ドイツのロマンチック街道沿いにある都市アウグスブルク。その起源は紀元前15年、初代皇帝アウグストゥスの時代に造られた、ゲルマン人と向き合う最前線の軍団基地です。重要な場所ですが残念ながらその痕跡はほんのわずかしか残っていません。




わずかに残る痕跡

 アウグスブルク旧市街にある大聖堂の傍らに、文字が書かれた白いブロックや模様のある板、人間か神の浮き彫りなどが地面に直接置かれたり、レンガの壁に取り付けられたりしています。これらはここで発掘された古代ローマ時代の建物の残骸です。広場の真ん中には発掘された建物跡を見ることができます。

大聖堂の脇に発掘跡があります。
発掘跡の傍らに発掘されたものを飾ってあります。

入植地アウグスタ・ヴィンデリコルム

 アウグスブルクはドイツ南部、ミュンヘンの近くにある都市で、ドイツ南部を東西に走るドナウ川の南35km程のところ、支流のレヒ川沿いにあります。古代ローマ時代、ドナウ川の北にはゲルマン人が住んでいて、アウグスブルクはローマとゲルマン人の境界線を維持する拠点でした。

 カエサルがガリアを征服してライン川の西、ドナウ川の南をローマが支配するようになりましたが、アウグストゥスが初代皇帝となった後の紀元前15年、この地にこの境界線を維持するためにローマの軍団基地が設けられました。1世紀には入植地「アウグスタ・ヴィンデリコルム(Augusta Vindelicorum)」となり、その後時期ははっきりしませんが、ラエティア属州の州都とされました。ラエティア属州はアルプスの北側、現代のスイス東部、オーストリアのチロル地方からドイツ南部にまたがる地域です。

 アウグスブルクとローマ本国との間はクラウディア・アウグスタ街道で結ばれていました。現代の高速道路も鉄道もアルプスをブレンナー峠で越えますが、古代のクラウディア・アウグスタ街道はそれより西の方、アディジェ川を遡ったところにあるレッシェン峠(レージア峠)を超えます。現代と違う理由が地形の関係なのか住んでいる部族との関係によるのか、または他の理由なのかわかりません。

 アウグスブルクという名は「アウグスタ・ヴィンデリコルム」の一部である「アウグスタ」の名残です。「アウグスタ」は皇帝アウグストゥスに因んだもので、当時建設された多くの都市の名に付けられました。ドイツでは「アウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)」、イタリアでは「アウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(Augusta Praetoria Salassorum)」、スペインでは「エメリタ・アウグスタ」があって、それぞれトリーア、アオスタ、メリダという名となって現代でも都市として残っています。

古代ローマ遺跡

 これだけ重要な場所であり、当時それなりの施設があったに違いないアウグスブルクですが、残念ながら古代ローマ時代のものが何も残っていません。かろうじて冒頭に書いた大聖堂前の発掘跡を見ることができるだけです。

 ゲルマン人が住むエリアとのもう一つの境界線であるライン川方面には、支流であるモーゼル川沿い、現代のフランス国境近くにアウグスブルクに先駆けて都市が築かれました。これが現代のトリーアですが、こちらには古代ローマ時代の城門であるポルタ・ニグラ、円形闘技場、浴場跡などが残っています。

今でも残るフッガー家の邸宅、フッガーハウス。

 アウグスブルクはフッガー家の拠点として、15〜16世紀にはヨーロッパの経済の中心として栄えたので、その繁栄ゆえに都市が整備され、それに伴って遺跡が破壊されてしまったのでしょうか。

行き方

 鉄道が各都市から通じていて容易に行くことができます。最寄りの大都市はミュンヘンです。高速道路もミュンヘンから通じていて、車で行くのも容易です。大きな都市なので宿泊施設は数多くあります。ロマンティック街道沿いなのでツアーでも立ち寄ることが多いのですが、大聖堂はコースに入っていないかもしれませんし、仮に入っていたとしても大聖堂そのものを見るだけで遺跡の存在には気付かないかもしれません。ツアーガイドが紹介しなくても、遺跡は大聖堂の目の前の広場にあって目にするのは容易なので、ぜひ覚えておいてください。

宿泊したのはフッガーハウスの隣りにあるシュタイゲンベルガー・ドライ・モーレンホテル。裏手の外壁にアウグストゥスの絵がありました。

 ナボーナ広場はごちゃごちゃと建て込んだローマの街の中心部にある長円形の広大な空間です。周囲にはレストランやカフェが並んでいて、広場に3つある噴水を眺めながら食事やお茶ができるローマ観光の定番です。ここはかつて古代ローマ時代には陸上競技場で、その形がそのまま残っているのです。



陸上競技場

 競技場は紀元86年に第11代となるローマ皇帝ドミティアヌスにより開設されました。かつてのトラックが今の広場の部分に当たります。今その部分の長さが約250m、幅が約50mで、今の陸上競技場と比べるとかなり細長い形をしています。トラックの形はチルコ・マッシモと同じく一方が直線のU字型でした。

 広場を取り囲む建物は、競技場の観客席があった場所に建てられています。観客席は外側が30mありました。 外観はコロッセオと同じような姿だったと思われます。コロッセオは48mなのでそれよりやや 小さめですが、現代のマンションでいうと10階建くらいの高さに当たる相当高い高層建築です。古代ローマの建築技術は非常に優れていたので、この基礎は年月が経ったいまでも建物の土台として十分に機能しています。

 ところでここは陸上競技場ですが、古代ローマで陸上競技というイメージはありませんよね?首都ローマのコロッセオは剣闘士の競技場ですし、チルコ・マッシモは映画ベンハーで描かれた戦車競技場です。剣闘士競技場である円形闘技場や戦車競技場は古代ローマの数多くの都市で今でも見ることができますが、陸上競技場は他では見たことがありません。陸上競技といえばオリンピック発祥の古代ギリシャのイメージです。古代ローマは古代ギリシャから多くのものを受け継いでいるので、これもギリシャ趣味の一つとして取り入れられたのかもしれませんが、他で見ないところを見ると、あまり流行らなかったのかもしれません。オリンピックがここで開催されたわけでもありません。ローマがギリシアを支配下に置いた後も、オリンピック、すなわちオリュンピアの祭典はオリュンピアで開催されていて、それは393年まで続いています。

 古代の競技場がほとんどそのままの形で広場になって残っているのは本当に面白いのですが、陸上競技のイメージがないのでかつての姿を想像しようとしてもうまくいかず、今ひとつ実感が湧が湧きません。私に想像力がないだけですが。

 古代ローマが衰えると陸上競技も開催されなくなり、使われなくなった競技場は貧しい人々の住居となったそうです。今は広場になっている中央のトラックの部分は集会所のような使われ方をしていたようです。

広場と3つの噴水

 今のような広場になったのは16世紀から17世紀にかけてです。

 広場には3つの噴水があり、南にあるのがムーア人の噴水です。中央がイルカと格闘するムーア人で、その周りを4対の海神トリトンが囲むという場面だそうです。しかし口になにか咥えて吐いている人が4人、口から水を吐き出しているおじさんが4人、としか見えません。グロテスクです。この美的感覚が私には理解できません。

南のムーア人の噴水
よく見るとグロテスク

 広場の中央にあるのは四大河の噴水です。ローマではいたるところに登場する商売上手なベルニーニ作です。ガンジス川、ナイル川、ラプラタ川、ドナウ川を擬人化したのだそうです。新大陸というと世界最大と言われるアマゾン川が思い浮かぶので、なぜラプラタ川なのか不思議でしたが、ラプラタ川は早くから拓かれていたので、これが新大陸の代表として採用されたようです。アマゾン川は当時は全く開拓されていない川でした。

中央の四大河の噴水はヴェルニーニ作
劇的で美しい噴水です。さすがヴェルニーニ。

 四大河の噴水の上にはオベリスクが建っています。このオベリスクは競技場を作ったドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られたものです。しかし最初に建てられたのはここではなく、少し東側にあったイシス神殿の前でした。エジプトの神イシスを祀るイシス神殿の前には、エジプトから運ばれたものも含めて数多くのオベリスクが建てられ、その後あちこちに移設されて今も残っています。このオベリスクは4世紀にアッピア街道沿いのマクセンティウス競技場に移され、更に17世紀にこの噴水を作るためにここに移されました。 マクセンティウス競技場は戦車競技場で、他の戦車競技場同様、中央にあるスピナと呼ばれる分離帯にオベリスクが建てられました。ちなみにここは陸上競技場なのでオベリスクを建てられる中央のスピナはありませんでした。

 四大河の噴水の横に建つのは、4世紀にこの場で殉教したアグネスを祀るサンタンニェーゼ・イン・アゴーネ聖堂です。アグネスが殉教したのは、キリスト教を弾圧したということでキリスト教徒に嫌われているディオクレティアヌス帝のときのことです。

オベリスクと聖アグネスを祀る聖堂。

 北にあるのがネプチューンの噴水。他の二つと比べると印象が薄い気がします。

北のネプチューンの噴水。

 北の建物の外側に発掘された観客席が見えるようになっているのですが、2018年に訪れた時は知らずに見落としました。

行き方

 ローマの中心地なので容易に訪れることができます。地下鉄が通っていないエリアなので、徒歩かバスで訪れることになります。周辺は建物が入り組んでいます。どの方向から来ても、路地を歩いて外周の建物をくぐると噴水のある美しい広場が目の前に広がり、ちょっとした驚きに見舞われるでしょう。近くにパンテオンがあるのでこれとセットで訪れるのがおすすめ。

路地を歩いて外周の建物をくぐると噴水のある美しい広場が目の前に広がります。

更新履歴

  • 2019/9/15 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

 「全ての道はローマに通じる」で有名なローマ街道のうちで一番最初に造られたのがアッピア街道です。起点のカペーナ門からチェチーラ・メテッラの墓までの4kmほどを2018年5月に実際に歩いてみたので紹介します。



アッピア街道とは

 アッピア街道はローマとイタリア半島の南端、長靴のかかとの後ろの真ん中あたりにあるブリンディシを結び、イタリア半島の南半分を縦断する街道です。

 その名は紀元前312年にこの街道の建設を元老院に要請したアッピウス・クラウディウス・カエクスに因みます。最初はカプアが終点でした。カプアはナポリの北にあり、ローマからわずか150kmほど。ローマ帝国のイメージからするとほんの近所です。しかし紀元前4世紀当時、こんな近所でさえローマの手中にはありませんでした。ローマは周辺の部族と戦って勝ちその領土を手に入れていきますが、当時はイタリア半島中部に住むサムニウム人と戦っている最中でした。このサムニウム戦争が紀元前290年に終わってようやくイタリア半島中部がローマの支配下に入ります。アッピア街道はこの戦争を有利に進め、支配を確実にするために造られた道路です。

 ローマの支配する領域の拡大につれアッピア街道は延長されました。紀元前272年に半島南部を制圧し、264に現在の終点ブリンディシまで延長されます。ブリンディシは地中海に出る港です。紀元前264年はカルタゴとのポエニ戦争が始まった年で、これ以降ローマの領土は海の向こうに広がっていきます。ローマを出発した軍隊を海外に送り出すことで、これ以降もアッピア街道は大きな役割を果たしました。

今回のルート

起点のカペーナ門

 チルコマッシモから南東にカラカラ浴場通り Viale delle Terme di Caracalla が伸びています。これがアッピア街道です。

チルコ・マッシモを背にカラカラ浴場通りを望む。これが古のアッピア街道。

 アッピア街道の起点はカペーナ門で、これは王制のころに起源を持つセルウィウス城壁に開けられた門の一つです。セルウィウス城壁の内部が当時のローマ市内ですから、外に向かう街道の出発点は当然この城壁の門ということになります。

 この辺りのどこかにカペーナ門があったはずです。道に沿って東側はカペーナ門広場 Piazza di Porta Capena という名が付いていますが、門自体が残されているわけでわありません。

 チルコ・マッシモの端から100mほどのところにある横断歩道近くになにかの残骸のようなものがあり、「INIZIO DELLA VIA APPIA」「アッピア街道の起点」と書かれたプレートが付けてあります。これがカペーナ門なのでしょうか。

カペーナ門?
汚れて読みにくいのですが「INIZIO DELLA VIA APPIA」(アッピア街道の起点)の文字。

 この残骸は薄いレンガを積み重ねたものです。テルミニ駅前にあるセルウィウス城壁は大きな石積みだったのでこれとは違いますが、地下街(マクドナルド横)にある城壁の基礎の部分は同じような薄いレンガを積み重ねたものでした。それに後で見るアウレリアヌス城壁は全体がこんな感じです。

テルミニ駅前のセルウィウス城壁。
テルミニ駅地下街のセルウィウス城壁。

 これがカペーナ門かどうかは微妙ですが、セルウィウス城壁の残骸である可能性は高そうに思えます。ただネットや本でこれに触れたものを見つけられなかったので真相は不明です。

 いずれにしてもこの辺りが起点であることは間違いありません。

アウレリアヌス城壁まで

 起点から歩き始めるとすぐに水飲み場があります。いつの時代からあったものかわかりませんが、ローマでよく見る先端を指で塞いで上に空いた穴から飛び出す水を飲むタイプのものです。

出口を指で塞ぎ上の穴から出る水を飲みます。
右手に見える巨大な建物がカラカラ浴場。

 間もなく右側にカラカラ浴場が見えてきます。

 アッピア街道が造られたのが紀元前300年頃で、カラカラ浴場が建てられたのは紀元200年頃。500年の隔たりがあります。今の日本に置き換えてみると、500年前は戦国時代で織田信長がまだ生まれていません。古代ローマという括りでアッピア街道もカラカラ浴場も一緒くたにしてしまいますが、両者が造られた時代はそれほど離れているわけです。

 起点から600m、カラカラ浴場の南端近くでカラカラ浴場大通りが右側に大きくカーブして逸れて行き、左からラテラノ聖堂につながるドルソ通り Via Druso が交差します。ここはヌマ・ポンピリオ広場 Piazzale Numa Pompilio という名がついています。ヌマ・ポンピリオはロムルスに継ぐローマ2代目の王の名で、ヌマが妻エゲリアと会っていた神聖な木立ちがあったのがここでした。

 アッピア街道は正面に伸びる石畳の細い道です。

ヌマ・ポンピリオ広場。右正面に伸びるのがアッピア街道で、すぐに分岐します。
古代の公衆トイレ Vespasiano?

