り扱っている物や、商人の故郷に因むものと言われています。

ローマ劇場の向こう側がフォロで、その周囲をコの字型に部屋が取り囲んでいるのが「同業組合広場」。

 一番多いのは魚や船ですが、それらの姿はバラエティーに富んでいます。

 海神のような絵柄もあります。航海の安全祈願でしょうか。

 底の尖った容器はアンフォラという陶器製の容器で、ワインやオリーブオイルの運搬に使われたものです。

 粉を挽く石臼は小麦を扱っていたということでしょうか。

 象の絵もあります。象か象牙を扱っていたのか、それとも故郷に象がいたのか。

 故郷の街を象徴する建造物を描いたと思われるものも。

 こちらは文字だけのもの。

 何かを作っているように見えます。

 上に描かれた人物像は誰なんでしょうか?

生活の跡

 オスティアには商人、船主、船乗り、倉庫を経営する者、たくさんの荷役労働者とそれらを仲介する者、そしてそれらの人々の生活を支える者が住んでいたはずです。その生活の匂いのするものがたくさん残されています。

 高層住宅インスラは数多く残っています。これはディアナの家と呼ばれるもので4〜5階建てだったそうです。
庶民の住宅インスラ

高層住宅インスラ。

 ディアナの家の近くに飲食店テルモポリウムがあります。店内にはカウンターがあり、壁にフレスコ画が掛かっています。フレスコ画には左側には器に載せられた豆のようなものと蕪、中央にはコップ、右側には壁に吊るされた食べ物か楽器のようなものが描かれています。観賞用の芸術作品とはとても思えません。看板のようなものでしょうか。

カウンターや中庭を備えた飲食店テルモポリウム。

 店の奥には中庭があり、このテラス席でも食事ができたようです。

奥にはテラス席。

 魚屋には大理石製の水槽と調理台が残され、床にはモザイク画が描かれています。

水槽と調理台を備えた魚屋。

 小麦を挽く石臼が残るパン屋。古代ローマ人はパンをパン屋で買っていたのです。
パンはパン屋で

石臼を備えたパン屋。

 これは水洗式の公衆便所。穴の空いたところが便器です。古代ローマ都市にはいくつもありました。

水洗式の公衆便所。

モザイク床

 モザイク床も数多く残っています。

 ネプチューン浴場は馬や神様の姿が躍動的で大迫力です。

ネプチューン浴場のモザイク。

 七賢人浴場は整腸の極意を表しているのだそうです。モザイク画というと芸術作品なのかと思ってしまいますが、こんなふうに情報を伝えるためのものもあるのですね。テルモポリウムの壁のフレスコ画もそうですが、現実的なところがローマらしい気がします。

七賢人浴場のモザイク。整腸の極意を表しているのだとか。
七賢人浴場のモザイク。

 名前が書かれている解放奴隷の邸宅の浴場もあります。しかしこの姿で何を訴えたいのでしょうか?

名前が書かれている解放奴隷の邸宅の浴場。

物流ルート

 1557年の洪水で川筋が変わってしまっていますが、かつては街の北側を直線的にテヴェレ川が流れていて、ここに港がありました。積荷はここで平底船に積み替えられ、櫂で漕いだり川岸から牛に曳かせてテヴェレ川を遡りローマに運ばれたといいます。

 テヴェレ川に沿って牛が歩く曳舟道がローマまで続いていたはずですが、今の地図や衛星写真を見ると道は途切れ途切れです。川筋が変わったり、使われなくなって道が埋もれたりしたのでしょう。

 ローマで積み荷を降ろした場所は初めはフォロ・ボアリウムでした。真実の口から道を挟んだところにある広場です。後にここは手狭になり、紀元前2世紀に少し下流のアヴェンティーノの丘の南側のりーパ港に移されました。

 その近くには使用済みのアンフォラの破片が廃棄されて高さ45m、周囲1kmもの山になったモンテ・テスタッチョ(Monte Testaccio)があります。

 ちょうどこの記事を書いている最中の2019年12月18日、ギリシャ西部の沖でアンフォラ6000個を積んだ古代ローマ時代の沈没船が見つかったというニュースがありました。おそらくオスティアに入港するはずだった船と、モンテ・テスタッチョに捨てられるはずだったアンフォラです。1隻で何千個も積んでいるのですから大きな山になるわけです。

新しい港湾施設ポルトゥス

 オスティアに隣接していた港はテヴェレ川が運ぶ土砂が堆積したため、4代皇帝クラウディウスがテヴェレ川の北岸にポルトゥス(Portus)と呼ばれる新しい港を造り、さらにトラヤヌスは六角形の大規模な港湾施設を造ったため、港の機能はそちらに移りました。

 トラヤヌス港の周囲にも遺跡が残っているらしいのですが、あるのは倉庫や船溜りなどの港湾施設で、住宅などはないようです。オスティアはポルトゥスが造られた後も人口が増えていったようで、人が住む街の機能は引き続きオスティアにあったのでしょう。その証拠に人口がピークを迎えるのも2世紀のことです。

 クラウディウスが新しく造ったポルトゥス港は海との間が2本の堤防で仕切られ、堤防の間の島に灯台がありました。この島はエジプトからネロ競技場に置くためのオベリスクを運んだ船を沈めて造ったそうです。そのオベリスクは今サン・ピエトロ広場の真ん中に建っているものです。

 ポルトゥスの辺りは今では陸になり、北側には現代のローマの玄関口であるフィウミチーノ空港(レオナルド・ダ・ヴィンチ空港)があります。

 トラヤヌスが造った六角形の港湾施設は、Googleマップの航空写真で見ると見事に形を留めています。レオナルド・ダ・ヴィンチ空港の南側から離着陸すれば見えそうなのですが、残念ながらそのルートを飛んだことがありません。空港とローマ中心のテルミニ駅を結ぶ急行列車レオナルド・エクスプレスが空港を出てすぐ左にカーブする辺りでトラヤヌス港をかすめて走るので、2018年にローマを訪れたときには車窓からトラヤヌス港が見えないか目を凝らして見てみたのですが、間に木があって全く見えませんでした。

ローマとオスティアを結ぶ道

 ローマとオスティアを結ぶオスティエンセ街道のローマ側の起点はアヴェンティーノの丘の南東にあるセルウィウス城壁の Porta Raudusculana で、他に丘の南の Porta Lavernalis、フォロ・ボアリウムの近くのトリゲミナ門(Porta Trigemina)を出た道もオスティエンセ街道に合流していました。3世紀にアウレリアヌス城壁ができるとオスティエンセ門(Porta Ostiensis)から市外に出るようになりました。これは現在サン・パオロ門(Porta San Paolo)と呼ばれている門です。

 ポルトゥスが造られるとテヴェレ川の右岸に沿ってローマとポルトゥスを直線的に結ぶポルトゥエンセ通り(Via Portuensis)が敷かれ、後にはこちらがメインルートとなりました。ポルトゥエンセ通りの起点はアエミリウス橋(Pons Aemilius)です。この橋は今は残骸しか残っておらず、ポンテ・ロット(Ponte Rotto)、壊れた橋と呼ばれています。

行き方

 ローマ市街地の南部にあるローマ・ポルタ・サン・パオロ(Roma Porta S. Paolo) 駅からローマ=リード線で30分ほどのオスティア・アンティカ(Ostia Antica)駅で降り、徒歩10分で入り口に着きます。

 ローマ・ポルタ・サン・パオロ駅に行くにはテルミニ駅を通る地下鉄B線に乗ってピラミデ駅(Piramide)で降ります。駅名が違いますが地下鉄から地上に登るとすぐ左側に隣接してホームがあります。外から見ると、規模は小さいのですがターミナル駅らしい立派な駅舎です。

ピラミデ〜古代ローマはエジプトかぶれ(イタリア)

 ローマ=リード線は地下鉄と同じ ATAC の運営で、キップも共通です。

ローマ・ポルタ・サン・パオロ(Roma Porta S. Paolo) 駅。

 ローマ=リード線の沿線は生活感が強く感じられる路線で、乗っている人は皆、いかにも地元の人という感じです。最初はちょっと薄汚れて落書きだらけの建物が並び、しばらく走ると、きれいな高層マンションが立ち並ぶニュータウンのようなところを通ります。

