古代ローマ人はパンをパン屋で買っていました。え?当たり前ですって?でもこれ2000年前ですよ。



ポンペイとオスティアの石臼

 ポンペイを紹介する写真でよく見かけるので、古代ローマに小麦を挽く石臼があるのは知っていました。でも深く考えたことはなかったのです。

 最初に石臼の実物を目にしたのは、初めてローマを訪れたときに行ったオスティア・アンティカ遺跡でした。写真で見たことがあるポンペイのものと同じ石臼が5個あり、その奥にはレンガ造りのかなり大きなパン焼窯があります。

オスティア・アンティカ 粉挽き場のある建物
ポンペイの石臼とパン焼き窯

 最初は「なるほど、あれね。」という程度の印象だったのですが、見ているうちに疑問が湧いてきました。なんでこんなにたくさんの石臼、そして大きな窯があるのだろう?そもそもここは何なのか?

そこでガイドブックを改めて見てみたら、ここはパン屋だと書いてあります。

 え、パン屋?これ2000年前ですよね。

パンはパン屋で買う

 40年くらい前、NHKでシルクロードという番組がありました。当時は個人で行くことなど考えられなかった西安や敦煌の姿をワクワクしながら見たものです。その中で現地の人々がナンを焼く姿がしばしば出てきました。今ではありふれたナンを、このとき初めて知ったのですが、その主食のナンを、人々は自宅の窯か、隣近所で共有している窯で焼いていました。

 私の中の古代のイメージはまさにそれです。ローマがいくら進んでいたとは言っても2000年前の古代ですから、同じようなものだと思っていました。つまりパンは自分の家か、せいぜい隣近所の共有の窯で焼いて食べる、という生活です。

 ところが古代ローマの街には、確かにパン屋があったのです。現代の私達と同じように、古代ローマ人はパンをパン屋で買っていたのです。

 これは衝撃でした。

壁画の世界と炭化したパン

 ポンペイのユリア・フェリクスの家(House of Julia Felix)から見つかったフレスコ画の中に、パン屋の店先を描いた壁画があります。パンがたくさん積み重ねて並べられていて、店の人が客にパンを手渡しているところが描かれています。(ただしパン屋ではなくパンの配給の場面だとも言われています。)

パン屋を描いたフレスコ画(ポンペイのユリア・フェリクスの家 House of Julia Felix から出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 古代ローマを表す言葉に「パンとサーカス」というのがあって、パンが配給されていたのかと思ってしまいますが、実際に配給されていたのは小麦でした。その小麦を市民はパン屋に持ち込んで粉に挽きパンに焼いてもらっていました。ここは今と違うところですね。

 粉に挽いてこねてパンを焼くとなるとかなりの時間を要するはずです。おそらくお客さんは小麦と引き換えに、既に焼けているパンを持ち帰ったのではないでしょうか。もちろん小麦からパンにするまでの手数料を払って。

 オスティア遺跡のパン屋は、インスラと呼ばれる高層アパートが立ち並ぶ一角にあります。

 高層住宅から出てパン屋に行き、買ったパンを抱えて石畳の道を歩いて帰る。まるで現代のパリの生活のようですが、こんな光景が2000年前の古代ローマの都市にあったのです。

アスティアのパン屋は高層アパート、インスラの一角にあります。

 このパンを大きく描いたフレスコ画も残っています。8等分の切れ目がついた丸いパンです。

パン屋を描いたフレスコ画(ポンペイから出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 そしてなんとこのパン、そのものがポンペイから出土しているのです。パン屋の窯の中から、焼きかけのパンが真っ黒に炭化した状態で出てきました。ベスビオ火山の火砕流に飲み込まれて一瞬で黒焦げになったのでしょう。普通の遺跡ではパンが出てくるなんてありえないことです。

炭化したパン(ポンペイから出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

  パンの実物を見ていると、食卓を囲み、この丸いパンを食べながらおしゃべりしている古代ローマの庶民の姿が目に浮かぶようです。

 コロッセオやポン=デュ=ガールなどの超大型建築物ももちろんすばらしいのですが、私にとってもっとも驚異なのは、パン屋やインスラ、タベルナに象徴される、今と変わらない当時の生活そのものです。