 交差点の南にある謎の建物は古代の公衆トイレ Vespasiano と説明しているものもありますが、真相は不明です。

 すぐに道が二手に分かれます。分岐点には円柱形の道標が建っていて、右はサン・セバスチアーノ門通り、左はラティーナ門通りとあります。右のサン・セバスチアーノ門通りがアッピア街道です。

アッピア街道とラティーナ街道の分岐点。
左はラティーナ街道。
右はサン・セバスチアーノ門通り。アッピア街道です。

 左のラティーナ街道はアッピア街道より先に建設が始まった街道ですが、アッピア街道とは違って地形に沿って敷かれた道でした。

 アッピア街道は車は南行きの一方通行で、交通量はさほど多くありません。

アッピア街道。静かな道です。

 自転車に乗った観光客が思いのほか多く追い越していきます。貸自転車でアッピア街道巡りというのが流行っているようです。若い女性の単独行もいました。ローマもだいぶ治安がよくなったのですね。

 右にゆるやかにカーブする石畳の道は両側を3mくらいの壁に囲まれていて、ところどころに建物の入口があります。人通りはほとんどなくて静かです。

 途中左手にスキピオ家の墓所があります。スキピオ家は名門で執政官を大勢出しており、特に第2次ポエニ戦争でハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスは有名です。この墓はアッピア街道ができてまだそんなに経っていない紀元前280年頃に築かれました。アッピア街道沿いに墓が多数作られるようになる先駆けです。見学はツアーに参加してヘルメットを被って地下の墓に入るそうです。

緩やかな右カーブが続きます。もうすぐサン・セバチアーノ門。

ドルーススの凱旋門とサン・セバスチアーノ門

ドルーススの凱旋門とサン・セバチアーノ門。

 起点から1.4kmほどのところにドルーススの凱旋門とサン・セバスチアーノ門があります。

ドルーススの凱旋門。

 ドルーススは2代皇帝クラウディウスの弟ですが、実際にはこの人とは関係がなく、トラヤヌスの凱旋門が後に水道に転用されたものと考えられているそうです。トラヤヌスはローマ帝国の版図を最大にした皇帝であちこちに凱旋門がありますが(以前スペインのメリダのものを見ました。)、これもその一つだったのでしょうか。

 ここを通っていた水道はマルキア水道から分岐するアントニニアーナ水道で、紀元226年、マルクス・アウレリヌス・アントニヌス帝、通称カラカラ帝がカラカラ浴場に水を引くために造ったものです。たまたま便利な場所に凱旋門があったので、その上に水道を通したということのようです。

 ドルーススの凱旋門のすぐ先にサン・セバチアーノ門があります。

サン・セバチアーノ門。内部は城壁博物館として公開されています。

 アッピア街道の起点のカペーナ門があるセルウィウス城壁は、帝政になるころにはその外側まで市街地が広がり、また安定した統治でローマに敵が迫るようなこともなくなり、意味がなくなって廃れます。その後3世紀後半にローマの弱体化によって異民族の侵入が激しくなり、新たにローマを守るためにセルウィウス城壁より外側に造られたのがアウレリアヌス城壁で、これとアッピア街道との交点にあるのがこの門です。

 もとの名前はアッピア門で、実質的なアッピア街道の起点はここになりました。今でもここから通りの名が「アッピア・アンティカ通り (Via Appia Antica)」に変わります。

 アウレリアヌス城壁の外側に沿って道路が通っていて、サン・セバスティアーノ門を出たところが交差点になっています。その信号が青になると、サン・セバスティアーノ門の小さな開口部から車がぞろぞろと連なって出てくる様子がなんとなくユーモラスです。

 サン・セバスティアーノ門の内部は城壁博物館として公開されていて、門の屋上にも登ることができます。屋上からは北にこれまで歩いてきたカーブした道、南にはこれから行くアッピア街道、そして遠方には山並みが広がっています。入場は無料でした。(2018年5月)

起点の方向。
この先は「アッピア・アンティカ通り」。
サン・セバチアーノ門の屋上から南には山並が見えます。

 交差点の南東の隅に水飲み場があります。でもこの水を受ける容器、この形と大きさはどう見ても石棺です。ちょっと水を飲む気にはなりません。

水飲み場。どう見ても石棺と墓の銘版です、

 古代ローマ人は街道沿いに盛んに墓を築きました。アッピア街道沿いにもこの後見るチェチーラ・メテッラの墓を始めたくさん残っています。この水飲み場は多分この辺りの墓にあった石棺を再利用したのでしょう。蛇口の上にある夫婦らしき男女の像も、おそらく墓に付けられていた被葬者の像です。

第1マイルストーンからサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂

 サン・セバスチアーノ門から正面に向かうアッピア・アンティカ通り (Via Appia Antica) がかつてのアッピア街道です。

 アッピア・アンティカ通りというのは旧アッピア街道という意味。並行して東にアッピア・ヌオボ通り Via Appia Nuova、すなわち新アッピア街道があるのでそれに対する名です。

 交差点から100mほど進むと右側に最初のマイルストーンがあります。円柱の上の部分に「I」と書いてあります。ここが起点のカペーナ門から1マイル、約1.48kmです。

 実物はミケランジェロがカンピドリオ広場を飾るために持って行ってしまい、今ここにあるのは複製です。

 第1マイルストーンについては別記事も御覧ください。

関連記事⇒ アッピア街道の第1マイルストーン(イタリア)
関連記事⇒ 1日でローマ市内42個の遺跡を一筆書きで歩いて巡る(イタリア)
      【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

第1マイルストーン。
上にローマ数字で「I」とあります。

 ここは交通量が多くバスも頻繁に通りますが、歩道が狭いので気をつけないと危険です。マイルストーンの側は歩道がありません。

 マイルストーンを過ぎるとすぐに道路と鉄道の下をくぐります。テルミニ駅とフィウミチーノ空港を結ぶレオナルド・エクスプレスの通る線路です。

 ここで左側にあった細い歩道もなくなってしまいます。

歩道がありません。

 左にゲタの墓があるのですが気付かず見落としました。ゲタはカラカラの弟で当初は共同皇帝でしたが、兄カラカラに暗殺され、ダムナティオ・メモリアエ(名声の抹殺)を受けました。エジプトで発見され今はベルリンにある家族の板絵からはゲタの姿が削り取られ、フォロ・ロマーノの兄弟の父親セプティミウス・セウェルスの凱旋門からは銘文のゲタの記述が削られて別の言葉に変えられています。でもそれなのに墓は残っているというのはちょっと変です。実際ゲタは父親や兄と共にハドリアヌス霊廟、現在のサンタンジェロ城に埋葬されているともいわれていて、これがゲタの墓だという決定的な証拠はないようです。

 サン・セバチアーノ門から800m程で道は3本に分かれます。左がアッピア街道です。

左がアッピア街道。左手の人が立っている前がドミネ・クォ・ヴァディス教会。
左の道の入口の壁に旧アッピア街道の銘版があります。
分岐点の手前の今ひとつ判りにくい案内板。

 分岐点の左側にあるドミネ・クォ・ヴァディス教会 Chiesa del Domine Quo Vadis は、ペトロがローマから逃れようとしているときに既に磔になって死んだイエスと行き合ったという伝承があるところだそうです。話としては面白いし、カトリックの総本山サン・ピエトロに祀られている人物に関係するところなのでもっと人が訪れるのかと思っていましたが、意外なことに閑散としています。キリスト教には興味がないので素通りします。

 アッピア街道は分岐した先で右にカーブすると、その先はずっと直線が続きます。やっとアッピア街道らしくなってきました。アッピア街道は軍隊を素早く通すために出来るだけ直線かつ勾配がないように敷いた道です。

 ヌマ・ポンピリオ広場の先で分岐した古代のラティーナ街道は同じくカプアまで通じていましたが、地形に沿っていて山越えもある道でした。それに対してアッピア街道は軍隊を素早く通すために出来るだけ直線かつ勾配がないように敷いた道です。

 しばらく歩くとカタコンベがあり、観光客で賑わっています。これも興味がないので素通り。

 直線が続くので運転の荒いイタリア人の車はかなりスピードを出しています。石畳の道なので大きな音がします。車がホコリを巻き上げ排気ガスを撒き散らしていくので目と喉が痛くなってきました。すれ違うときには車が端に寄って歩行者すれすれに通っていき、スピードをあまり落とさない車もあってときどきヒヤッとします。両側が塀で遮られているので逃げ場もありません。

 早くここを抜け出したいという気持ちでただひたすら急いで歩くという感じになってきました。古に思いを馳せながらアッピア街道を歩く、という事前に想像していたロマンティックなものとは程遠い状況です。

 自転車でアッピア街道を走ることを考えている人は、この道路状況を考えに入れて決めた方がいいでしょう。端的に言ってやめた方がいいです。

この幅の道を車が飛ばしていくので歩いているとちょっと怖い。

 斜め左にアッピア・ピニャテッリ街道 Via Appia Pignatelli が分岐し、そこから先は一方通行になります。車に怯えなくて済むようになりほっと一息つきます。

 分岐して300mちょっとのところにあるローマ7大巡礼聖堂の一つサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に観光客がたくさん入っていきます。これも素通り。3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたという聖セバスティアヌス を祀った聖堂で、アッピア門はこれにちなんでサン・セバスティアーノ門と呼ばれるようになりました。

マクセンティウスの競技場

マクセンティウス競技場の入り口。

 しばらく歩くと左手にマクセンティウスの競技場があります。ここは入場無料です。

 起点から約4km、サン・セバチアーノ門から2.6kmです。

 4世紀初めの皇帝マクセンティウスが造った馬車競技場で、郊外の別宅であるヴィッラに隣接しています。アウレリアヌス城壁からここまで2.6kmもあり、ローマ市民のために造ったものとは到底思えません。マクセンティウス個人用の競技場だったのでしょう。その証拠にこの競技場で開催された記録が残っているのは、309年のマクセンティウスの長男、14歳ほどで早世したウァレリウス・ロムルスの追悼式典だけです。ウァレリウス・ロムルスの円柱形の墓が競技場の横にあります。

マクセンティウス競技場。
中央分離帯スピナにはオベリスクが建っていました。

 馬車が走った競争路は元の姿がよく残っていて、スピナという全長296mの中央分離帯があるのが判ります。スペインのメリダにあるものはもっとはっきりとスピナや観客席の形がわかりますが、イタリアでは一番元の形をよく残しているものとのことです。

ナボーナ広場のオベリスク。かつてこの競技場に建っていました。

 中央分離帯にはオベリスクが建っていました。1世紀にドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られ、パンテオン近くのイシス神殿に建てられていたものを移設したものです。そして時を経て今はナヴォーナ広場の四大河の噴水の上にあります。

チェチーラ・メテッラの墓

 マクセンティウスの競技場から300mほど行くと、左手に円筒形のチェチーラ・メテッラの墓が聳え立っています。高さ21m、直径29mと、墓としてはとんでもなく巨大なものです。

チェチーラ・メテッラの墓。巨大です。

 被葬者のチェチーラ・メテッラはカエサル、ポンペイウスと第一回三頭政治という密約を結んだクラッススの息子の妻だそうです。夫のクラッスス一族は執政官や法務官を多数輩出した家柄で、本人も執政官を輩出した家の出です。しかし本人も夫も特に際立った事績はないのに、なぜこんな大きな墓に入っているのか謎です。息子のマルクス・リキニウス・クラッススはオクタヴィアヌスのもとで戦果を挙げそこそこ活躍した人なので、母親を敬っている立派な人ということを宣伝するためにこれを建てたのかもしれません。

 皇帝の墓であるアウグストゥス廟やハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)は大きくても当然ですが、考えてみたらその他に見た古代ローマ人の墓は執政官を務めたとはいえ無名のガイウス・ケスティウスのピラミデや、マッジョーレ門の間近に立つ解放奴隷のパン屋ユリサケスの墓で、やはりなぜそんな大きな墓なのか首をかしげるものでした。墓を建てるのは超一流からは外れた人の間で流行したものなのでしょうか。