 オスティア・アンティカ駅は閑散とした郊外の駅という感じ。私が2008年に訪れたときは電車を降りたのは10人ほどで、いずれも地元の人のようでした。

オスティア・アンティカ駅のホーム。
列車が行ってしまうと人気がなくなりました。

 閑散とした駅前には重要な遺跡が近くにありそうな雰囲気は皆無。

オスティア・アンティカ駅の外観。
閑散としていて観光地の雰囲気は皆無。

 何か案内はないかと辺りを見て回り、ようやく道路にかかる歩道橋の手前に落書きだらけの看板を見つけました。

 看板に従い、歩道橋を渡ってまっすぐ進むと200mほどで突き当り、左に進むとオスティア遺跡の入場口がありました。

オスティア・アンティカ駅前の様子。
正面の歩道橋を渡って真っすぐ進み、突き当りを左に行きます。
この先が遺跡の入口。

 入り口には人がたくさんいました。バスや車で来る人がほとんどのようです。平日のせいか、先生に率いられた中学生か高校生の集団の姿もあってにぎやかでした。

 ここで入場料を支払って遺跡に入ります。

オスティア・アンティカの入口。

 ローマ=リード線の電車は落書きのない新型と、落書きだらけの旧型があります。行きは新型できれいだったのですが、帰りに来たのは落書きだらけの旧型で、乗るのをためらうほどでした。

落書きで埋め尽くされた電車。乗るのをためらってしまいます。
車内も落書きだらけ。
ちょっと不良っぽい中学生くらいの3人組が乗っていて音楽をかけて粋がっていたのですが、途中駅で降りた跡の座席にはみかんの皮が残されていました。不良の行動も日本とは違っています。

参考文献

ローマ古代散歩 小森谷慶子・小森谷賢治 とんぼの本(新潮社)

古代ローマ人の24時間 よみがえる帝都ローマの民衆生活 アルベルト・アンジェラ (著)、関口 英子 (翻訳))(河出書房新社)

平成22年度日本大学文理学部資料館展示会 古代ローマの港町オスティア 日本大学文理学部資料館

2010年国際シンポジウム:『オスティアとポンペイ:遺跡保存の現況と古代ローマ港湾都市研究の最前線』
河と海の間の港町オスティア マルコ・サンジョルジョ(高久 充 訳)

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  • 2019/12/28 新規投稿

 アオスタの西にある細く切り立ったコーニュ渓谷に架けられた水道橋で、橋の上を歩いて渡ることができます。導水管の下に保守用の空間がある独特な構造です。この水道の目的は都市への飲料水供給ではなく、農地の灌漑と鉄鉱石の洗浄でした。




水道橋の全体像

 アオスタから西に8kmほどのところで、アオスタ渓谷を流れるドラ・バルテア川に南側からグランド・エイヴィア川(Grand Eyvia)が流れ込んでいます。急勾配でアオスタ渓谷に流れ下るこの川を5kmほど遡ったところに古代ローマの水道橋、ポン・デル(Pont d’Ael)が残っています。

 水道橋は同じ名の小さな集落の脇にあり、グランド・エイヴィア川が刻んだコーニュ渓谷を渡っています。橋の長さは50m。谷の中央部は垂直に切り立った深い崖で水面は66mも下にあり、この深く切れ込んだ部分を内径は14mのアーチが跨いでいます。長さ50mという橋の大きさに比べてアーチが小さく感じるので、壁のような印象です。

 橋の上部は幅2.26mとのことなので、セゴビア水道橋と同じくらいです。

 川はかなりの急流で、滝と言ってもいいほどです。

川の上流はかなり傾斜が急です。
川の下流。

 水道橋の上は歩いて渡ることができて、ハイキングコースの一部になっています。私が訪れた3月初めには路面に雪が残っていました。歩ける部分は幅が1.4m程と細いのですが、両側に高さ1.4m、厚さ30cmくらいの壁が連なっているおかげで深い谷は覗き込まなければ見えず、高いところが苦手な私でも渡れます。

 この歩いている部分が水路が通っていたところです。側壁は元は60cm程の厚さがあり、上は蓋で塞がれていて、幅1m、高さ2m程の長方形の空間でした。その下から1.3mが水路です。

橋の上を渡ることができます。元はここが水路でした。

修理用の通路といわれている空間

 この水道橋の特徴は、水路の下に人が通れる通路があることです。これは水漏れをチェック、修理するためのものと言われています。中は高さが3.88mもあるそうですから、人が楽に通れる空間です。外から見るとこの部分には上下2列に明り取りと言われている窓が並んでいるのがわかります。しかし天井、すなわち水路の底が遠過ぎてチェックできないような気もします。ポン・デュ・ガールを始め他のローマ水道橋にはこんな設備はないはずですが、本当に点検用なんでしょうか。

水路の下に通路があります。明り取りと言われている穴が空いているのが分かります。

 集落側の橋のたもとには見学用の建物があって、階下から水道橋の下の通路に道がついています。しかし私が訪れた3月にはシーズンオフで営業しておらず、対岸の入り口も鍵がかかっていて、残念ながらこの監視通路には入れませんでした。

見学施設の入口。
下の階から橋の下の通路に行けるようになっています。

水道の経路

 水道橋の両側には水道がどう続いていたのか、現地で見たときにはさっぱりわかりませんでした。

 街と反対側の東岸が水道の上流にあたりますが、北から東にかけては急な登り勾配で水道が通せるような地形ではなく、南側は下り坂の道なので勾配が逆です。橋は接岸部の辺りが登り坂になっているのですが、そこは橋の床も壁も素材が違っていて後から造られたことがわかります。どうも原型を留めていないようなのです。Mathias Döringという研究者によると、上流はトンネルから直接橋につながっていたようです。確かに橋の床面をそのまま延長すると東岸では地面に潜ってしまいそうです。トンネルの入り口は自然に崩れたか、後から道をつけたときに意図して破壊したか、またはその両方でしょう。

東のたもと。坂になっています。

 水道の下流になる西側では、橋から左方向に川と平行に伸びる道がありこれが街の中を貫いていますが、これが下り勾配を描ける唯一のルートという気がします。Mathias Döringの推定図でも水道はその方向に伸びています。

 水道の源流は橋の下を流れるグランド・エイヴィア川で、ここから2.9km上流で川から水道が分岐していました。急斜面の崖を削って水道を通したようで、今でも上部が開いた溝が一部が残っているそうです。

水道の目的

 この水道はてっきりアオスタに生活用水を届けるためのものだと思っていました。しかしMathias Döringによるとそうではなく、農地の灌漑、鉄鉱石の運搬と洗浄が目的とのことです。

 グランド・エイヴィア川がドラ・バルテア川に合流するところにアイマヴィル (Aymavilles)という村があり、ここから東にかけてのドラ・バルテア川南岸は高台になっています。この200ヘクタール程の土地には今ブドウ畑が広がっていますが、まさにここが古代ローマ時代にこの水道による灌漑用水によって農地となったところのようです。

 アーチの上に碑文が残っていて、これに「アウグストゥス が13回目のコンスル(執政官)の時」とあるので、この水道橋が紀元前2年に造られたことがわかります。(英語版Wikipediaには紀元前3年とあるのですが、同じくWikipediaのコンスル一覧では紀元前2年です。しかし現地の案内看板には “3 a.C.”とあって、本当の建築年代がよくわかりません。いずれにしても紀元前後です。)紀元前25年に3000人の退役軍人の入植でスタートしたアオスタ(当時の名はアウグスタ・プラエトリア・サラッソルム Augusta Praetoria Salassorum)も、紀元前11年にはアルペス・ポエニナエ属州の州都となったこともあって人口が増え、新たな農地が必要になったのでしょう。

 アオスタ渓谷は幅が狭く、川の周囲は増水すれば水没する湿地帯だったと思われますから、この広い高台はアオスタ周辺で農地に適した貴重な場所だったはずです。水道の終点はこの農地のエリアと考えられていて、水道の全長は6kmと短めです。