パン屋の実像

 ポンペイのテレンティウス・ネオの家(House of Terentius Neo)から見つかった夫婦の絵は色鮮やかでこちらを見つめる強い眼光がとても印象的なものです。

 このテレンティウス・ネオさんはパン屋でした。

パン屋であるテレンティウス・ネオ夫妻のフレスコ画(ポンペイのテレンティウス・ネオの家 House of Terentius Neo から出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 男性はローマ市民の象徴であるトガを着て、巻物を持っています。教養のある人物だったことがうかがえます。女性も筆記用具であるろうタブレットとスタイラスペンを持っていて、こちらも教養の程がうかがえます。よく見ると女性の方が手前にいることがわかります。女性の地位や力を物語っているようです。

 おそらくテレンティウス・ネオさんはパン屋の経営者だったのでしょう。教養を備え地位と財産を築いた人物だったことが伺えます。

 そして話が変わりますが、ローマの玄関愚口テルミニ駅に列車が入る直前、左手にマッジョーレ門がちらっと見えます。現地でこの門の南側に立つと、9つの穴が空いた半分崩れた四角い塔のようなものがいやでも目に入るのですが、この塔の上の部分に、ロバを使って石臼を回したり、窯に出し入れする姿が描かれています。オスティアやポンペイにあるあの石臼や窯です。

マッジョーレ門とその手前にあるエウリュサケスの墓
中央にロバを使って石臼で粉を挽く様子が描かれています。
反対側にはパンを窯に出し入れする姿が。

 知らなければ絶対に正体がわかりそうもないこれは古代ローマ人のお墓で、被葬者であるマルクス・ウェルギリウス・エウリュサケスさんがこれまたパン屋だったのです。この人は解放奴隷で、パン屋として成功した人でした。

 2019年3月にブラタモリのローマの水を扱った回で紹介されたので見た人もいるかもしれません。(このローマを扱った2回のブラタモリは、古代ローマに興味があるなら必見です。)

 丸い管のようなものも、パン生地をこねる容器か小麦粉を図る容器を表したものだろうと思われているそうです。今ひとつピンと来ませんが。

 マッジョーレ門は水道が二つの街道(プラエネスティーナ街道とラビカナ街道)をまたぐところにあって、お墓を建てる場所としては一等地といっていいでしょう。そんな場所に、いかに成功したとはいえパン屋の墓がある、というのは実に意外です。この人もテレンティウス・ネオさん同様、地位と財産を築いた人物だったのでしょう、

 共にパン屋であるポンペイのテレンティウス・ネオ夫妻のフレスコ画と、ローマのエウリュサケスさんの墓は、パン屋の重要性と存在感を示しているのではないでしょうか。

  ローマ帝国領内各地を巡った皇帝ハドリアヌスが造った別荘で、ギリシャやエジプトなどの景勝地を模した庭園が美しいところです。「別荘」ですから皇帝がプライベートで静かにひっそり過ごす場所というイメージを持って訪れましたが、その想像とはかけ離れたものでした。

 ここはローマに近いにもかかわらず訪れる難易度がかなり高いので、後述のガイドを読んでよく調べてから訪れましょう。



最初に出会うもの

 チケット売り場のある現代の正面入口は低い窪地にあります。

ハドリアヌスの別荘の入場口。

 入り口を入ると緩やかな上り坂で、左手にはオリーブ畑越しに丘の斜面にあるティヴォリの街が遠望できます。

入場口から緑の中の緩やかな坂道を登ります。
左手に丘の上のティヴォリの街が見えます。

 左にカーブする坂道を登りきると目の前に高い壁がそびえています。

ポイキレ北側の壁。

 壁に開けられた入り口から中に入ると目の前に巨大な長方形の池が横たわり、周辺に広大な空間が広がっています。ここはポイキレ Pecile という名の庭園で、ギリシアのアテネにあった彩色柱廊、ストア・ポイキレを模したものです。