チェチーラ CAECILIAという文字が見えます。
南側の建物は後世付け足されたもの。

 後に南側に接して建物が付け足され、要塞として使用されました。

 アッピア街道に面した城の壁にはチェチーラ・メテッラの墓の断片が取り付けられています。

当時の石畳

 チェチーラ・メテッラの墓から100mほど先にアッピア街道の元の石畳が残っています。

アッピア街道の石畳。

 黒くて大きな石は表面がデコボコで石と石の間には隙間が空いていますが、古代ローマ時代には隙間なく平らな石が敷き詰められていて、木の車輪の馬車がスムーズに進めました。ローマが滅びてメンテナンスされなくなり、風雨に削られて今のような姿になってしまったのです。

 2018年に訪れたのはここまでです。地図を見るとこの先もしばらく道は直線で続いています。最短コースを通したローマ街道の特徴がよくわかります。起点のカペーナ門からここまで約4kmで、ブリンディシまでの全長540kmのほんの0.7%にすぎません。アッピア街道の旅は始まったばかりです。(アッピア街道の延長は書かれているものによって数字がかなり違うのですが、ローマ=ブリンディシ間の距離からみて540km程度のはずです。)今度は車でローマから終点のブリンディシまでたどってみたいと思っています。

行き方

※下記は2019年7月現在の情報です。最新の情報をお確かめください。

ローマの公共交通運営会社 ATAChttps://www.atac.roma.it/index.asp?lingua=ENG

 ATACの118番のバスがローマ中心地と、今回訪れたチェチーラ・メテッラの墓より先にあるカパンネッレ Capannelle との間を、ほぼアッピア街道を経由して結んでいます。ローマ中心部に入ったバスはカンピドリオ広場の下、フォーリ・インペリアーリ、コロッセオと回ってそのままカパンネッレ方面に戻っていきます。

 ローマのバスは手を上げて乗る意志をはっきりと運転手に示さないと通過してしまうので要注意です。降りるときもバスの車内では停留所の案内放送がないので、車窓とスマートフォンの地図を見て降りたい停留所が次になったらボタンを押さなければなりません。

行き

 ローマ中心部を1周するバスに、カンピドリオ広場の下、ヴィットリオ・エマヌエーレ製記念堂の脇、フォーリ・インペリアーリ、コロッセオから乗車できます。

 アッピア街道の起点付近にあるバス停カラカラ浴場/カペーナ門 Terme Caracalla/Porta Capena からサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂 Basilica S. Sebastiano までは、旧アッピア街道をずっと辿ってきます。この停留所を出ると左折してアッピア・ピニャテッリ街道の方に行ってしまい、マクセンティウスの競技場やチェチーラ・メテッラの墓の前は通りませんが、チェチーラ・メテッラの墓まで500m程なので歩けます。

 頻繁に走っているのでこのバスを乗り継いで見たいところだけ見ることも可能です。

 カタコンベやサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂は観光客が多く、おそらく他にも降りる人がいるので降車はそんなに心配いらないはずです。

帰り

118番のバス停。手を降って乗るアピールをしないと通り過ぎるので注意。

 ローマ方面行きは一部ルートが違います。

 118番のバスが通るアッピア・ピニャテッリ街道 Via Appia Pignatelli は、チェチーラ・メテッラの墓付近では旧アッピア街道から500mほど東です。チェチーラ・メテッラの墓の200m先に両街道をつなぐ道があります。アッピア・ピニャテッリ街道に出たら、バス停は交差点のすぐ北側です。

 北行きはサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂には寄らず、アッピア・ピニャテッリ街道を直進します。

揺れと音がひどく乗り心地は最低。

 間もなくアッピア街道に合流して、先ほど歩いてきた石畳の道を豪快に飛ばします。ローマのバスは街中で突然燃える事故が何度も起きているほど老朽化がひどいのですが、乗ったバスもバネが全く効いていなくて、ガタガタガタガタものすごい音を立てて激しく揺れながら走りました。踏ん張っていないと体が跳ねて椅子から落ちそうなほどです。ちなみにバスの火災は私が訪れた直後の2018年の5月8日にあり、これでこの年9件目だったそうです。街中で高く炎を上げ、黒焦げの骨組みだけになった映像は衝撃的でした。2017年には22件起きたそうです。

 行きに歩いた時に見ていた通り、道がそんなに広くないのにすれ違うときもスピードを落とさずに右側の壁ギリギリを走り抜けます。右側の窓際に座っていたのですが、壁を擦りそうで怖くなり窓から離れたほどです。

チルコマッシモの西側を通って中心地に向かいます。

 ヌマ・ポンピリオ広場からサン・セバチアーノ門までは南方向の一方通行なので、門の手前で左折して西を迂回します。ヌマ・ポンピリオ広場でアッピア街道のルートに合流し、その後カペーナ門からチルコ・マッシモの西側を通ってローマ中心部に進みます。

 バスはローマの中心部を通り抜けてるので、他の人が降りる停留所で適当に降りてもなんとかなります。私は見覚えのあるフォーリ・インペリアーリで他の人が降りるのに続いて降りました。コロッセオまで歩けば地下鉄に乗れます。

カンピドリオ広場の階段コルドナータの下を通過。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の前からフォーリ・インペリアーリへ。

更新履歴

  • 2019/7/30 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

 ローマでポンペイウス劇場といってもガイドブックに出ているわけでもなく、知る人は少ないでしょう。

 それもそのはずで、劇場の形をなしていない、どころか、跡形もないと言っていい状態です。 しかしポンペイウス劇場は歴史上とても有名な事件の舞台となったところなので、そのかすかに残る痕跡をたどると当時の人々の息遣いが聞こえるような、不思議な実感が湧いてきます。



不自然な形の路地

 ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の北から西に向かって伸びるヴェットリオ・エマヌエーレII世通り(Corso Vittorio Emanuele II)沿いに、あまり目立たないサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(Sant’Andrea della Valle)があります。通りの北側にはパンテオンやナボーナ広場があって観光客が行き交っていますが、南側は建物がぎっしり立て込んでいてこれといった名所はありません。

 この教会の脇の路地を南に入ると、やがて右斜め前に分岐する路地が現れます。

右斜め前に分岐する路地

 路地は大抵は直線ですが、この道は大体同じような調子で左にカーブしていて、両側の建物まで弧を描いています。

カーブする道と建物。

 さらに進むとほぼ180度向きを変えて、元の道の延長線上で再び合流します。

ほぼ180度向きを変えて、元の道の延長線上で再び合流。

 この不自然なカーブが実は、古代ローマのポンペイウス劇場の名残なのです。

 古代ローマの劇場は舞台の正面に半円形で階段状の観客席が向き合う形です。カーブした路地や建物は東側を向いていたこの観客席部分です。

 古代ローマの建築はとてつもなく頑丈なので、建物や土台が再利用されているところが少なくありません。ここはポンペイウス劇場の観客席の半円形の部分の上に建物が建てられているためにこんな形をしているのです。

 カーブした道の外側にあるホテル テアトロ・ディ・ポンペオ、つまりは「ホテル・ポンペイウス劇場」というそのまんまの名前のホテルは、今では地下になっている劇場の観客席の下のカマボコ型天井の空間をレストランに使っているそうです。

左側の半円形の部分が観客席。そこから右手の道路の向こう側まで広場がありました。

赤線が建物や道路の形で残っている半円形の観客席、劇場の舞台や広場が青線の範囲に広がっていました。

ポンペイウス劇場で起きた有名な事件

 ここで起きた有名な事件というのはカエサルの暗殺です。

 英語読みのジュリアス・シーザーでシェークスピアの劇にもなったこの人は、間違いなく古代ローマ一番の有名人でしょう。「賽は投げられた」や、まさにこの暗殺された時の「ブルータスお前もか」という言葉も有名です。好き嫌いはあっても、今のフランス、イギリスを征服し、後継者に初代ローマ皇帝アウグストゥス (オクタヴィアヌス)を指定して、ローマがその後も長く続く礎を築いた功績は否定のしようがありません。

 カエサルが暗殺されたのは元老院議場でした。フォロ・ロマーノにはカエサルその人が建設した元老院議場「クリア・ユリア」が残っているので、そこが暗殺の舞台だと思っている人も多そうです。おまけにすぐ近くには、今でも花が絶えないカエサルを祀る神殿跡までそろっているので、勘違いしたとしても致し方ありません。 しかし当時フォロ・ロマーノの元老院議場はカエサルが建て替えの最中で未完成でした。そのためポンペイウス劇場が臨時の元老院議場となっていたのです。つまりカエサルは元老院に出席するために臨時の元老院議場であったポンペイウス劇場を訪れ、そこで暗殺されたわけです。

カエサルが建造したフォロ・ロマーノの元老院議場、クリア・ユリア。
フォロ・ロマーノのカエサル神殿。2000年後の今でも花が絶えません。

 この劇場を建てたポンペイウスは東方を征服した古代ローマの英雄で、かなり人気がありました。 ポンペイウス劇場が完成した紀元前55年当時、カエサルとポンペイウスは三頭政治と言われる密約で表面的には協力し合っていましたが、後に対立します。ポンペイウスはファルサルスの戦いでカエサルに敗北し、その後エジプトの裏切りに会って殺害されました。 そしてそのポンペイウスの造った劇場でカエサルが暗殺される。何か因縁を感じてしまいます。

 しかもカエサルはポンペイウス像の足元に倒れたとされています。さすがにそれは出来過ぎな気がしますが。

 ポンペイウス劇場は舞台の背後、方角でいうと東側に列柱が立ち並ぶ広大な長方形の広場がありました。この広場こそ元老院が開かれていた場所、つまりカエサルが殺された場所です。今では建物に埋め尽くされていて当時を偲ぶのは難しいのですが、紀元前44年3月15日にここにカエサルが立ち、対立者たちにめった刺しにされたのだと思うと、生々しい実感が湧いてきます。

ローマ劇場の元祖

 ポンペイウス劇場はローマで初めての常設の劇場でした。それまでの劇場は上演が終わったら取り壊す木造のものだったのです。

 軟弱だとして禁止されていたとか(だったらなぜ一時的ならいいのか?)、独裁者を出さないように禁止されていたとか(だったらなぜポンペイウス劇場は認められたのか?)とか説明されていますが、何が本当かわかりません。ただこのポンペイウス劇場が初めての常設劇場だったことは確かです。

 古代ギリシアの劇場は自然の斜面や窪地を利用してすり鉢型を造りましたが、ここポンペイウス劇場は平らな土地に建てられました。現代の競技場や野球場と同じ造りです。劇場を作るのに場所の制約がなくなったわけで、その後各地のローマ劇場の多くが平地に建てられています。

 ローマ街道や水道も自然の地形を利用するよりトンネルや橋で強引に通していたのと同じ精神でしょう。

劇場の全体像

 劇場と一体の広場は広大で、東端は東にある通りの向こう側のトッレ・アルジェンティーナ広場にまで達しています。

 トッレ・アルジェンティーナ広場は神殿が発掘されたところで、当時の地面が3〜4m下に見えています。今は地下にあるホテル テアトロ・ディ・ポンペオのカマボコ型天井の空間も、当時は地上にあったことがわかります。

トッレ・アルジェンティーナ広場。向こう側(西)にポンペイウス劇場がありました。

 元の姿を偲ぶには今も形を留めているものを見るのが一番です。

 よくローマ劇場の代表的なものと言われるのが南フランスのオランジュにあるローマ劇場で、残存状態はとてもよく、内部の構造と舞台背後のとんでもなく高い外壁はこれを見て想像することができます。ところがここでは自然の小山を利用して観客席が作られているので、観客席の背後の円形の外壁が存在しません。

オランジュのローマ劇場。
舞台背後の外観。(オランジュのローマ劇場)
観客席の下のかまぼこ型天井の通路。ポンペイウス劇場では観客席は平面に建てられた建造物ですが、オランジュのものは自然の岩山を利用しているので、ここは山をくり抜いたトンネルです、(オランジュのローマ劇場)

 観客席の円形の外観を想像するならマルケッルス劇場やコロッセオがいいかもしれません。でもこれらは円形なので全体像はやはり違っています。

マルケッルス劇場。観客席の外側はこんな感じだったはず。

 舞台の背後に列柱廊が連なっている姿は、残念ながら似たものがありません。

 結局のところ元の全体像を想像するのはとても難しいですね。

残骸

 ポンペイウス劇場は6世紀まで劇場として使われていました。

 ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びたのが476年なので、それからもしばらく使われていたわけです。しかし6世紀半ばに東ローマ帝国と東ゴート王国がイタリアで戦ったゴート戦争でローマの人口が激減したためついに使われなくなり、崩壊が始まりました。

 ルネサンスの頃、新たな建造物を飾るために古代ローマの建築物から大理石やトラバーチンが剥がされ持ち去られていきましたが、ここポンペイウス劇場から持ち去られたものが今では近くにあるカンチェッレリア宮を飾っています。トラバーチンが外壁に、観客席を支えていた赤っぽい円柱が中庭の周囲に使われています。

カンチェッレリア宮の中庭。
この赤っぽい柱が元はポンペイウス劇場の観客席を支えていました。

行き方 

 ナボーナ広場の南方、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の北から西に向かって伸びるヴェットリオ・エマヌエーレII世通り(Corso Vittorio Emanuele II)の南側です。