 鉄鉱石はグランド・エイヴィア川周辺で産出し、古代ローマ時代にも採掘されていました。後に中世から操業された鉱山が1979年まで創業していたそうです。

 水道はポン・デルの手前で分岐してグランド・エイヴィア川の左岸を下るルートもあり、その下流に鉄鉱石の洗浄施設があったようです。しかし運搬というのはどうやったのでしょうか。筏のようなものに乗せて水道に浮かせて流したのでしょうか。ちなみに最初私は鉄鉱石を運ぶために橋が痛むので点検用通路があるのかと思ったのですが、鉄鉱石用の水道は橋の手前で分岐してしまうので違いますね。 

行き方

 SVAP がアオスタと水道橋の上流にあるコーニュ(Cogne)とを結ぶバスを運行していて、Pont d’Aèl まで24分です(2019年12月現在)。ただレンタカーで訪れたときにバス停は見かけなかったので、どこで乗り降りするのか不明です。

 アオスタ起点で車で行く場合、一般道SS26を西に5km程行ったところからSR47に入り、ドラ・バルテア川の南岸に渡ってアイマヴィル (Aymavilles)の街を通り登っていきます。SR47に入ってから5.6kmの地点で右に分岐し、1.2kmほど下るとポン・デル(Pont d’Ael)の街の入口の駐車場に到着です。SS26からSR47が分岐するとすぐ高速道路入り口への道が分岐するので、間違えて高速道路に入らないように注意しましょう。

 高速道路で来た場合は Aosta Ovest/St Pierre 出口で降りてSR47に入ります。

 駐車場から小さな集落の中の道を250m、3分歩けば水道橋です。

SR47の分岐。この跡すぐに高速道路への入り口が分岐します。
アイマヴィルの街の入口には美しい装飾の教会があります。
その前のヘアピンカーブを抜けて登っていきます。
古城の近くで再び向きを180度変えます。
斜面をぐんぐん登っていきます。
遠くにサン・ピエール城を見下ろします。
SR47からポン・デルへの分岐。
分岐から下っていくとポン・デルの街の入口の駐車場です。
駐車場にある案内板。この先の道を250m歩けば水道橋です。
ポン・デルの集落にある小さな礼拝所。

 グランド・エイヴィア川の上流には開けた盆地があり、コーニュ(Cogne )という村があります。ここは標高4,061mのグラン・パラディーゾ(Gran Paradiso)の麓に広がるリゾート地で、辺りは1922年に指定されたイタリアで最も古い国立公園、グラン・パラディーゾ国立公園です。

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 ポン・サン・マルタン(Pont-Saint-Martin)はアオスタ渓谷の入り口近くにあるローマ橋です。一つのアーチで川を越えていて、そのアーチの幅(スパン)は35.6mあり、現在に残るローマ橋のアーチとしては最大のものです。





橋の場所

 ガリアに通じるローマ街道がアオスタ渓谷に入ってすぐのところにあります。アオスタ渓谷を刻んだドラ・バルテア川に沿って伸びている街道が、北のアルプス方面から流れて来る支流のリュス(Lys)川を渡ることろにこの古代ローマ橋が架かっています。橋の周辺は同名の村の中心になっています。

 高速道路や鉄道はドラ・バルテア川沿いを通っていますが、この橋はそこから1kmくらい北に離れていて、リュス川が山から盆地に流れ出る直前のところに架かっています。ドラ・バルテア川とリュス川が合流するこの盆地は増水すれば水没する湿地帯だったと思われ、そのため山際に迂回して街道を通したのです。今でもこの辺りの街並みは川沿いではなく、北の山際に沿っています。

 アオスタを経てアルプスを越えガリアに至るこの街道が整備されたのはアウグストゥスの時代で、この橋が架けられたのもその時と思われます。

橋の形

 橋はリュス川の両岸の間を一つのアーチで跨いでいます。アーチのスパン(直径)は35.6mあり、これは今に残っているローマ橋のアーチのスパンとしては最大です。(The Oxford Encyclopedia of Ancient Greece and Rome)他にスパンの大きなアーチとしては、首都ローマのティベリーナ島の東側に架かるファブリキウス橋のものが24.5m、ポン・デュ・ガールのものが最大24.4mありますが、それより遥かに大きなものです。

 橋の上は両側から中央に向けて一定の勾配で登っていて、断面図にすれば二等辺三角形の二辺のような形です。勾配はそのまま接続する道にまで続いていて、ここを通る人は一定の勾配で登ってきて橋中央部の頂点に至り、そこからまた一定の勾配で降っていくことになります。

 道幅は4.6m。ローマ街道の一部ですから十分に車両がすれ違える幅が橋の上でも確保されています。

橋の上は両側から中央に向けて一定の勾配で登っていてます。

 橋の中央に立つとかなり高く感じます。川面からの高さは20mほど。下流になる西側はドラ・バルテア川の対岸の山並みが望めて爽快な眺めです。

橋の中央の一番高いところから西を望んだところ。

橋の周辺

 橋の北側、アオスタ側は、橋から続くローマ通りという名の道が左にカーブしながら下って今の車道に合流しています。おそらくこれがかつてのローマ街道のルートだったのでしょう。

ローマ通りから橋の方を見たところ。建物の下をくぐった先が橋です。

 南側の道は急坂でジグザグに2度折り返して現在の車道の橋のたもとに下っています。古代ローマ街道がこんな形だったとは思えませんが、 当時のルートはわかりません。 おそらく緩やかに傾斜した道があったと思われますが、崖が迫っている上に辺りは建物が密集していてそれらしい道がないのです。

南側の道はジグザグになっています。ローマ街道がこんな形のはずはないのですが。

 南のたもとには3階建ての建物が橋に接して建っています。私が訪れたときには3階のバルコニーから住人らしきおじさんが外を眺めていました。現代の人が住む普通の住宅と古代の建造物が一体化しています。2000年前に造られて今も使われる橋の脇に住むなんて、自分もその歴史を紡ぐ一員となったような気分を味わえそうで、羨ましく感じます。でもこういうのはヨーロッパ各地にありますね。代表は遺跡それ自体がアパートになっているローマのマルチェッロ劇場でしょう。

3階のバルコニーからおじさんが外を眺めています。

巡礼路

 橋の北のたもとには門が建っていて、これをくぐって橋に出入りするようになっています。そして橋の中央部の一番高いところには東側に祠があります。門も祠も後の時代に造られたものと思われますが、一体で礼拝施設という感じです。

橋の中央部の祠と北のたもとの門。

 祠の足元には黄色いペンキで巡礼者の姿が描かれていて、今も現役の巡礼路であることがわかります。ここはフランチジェナ街道(Via Francigena)という中世から続くヴァチカンへの巡礼路の経路なのです。イギリス国教会の中心地であるカンタベリーからドーバー海峡を渡り、フランス、スイスを縦断し、グラン・サン・ベルナール峠を越え、ここを通ってローマまで続いています。たどるルートは古代ローマ街道と重なる部分が多いと思われ、少なくともスイスのマルティニからグラン・サン・ベルナール峠を越えてローマまでは古代のローマ街道そのものです。

足元には巡礼路を表すマークが描かれています。

悪魔の橋

 西ローマ帝国滅亡後に建設技術が失われると、各地で悪魔が橋をかけたという伝説が生まれましたが、ここにも悪魔がトゥールの聖マルティヌスとの取り引きで橋をかけたという伝説がありました。今の橋の名は、聖マルティヌスのフランス語名サン・マルタン(San Martin)から来ています。橋の上の祠の中に祀られているのもこの聖人でしょう。

 その伝説というのは、巡礼中にここを通りかかったマルティヌスが悪魔と取引し、最初の生き物の魂と引き換えに一晩で橋を架けてもらったというものです。翌日、聖マルティネスは子供と犬が遊んでいたボールを橋の上に投げ、それを追った犬が悪魔の犠牲となり、村人は助かりました。(Wikipediaイタリア語版の”Pont-Saint-Martin (Italia)”)各地の悪魔の橋の伝説は登場人物が違うだけでどれも同じような話です。

 川岸の歩道に下って橋を見上げると、その高さに驚かされます。悪魔がかけたと思うのも無理ありません。

河原の道から見上げると高さに圧倒されます。

行き方

 ポン・サン・マルタンというイタリア鉄道(トレニタリア)の駅があります。ローカル線で列車本数が少ないので時刻を確かめて行きましょう。 ポン・サン・マルタン(Pont S.Martin)駅から橋までは約1kmあります。