壁をくぐるとポイキレです。

 元は柱廊に囲まれていましたが、残念ながら建物は何も残っていません。ギリシャのストア・ポイキレには戦いの場面を描いた絵画が飾られていたそうですが、ここにもそういった絵があったのでしょうか。

 池の長辺は100m以上あり、ポイキレ全体では232×97メートルもの広さがあります。ポイキレはハドリアヌスの別荘のほんの一部分ですが、ここだけで既に「別荘」という言葉からイメージしていたものとはかけ離れた規模のものであることに気付かされました。

ポイキレの広大な池。かつては柱廊に囲まれていました。

 ポイキレを通り過ぎて振り返るとポイキレの下の部分が見えますが、そこには構造物があるのが見えます。池は地面を掘って作ったのではなく、石やコンクリートで造った構造物なのです。

ポイキレの池の下はなんと建造物です。百の小部屋と呼ばれている空間が並んでいます。

 このポイキレの下の部分に見える小さな空間が並んだところは百の小部屋 Cento Camerelle と呼ばれていて、倉庫か宿舎だったと考えられています。

 ハドリアヌスの別荘の元々の入り口はポイキレの南西部分、つまり百の小部屋の左側でした。百の小部屋の南に続く細長い空間は車回しで、百の小部屋の反対側がこの別荘の正面玄関でした。

かつての別荘の入り口から続く車回し。

 車回しの西に接する部分にはアンティノウスの墓苑が作られていたことが最近の発掘でわかりました。アンティノウスはハドリアヌスが寵愛した美少年で、ナイル川で溺死しました。ハドリアヌスが殺したとか自殺だとか当時からいろいろ言われていたようですが、真相は不明です。

 かつてそこにはオベリスクが建てられていて、これが今ではローマのピンチョの丘に立っています。

公衆浴場

 ポイキレから車回し、正面玄関を右に見ながら奥に進むと、左側に小浴場 Piccole Terme、その隣に大浴場 Grandi Termeがあります。

 小浴場は皇帝ハドリアヌス個人のためのもの、大浴場はそれ以外の住人のためのものです。

ハドリアヌス個人用の小浴場。小さくありません

 個人用の小浴場からしてとてつもなくでかいのですが、大浴場 Grandi Terme は当然それより更に巨大で、なんと長辺が約80m、短辺が約50mというとんでもない大きさです。

大浴場。いったい何人が一度に入浴できるのか。

 皇帝の身の回りの世話をする人や別荘の管理をする人は当然住んでいたでしょう。そこからイメージするような人数だったらこんな規模の浴場が必要とは思えません。そもそもこの風呂を運営するだけでもかなりの人数が必要になりそうです。 ここに住んでいた人数が単なる皇帝個人の別荘というような規模ではなかったことを物語ります。

大浴場前の空間。右が大浴場、左がプレトリオ。

 大浴場の隣にあるのはプレトリオ Pretorio と呼ばれる3階建ての建物です。兵舎とも倉庫とも言われています。プレトリオ前には赤い花が咲いていました。「兵どもが夢の跡」という言葉が浮かんできました。

プレトリオ前には赤い花。

カノープス

 浴場の奥に進むと後ろ向きに建つ何体かの彫像の向こうにかなり奥行きのある細長い池が伸びている光景が目に飛び込んできます。これがハドリアヌスの別荘を代表する場所と言っていいカノープス Canopo です。

カノープスのよく見る光景。

 ハドリアヌスの別荘の紹介にはたいていこのカノープスの丸くなった端の部分の写真が載っていて、私は建物前の庭に丸い池があってその周りを彫刻が囲んでいる、というような別荘の風景を思い描いていました。しかし今目の前にあるのはそんなものとは全く違います。池は長方形で、奥行きはなんと120mもあります。

カノープスの池は実は奥行き120mのもあります。

 カノープスはエジプトのアレキサンドリア近くの海岸線にあった街で、その風景を模したものと言われています。池の淵には石造りのワニの彫像があってエジプトっぽさを醸し出しています。池の真ん中には台座のような残骸があってその上に亀がいました。これもワニとセットの作り物かと思いましたが、亀は本物ですね。