 目印は通りの南にあるサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(Sant’Andrea della Valle)です。教会の西側の通りを南下すると右斜め前に分岐する路地があり、これが観客席跡の半円形の道路です。

更新履歴

  • 2019/5/23 新規投稿
  • 2021/3/17 劇場の位置の説明図を追加。また場所の記載を修正し、行き方を追加。
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

 ローマの地下鉄B線にピラミデ Piramide という駅があります。Piramide というのはイタリア語で「ピラミッド」のことで、その名の通り駅前広場にはピラミッドが建っています。 このピラミッドが実は紀元前12年頃に作られた古代ローマの遺跡で、執政官を務めたガイウス・ケスティウス・エプロという貴族の墓なのです。



エジプトブーム

 日本人はエジプト好きですが、実は古代ローマ人もそれに全く引けを取らないエジプト好きでした。ローマにはエジプト文明を象徴するものであるオベリスクが、サン・ピエトロ広場のものを初めとして全部で13個も建っています。エジプトブームだったといってもいいでしょう。 墓をピラミッド型にするなんていうのも、そんなエジプトブームを象徴するものです。

双子の教会で有名なポポロ広場の真ん中にオベリスクが建っています。これはアウグストゥスがローマに運んだものです。
サン・ピエトロ広場の真ん中にもオベリスクが建っています。これは由来がはっきりしません。

 今ではピラミッド型の墓はこのピラミデ一つしかありませんが、かつてはいくつか建っていたそうです。

 サンタンジェロ城の近くにも建っていて、中世にはサンタンジェロ城近くのものがロムルスの墓、このピラミデがレムスの墓と呼ばれていました。ロムルスとレムスは狼に育てられた双子で、伝説のローマ建国者です。

 しかし16世紀に教皇アレクサンデル6世によって解体されてサン=ピエトロ大聖堂の階段に転用されたそうです。今や跡形もありません。

 サン・セバスチアーノ門からアッピア街道を6.3km行った街道沿いに建っている Mausoleo piramidale というのも、もともとはピラミッド型の墓でした。ただ残念ながら表面が崩れ落ちて原型を留めていません。

 ポポロ広場の手間にはフラミニア街道を挟んで2基、他にアウレリア街道沿いにも建っていたことが知られています。

世界七不思議

 ピラミッドは紀元前3世紀のギリシャの数学者・旅行家のフィロンが選んだ世界七不思議に挙げられていますが、古代ローマの時代からでさえ2千年という遠い遠い昔の驚異の古代建築だったわけで、私達と同じような感覚で見ていたのではないでしょうか。

SevenWondersOfTheWorld

 よく現代の世界七不思議としてピラミッドと共にコロッセオが挙げられますが、古代ローマ人にしてみたらコロッセオはできたばかりの現代建築です。今ではそのコロッセオも驚異の古代建築の仲間入りをしているのですから、不思議な感じがします。古代ローマ人は自分たちが作ったものがピラミッドと並んで語られるようになるなんて思ってもみなかったでしょう。それを知ったら喜ぶかもしれません。

古代ローマ人にとってはできたばかりの現代建築だったコロッセオが、現代の世界七不思議としてピラミッドと並べて語られているのです。

ピラミデの姿

 高さは37m。クフ王のピラミッドの高さ137mにはもちろんはるかに及びませんし、古代ローマの建築物としてもとりたてて大きいものではありません。しかし実際にそばで見上げてみるとかなりの存在感で聳え立っている感じです。墓の主の財力や功績を見る人に植え付ける目的は十分に果たしたでしょう。

 表面は大理石に覆われ、修復の甲斐あって白く輝いています。エジプトのピラミッドも元は大理石に覆われていたといいますから、こんな感じだったのでしょう。 側面には文字が見えます。ガイウス・ケスティウス・エプロという人の墓だということもその文字でわかるのです。

上段に被葬者であるケスティウスの名前、下段には17世紀にこれを修復したローマ教皇アレクサンデル7世の名が刻まれています。

 このピラミッドは有名なギザのピラミッドと比べると傾斜がかなり急で、メロエ王国のピラミッドの方が形が似ています。ナイル川上流、今のスーダンのヌビア地域にあったクシュ文明のメロエ王国では、エジプトの影響を受けてピラミッドを作っていましたが、ローマはこのメロエ王国を紀元前23年に攻撃しています。ちょうど時代が合うので、もしかするとガイウス・ケスティウスはこの攻撃に参加していて、その功績を誇るためにメロエ王国のピラミッドに似せた墓を造ったのかもしれません。

Sudan Meroe Pyramids 2001
メロエ王国のピラミッド。

 墓室は塞がれていて元々は入り口はありませんでした。1660年に開けられたときの記録が残っていて、内部はフレスコ画で装飾されていたとのことですが、それも今はほとんど残っていません。

その後

 両側に壁がつながっていますが、これはアウレリアヌスの城壁です。

 3世紀にローマの力が弱まり、それまで長い間城壁を必要としなかったローマも外敵の脅威にさらされるようになって、皇帝アウレリアヌスの時代に城壁が再び築かれました。このアウレリアヌスの城壁は既存の建造物を再利用してそれらをつなぐように築かれましたが、このときピラミデも城壁の一部になったのです。

両側に壁がつながっているのがわかります。右手はサン・パオロ門。

 すぐそばにはオスティエンセ街道への出入り口であるサン・パオロ門(ポルタ・サン・パオロ)があります。

サン・パオロ門。

 地下鉄ピラミデ駅と同じ場所にイタリア鉄道とローマ=リード線の駅がありますが、こちらはポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo を名乗っています。ローマ=リード線は古代のオスティエンセ街道と同じルートでオスティアとの間を結んでいます。

日本人による修復

 私が訪れたのは2008年ですが、その後2012年から2015年にかけて修復され、更に美しくなったそうです。玄室も調査、修復されて、修復後は日にち限定ですが内部が公開されているそうです。公開日に合わせてぜひまた訪れてみたいと思います。

 ところでこの修復は、日本でブランド品の輸入を手がける八木通商の支援で実施されたとのこと。会社の成長に寄与してくれたイタリアへの恩返しでやったことだそうで、変に宣伝していないのに好感がもてます。残念ながらwikipediaにも書いてありませんが、日本人ならぜひ知っておくべきです。

訪問ガイド

 地下鉄B線のピラミデ駅を出ると駅前広場の向こう側にあります。

地下鉄ピラミデ駅、右奥がローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo 駅。

  同じ場所にイタリア鉄道(旧国鉄)のローマ・オスティエンセ駅(Roma Ostiense)とローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ駅(Porta S. Paolo)があります。 ローマ・テルミニ駅とフィウミチーノ空港とを結ぶレオナルド・エクスプレスがここを通過しますが、車窓からちらっとこのピラミデを見ることができます。

ローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo 駅の正面。

 ここが始発のローマ・リード線に乗るとオスティア・アンティカ遺跡に行くことができます。

 ピラミデもその一部になっているアウレリウスの城壁がここから東の方にかけてよく残っていて、ほぼ城壁に沿って歩くことができます。

アウレリアヌス城壁。

更新履歴

  • 2019/5/15 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

 現代のローマは7階建てくらいの建物が連なっていますが、実は2000年前のローマもこれとあまり変わらない姿をしていました。そこに建ち並んでいたのが庶民の住宅、インスラです。



出会い

 ローマ観光の定番、ミケランジェロが設計したカンピドリオの丘に登る階段、コルドナータの左に、多くの人は通り過ぎてしまう遺跡があります。見た目が地味なので足を止める人が少ないのも致し方ありません。何を隠そう私も最初にローマを訪れたときには、この前をたしかに通ったはずなのですが全く記憶にありません。実はこれが庶民の住宅である「インスラ」の遺跡です。

 そのローマ訪問のとき、もともと国内外を問わず遺跡好きだった私は、この後オスティア遺跡を訪れました。ポンペイに比べるとあまり知られていませんが、古代の港町であったオスティアは非常に多くの建造物や見事なモザイク床が多く残されていて、古代ローマ好きなら必見の場所です。そこにインスラはありました。

 ガイドブックとして見ていたとんぼの本「ローマ古代散歩」(小森谷 慶子, 小森谷 賢二著)には、「ディアナの家」と呼ばれるこのインスラは、4階建ての集合住宅だったと書かれていました。

 えっ、4階建ての高層アパートが2000年前の古代ローマにあったの?

インスラの姿

 この旅行で遅まきながら古代ローマの魅力に目覚めた私は、それから色々な本を読み耽りましたが、そこにはインスラが古代ローマの都市には数多く建てられていたこと、それは庶民の住宅であること、首都ローマには9階建てのものもあったと言われていることを知りました。古代ローマのイメージが根底から覆されました。

オスティア・アンティカ ディアナの家
オスティア・アンティカのディアナの家の中庭。
オスティア・アンティカのディアナの家の壁の装飾。当時はレンガむき出しではなく、きれいに装飾されていました。

 Wikipediaによると、皇帝アウグストゥスが火災と倒壊を防ぐためインスラの高さを70ローマンフィート (約20m)に制限したとのことです。現代のマンションの1階は約3mなので、20mというのは6〜7階くらいに当たります。6〜7階建てに制限したのですから、9階建てがあった可能性は十分あります。実は私が今住んでいるマンションは9階建てです。この高さの建物が2000年前の都市に建ち並んでいたなんて、自分の中にあった常識が根底から覆される気分です。現代のローマは7階建てくらいの建物が連なっていますが、2000年前のローマもこれとあまり変わらない姿をしていたということですね。

インスラでの生活

 当然ながらエレベーターなどない時代ですから、上の階には階段で上がることになります。その不便さのため上の階ほど家賃が安く、下の階に金持ちが、上に行くほど貧しい人々が住んでいました。

オスティア・アンティカのディアナの家の上階に登る階段。

 水道や下水の施設はあったようですが、窓から糞尿を投げ捨てる人が多く、ローマの町は悪臭が漂っていたそうです。先進的なところと原始的なところが同居しているのが不思議なところですが、先進的とか原始的という評価自体が自分の勝手な思い込みによって枠をはめているだけなのかもしれません。

 オスティアのインスラのある一角にはパン屋や飲食店があります。2000年前の人々は4階建ての集合住宅に住み、近所のパン屋でパンを買い、食堂で食事したりワインを飲んだりしていたのです。これはもう現代の生活と同じです。

オスティア・アンティカのパンや。粉挽き用の石臼や窯があります。
オスティア・アンティカのテルモポリウム(飲食店)。カウンターやワインの入ったアンフォラという壺を置く場所、中庭があります。

 古代ローマに高層建築が建ち並んでいた2000年前、日本は弥生時代で、人々は竪穴式住居に住んでいました。ヨーロッパではローマ帝国滅亡後、中世には住宅が質素なものに変わり自給自足の生活に戻りました。竪穴式住居のようなものからビルが立ち並ぶ現代まで文明は一方向に進化してきた、と思っていましたが、インスラが立ち並ぶ古代ローマの光景と生活を思うと、文明は常に進化してきたという考えは間違いだと気づきます。今後も人間は行ったり来たりを続けるんじゃないでしょうか。

再びローマのインスラ

 最初のローマ訪問で目にしているはずのインスラ。2018年に再びそこを訪れました。

 前回はヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の方から来てコルドナータを登ったので、この前を通ったことは間違いありません。でもやはりこれを見たという記憶は全くなく、写真も撮っていません。

 小雨のぱらつく中、大勢の人々が行き交いますが、やはり足を止める人は多くありません。たまに立ち止まって見ている人もいますが、視線の先にあるのは後世に教会に転用されたときに描かれたキリスト教の絵です。他に見ているのは、先生に連れられた社会科見学の生徒くらいですね。

 現在の地上に出ているのは2階建てで、その上に後世に付け足されたと思われる塔が乗った姿をしています。

ローマのインスラ

 建物の手前が道路から深く彫り込まれていて、覗き込むと5〜6m下に当時の1階を見ることができます。現在の地面の高さにあるのは3階で、もともとは4階建てであったことがわかります。

下を覗き込むと当時の1階まで見ることができます。今の地面と同じ高さにある3階部分に、後世に教会に転用されたときに描かれた宗教画があります。

 1階は間口が広いので、店舗だったのでしょう。カンピドリオの丘の麓という立地は超1等地のように思えますが、そんな場所に庶民の住宅が建っていたというのは意外です。

 アウグストゥスが高さ制限をしたのは作りが雑で倒壊することがあったからだそうですが、こうしてみるとかなりしっかりした建物という印象です。これが立ち並ぶ街並みは、やはり今のローマの街並みと変わらないものだったのではないでしょうか。

 建物の右端は、コルドナータの左に接している、14世紀に作られたアラコエリのサンタ・マリア聖堂に登る階段に喰い込んだようになっています。インスラを壊してその上に階段を造ったのですね。

訪問ガイド

 ローマのインスラはカンピドリオ広場に登るコルドナータと呼ばれる階段とサンタ・マリア聖堂に登る階段の左側にあります。

 オスティアは地下鉄B線ピラミデ駅で同じ場所の地上にあるPorta S. Paolo駅 から出るローマ・リード線に乗り換え、オスティア・アンティーカ Ostia Antica 駅まで30分ほど。

 古代ローマ人はパンをパン屋で買っていました。え?当たり前ですって?でもこれ2000年前ですよ。



ポンペイとオスティアの石臼

 ポンペイを紹介する写真でよく見かけるので、古代ローマに小麦を挽く石臼があるのは知っていました。でも深く考えたことはなかったのです。

 最初に石臼の実物を目にしたのは、初めてローマを訪れたときに行ったオスティア・アンティカ遺跡でした。写真で見たことがあるポンペイのものと同じ石臼が5個あり、その奥にはレンガ造りのかなり大きなパン焼窯があります。

オスティア・アンティカ 粉挽き場のある建物
ポンペイの石臼とパン焼き窯

 最初は「なるほど、あれね。」という程度の印象だったのですが、見ているうちに疑問が湧いてきました。なんでこんなにたくさんの石臼、そして大きな窯があるのだろう?そもそもここは何なのか?