 高速道路がドラ・バルテア川沿いを走っていて、ずばり Pont Saint Martin という名の出口があります。一番近い大都市はミラノで、車で1時間45分ほどです。トリノ からは1時間25分、アオスタからは1時間です。

高速道路の Pont Saint Martin 出口。

 橋のすぐそばが街の中心で、北岸の川沿いに駐車場とバス停があり、ここにはミラノと結ぶ直通バスが発着します。

橋はポン・サン・マルタン村の中心部、店やホテル、バス停があるところのすぐそばです。
バス停からはミラノとの間を結ぶバスが発着します。

 駐車場側から橋の上に行くには、橋の下に開けられたトンネルを潜って一旦上流側に行き、左手の階段を登って引き返します。

橋の下をくぐって一旦上流側に行きます。
折り返すように階段を登り、左に行くと橋の上に出ます。

 南岸は車道からジグザグの坂が橋の上に通じています。

 西3kmにドンナスのローマ街道跡、4.5kmにバール城砦(Forte di Bard)があり、一緒に訪れるのがお勧めです。

ドンナス村の古代ローマ街道跡。
バール城塞(Forte di Bard)。
バール城塞の斜行エレベーター。

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 イタリア北西部からアルプスを越えてガリアに至る街道がアオスタ渓谷に入ってすぐのところに街道跡が残っています。崖を削って作った道で、門のように3mほどの短いトンネルがあるのが特徴です。岩に轍が刻まれていて、道の上に立つとここを確かに人が通ったのだという実感が湧いてきます。





街道跡

 イタリア北部、長靴型の半島の付け根に横たわるポー平原から、その北西方向に伸びるアオスタ渓谷を遡り、アルプスをグラン・サン・ベルナール峠もしくはプチ・サン・ベルナール峠で越えてガリアに至る道がありました。その街道がアオスタ渓谷に入ってすぐのドンナス村の集落の西に、100mほどのローマ街道跡が残っています。

 ローマ街道というと普通は石で舗装した道ですが、ここでは崖を削って道を造ってあり、路面は岩盤そのものです。

 両側に山が迫って谷が狭まっていますから、元は崖っぷちを川が流れていて、崖を削って道を通すしかなかったのだと思われます。

 石畳には車輪によって刻まれた二筋の轍がはっきりと残っています。2000年前の人々が確かにここを通っていたのだということが実感として感じられて、うれしくなってしまいます。

二筋の轍がくっきりと刻まれています。
2000年前の人々が確かにここを通っていたのです。

アーチ

 そして面白いのが岩をくり抜いたトンネルです。わずか3m程の区間だけ崖を削らずに残して、その中をくり抜いて道を通しているのです。中世には扉が付けられていたそうですから徴税のための関所として使われていたと思われますが、古代ローマ時代には往来は自由で関所はなかったはずです。一体なんのために設けられたのでしょうか。

ここだけ崖を削り残しています。

 凱旋門に見えなくもありません。アッピア街道のローマとナポリの中間辺りにあるテッラチーナにも、同じように崖を削って街道を通したところがあり、そこには崖を削って造った凱旋門があります。しかしテッラチーナのものは誰が見ても凱旋門という代物。ここドンナスのものは装飾も文字もなく、凱旋門にしては高さや幅に比べて奥行きが長すぎてバランスが取れていないようにも思え、凱旋門というには無理があります。

 ガリア方面から攻め込まれたときの防御施設だったのかもしれません。アルプスの向こうはガリアですし、そもそもアオスタ辺りがアウグストゥスの時代にようやく征服できた土地です。このルートかどうかは定かではありませんが、かつてカルタゴの将軍ハンニバルが象を連れてアルプスを越え、攻め込んできたこともあります。そう考えると防御のためというのもありそうです。

何のための構造物なのでしょうか。

マイルストーン

 アーチからアオスタ方向に100mほどのところにマイルストーンがあります。アッピア街道の第一マイルストーンと同じ円柱形ですが、後ろは崖と一体化しています。崖から円柱形の表側3/4だけを削り出したようです。

一見普通のマイルストーンのようです。
しかし後ろは崖とつながっています。
崖を削って円筒形にしたのです。

 円柱を造って置いた方が楽なような気もしますが、石があるからそのまま有効活用したということでしょうか。その場の状況に応じて臨機応変に柔軟にやった、とも言えますが、なんとなく適当に行き当たりばったりでやったようにも手を抜いているようにも思えます。でも頭を使っていることは確かです。譲れない理念はしっかりあるけれど、ちゃんと守るべきことが押さえられていれば、それ以外の部分は頭を使って柔軟に手を抜いたり楽したりする、というように私には思えます。ここでは高性能な舗装道路を造りマイルストーンを設置する、というのが絶対に譲れないところで、材料や造り方は二の次だったのではないでしょうか。古代ローマのこういう柔軟性、適当さが好きです。

 一番上には「XXXVI」と彫られているのがはっきり見えます。数字の36ですから、36マイル=53.3kmに当たります(1ローママイルは1.48km)。ここから50kmというとアオスタがそのくらいで、他に大きな都市が見当たりませんから、アオスタからの距離なのでしょう。

XXXVI=36マイルを示します。

 そもそもマイルストーンの数字ってどういう定義なのでしょう。今まで漠然とローマからの距離を書くのかと思っていました。でもそれだと数字が大きくなりすぎるので、それぞれの街道の起点からの距離でしょうか。起点というとローマに近い側かと思っていましたが、この数字がアオスタからの距離だとするとそれも違います。この街道の起点がアオスタだったのでしょうか。今後調べてみたいと思います。

ガリア街道?

 ここを通るのは、ポー平原の真ん中にあるプリチェンツァからガリアに抜ける街道です。

 プリチェンツァは古代にはプラケンティアという名で、二つの主要街道(エミリア街道とポストゥミア街道)が交差する交通の要衝でした。そこからメディオラヌム(現代のミラノ)を経て、イヴレーアという街からアオスタ渓谷に入ります。この街道跡があるのはそこから17kmほど渓谷に入ったところです。

 アオスタ渓谷を遡ってアルプス山脈を超えるルートには古くから道が通っていましたが、ローマ街道として整備されたのはアウグストゥスの時代以降と思われます。なぜならアオスタ周辺を征服したのはアウグストゥスだからで、それは紀元前25年のことです。この石畳やアーチ、それとすぐ東にあるローマ橋ポン・サン・マルタンもローマ街道整備の一環として造られたのでしょう。

 アオスタからは街道が2つに別れ、北にグラン・サン・ベルナール峠でスイスに、西にプチ・サン・ベルナール峠を超えてフランスに抜けています。アルプスを越えてガリアに至るローマ街道は、紀元前2世紀にポー平原の西のモンジュネーヴル峠を超えるドミティア街道が造られ、これがメインルートでした。しかしガリア北部(フランス)や東部(スイス、ドイツ)に行く場合にはアオスタ渓谷経由のこちらのルートの方が近道なので、この街道の整備後はガリア北部、東部へのメインルートになったと思われます。

 ところでこの街道は名前がわかりません。Wikipedia英語版をはじめ “Via delle Gallie” という名を載せているところがありますが、これは「ガリアの道」という意味のイタリア語です。単に道を説明しているだけのように思え、元々の名前かどうか微妙です。他には”Via Publica “(共和国街道?)や “Via Delle Gallie Consular”(ガリア執政官街道?)というのも見かけました。アッピア街道に始まるローマ街道には、建設したケンソルや属州総督などの名前がつけられることが多いのですが、そのような名前は見当たりませんでした。名無しなんでしょうか。それとも記録が残っていないだけなのでしょうか。重要な街道なのに不思議です。

行き方

 ドンナスにイタリア鉄道(トレニタリア)の駅があります。ローカル線で列車本数が少ないので時刻を確かめて行きましょう。

 高速道路がドラ・バルテア川沿いを走っていて、最寄りの出口は Pont Saint Martin です。一番近い大都市はミラノで車で1時間45分ほどです。トリノ からは1時間25分、アオスタからは1時間です。

 大きな駐車場があって、ドンナスの集落から西に700m程のところにあるロータリー(ラン・アバウト)から駐車場に降る分岐があります。

ロータリー(ラン・アバウト)から駐車場への分岐があります。
道路を潜った右手に古代ローマ街道跡があります。

 東3kmに古代ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont Saint Martin)があり、一緒に訪れるのがお勧めです。

東隣の村にある古代ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont Saint Martin)。

 アオスタ渓谷には古城が散在していますが、ドンナスのローマ街道跡から西に1.5kmのところにバール城砦(Forte di Bard)という岩山に聳える巨大な古城があります。

 城の西側の道路沿いに駐車場の入り口があり、3つの斜行エレベーターで上まで登れます。西に500m程のところには Hone Bard駅がありますが、ここは通過する列車もあるので要注意です。

バール城塞(Forte di Bard)。
バール城塞の斜行エレベーター。

更新履歴

 イベリア半島の西部を南北に走る街道、通称銀の道の中程に位置するサラマンカ。その南の入り口に当たるのがトルメス川に架けられたローマ橋です。





ローマ橋

 サラマンカのローマ橋は街の南側を流れるトルメス川に架かる橋で、全長は370mほどです。

橋の南のたもとから。大聖堂が見えます。

 26個のアーチからなりますが、ローマ時代のまま残っているのは街に近い北側の15個のアーチです。

街のある北側の15個のアーチが古代ローマ時代からそのまま残っているものです。
街の近くの橋の上。土台は古代ローマ時代からそのまま残っています。

 建造はトラヤヌス帝の時代とも言われますが、建築年代を示す文字や考古学的な証拠はなくはっきりしません。

 元は真ん中に要塞があって北と南に分かれていました。数多くのスペインの街を描いたAnton van den Wyngaerdeという人が、1570年にサラマンカのスケッチを残していますが、これに橋の中央の塔が描かれています。今の姿からはどの辺りに要塞があったのかは判然としません。

 1626年に起きたサン・ポリカルポの洪水で橋の南側が崩壊し、この後の修復で中央の塔と要塞が撤去されました。

街の対岸、南側は後に再建されたものです。

 20世紀初めまでは街に入る唯一の橋で、2本目の橋が建設されてからも車道として使われていましたが、1973年に新しい橋が建設されて歩道になりました。

今は歩行者専用です。

 ローマ橋の下のトルメス川は西進してポルトガル国境でルシタニア属州の北の境界線であるドゥエロ川に合流し、更に西に流れてポルトガルのポルトで大西洋に注ぎます。イベリア半島中央部はメセタと呼ばれる広大な大地が占めていて、全体として西に向かって傾斜しています。そのためトルメス川とドゥエロ川は西に向かって流れているのです。他にもトレドからルシタニア属州中央部を流れ、リスボンで大西洋に注ぐタホ川(ポルトガルではテージョ川)、メリダを流れるグアディアナ川、南部のコルドバやセビリアを流れるグアダルキビール川も東から西に流れています。

トルメス川。この水はポルトで大西洋に注ぎます。

サラマンカの歴史

 旧市街はトルメス川の北岸から坂道を登った高台にあります。南に川が流れる高台という守るのに適した地形なので、古くから街がありました。

ローマ橋から旧市街に建つ大聖堂を見上げたところ。

 橋の街側のたもとにある首が欠けた動物の石像がそのことを証明しています。これはイベリア半島で数多く出土している Verraco というイノシシの石像で、ローマ以前にルシタニアに住んでいたウェットーネース族(vetones)が残したものです。この像は記録にはたびたび登場しますが、いつからここにあるのかは不明です。今の位置に置かれたのは1993年だそうです。

ローマ橋の北のたもと近くに立つ Verraco というイノシシの石像。

  紀元前220年にサラマンカはイベリア半島に早くから進出していたカルタゴに征服されました。征服したのは第二次ポエニ戦争でローマを苦しめた将軍ハンニバルです。ローマも紀元前3世紀からイベリア半島に進出していましたが、イベリア半島全体に勢力を広げたのは3次に渡るポエニ戦争でカルタゴを破ってからです。サラマンカもポエニ戦争後にローマの支配下に入り、古代ローマ都市となりました。サラマンカの古代ローマ時代の名はサルマンティカ(Slmantica)です。

 残念ながら古代ローマの遺跡は橋以外には残っていません。

銀の道

 イベリア半島のちょうど真ん中辺りにスペインの首都マドリードがありますが、サラマンカはそこから西北西に170kmほどのところにある都市です。スペインの西の端で、ポルトガル国境まで100km程という位置にあります。13世紀にスペイン最古の大学が開校し、大学の街として有名です。

 古代からメリダとアストルガを結ぶ銀の道の中継点として非常に重要な役割を果たしていた、と多くの解説には書いてあります。

 銀の道はイベリア半島西部にある南のエメリタ・アウグスタ(現代のメリダ)と北のアストリカ・アウグスタ(現代のアストルガ)という大都市を結ぶローマ街道として造られたとされています。今でも高速道路が通っているこの区間に古代ローマ時代の街道があったであろうことは想像がつきます。

 エメリタ・アウグスタ(メリダ)はルシタニア属州の首都でした。ルシタニア属州はイベリア半島西部にアウグストゥスが置いた属州で、南北の広がりは大体中央の3分の1ほどの大西洋に面した地域です。エメリタ・アウグスタ(メリダ)はその南端にあり、ローマ本国と太いパイプで繋がっていました。アルプスを越えて南フランスを横断するドミティア街道、イベリア半島の南岸を走るアウグスタ街道、そしてその途中のヒスパリス(現代のセビリア)からアウグスタ街道の支線というルートです。

 一方アストリカ・アウグスタ(アストルガ)のあるイベリア半島北西部はアウグストゥスが征服した比較的新しい領土です。サラマンカを通る街道によってイベリア半島西部の中央から北部がローマと直結されることになりますから、この街道はこの地域の征服とその後の経営に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。

 そして後にはアストルガの近くにラスメドゥラス金山がローマの下で操業を始めます。金の輸送にも使われることでこの道は商業的な役割を果たすことになりました。ラスメドゥラス金山はその枯渇がローマ滅亡の原因の一つと言われるほど重要なものでした。

 ただイベリア半島北西部はヒスパニア・タラコネンシスとして半島の東側と一つの属州にされていました。その州都タラコ(現代のタラゴナ)からカエサル・アウグスタ(現代のサラゴサ)を経て半島北部までエブロ川を遡り、そこから西に進んでアストリカ・アウグスタ(アストルガ)に至る街道もあります。同じ属州内を行くこちらの方がメインルートではないかとも思えるので、銀の道と呼ばれるルートとその中継点としてのサラマンカが当時どこまで重要なものだったのかは疑問があります。

 実は銀の道と呼ばれる街道の建設やその名前の起源は諸説あってわかっていないようです(Wikipediaスペイン語版)。銀の道が有名なのは巡礼路としてです。多くの人がメリダより南にあるセビリアからスタートし、アストルガを超えてサンティアゴ・デ・コンポステーラまでのルートを歩くのです。つまり「銀の道」というのは観光ルートとして売り出されたことで有名になったのではないでしょうか。

行き方

 マドリードからスペイン国鉄 Renfe の高速列車 Alvia で最速1時間36分です。

 私はレンタカーで首都マドリードのバハラス空港からセゴビア、アビラを経て夕方日が沈む直前にサラマンカに到着し、スペイン国営の宿泊施設であるパラドールに泊まりました。パラドールというと修道院や古城を修復したものが多いのですが、ここは新しい建物で普通のホテルという感じです。

 このパラドールはトルメス川の南岸から少し坂を登ったところにあります。部屋からトルメス川の北岸の高台にある旧市街に建つ大聖堂が見えました。

パラドールからトルメス川越しに朝の旧市街を望む。

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  • 2019/11/9 新規投稿

 城壁と聖人の町と言われるアビラ。その城壁は古代ローマの城壁の跡に建てられたものです。ただし最初に断っておきますが、古代ローマ遺跡は何も出てきません。





古代ローマ時代の街だったアビラ

 アビラは今でも街が全周に渡って城壁に囲まれています。この城壁は11世紀に建造されたものですが、その際に古代ローマ時代の城壁の跡を利用して造られました。

 Wikipedia英語版によるとアルカサル門とラストロ門の下に古代ローマ時代の切り石積みが残っている、というようなことが書かれていますが、それが見えている石積みなのか埋もれていて見えないのかわかりません。実際に見ても古代ローマ時代のものが見えているのかどうかはわかりませんでした。