そこでガイドブックを改めて見てみたら、ここはパン屋だと書いてあります。

 え、パン屋?これ2000年前ですよね。

パンはパン屋で買う

 40年くらい前、NHKでシルクロードという番組がありました。当時は個人で行くことなど考えられなかった西安や敦煌の姿をワクワクしながら見たものです。その中で現地の人々がナンを焼く姿がしばしば出てきました。今ではありふれたナンを、このとき初めて知ったのですが、その主食のナンを、人々は自宅の窯か、隣近所で共有している窯で焼いていました。

 私の中の古代のイメージはまさにそれです。ローマがいくら進んでいたとは言っても2000年前の古代ですから、同じようなものだと思っていました。つまりパンは自分の家か、せいぜい隣近所の共有の窯で焼いて食べる、という生活です。

 ところが古代ローマの街には、確かにパン屋があったのです。現代の私達と同じように、古代ローマ人はパンをパン屋で買っていたのです。

 これは衝撃でした。

壁画の世界と炭化したパン

 ポンペイのユリア・フェリクスの家(House of Julia Felix)から見つかったフレスコ画の中に、パン屋の店先を描いた壁画があります。パンがたくさん積み重ねて並べられていて、店の人が客にパンを手渡しているところが描かれています。(ただしパン屋ではなくパンの配給の場面だとも言われています。)

パン屋を描いたフレスコ画(ポンペイのユリア・フェリクスの家 House of Julia Felix から出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 古代ローマを表す言葉に「パンとサーカス」というのがあって、パンが配給されていたのかと思ってしまいますが、実際に配給されていたのは小麦でした。その小麦を市民はパン屋に持ち込んで粉に挽きパンに焼いてもらっていました。ここは今と違うところですね。

 粉に挽いてこねてパンを焼くとなるとかなりの時間を要するはずです。おそらくお客さんは小麦と引き換えに、既に焼けているパンを持ち帰ったのではないでしょうか。もちろん小麦からパンにするまでの手数料を払って。

 オスティア遺跡のパン屋は、インスラと呼ばれる高層アパートが立ち並ぶ一角にあります。

 高層住宅から出てパン屋に行き、買ったパンを抱えて石畳の道を歩いて帰る。まるで現代のパリの生活のようですが、こんな光景が2000年前の古代ローマの都市にあったのです。

アスティアのパン屋は高層アパート、インスラの一角にあります。

 このパンを大きく描いたフレスコ画も残っています。8等分の切れ目がついた丸いパンです。

パン屋を描いたフレスコ画(ポンペイから出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 そしてなんとこのパン、そのものがポンペイから出土しているのです。パン屋の窯の中から、焼きかけのパンが真っ黒に炭化した状態で出てきました。ベスビオ火山の火砕流に飲み込まれて一瞬で黒焦げになったのでしょう。普通の遺跡ではパンが出てくるなんてありえないことです。

炭化したパン(ポンペイから出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

  パンの実物を見ていると、食卓を囲み、この丸いパンを食べながらおしゃべりしている古代ローマの庶民の姿が目に浮かぶようです。

 コロッセオやポン=デュ=ガールなどの超大型建築物ももちろんすばらしいのですが、私にとってもっとも驚異なのは、パン屋やインスラ、タベルナに象徴される、今と変わらない当時の生活そのものです。

パン屋の実像

 ポンペイのテレンティウス・ネオの家(House of Terentius Neo)から見つかった夫婦の絵は色鮮やかでこちらを見つめる強い眼光がとても印象的なものです。

 このテレンティウス・ネオさんはパン屋でした。

パン屋であるテレンティウス・ネオ夫妻のフレスコ画(ポンペイのテレンティウス・ネオの家 House of Terentius Neo から出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 男性はローマ市民の象徴であるトガを着て、巻物を持っています。教養のある人物だったことがうかがえます。女性も筆記用具であるろうタブレットとスタイラスペンを持っていて、こちらも教養の程がうかがえます。よく見ると女性の方が手前にいることがわかります。女性の地位や力を物語っているようです。

 おそらくテレンティウス・ネオさんはパン屋の経営者だったのでしょう。教養を備え地位と財産を築いた人物だったことが伺えます。

 そして話が変わりますが、ローマの玄関愚口テルミニ駅に列車が入る直前、左手にマッジョーレ門がちらっと見えます。現地でこの門の南側に立つと、9つの穴が空いた半分崩れた四角い塔のようなものがいやでも目に入るのですが、この塔の上の部分に、ロバを使って石臼を回したり、窯に出し入れする姿が描かれています。オスティアやポンペイにあるあの石臼や窯です。

マッジョーレ門とその手前にあるエウリュサケスの墓
中央にロバを使って石臼で粉を挽く様子が描かれています。
反対側にはパンを窯に出し入れする姿が。

 知らなければ絶対に正体がわかりそうもないこれは古代ローマ人のお墓で、被葬者であるマルクス・ウェルギリウス・エウリュサケスさんがこれまたパン屋だったのです。この人は解放奴隷で、パン屋として成功した人でした。

 2019年3月にブラタモリのローマの水を扱った回で紹介されたので見た人もいるかもしれません。(このローマを扱った2回のブラタモリは、古代ローマに興味があるなら必見です。)

 丸い管のようなものも、パン生地をこねる容器か小麦粉を図る容器を表したものだろうと思われているそうです。今ひとつピンと来ませんが。

 マッジョーレ門は水道が二つの街道(プラエネスティーナ街道とラビカナ街道)をまたぐところにあって、お墓を建てる場所としては一等地といっていいでしょう。そんな場所に、いかに成功したとはいえパン屋の墓がある、というのは実に意外です。この人もテレンティウス・ネオさん同様、地位と財産を築いた人物だったのでしょう、

 共にパン屋であるポンペイのテレンティウス・ネオ夫妻のフレスコ画と、ローマのエウリュサケスさんの墓は、パン屋の重要性と存在感を示しているのではないでしょうか。

更新履歴

  • 2019/6/9 新規投稿
  • 2021/4/10 地図を掲載。

 ローマ帝国領内各地を巡った皇帝ハドリアヌスが造った別荘で、ギリシャやエジプトなどの景勝地を模した庭園が美しいところです。「別荘」ですから皇帝がプライベートで静かにひっそり過ごす場所というイメージを持って訪れましたが、その想像とはかけ離れたものでした。

 ここはローマに近いにもかかわらず訪れる難易度がかなり高いので、後述のガイドを読んでよく調べてから訪れましょう。



最初に出会うもの

 チケット売り場のある現代の正面入口は低い窪地にあります。

ハドリアヌスの別荘の入場口。

 入り口を入ると緩やかな上り坂で、左手にはオリーブ畑越しに丘の斜面にあるティヴォリの街が遠望できます。

入場口から緑の中の緩やかな坂道を登ります。
左手に丘の上のティヴォリの街が見えます。

 左にカーブする坂道を登りきると目の前に高い壁がそびえています。

ポイキレ北側の壁。

 壁に開けられた入り口から中に入ると目の前に巨大な長方形の池が横たわり、周辺に広大な空間が広がっています。ここはポイキレ Pecile という名の庭園で、ギリシアのアテネにあった彩色柱廊、ストア・ポイキレを模したものです。

壁をくぐるとポイキレです。

 元は柱廊に囲まれていましたが、残念ながら建物は何も残っていません。ギリシャのストア・ポイキレには戦いの場面を描いた絵画が飾られていたそうですが、ここにもそういった絵があったのでしょうか。

 池の長辺は100m以上あり、ポイキレ全体では232×97メートルもの広さがあります。ポイキレはハドリアヌスの別荘のほんの一部分ですが、ここだけで既に「別荘」という言葉からイメージしていたものとはかけ離れた規模のものであることに気付かされました。

ポイキレの広大な池。かつては柱廊に囲まれていました。

 ポイキレを通り過ぎて振り返るとポイキレの下の部分が見えますが、そこには構造物があるのが見えます。池は地面を掘って作ったのではなく、石やコンクリートで造った構造物なのです。

ポイキレの池の下はなんと建造物です。百の小部屋と呼ばれている空間が並んでいます。

 このポイキレの下の部分に見える小さな空間が並んだところは百の小部屋 Cento Camerelle と呼ばれていて、倉庫か宿舎だったと考えられています。

 ハドリアヌスの別荘の元々の入り口はポイキレの南西部分、つまり百の小部屋の左側でした。百の小部屋の南に続く細長い空間は車回しで、百の小部屋の反対側がこの別荘の正面玄関でした。

かつての別荘の入り口から続く車回し。

 車回しの西に接する部分にはアンティノウスの墓苑が作られていたことが最近の発掘でわかりました。アンティノウスはハドリアヌスが寵愛した美少年で、ナイル川で溺死しました。ハドリアヌスが殺したとか自殺だとか当時からいろいろ言われていたようですが、真相は不明です。

 かつてそこにはオベリスクが建てられていて、これが今ではローマのピンチョの丘に立っています。

公衆浴場

 ポイキレから車回し、正面玄関を右に見ながら奥に進むと、左側に小浴場 Piccole Terme、その隣に大浴場 Grandi Termeがあります。

 小浴場は皇帝ハドリアヌス個人のためのもの、大浴場はそれ以外の住人のためのものです。

ハドリアヌス個人用の小浴場。小さくありません

 個人用の小浴場からしてとてつもなくでかいのですが、大浴場 Grandi Terme は当然それより更に巨大で、なんと長辺が約80m、短辺が約50mというとんでもない大きさです。

大浴場。いったい何人が一度に入浴できるのか。

 皇帝の身の回りの世話をする人や別荘の管理をする人は当然住んでいたでしょう。そこからイメージするような人数だったらこんな規模の浴場が必要とは思えません。そもそもこの風呂を運営するだけでもかなりの人数が必要になりそうです。 ここに住んでいた人数が単なる皇帝個人の別荘というような規模ではなかったことを物語ります。

大浴場前の空間。右が大浴場、左がプレトリオ。

 大浴場の隣にあるのはプレトリオ Pretorio と呼ばれる3階建ての建物です。兵舎とも倉庫とも言われています。プレトリオ前には赤い花が咲いていました。「兵どもが夢の跡」という言葉が浮かんできました。

プレトリオ前には赤い花。

カノープス

 浴場の奥に進むと後ろ向きに建つ何体かの彫像の向こうにかなり奥行きのある細長い池が伸びている光景が目に飛び込んできます。これがハドリアヌスの別荘を代表する場所と言っていいカノープス Canopo です。

カノープスのよく見る光景。

 ハドリアヌスの別荘の紹介にはたいていこのカノープスの丸くなった端の部分の写真が載っていて、私は建物前の庭に丸い池があってその周りを彫刻が囲んでいる、というような別荘の風景を思い描いていました。しかし今目の前にあるのはそんなものとは全く違います。池は長方形で、奥行きはなんと120mもあります。

カノープスの池は実は奥行き120mのもあります。

 カノープスはエジプトのアレキサンドリア近くの海岸線にあった街で、その風景を模したものと言われています。池の淵には石造りのワニの彫像があってエジプトっぽさを醸し出しています。池の真ん中には台座のような残骸があってその上に亀がいました。これもワニとセットの作り物かと思いましたが、亀は本物ですね。

ワニの彫像。
亀は本物ですね。

 池の東側の淵には美しい女性像が並んでいます。女性像を間近に見ると頭に四角い板のようなものが載っていますが、これは建物の柱なのです。元々はこのカノープスの池全体が柱廊に囲まれていました。人の形をした柱というのは趣味が悪く感じますが、「カリアティード caryatid」と言って古代ギリシャの建築物によく見られますし、ルネサンス時代の建物にもこれを真似たものが数多くあります。

女神の形をしたカリアティード。

 池の奥の突き当りにはドーム型の天井を持つ建物が残っています。これはスティバディウムという宴会場です。

宴会場スティバディウム。

 古代ローマでは宴会のときは寝台に寝そべって飲食していましたから、ハドリアヌスはここに寝そべってこの池の風景を眺めながら宴会を開いていたのですね。でもこの池は広すぎて、宴会場から北端の彫像はよく見えませんね。

ハドリアヌスはこんな眺めを見ながら食事をしたのです。

  階段でスティバディウムの建物の上に登ることができて、そこからはカノープス全体を見渡せます。

 ところで池の手間の地面に横たわった姿の男性像が2つ無造作に置かれています。もともとこの辺りにあったということなのが、単にここに置いてみただけなのか、説明書きもないのでわかりません。柵も何もなく、本当にただそこに置かれています。ハドリアヌスの別荘はこのように整備されていないように感じるところがそこかしこにあります。

無造作に置かれた彫像。

ロッカ・ブルーナ

 カノープスのあるところは細長い窪地になっています。もとからそうだったのか、カノープスを造るために掘り込んだのかは判りません。西側に建つ博物館の脇の道を登るとその先に細い道が続いていて、オリーブ畑の中を200mほど行くとロッカ・ブルーナ Rocca Bruna という神殿がぽつんと建っています。

神殿ロッカブルーナ。
傍らの柵の外には柱などのかつての神殿の構成物が転がっています。

 ローカ・ブルーナには階段が付けられていて、上は展望台になっています。今来た東側を見るとオリーブ畑の向こうに大浴場、小浴場があり、遠くにティヴォリの街が見えます。その反対側は落ち込んでいて、畑と森が広がっています。こちらが西、ローマの方角です。

中央やや左の茶色の建物が浴場、右上がティヴォリの街。
西はローマの方角です。

 今見られるのはロッカ・ブルーナだけですが、元々はここから南側に続く尾根の上にも別荘が広がっていました。

宮殿

 カノープスの反対側、東の高台の上一帯にもたくさんの建造物が広がっています。小浴場の裏手からそのエリアに登っていきます。

宮殿からポイキレを見下ろしたところ。

 登ったところにある四角いプールのようなものは養魚場 Peschiera です。この巨大な水槽で養殖した魚が宴会に出されていたのでしょうか。水槽の中に水はなく、黄色い花が埋め尽くしていました。わずかに混じる赤い花がアクセントになっていて、本来の姿とは全く違いますがとても美しい眺めです。

黄色い花が埋め尽くす養魚場。

 柱が残っていて、ここも元は大きな建物だったことがわかります。水槽の周囲には天窓が開いた地下通路が巡っています。作業用の通路でしょうか。

養魚場の縁の柱。
養魚場周囲のトンネルは作業用通路?

 養魚場の北西に広い空間がありますが、そこは元々宮殿だったところです。

 ここはドーリス式角柱の広間 Sala dei pilastri doriei。

ドーリス式角柱の広間。

 その隣は夏のトリクリニウム Triclinio estivo。トリクリニウムは食堂で、古代ローマ人は長椅子に寝そべって食事をしました。

食堂、トリクリニウム

 数多くの建物が建っていましたが、残念ながらあまり残っていません。

 宮殿から南東に少し離れたところに黄金広場 Piazza d’Oro という名の広い空間があります。中央に水路があり周りを建物が取り囲んでいました。

黄金広場。

 宮殿の北西側は図書館の中庭 Cortile delle Biblioteche です。宮殿から一段低くなっているところにあり、木が生い茂っています。

図書館の中庭。

テンペー谷から図書館へ

 宮殿と図書館の中庭の間から階段を下ると、北東にある谷を見渡すことができます。この谷にハドリアヌスはテンペー谷というギリシャのテッサリアにある地名をつけました。テンペー谷はアリスタイオスという神様の所縁の地らしいのですが初めて聞く名です。谷の向こうの丘の斜面にはティヴォリの街が見えます

北東にあるテンペー谷。

 南西側には皇帝のトリクリニウム Triclinio Imperiale があります。宮殿跡の夏のトリクリニウムとここと、2つの食堂があったわけです。この整然としたモザイク床の上で長椅子に横になって食事をしたのですね。辺りには柱が倒れたままになっていたり、柱頭が転がっていたりして、あまり整備されていません。元の姿がどんなだったかちょっと想像できないのが残念です。

皇帝のトリクリニウム。

 その隣の一段高くなったところにはホスピタリア Hospitalia があります。客間という意味で、これは小部屋が並んでいることからそう呼ばれています。でも客間にしては小さすぎるので役人の宿所とも言われています。確かに広さから考えると宿所の方がありそうな気がします。大浴場からもわかるように相当大勢の人が住んでいたと思われますが、こういうところで暮らしていたのですね。

ホスピタリア。

 図書館の中庭の北西端にはギリシャ語の図書館とラテン語の図書館があります。本当に図書館だったかどうかはわからないようですが、カラカラ浴場にもギリシャ語とラテン語の図書館があったので、ここにあっても不思議ではありません。図書館の裏手には水を流していたと思われる設備があり、辺りには赤い花が咲いていました。美しい庭園だったと思われます。

図書館。
図書館裏の庭園。

島のヴィラ(海の劇場)

 そして図書館の中庭の西側に接して建つのがカノープスと並ぶハドリアヌスの別荘のハイライト、島のヴィラ Villa dell’ Isolaです。またの名は海の劇場 Teatro Marittimo 。

 円形の建物の中央に池があり、その中に円形の島があります。美しい場所です。ここは周りを高い壁で囲まれていることもあって、唯一「別荘」という言葉がしっくり来ました。この島に籠もっていたらゆっくりできそうです。

島のヴィラ。

 傍らには復元模型がありました。島には木製の橋が架けられていたそうです。

木製の橋で中央の島に渡りました。籠もって静かにくつろげそうです。
島のヴィラの復元模型。

 島のヴィラの西はポイキレです。反時計回りに回って戻って来ました。

 広さといい規模といい、そして大勢の人が住んでいた痕跡といい、もはや「別荘」という言葉からイメージするものとはかけ離れています。

 これはもう「都市」と呼んだ方がいいでしょう。

ウェヌス神殿とギリシア劇場

 ポイキレの脇の壁には入り口が2つあります。最初に入ったのはポイキレの池の中央部分ですが、池の東側の口を出て正面に続く坂道を降っていくと劇場と神殿があります。

 坂道の入口にはどこかの柱の一部だったと思われるものが置いてありました。大事なものだと思うのですが扱いが適当です。

どこかの柱の柱頭ですよね?

 ウェヌス神殿 Tempio di Venere は柱の一部と首のない彫像が残っています。すぐ奥では修復工事が行われていました。そちらも神殿の一部でしょうか。

ウェヌス神殿。
神殿の傍らにあるこれは現代アート?

 その奥に劇場 Teatroがありますが、フェンスがあって中には入れません。

ギリシャ劇場。向こうにティヴォリの街が見えます。

 この北端の劇場から南端のカノープスの端まで900m、当時の別荘はもっと南まで続いていたので全長は1kmを越えます。散策する庭くらいに思っていましたが、そういう次元のものではありませんでした。

造った目的を想像すると

 この別荘はハドリアヌスが皇帝となった翌年の118年、42歳のときに建設が始まり、完成したのは133年でした。その間121~125年、128~134年はローマ帝国内の巡察旅行に出かけてローマを留守にしていて、138年に62歳で亡くなってしまいます。いったい本人はここにどれだけの長さ滞在したのでしょうか?

 しかも死んだのはここではなく、ナポリ湾岸のバイアエにある別荘でした。

 おそらくハドリアヌスにとっては造ること自体が目的だったのではないでしょうか。何を造るか考え、だんだん形を成していくのを眺め、そして完成した姿を見る。その過程を楽しみたいだけだったのではないかという気がします。

訪問ガイド

 ハドリアヌスの別荘はエステ家別荘のあるティヴォリの中心街からはかなり離れています。ハドリアヌスの別荘は平地、ティヴォリの中心街はその近くの丘の中腹で高低差もかなりあります。間違ってもティヴォリから歩こうなんて考えてはいけません。

 ローマ・テルミニ駅からは3つの行き方があります。

①イタリア鉄道(FS)+ C.A.T バス

 テルミニ駅からイタリア鉄道(FS)に乗り Roma Tiburtina で乗り換えて Tivoli 駅下車、Tivoli からC.A.T バス Linea 4 に乗り Villa Adriana 下車

 テルミニ駅から Tiburtina までは地下鉄B線で行くことも可能。

 時間の制約が少なく、鉄道は安心感があってお勧め。

 これも世界遺産であるエステ家別荘と1日で両方訪れることも可能です。

利点

  • バスがハドリアヌスの別荘の入り口まで行く。

欠点

  • テルミニ駅からのイタリア鉄道(FS)直通列車がなく、FSか地下鉄B線に乗って Roma Tiburtina で乗り換えが必要なため、2回の乗り換えが必要。
  • Tivoli 駅からバス乗り場まで遠い。(約1km、徒歩15分程度)
  • Tivoli のバス停がわかりにくい。

② 地下鉄B線 + COTRALバス

 2018年に私が使ったコース。

 地下鉄B線 Rebibbia 行きで Ponte Mammoro 下車、COTRALバスの Villa Adriana 経由 Tivoli 行きで Villa Adriana 下車。

 ガイドブックにはこれが載っているものが多いのですが、 Villa Adriana 経由は本数が少ないので注意が必要です。COTRALのホームページでバス時刻を検索して行きましょう。また乗り場のモニターで行き先の下に経由地が表示されているので、VILLA ADORIANA とあるのを確かめて乗りましょう。

 Villa Adriana を経由しないバスの場合、最寄り停留所から別荘の入口までは1km以上あります。そもそも行きに目的の停留所で降りるのは難しいので、このコースでこれもお勧めしません。

 2019/8/16に検索したところ帰りの Villa Adriana 経由のバスは出てきませんでした。

利点

  • 乗り換えが1回で済む。
  • Ponte Mammoro は駅直結のバスターミナルから乗るので乗り換えが楽。

欠点

  • Ponte Mammoro から Tivoli 行きは数が多いが、Villa Adriana に迂回する便は1日10本程度と数が少ない。
  • 途中の停留所での下車となるのでバスを降りるのが難しい。
  • バスが別荘の入り口までは行かず、近くの街の中の停留所で降ろされる。入り口までは300mほどだがややわかりにくい。
  • 2019/8/16には帰りの Ponte Mammoro 行きのバスが COTRAL のサイトで検索しても出てこなかった。 2018年4月訪問時には検索で出てきていたので、なくなったのかもしれない。なければ帰りは使えない。

③ 地下鉄B線 + COTRALバス + C.A.T バス

 地下鉄B線 Rebibbia 行きで Ponte Mammoro 下車 、COTRALバスで Tivilo まで行き、 C.A.T バス Linea 4 に乗り換えて Villa Adriana 下車 。

利点

  • Ponte Mammoro から Tivoli 行きは数が多いので時間の制約が少ない。
  • Tivilo での乗り換えが鉄道利用より楽。
  • ハドリアヌスの別荘の入り口までバスで行ける。

欠点

  • 2回の乗り換えが必要。
  • Tivilo の街には複数のバス停があるので降りるのが難しい。

注意点

  • 地下鉄B線は途中で2方向に分かれます。②ルート、③ルートとも、乗るのはレビッビア Rebibbia 行き。(もう一つは Jonio 行き)
  • COTRAL バスの時刻はホームページで調べられます(https://servizi.cotralspa.it)。イタリア語しかありませんが、時刻表検索くらいなら簡単です。「Orari」が時刻表の意味です。
  • バスのチケットは予め買っておく必要があります。
    • Ponte Mammoro 駅では階下の改札を出たところにある売店で買えます。私は「Villa Adriana」と言って買いました。
    • ハドリアヌスの別荘からティボリ行きのC.A.T.バスのチケットはハドリアヌスの別荘の入場券売り場で買えます。混むので時間に余裕を見ておきましょう。
  • バス車内では次の停留所を知らせる放送など何もなく、降りるときは外を見て自分の降りる停留所が次になったらボタンを押します。初めてきてこれは無理なので、乗るときに運転手に伝えておくのがお勧めです。着いたら教えてくれるはずです。私は「VILLA ADORIANA」と書いた紙を用意しておき、行きのバスに乗るときに言葉と文字で運転手に確認しておきましたが、降りるときに教えてくれました。
  • ティヴォリからハドリアヌスの別荘までは距離が遠く高低差もかなりありますから、絶対に歩こうなどと思ってはいけません。
  • バス停にはバス会社名が書いてあるだけで、停留場名が書かれていません。

2018年の訪問記

行き(②のコース)
 地下鉄B線 テルミニ駅(8:13発)ーPonte Mammoro 駅(8:30着)
 COTRALバス Tivilo 行(Villa Adriana経由) Ponte Mammoro(8:45発)ーVilla Adriana(9:28着)

帰り(③のコース)
 C.A.T.バス Villa AdrianaーTivilo
 COTRALバス Tivilo(15:43発)ーPonte Mammoro(16:38着)
 地下鉄B線 Ponte Mammoro 駅(16:45発)ーテルミニ駅(17:04着)

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行き

 ローマ・テルミニ駅の地下鉄B線 (MEB) から8:13、レビッビア Rebibbia 行きに乗り、8:30にポンテ・マンモーロ Ponte Mammoloに到着。