南東部の東側にあるアルカサル門。
南東端とラストロ門の間の城壁。
南側のラストロ門。

 古代ローマの街は長方形だと言いますが、アビラの城壁は少しいびつです。スペイン北西部にルーゴという街があり、ここは紛れもない古代ローマ時代の城壁がほぼそのまま残っていますが、こちらもいびつで長方形とは言い難い形です。平地ではないアビラに正確な長方形の城壁を作るのは無理でしょうから、元からこんな形だったのでしょう。

 古代ローマの街は中心で直交する二本の通りが街を貫いて通っていました。今もちょうど真ん中あたりに通りがあるので、おそらくそれが名残でしょう。ただ後に建てられた建物に遮られて、街を端から端までは貫いてはいません。

ここは旧市街の東側にあるカテドラル広場。右手の建物がカテドラルです。
左側の道がちょうど街の中央部を東西に走っていますが、
途中にある建物で遮られて街を貫いてはいません。

街の全体像

 アビラには主要なローマ街道は通っていません。8世紀にイスラム教徒の支配を受け、城壁が再建されたのはレコンキスタ後ですが、交通の要衝でもないこの地方都市になんでこんなに立派な城壁を再建したのかわかりません。何か理由があったと思われますが。

 街の西側にはアダハ川が流れています。対岸にクアトロポスデスというモニュメントが建つ展望台があり、ここからは城壁に囲まれた街の全体像が眺められます。ここから見ると西側の川の方に向かって突き出した周囲から盛り上がった台地の上に街が築かれていて、街全体が西に緩やかに傾斜していることがわかります。

クアトロ・ポステスから臨む
城壁に囲まれたアビラの街。

 ここから見る街全体の姿は古代ローマ時代とそう変わらないのではないでしょうか。当時は周囲に何もなく、高い城壁が聳えてその中にだけぎっしりと建物が建ち、その中で古代ローマの文化的な生活が営まれていたのです。その光景は元からここに住んでいた人の目には驚異的なものと映ったでしょう。

 西の城壁の下は急斜面で川に落ち込んでいます。守るのに適した地形です。そういう場所ですから古代ローマ人が来る以前から人が住んでいて、Verracoと呼ばれるイノシシの石像も残っています。お隣のサラマンカでは古代ローマ橋のたもとにこのVerracoが飾ってあるのですが、このイノシシの石像はローマ支配以前のイベリア半島で造られていたもので、400個以上見つかっているそうです。

 ちなみにこのクアトロポステスを古代ローマ時代のものと紹介していることがありますが、それは間違いです。1157年にペスト退散を祈念して始まったサン・レオナルドへの巡礼の記念碑で、今残っているのは1566年に建てられたものとのことです。

聖人の街

 この街のもう一つの顔である「聖人」というのは聖テレサという修道女のことで、16世紀に修道院改革を進めた人だそうです。街の南東部のアルカサル門の脇にはテレサ像があります。10月15日がテレサの記念日だそうで、そのためでしょう、私が訪れた10月26日にはテレサ像にたくさんの花束が供えられ、大きな花絵が飾ってありました。

 神様仏様を都合のよい時に拝むだけの私には、こういう宗教がらみのことはピンときませんが。

たくさんの花束が捧げられた聖テレサ像と花絵。
城壁に沿った道を歩く修道女。

行き方

 アビラはマドリードから車かバスで1時間半、鉄道で2時間ほどです。車の場合、マドリードから高速道路のみでアビラまで行けます。(A-6、AP-6、AP-51)

 古代ローマ橋が残るサラマンカからは車では高速道路A-50で1時間強、列車で1時間半。

 古代ローマ水道橋が残るセゴビアからは車で1時間弱。一般道で中間付近のビジャカスティン(Villacastín)まで行き、そこからは高速道路AP-51に乗ります。一般道も道はいいので運転は楽です。列車は直接結ぶ路線がなくかなり時間がかかります。

 車の場合、城壁の南東にあるアルカサル門の正面に聖テレサ広場(Plaza de Santa Teresa de Jesus)があり、この地下の駐車場に停めるのが便利です。駐車場の入口は広場の南側にあり、城壁沿いの道から入ります。街中の道が細いので予めGoogleマップなどで道をよく調べてから行きましょう。

アルカサル門川から見たテレサ広場(Plaza de Santa Teresa de Jesus)。この地下が駐車場です。

 私は2013年に朝マドリード空港を発ってセゴビア観光後にアビラに来て、その後は古代ローマ橋の残るサラマンカに行って宿泊しました。メリダやアルカンタラ橋などスペインの古代ローマ遺跡を巡ったこの旅の様子は旅行記をご覧ください。

旅行記はこちら
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 アビラは「アビラ旧市街と市壁外の教会群」という名で世界遺産に登録されている通り、城壁の外にたくさんの教会があり、城壁の南側から見渡すと教会らしき建物がいくつか見えました。城壁内のカテドラルなども含め、キリスト教や教会に興味があればこれも面白いのではないでしょうか。もっとも私は古代ローマにしか興味がないので教会は一つも見ていないのですが。

アビラの大聖堂。
ラストロ門近くから南側を望む。町の外にも教会が見えます。

 ローマから遠く離れたスペイン北部の街、セゴビアにある水道橋です。橋脚がとても細身で優美な印象を受けるとともに、よくこれが2千年間壊れずに残ったものだという愛おしいような気分にもさせられます。

セゴビア水道橋(スペイン) Segovia Aqueduct (Spain)




細身で薄い水道橋

 この水道橋の特徴はなんんといってもこの橋脚の細さです。古代ローマの水道橋の代表格であるフランスのポン・デュ・ガールがどっしりとした印象を受けるのと対照的で、軽快で優美な姿です。

 急斜面に囲まれた丘の上にあったセゴビアの街に水を届けるために架けられた水道橋で、水道橋の北端が直接旧市街に接続しています。今は水道橋の下にも街が広がっています。真下は広場になっていて、水道橋の下は自由に通り抜けられるのですが、足元から見てみると橋脚は横から見て細いだけでなく厚みもなく、水道橋自体がかなり薄いことがわかります。これはもう頼りなく感じるほどで、台風の風が吹き付けたらバタンと倒れてしまうのではないかと心配になってしまいます。厚みは2.4mしかありません。2.4mというとだいたい駐車場の車1台分の幅です。その厚みで9階建てのマンションに相当する28.5mもの高さのものが建っているのです。

東側から見たところ。右手、北側は旧市街に接続しています。
マンションなら9階建ての高さ。高さの割に厚みがありません。
どの石にも表面に持ち上げるための窪みがあります。

水道橋の構造

 水道橋は2段のアーチからなり、下の1段目が全体の3分の2ほどを占めています。細い橋脚が長く伸びたこの形のために優美な感じが増していると同時に、余計に細くて頼りなく感じる気がします。

 橋は石のブロックを積み上げたものですが、漆喰などの接着剤は使っていないそうです。つまりぴったりと接触面が合うように精密に加工した石を積み上げただけでできているのです。こんなに薄い橋を石を積み上げるだけで作り、2千年経った今もしっかりと建っている、というのは驚異としか言いようがありません。悪魔が造ったという言い伝えあったといいますが、そう思うのも無理はないですね。

 使われている石は花崗岩で、セゴビアの東から南にかけて横たわるグアダラマ山脈などから切り出したものです。ちなみにボン=デュ=ガールは石灰岩です。古代ローマでは橋も街道もその地方で手に入る材料をうまく使っているのです。

 下から見上げた写真をよく見るとわかるのですが、どの石も表面に小さな窪みがあります。これは石を持ち上げるためのものだそうです。おそらく「やっとこ」みたいなものをこの窪みに当てて挟み、クレーンで持ち上げて積み上げたのだと思われます。

 水道橋の中央部には、上のアーチの足元にアーチ4個分に渡る横長の長方形の石積みがあって、その上に祠のような壁龕があります。長方形の部分には文字が刻印されていた形跡があります。元は金色の文字で建設者と建設日が刻印されていたと言いますが、残念ながら今は摩耗してしまい判読できません。

 西面の壁龕には赤ちゃんを抱いた女性像が収まっています。これはセゴビアの守護聖人である聖母フエンシスラの像で、16世紀に置かれたものです。フエンシスラを祀った教会がアルカサルの先にあり、9月25日に祭典があるそうです。フエンシスラ教会から見上げるアルカサルの姿が美しいそうですが、訪れたときは水道橋しか眼中になかったので見ていません。今思えば見ておけよかった。東面の壁龕にはこの街の創設者という伝説のあるヘラクレス像がかつてあったそうですが、今は空っぽです。

下段が極端に高い2段のアーチです。
中央部の上の方に見えるのが聖フエンシスラ像。

古代ローマの街

 水道橋が接続している北側の崖の上がセゴビアの旧市街で、古代ローマ時代の街があったところです。崖には階段が付けられていて旧市街まで登れます。途中のテラスから眺めると水道橋が立体的に感じられ、背景にはグアダラマ山脈も見えて、下から見るのとはまた違った迫力があります。

水道橋脇の階段で旧市街に登れます。
旧市街への入口。
旧市街に登る途中から見た水道橋。向こう側は緩やかな坂になっているのがわかります。

 水道橋は旧市街の台地上を40mほど行ったところで家の塀と一体化して消えています。Googleマップの衛星写真を見るとそこから40mほど西に円形の水を分配する施設と思われるものが見えます。ニームやメリダにも同じものがあり、おそらくここで街の各方面に水を分配していたものと思われます。ただ民家の敷地の中のようでよく判りません。

最後は塀と一体化してしまいます。
ニームの分水施設。
Googleマップを見るとこんな感じのものが見えるのですが。

上流に続く水道橋

 旧市街の反対側は緩やかな斜面で、水道橋は180mほど直線で伸びています。直線部分のアーチの数は全部で44個(上下足せば88個)あります。

 谷底の公園から南側には水道橋に沿って道があり、レストランのテーブルが並んでいます。テーブルの脇を通って登っていくと下のアーチがだんだん縮んでいき、最後のアーチは下段の高さが1mくらいしかありません。

 途中東側に水飲み場がありますが、いつの時代のものでしょうか。

 

水道橋脇の坂道にレストランのテーブルが並びます。
水道級脇にある水飲み場。
坂を登りきったところ。下段のアーチは高さ1mほどです。

 水道橋はここで120度左に折れ曲がって東に向きを変えて更に600mほど続いていて、1段のアーチが75個も連なっています。両側が切り立った崖になっている深い谷に架かっているような印象だったのでこれは意外でした。

 このあたりは水道橋の両側に細い道を挟んで住宅が建ち並んでいます。本当に全く普通の住宅で、世界遺産との取り合わせがなんとも不思議です。大きな扉の奥が駐車場になっている家もあります。前の道が狭いので出し入れが大変そうです。水道橋を傷つけたりしたら一大事ですから、こういう遺跡の近くに暮らすのは大変そうですね。

水道橋は折れ曲がって更に伸びています。
水道橋脇の家の車庫から車が出てきました。

 水道橋は右に向きを変えていき、道はずっとこれに沿って緩やかに登っていきます。やがてアーチが小さくなってなくなり、石積みの壁のようになります。

水道橋と道を挟んで全く普通の民家が立ち並びます。
上流側の最初のアーチ。

 最後のアーチのすぐ先に、水道橋を覆うように建物が建っています。これは水道施設の一部で、中には大きな水槽があり、水が一旦この水槽に溜まって不純物が沈殿することで浄化されるようになっています。

水道橋を覆うように建つ浄水場の建物。
水は中の水槽に一旦溜まり、不純物が沈殿してきれいになった水が反対側から流れ出ます。

 最後は道路に突き当たって断面を見せて途切れています。

 ここでは高さが1mほどなので上にある導水管の部分が見えます。幅は30cmくらいです。ポン・デュ・ガールは導水管の幅が1mくらいあり、水道橋も厚みが6mもありますが、これはニームという大都市に水を運ぶものだからです。大地の上の比較的小規模な街であるセゴビアに水を届けるこの水道は給水量も小さかったはずで、だから水道橋が細いのです。

水道橋が残っているのはここまで。
導水路は幅30cmほど
がっしりした印象のポン・デュ・ガール。

 水源はこの先15kmほど離れたフリオ川の堰です。道路の向こう側にも歩道が続いていますが、水道橋の遺構はなさそうで、ここから上流側の水道の経路がどうなっていたのかわかりません。

 訪れたときは知らなかったのですが、この先650mほど上流側にもう一つ沈殿槽の建物が残っています。これら二つの沈殿槽で浄化されてきれいになった水が街に入るようになっていました。

歴史

 水道橋には判読可能な碑文がないため建造年代は不明です。1世紀終わり頃の建造と言われていましたが、最近の研究では112年というのが有力なようです。これはスペイン出身の皇帝トラヤヌスの時代です。(トラヤヌスはセビリヤ近くのイタリカ出身です。)

 水道橋はこの地を支配していたイスラム教徒によって一部が破壊されたり、レコンキスタ後に修復されたりといったことがありましたが、なんと1906年まで街に水を供給していたそうです。(NHK世界ふれあい街歩き)

  セゴビアの旧市街は独立した台地の上にあります。北にはエレスマ川、南にはクラモレス川が流れて深い谷を作っていて、台地の北西端の真下で合流しています。そして水道橋が接続している南東側は崖で断ち切られたようになっています。四周が切り立った崖で守るのには最適な土地なので、古くから人が住んでいたようです。

 水道橋のある南側は川がないので、崖と谷がどのように形成されたのかは謎です。古代ローマ人が防御のために人工的に造ったという可能性はあるのでしょうか。 ローマ以前の住民の技術でこのような地形の改良ができるとは思えません。元は川が流れていて谷を刻み、その後に流路が変わったのかもしれません。

 ローマがセゴビアをいつ征服したのかははっきりしませんが、紀元前80年ころとも言われています。ローマの街道網の中でセゴビアは特別重要な立地でもなく、しかも台地の上という限られた土地に造られた街なので、水道橋が目立つ割にローマ都市としての規模はさほどのものではなかったものと思われます。だから水道橋ができた時期も割と遅いのでしょう。

 セゴビアには水道橋以外に目立ったローマ遺跡が残っていませんが、そもそもそれほど大規模な建造物がなかったのかもしれません。古代ローマ時代も街は城壁に囲まれていたはずですが、今残っている城壁は11世紀に再建されたものです。

  台地の北東端に突き出したところに建つアルカサルは、古代ローマ時代の建物の土台の上に建てられていて、地下には古代ローマ時代に作られた基礎が残っています。アルカサルの建つところは狭い崖で切り離されていて、橋で渡ります。城塞として理想的な地形ですが、これも元々そうだったのか、城の防御のために人工的に造ったのかわかりません。

アルカサルの土台は古代ローマ時代位もの。
入口に深い谷があって橋で渡ります。

行き方

 セゴビアの玄関口は首都マドリードです。マドリードからは100kmほどで、日帰りでも十分行ける距離です。所要時間は車で1時間半、高速鉄道で30分、ローカル列車で2時間弱、バスで1時間半程度です。

 高速鉄道は早いのですが、駅がローカル鉄道とは別で、市街地から4.5kmほど離れているためバスに乗り継ぐ必要がありことに注意が必要です。

 車の場合は高速道路がセゴビアまで通じています。私はレンタカーでマドリード空港から行きましたが、なぜかマドリードを出てしばらくするとナビが高速を降りてグアダラマ山脈の峠を超える道を案内し始めて、距離的には短いのですが30分くらい余計に時間がかかってしまいました。2車線の道で峠もさほど高くありませんでしたが、山道なので運転に不慣れだと苦労しそうな道ですから要注意です。私は外国で山道を走ったことが何度かありますが、それでもこのときはこんな道を右側通行で走る心の準備ができておらず、しかもレンタカー初日だったので面食らいました。

マドリードからセゴビアまで高速道路が通じています。
なぜか途中で高速を降りて山越え。しかも霧がかかってます。

 水道橋の東側のパードレ・クラレ―通り(Av. del Padre Claret)の地下に新しい駐車場があり、これが水道橋に一番近くて便利です。ここは出口が水道橋の目の前で、地下から出ると目の前に水道橋が現れるのが面白いところです。他には少し離れますが水道橋の西方のエセキエル・ゴンサレス通り(Paseo Ezequiel González)にも地下駐車場があります。