 B線は途中で2方向に分かれるので、念のため乗ってからも車内の表示でレビッビア Rebibbia 行きであることを何度も確かめました。

 降りる人はわずかで、本当位にここがハドリアヌスの別荘へのメインルートなのか少し不安になります。

 降りたホームにバスターミナルに直接出られる出口がありましたが、このときは開いていませんでした。

駅のホームからバスターミナルへの出口があるのですが閉まっていました。

 階下の改札を出ると売店があり、そこでバスのチケットを買えます。

改札を出て正面左手の売店でバスのチケットが買えます。

 「Villa Adriana」と言って買いました。Googleマップのストリートビューで見たら帰りのチケットを買えそうな店が見当たらなかったので、往復で買いました。特に行き先など書いてなくて、同じチケットが2枚です。

COTRAL バスのチケット。

 階段を上がると大きなバスターミナルがあります。

大きなバステターミナルですが、あまり人がいません。

 8:45ティヴォリ Tivoli 行きの表示を見つけました。経由地に VILLA ADORIANA とあるのを確かめます。

8:45発 VILLA ADORIANA 経由ティヴォリ Tivoli 行き。

 ティヴォリ行きは頻繁にあるのですが、ハドリアヌスの別荘の近くを通る便は数少ないので、間違えないよう注意が必要です。この時も少し前にハドリアヌスの別荘に寄らないティヴォリ行きが隣の乗り場から出て行きました。

 バスがやって来ました。私が2番目に並んでいたのですが、ここに写っている若い女性二人組、バスが来たら割り込んで先に乗り込み、一番前の特等席に座ってしまいました。仕方ないので後ろの席に座ります。

 運転手は女性でした。乗るときに「VILLA ADORIANA」と書いた紙を運転手に見せて確かめました。こうしておけば降りるときもたぶん教えてもらえます。
定刻8:45に出発。

 乗客は私を含めて9人ほど。

COTRAL は青いバス。
行きのバスは普通の路線バス仕様。割り込まれて一番前の席を取られました。

 地図を見るとティヴォリまではSR5という道路を行くのが最短コースなのですが、このバスはずっと南の道を走ります。高速道路を少し走ったあと途中でこれを降り、田舎道をあちこち寄りながら走ります。本当にこのバスでよかったのか不安になってしまいます。そのうちすれ違いも難しいようなところもある細い道に入り、小さな集落の広場に入って乗降客がいないのにバス停に停車しました。すぐに再び動き出すと元来た道をしばらく戻り、ようやく南の方からハドリアヌスの別荘の近くの街に入っていきました。

一体どこを走っているのか?

 帰国後に改めてバス乗り場で見た行き先表示の経由地と地図を見比べてみたら、引き返したところは S. VITTORINO という集落だったようです。きれいな教会があるようなのでここを訪れる人がいるのでしょうか。それにしても相当な大回りです。

 乗る時に伝えておいたので、到着時に運転手さんが教えてくれました。

 バス停はただの田舎町の街角という感じで、他に観光客もおらず、本当にここに世界遺産があるのか信じられないようなところでした。

 帰りに備えて反対側のバス乗り場を探したのですがわからないので、諦めて帰りに探すことにしましたが、結局ティヴォリまでバスで行ってしまったのでわからずじまいです。

Villa Adoriana のバス停。なんの変哲もない街中のバス停です。

 道が直角に折れるところまで戻ったら 「VILLA ADRIANA」と書いてある小さな看板 があり、 細い道に入ります。 100mほどゆるい坂道を下るとハドリアヌスの別荘の駐車場があり、その向こう側に入口がありました。

 歩いている途中できれいなバス何台かと行き合いました。ティヴォリとの間を結ぶバスは入口脇まで行きます。乗ってきたバスは私と他に旅行者風の2人が降りただけですが、こちらには乗客がたくさん乗っていました。明らかにこれがメインルートです。

帰り

 来たときに帰りのバス停を見つけられていません。Villa Adoriana 経由でないバスの停留所までは1km以上ある上、場所も定かではありません。それで目の前から出るバスでティヴォリに行って乗り継ぐことにしました。バスを待つ人は大勢いて、こちらがメインルートであることは確実です。

 ティヴォリ行きのC.A.T.バスのチケットは入場券売り場で売っています。行列ができていて買うのに15分位かかりました。 ティヴォリまでは1.3ユーロでした。

C.A.T.バスのチケットはハドリアヌスの別荘のチケット売り場で買います。
ハドリアヌスの別荘入り口とティヴォリを結ぶ C.A.T.バスのチケット。

 バスはハドリアヌスの別荘のある街を出はずれると坂をぐんぐん登って行きます。やがてティヴォリの市街地に入ると右折してすぐのバスターミナルのようなところに停まり、そこで大勢降りました。私もそこで降りました。

 しかし降りたところには COTRAL の看板が見当たりません。それで街中をあちこち探し回ることになってしまいました。

 最初は降りたバス停の近く、バスが右折する手前の公園の前にある、人が大勢待っているバス停に行ったのですが、ここにも COTRAL の看板がありません。仕方なく先程降りたバス停に戻り、バスが走っていく方向に沿って歩いてみると、左折した先に COTRAL のバス停を見つけたのでそこから乗りました。

 バスは街中の一方通行の道をぐるっと回って、結局先程行った公園前のバス停に停車して、ここから大勢乗ってきました。これがガリバルディ広場前というメインのバス停のようです。

Tivoli から Ponte Mammoro 行きのバス。
帰りは観光バス仕様のバスでした。

 帰りのバスはハドリアヌスの別荘近くを迂回せず、最短距離の道路SR5を行きます。小まめにバス停に停まり、乗り降りが結構あります。バスは途中からかなり混んできました。

 次の停留所を知らせる放送などもなく、降りる人は外を見て自分の降りる停留所が次になったらボタンを押しているようです。たまに「フェルマータ」と叫んで停めてもらったりもしています。 「フェルマータ」 はイタリア語で「停留所」という意味です。初めて来て目的の場所で降りるのは相当難しいですね。Ponte Mammoro は終点なのでその心配は無用です。

 16:38、Ponte Mammoro に到着。

Ponte Mammoro駅について乗客を降ろしたバス。

 地下鉄B線に乗り継いで17:04、テルミニ駅に到着しました。

 アルプス山脈の南の麓の街アオスタ。ここはローマ本国からアルプスを越えてガリアに抜ける主要ルートの、ローマ側の玄関口です。アオスタに残る遺跡は個性的で、実際に目にしてみると新たな発見も多く、とても刺激になりました。

ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont-Saint-Martin)ドンナス村(Donnas)のローマ街道跡は別記事に分離しました。


旅行記はこちら⇒ アオスタ市内 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル アオスタ渓谷 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

ガリアの玄関口アオスタ

 アルプス山脈はイタリアの西から北を囲むように聳えていて、イタリアとフランス、スイス、オーストリアとの国境となっています。かつてローマ本国とガリアの間を壁のように隔てていました。アオスタはポー平原からドラ・バルテア川が刻んだアオスタ渓谷を遡ったところにあり、このアルプスの2つの峠越えの街道の分岐点です。


アオスタ渓谷

 アオスタから北に谷を遡るとグラン・サン・ベルナール峠を越えてスイスに、西にドラ・バルテア川を遡るとプチ・サン・ベルナール峠を越えてフランスに抜けられます。どちらも古くからのアルプス越えルートです。ガリアと呼ばれる地域の中でも、カエサルによって征服された今のフランス北中部方面には最短経路となるので、この地域の経営に重要な意味を持っていたと思われます。


アオスタから北に伸びるブティエル川

 古代ローマがこの地域に設置したアルペス・ポエニナエ属州はアルプスの両側にまたがっていて、峠を越えたスイス側のマルティニやフランスを含んでいました。どうしても現在の国境に囚われて、厳然とした境界がそこにあり国境の内側は一体になっているように捉えてしまいがちですが、この地方を知るには峠を超えたスイスやフランスとのつながりを考え合わせる必要があります。現在のイタリアを統一したサヴォイア家のもともとの領土も今のイタリア、スイス、フランスにまたがっていましたし、アオスタを州都とする現在のヴァッレ・ダオスタ州はイタリア語に加えてフランス語も公用語で、道路標識にも”Aosta/Aoste”とイタリア語、フランス語が併記されています。こうした背景からヴァッレ・ダオスタ州は自治州となっていて、独自の道を歩んでいます。イタリアを統一したサヴォイア家の王を生んだ土地が自治州としてイタリア政府から距離をおいている、というのもまた不思議ではあります。

アウグストゥスの凱旋門

 今ではイタリア国内なので早いうちからローマの支配下にあったかと思いきや、ローマがここを支配下に置いたのは意外と遅いのです。

 この辺りを支配していたサラッシ人を征服したのはアウグストゥスで、紀元前25年のことでした。征服後にアオスタの前身となるアウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(Augusta Praetoria Salassorum)が建設され、戦勝を記念して街の東側の街道上に建てられたのが今も残るアウグストゥスの凱旋門です。


アウグストゥスの凱旋門

 アルプスを西に越えた今の南仏プロバンス地方にガリア・トランスピナ属州が置かれたのが紀元前121年、フランス北中部からドイツ西部がアウグストゥスの養父カエサルによって征服されて属州が置かれたのが紀元前50年台です。これらと比べて紀元前25年というのはずいぶん遅く、ローマがアルプス地方の制圧に苦労したことがわかります。紀元前11年になってようやくアルペス・ポエニナエ属州が置かれ、アオスタがその州都とされました。

 紀元前6年に南仏ニース近くのラ・チュルビーに造られたアルプスのトロフィーは、アウグストゥスがアルプスを征服したことを讃えて造られたもので、ここに征服した部族の名前が刻まれていていますが、サラッシ人の名もちゃんと書かれています。

プレトリア門

 当時街を囲んでいた城壁が途切れ途切れですが残っています。所々に見張り塔もあります。圧巻なのは今では街の真ん中になってしまったかつての東の入口プレトリア門で、門というより堅固な要塞みたいな感じです。

 門には中央に大きな口、両側に小さな口があります。ローマ街道は中央が車道、両側が歩道でした。これがそのまま門の3つの口につながり、馬車などの車両は中央の口、歩行者は両側の口から街に出入りしたわけです。


プレトリア門


分厚い堅牢な門です。当時の地面は5mほど下なので、見上げるような高さでした。

 プレトリア門を通る通りはほぼ一直線に街を東西に貫いています。古代ローマの都市は東西にデクマヌス・マクシムス、南北にカルド・マクシムスが貫く構造で、このデクマヌス・マクシムスがほぼそのまま現在のメインストリートになっています。2千年前、この街の最初の住民となった退役兵もここを歩き、建物の背後に雪を被った山がそびえている今と変わらぬ光景を眺めていたのでしょう。


古代のデクマヌス・マクシムス。道の先に見えるのがプレトリア門。

ローマ橋

 凱旋門から東に100mほどの家並の中にローマ橋が残っています。でも下に川は流れていません。それどころか北側は壁で塞がれています。

 凱旋門とこの橋の間に北から流れてきたブティエル川が通っていますが、もともとこのローマ橋はプティエル川を越えるものでした。後に川のほうが流路を変えて、こんな姿になってしまったのです。


川はなく、北側は壁で塞がれています


東のたもとには水飲み場があります。

 首都ローマからはるばるアオスタ渓谷の道をやってきた旅人は、この橋でブティエル川を渡り、目の前にそびえ建つ凱旋門をくぐります。すると450mほど先に城壁に囲まれた街が横たわるのを目にしたでしょう。道の先にはプレトリア門があり、出入りする人々が見えてほっと一息つく、という感じだったでしょうね。今では凱旋門のところまで店が連なり、プレトリア門は見えませんが。


橋の先150m程のところに凱旋門が聳えます。

ローマ劇場

 プレトリア門を入ってすぐ北側に、アルプスを背景に壁がそびえ立っています。これはローマ劇場の残骸です。ローマ劇場の跡が壁だけというのは他では見たことがありません。


ローマ劇場跡

 さてローマ劇場の壁というと、以前訪れたオランジュのものを思い起こします。これは舞台背後のファサードで、観客席に座ると正面にそびえ立つように見えます。アオスタの壁もこれと同じものだと思い込んでいました。

 ところが現地に行ってみたら、壁はわずかに残ったアーチ型の観客席の背後に建っているのです。説明板に復元図があったので見てみたら、もともとこのローマ劇場は四方を壁で囲われていて、そのうちの観客席背後の壁だけが今残っているのでした。首都ローマのマルケッルス劇場やコロッセオも観客席の背後は円形なので、平面の壁が観客席の背後のものなんて考えてもみませんでした。確かにオランジュのファサードみたいな厚みのある建造物ではなく、文字通り薄い「壁」です。


壁は観客席の背後に建っていました。

 この劇場は外から見ると四角い建物だったわけです。他のローマ劇場も実は四角く囲われていたのでしょうか。今度調べてみたいと思います。


四角く壁が取り囲んだ建物だったのです。

 ちなみに古代ギリシァの劇場では観客席は自然の斜面や掘りこんだ斜面を利用して造っていたので、観客席の後ろ側というのは存在しません。平面に造るのが、首都ローマに紀元前55年に造られたポンペイウス劇場を元祖とするローマ劇場の特徴です。アオスタの劇場も完全な平面に造られています。

クリプトポルティコ

 街の中心にあるアオスタ大聖堂の脇に地下に通じる入り口があり、中は柱が立ち並ぶ通路になっています。これは古代ローマの都市の中心にあったフォルムを囲む列柱廊です。クリプトポルティコ、地下回廊と呼ばれています。