パードレ・クラレ―通り地下の新しい駐車場。
水道橋の東側のカーブした坂道がパードレ・クラレ―通りで、その地下が駐車場です。
パードレ・クラレ―通り地下駐車場の出口は水道橋が目の前。

 旧市街には大聖堂やアルカサルといった見どころがあります。アルカサルはトンガリ屋根が特徴で、ディズニー映画「白雪姫」の城のモデルだそうです。ちなみに各地のディズニーランドにある城とは関係ありません。東京ディズニーランドにあるのはシンデレラ城でモデルはノイシュバンシュタイン城ですね。

旧市街の中心マヨール広場。左手が大聖堂、右手が市役所です。
丘の北の突端にあるトンガリ屋根のアルカサル。

 私は2013年に朝マドリード空港を発ってセゴビアに来ました。そしてセゴビア観光後は城壁の街アヴィラから古代ローマ橋の残るサラマンカに行って宿泊しました。メリダやアルカンタラ橋などスペインの古代ローマ遺跡を巡ったこの旅の様子は旅行記をご覧ください。

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 ポン・ジュリアンは南仏プロヴァンスにあるローマ橋で、ローマ本国とガリア、ヒスパニアを結ぶ経路であるドミティア街道上にあります。その名はジュリアス・シーザーの名と関連しています。




古代ローマ橋

 陽光がきらめきロマンチックなイメージの南仏プロヴァンス。その中でも美しい村が点在する観光スポットであるリュベロン地方に古代ローマ橋、ポン・ジュリアンはあります。現在のフランス南部は古代ローマ人からアルプスの向こう側のガリアという意味の「ガリア・トランサルピナ」という名で呼ばれていましたが、紀元前121年にローマが征服して属州とし、ガリア・ナルボネンシスと改名されました。紀元前118年頃にグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスによって、ローマ本国とガリア、スペインを結ぶ街道、ドミティア街道の建設が開始され、その経路上に造られたのがポン・ジュリアンです。

 ポン・ジュリアンの7kmほど東にアプト Apt という街がありますが、これは紀元前50年頃にカエサルによって建造された古代ローマの植民市アプタ・ユリア (Apta Julia)で、ポン・ジュリアン Pon Julien の名はこの街の名に由来します。”Julia”はユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)から取っているので、ポン・ジュリアンの名はカエサルの名に由来するというわけです。

橋の構造

 橋はリュベロンの採石場から切り出した石灰岩で造られています。リュベロン周辺の土壌は石灰岩が主流で、白い山肌や崖の他、建物も白っぽいものが多く見られます。

 橋は3つのアーチからなり、中央のアーチが両端より大きく、橋の上も中央がやや盛り上がっています。

 橋脚の上部にかまぼこ型の穴が開けられていますが、これは橋の重量を軽減すると共に、洪水時に水が通り抜けることで橋に圧力がかからないようにするためのものです。ローマのティベリーナ島とテヴェレ川東岸との間に架けられているファブリキウス橋にも同じ構造があります。

ローマのファブリキウス橋。

 写真で見る印象よりかなり大きく、高さは11.5mとマンションの4階ほどもあります。訪れたとき気楽に橋の上から見下ろしたら、手すりがチャチなせいもあって足がすくみました。

橋の上にいる人と比較すると橋の高さがわかります。

 長さは80m、幅は5.5mです。(大きさはWikipediaフランス語版より)最近まで自動車が通行できたそうですが、2005年に橋の損傷を防ぐために隣に新しい橋が架けられ、歩行者・自転車専用になりました。

幅は5.5m
2005年から歩行者・自転車専用になりました。

リュベロン地方

 リュベロン地方は東西に伸びるリュベロン山塊の南北に広がる平原で、ポン・ジュリアンはリュベロン山塊の北麓にあります。下を流れるのはカラヴォン川(Calavon)で、この北麓の平原を東西に走る川です。

カラヴォン川の川床は石灰岩なので真っ白です。

 現在ポン・ジュリアンは北のルシヨンと南のボニューを南北に結ぶ道路上にありますが、ドミティア街道は カラヴォン川に沿って東西に伸びていたはずなので、橋の前後で道はS字型に曲がっていたのでしょう。しかしドミティア街道に沿っている現代の地方道路D900はずっとカラヴォン川の北側を走りこの橋は通らないので、 イタリア側が橋の北なのか南なのか解りません。

ポン・ジュリアンの北側。元の道がどうなっていたのかわかりません。

 地図を見るとポン・ジュリアンの南からカラヴォン川に沿って西に伸びる細い道があり、北側には地方道路D900の南にゆるいカーブを描く細い道があります。これが旧ドミティア街道の跡である可能性が高いように思えます。つまりイタリア側からカラヴォン川の北岸を来て、ポン・ジュリアンで南岸に渡ったということです。カラヴォン川南岸を東に向かう道がないことからもこれが有力と思えます。

 しかしカラヴォン川の北側を東に伸びる道とポン・ジュリアンは角度的に一繋がりと見るのは無理がありそうなのが難点です。そもそもポン・ジュリアンは北側がやや西を向いているのですね。東隣の街 Apta Julia(現代のアプト)がカラヴォン川南岸、西隣の街 Ad Fines(現代のNotre-Dame de Lumières)が北岸にあるところを見ると逆のようにも思え、結局のところ本当のところはわかりません。

ローマとガリア、スペインを結ぶ道

 ドミティア街道はイタリアからアルプスを越えたところにあるブリアンソンから、 ガリア・ナルボネンシスの州都、スペインに近い地中海沿いの都市ナルボンヌを結んでいました。

 起点のブリアンソンには、ローマからポー平原西部のトリノを経てモンジュネーヴル峠(Col de Montgenèvre)でアルプスを越えて至ります。

 モンジュネーヴル峠はアルプス超えの峠の中では高度が低くなだらかです。古代ローマの軍人ポンペイウスは、紀元前77年のヒスパニア遠征でこの峠を利用しました。そのポンペイウスに勝ったライバルのカエサル(ジュリアス・シーザー)もガリア遠征でこの峠を何度か利用したそうです。

 終点のナルボンヌからはアウグスタ街道(Via Augusta)でヒスパニア(今のスペイン)、アクィタニア街道(Via Aquitania)で大西洋岸のボルドーに通じていました。また途中のアルルからは、アウグストゥスの盟友アグリッパが建設したアグリッパ街道によって、北海(アミアン)、ライン川(トリーア、ケルン)にも通じていました。

 この橋を渡る人々によってローマはヒスパニア、ガリア、ブリタニアに拡大していったのです。

行き方

 イギリス人作家ピーター・メイルが1989年に出した「南仏プロヴァンスの12か月」というリュベロンでの生活を書いたエッセイがベストセラーになり、欧米でリュベロンブームが巻き起こりました。交通の便はよくないのですが、大勢の人々が訪れるようになったのです。

 最寄りの都市はパリからTGVで2:45ほで着けるアヴィニョン、セザンヌで有名な同じくパリから3:10ほどのエクス=アン=プロヴァンスです。しかしリュベリン地方はどちらからも離れていて、公共交通機関がほとんどありませんから、レンタカーで巡るのがお勧めです。リュベロンの村を巡るツアーはありますが、ポン・ジュリアンはメジャーな観光地ではないので、訪れるツアーは残念ながら見たことがありません。

 観光客が訪れるのはポン・ジュリアンの北西10kmほどのゴルド、北4kmほどのルシヨン、南4kmほどのボニューなどです。ポン・ジュリアンに行くなら一緒に訪れるのがお勧めです。

 レンタカーで行く場合、ポン・ジュリアンの近くに小さな道案内はありますが、Googleマップなどで案内させないとまずたどり着けません。私はレンタカーでアヴィニョンから来て、ゴルドからポン・ジュリアンに向かったのですが、途中道が狭く曲がりくねったところが多く、Googleマップのナビを見ながら走ったにもかかわらず分岐を曲がりそこねて何度か迷い、どちらの方向に進んでいるのかわからなくなりました。迷ったときに備えて時間に余裕を持っておいた方がいいでしょう。ただ迷ったおかげでミュールというこじんまりとした美しい村を見ることができました。

南仏リュベロンの村 ゴルド
なぜかゴルドの北にあるミュール(Murs)という村に来てしまいました。
リュベロン地方の細い道
ポン・ジュリアンの南にあるボニュー(Bonnieux)