クリプトポルティコ(地下回廊)

 もちろん当時は地表にありました。長い年月を経て、洪水やがれきが積み重なり、その上に建物が再建されることで街は埋もれていきます。それが発掘、復元されたのが今の姿です。

 この柱廊は今の地表面から5mくらい下にあります。ということは、プレトリア門もかつて5m下からそびえ立っていたわけで、かなり巨大なものだったことがわかります。


今では地下ですが、当時はもちろん地上にありました。

アオスタ近郊の水道橋

 アオスタから西に8kmほどのところで、アオスタ渓谷を流れるドラ・バルテア川に南側からグランド・エイヴィア川(Grand Eyvia)が流れ込んでいます。この川を5kmほど遡ったところに小さな集落があり、ここに古代ローマの水道橋、ポン・デル(Pont d’Ael)が残っています。


橋と同じ名の小さな集落にあります。


古代ローマの水道橋、ポン・デル(Pont d’Ael)

 水道橋の上はハイキングコースになっていて、自由に渡ることができます。訪れた3月初めには雪が残っていました。幅は2.26mと細身。下は深く切れ込んだ渓谷で150mの深さがあり、滝と言ってもいいほどのかなりの急流です。


橋の上はハイキングコースのルートで渡れます。


下はかなりの急流。

 造られたのは紀元前3年で、鉄鉱石の運搬と灌漑、アオスタへの給水を兼ねていたと言われています。(英語版Wikipediaによる)

 この水道橋の特徴は、水路の下に人が通れる通路があることです。これは水漏れをチェック、修理するためのものだとか。ポン・デュ・ガールを始め他のローマ水道橋にはこんな設備はありません。水を通すだけでなく鉄鉱石を運んでいたので、傷むことがあったということなのでしょうか。外から見るとこの部分には上下2列に明り取りと言われている窓が並んでいるのがわかります。


明り取りと言われている窓が並んでいます。

 集落側の橋のたもとに見学用の建物があって、階下から水道橋の下の通路に道がついています。シーズンオフで営業しておらず、対岸の入り口も鍵がかかっていて、残念ながらこの監視通路には入れませんでした。中は高さが3.88mもあるそうですから、楽に作業ができたのではないでしょうか。

 水道橋の両側に水道がどう続いていたのか気になりますが、どう通しても傾斜が急になってしまいそうで、わかりませんでした。結構勾配がきついルートだったのかもしれません。


ポン・デルの集落の小さな礼拝所。

行き方

 アオスタに近い都市はミラノ、トリノです。鉄道ではミラノから3時間半ほど、トリノから2時間半ほどです。ただし高速列車どころか直通列車もなく、途中でローカル列車に乗り換えなければなりません。

 バスや車だとミラノから2時間半、トリノから1時間半ほどです。アオスタまで高速道路が通じていて楽に行けます。

 アオスタの街の遺跡は徒歩で回れます。


アオスタはアオスタ自治州の州都。


ライトアップされたアウグストゥスの凱旋門。

 アオスタ渓谷を50kmほど東に下ると、谷間を流れてきたドラ・バルテア川が、トリノやミラノなどの大都市があるポー平原に流れ出ます。ローマ側から来るとアオスタ渓谷の入口にあたるこの辺りに、ローマ橋ローマ街道が残っています。これは必見です。


ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont Saint Martin)。


ドンナス村(Donnas)の古代ローマ街道跡。

 アオスタ渓谷には古城が散在しています。中世以降のものですが、併せてこれを巡るのもお勧めです。


Castello di Cly(アオスタから東に25km)


Quart Castle(アオスタから東に9km)


サンピエール城(Castello di Saint-Pierre)(アオスタから西に8km)


フォート城塞(Forte di Bard)(アオスタから東に46km)
巨大な城塞で高速道路からもよく見えます。


フォート城塞の斜行エレベーター。

 スイスかフランスからアルプスを越えて訪れることもできます。

 グラン・サン・ベルナール峠は冬通行止めの峠越えの旧道の他、通年通行可能なトンネルもあり、レマン湖方面から来ることができます。

 ドラ・バルテア川の上流はプチ・サン・ベルナール峠よりも、今ではそのまままっすぐモンブランを突き抜けるモンブラン・トンネルの方がメインルートです。モンブラン・トンネルのフランス側は大観光地のシャモニーです。

 次回訪れる時はレンタカーでこれらの峠道やトンネルを活用し、スイス、フランス、イタリアと周遊してみたいと思っています。

 「写真で見たことがある古代ローマ遺跡」というランキングがあったらベスト3に入りそうです。名前や場所は知らなくても、どこかで見たことがあるでしょう。ポン・デュ・ガールは南仏プロヴァンス地方にある水道橋です。でも有名な割にはこれが一体ナニモノなのか、意外に知られていないのではないでしょうか。


旅行記はこちら⇒ 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

ところで水道橋って何?

 東京に「水道橋(すいどうばし)」という駅があります。これは神田川を渡る橋に水道管が通されていたことが由来だそうです。でもポン・デュ・ガールは水道が付属している橋、ではなくて、水道をガルドン川のあっちからこっちに渡すためだけに作られた橋です。橋の上は水道が通っているだけで、人が渡るための設備はありません。この橋は水源から街まで連なる水道の一部分なのです。

ポン・デュ・ガールはガルドン川の渓谷に架けられています。

 ちなみに読み方は「すいどうばし」「すいどうきょう」のどちらでもいいのですが、私は「すいどうきょう」と読んでいます。「すいどうばし」というと東京の駅を思い浮かべてしまうので。

水の上を水が渡る?

 でもなんで水の上を水が渡っているんでしょうか?

 ポン・デュ・ガールの上を通ってガルドン川を渡るこの水道は、ニームという都市に水を引くために作られました。ニームはここから南西に直線距離で20kmも離れたところです。そして水源は北西に12kmほど離れたユゼスという街の近くの池。ニームとユゼスとはガルドン川に隔てられているので、必然的にどこかで川を渡る必要があったわけです。

 ただ川の同じ側にある水源から引けばこんな巨大な橋をかける必要はなかったはずです。ポン・デュ・ガールから1600年後、江戸時代に作られた玉川上水は延長43kmありますが、橋など渡りません。なぜこんな大規模な橋を架けてまで大きな川を渡る必要のある水源を選んだのでしょうか。

 きっとここが古代ローマのこだわりなのでしょう。ローマの都市には水道が通じ、飲食に使う他、公共浴場にも提供されていました。古代ローマがこうあるべきと思う生活水準を得るためには、水質の良いきれいな水が潤沢に提供されることが絶対に必要で、そのためには決して妥協せずに条件を満たす水源から水道を引く。たとえ水源が遠くても、川の向こうにあっても。

 ポン・デュ・ガールは紀元50年ころに作られたものだそうです。ニームは紀元前118年に造られたローマとスペインの間を結ぶドミティア街道上にある重要な街で、既に大都市でした。当然それなりの給水施設があったはずです。おそらく水質や水量を改善するために、ポン・デュ・ガールを通るこの水道は造られたのでしょう。

 以前はもっと前の時代、アウグストゥスの片腕だったアグリッパによって建造されたと言われていましたが、最新の研究で50年頃の建造とされました。これは4代目の皇帝クラウディウスの時代です。彼はイギリスに遠征して南東部を支配下に収め、紀元43年に属州ブリタニアを設置しました。ガリアの中でもローマに近いこの辺りは、既にローマに征服されて150年。すっかりローマの一部として安定し、よりよい生活を求めてポン・デュ・ガールは造られたのでしょう。

想像以上の大きさ

 この水道橋の高さはガルドン川の水面から49mです。
数字を聞いてもピンとこないので、身近に同じくらいの高さの橋がないかと探してみたら、東京のレインボーブリッジの路面が海面から52mとほぼ同じでした。いやレインボーブリッジって相当高いよ。これには書いている私がびっくりしてしまいましたね。ちなみにマンションだったら16階くらいです。

 長さは275m。上を通っていたのは水道なので傾斜がつけられていますが、両端の高低差はわずか2.5cmです。当然傾斜は見てわかるわけもありません。重機も精密な測量機器もない時代にどうやって作ったのでしょうか。 当時は汲み上げポンプなどないので、水は水道につけられた勾配だけで流れていました。ユゼスの水源からニームまで直線距離で30km、高低差12mのところを、僅かな勾配を保ちながら山裾を回り込み、トンネルを掘り(トンネル区間はかなりの距離になります)、ポン・デュ・ガールという橋を架けて川を渡り、延長50kmにもなる水道が作られたのです。

対面

 博物館の入口といった感じの入場口を入って近代的なデザインの売店やカフェの間を抜けると、いよいよご対面、かと思ったら意外に遠くにあります。なんとなく目の前にあるのを想像していたので肩透かしを食らった気分です。

入口を入ると近代的なデザイン。セルフ・サービスのカフェやレストランがあります。帰りにカフェで一服しました。なんか贅沢な気分。

 ポン・デュ・ガールまでは400mほどで、歩くうちに想像以上の大きさで迫ってきました。間近で見上げると、大きなアーチが頭上に覆いかぶさるようにそびえている感じです。道は、ポン・デュ・ガールに沿って後世に架けられた橋の上につながっていますが、ここは3段構造のポン・デュ・ガールの1段目とほぼ同じ高さ。橋全体の高さを見上げているわけではありません。

歩いていくと、ポン・デュ・ガールに沿って構成に架けられた橋の上に出ます。ここはちょうどポン・デュ・ガールの一段目の上の高さにあたります。

 川の向こうに渡ってポン・デュ・ガールをくぐり、ガルドン川の上流側の川べりに下りると、そこからはこの橋の本当の高さが実感できます。下流側には後世に架けられた橋がありますが、上流側にはそういう余計なものがなく、古代の姿そのままの均整の取れた姿を見ることができます。

上流側の河原から見上げるととてつもない高さが実感できます。

 2千年以上経っているのにとてもきれいに残っています。これは作りが頑丈だったからというのはもちろんありますが、辺鄙な場所なので何かに転用したり、石を盗ろうと思う人がいなかったということもありそう。そう、ここはとても辺鄙な場所で、この橋は人の目に触れるものではなかったのです。この姿はまさに機能美なんですね。

触れる

 下流側に少し歩くと、右手に崖の上に通じる道の登り口があります。

 登っていくと道は途中アーチの下をくぐり、ここではアーチの内側に手が届きます。アーチに手で触れてみるとひんやりした感触。2千年前の人が石を削って確かにこれを作ったのだ、という実感が湧いてきます。こういう人の営みを感じるとゾクゾクします。これぞ遺跡巡りの醍醐味。

2千年前の人が削った石の表面に触れるたら、その人とつながっているような不思議な気分になってきました。

 登りきると橋の付け根で、壊れているおかげで断面が見えます。橋の上は蓋がかけられた水路があるだけなのがよくわかります。昔は上を歩けたそうですが、今は立入禁止です。まあ私はこんな高くて細いところ、歩きたくありませんけどね。

橋の上は水道が通るだけ。階段は18世紀頃、観光客に上を歩かせるために付けられました。今では通常は通れません。

 陸側にはポン・デュ・ールにつながる水路の遺構が残っていて、ポン・デュ・ガールが水道の一部なんだということを改めて思い出しました。

橋からつながる水路の跡が残っています。

訪問ガイド

 ポン・デュ・ガールに近い都市はニームとアヴィニョンで、車ならどちらからも30分ほど。バスもあって40〜50分ほどです。(バスは必ず最初情報を確認してください。)

 車の場合は東からのD6100という道路でルムーランという小さな街まで行き、街のはずれ、ガルドン川の手前を右折して畑や果樹園の中を走っていくと、間もなく駐車場に至ります。私が訪れたのは3月だったのですが、果樹園にピンクの花が咲いていました。アーモンドのようです。

ルムーランの町。ここを右折するとポン・デュ・ガールの正面入口です。

 川を渡ってから右折しても裏口の駐車場に入れます。こちらは入り口に店などはなく寂しい雰囲気ですが、もちろんポン・デュ・ガール近くには行けますし、橋を介して両方の入り口は行き来できます。私は最初この裏口に行ってしまったのですが、途中で少年が連れた羊の群れが道路を埋め尽くしていました。きっと牧草地に連れて行くのでしょう。ここはそれほど辺鄙なところなのです。

ガルドン川の右岸沿いにポン・デュ・ガールの裏口に向かう道。なんと羊の群れが少年に連れられて道を横切っていました。

 アヴィニョンもニームもパリからTGVが通じている便利なところ(ただしアヴィニョンTGV駅は街から離れているので注意)。

 水道の目的地であるニームには古代ローマ遺跡が数多く残っています。中でもポン・デュ・ガールを通ってニームに引かれた水道を街中の水路に分配する分水場の遺構はぜひセットで見たいところです。

ニームにある分水施設。ニーム大学の西側に接してあります。

 アヴィニョンは歌で有名なアヴィニョン橋や、昔世界史で習ったアヴィニョン捕囚の舞台である教皇庁などの見どころがありますが、残念ながら古代ローマ遺跡はありません。

「アヴィニョンの橋で〜踊るよ踊るよ」