ワニの彫像。
亀は本物ですね。

 池の東側の淵には美しい女性像が並んでいます。女性像を間近に見ると頭に四角い板のようなものが載っていますが、これは建物の柱なのです。元々はこのカノープスの池全体が柱廊に囲まれていました。人の形をした柱というのは趣味が悪く感じますが、「カリアティード caryatid」と言って古代ギリシャの建築物によく見られますし、ルネサンス時代の建物にもこれを真似たものが数多くあります。

女神の形をしたカリアティード。

 池の奥の突き当りにはドーム型の天井を持つ建物が残っています。これはスティバディウムという宴会場です。

宴会場スティバディウム。

 古代ローマでは宴会のときは寝台に寝そべって飲食していましたから、ハドリアヌスはここに寝そべってこの池の風景を眺めながら宴会を開いていたのですね。でもこの池は広すぎて、宴会場から北端の彫像はよく見えませんね。

ハドリアヌスはこんな眺めを見ながら食事をしたのです。

  階段でスティバディウムの建物の上に登ることができて、そこからはカノープス全体を見渡せます。

 ところで池の手間の地面に横たわった姿の男性像が2つ無造作に置かれています。もともとこの辺りにあったということなのが、単にここに置いてみただけなのか、説明書きもないのでわかりません。柵も何もなく、本当にただそこに置かれています。ハドリアヌスの別荘はこのように整備されていないように感じるところがそこかしこにあります。

無造作に置かれた彫像。

ロッカ・ブルーナ

 カノープスのあるところは細長い窪地になっています。もとからそうだったのか、カノープスを造るために掘り込んだのかは判りません。西側に建つ博物館の脇の道を登るとその先に細い道が続いていて、オリーブ畑の中を200mほど行くとロッカ・ブルーナ Rocca Bruna という神殿がぽつんと建っています。

神殿ロッカブルーナ。
傍らの柵の外には柱などのかつての神殿の構成物が転がっています。

 ローカ・ブルーナには階段が付けられていて、上は展望台になっています。今来た東側を見るとオリーブ畑の向こうに大浴場、小浴場があり、遠くにティヴォリの街が見えます。その反対側は落ち込んでいて、畑と森が広がっています。こちらが西、ローマの方角です。

中央やや左の茶色の建物が浴場、右上がティヴォリの街。
西はローマの方角です。

 今見られるのはロッカ・ブルーナだけですが、元々はここから南側に続く尾根の上にも別荘が広がっていました。

宮殿

 カノープスの反対側、東の高台の上一帯にもたくさんの建造物が広がっています。小浴場の裏手からそのエリアに登っていきます。

宮殿からポイキレを見下ろしたところ。

 登ったところにある四角いプールのようなものは養魚場 Peschiera です。この巨大な水槽で養殖した魚が宴会に出されていたのでしょうか。水槽の中に水はなく、黄色い花が埋め尽くしていました。わずかに混じる赤い花がアクセントになっていて、本来の姿とは全く違いますがとても美しい眺めです。

黄色い花が埋め尽くす養魚場。

 柱が残っていて、ここも元は大きな建物だったことがわかります。水槽の周囲には天窓が開いた地下通路が巡っています。作業用の通路でしょうか。

養魚場の縁の柱。
養魚場周囲のトンネルは作業用通路?

 養魚場の北西に広い空間がありますが、そこは元々宮殿だったところです。

 ここはドーリス式角柱の広間 Sala dei pilastri doriei。

ドーリス式角柱の広間。

 その隣は夏のトリクリニウム Triclinio estivo。トリクリニウムは食堂で、古代ローマ人は長椅子に寝そべって食事をしました。

食堂、トリクリニウム

 数多くの建物が建っていましたが、残念ながらあまり残っていません。

 宮殿から南東に少し離れたところに黄金広場 Piazza d’Oro という名の広い空間があります。中央に水路があり周りを建物が取り囲んでいました。

黄金広場。

 宮殿の北西側は図書館の中庭 Cortile delle Biblioteche です。宮殿から一段低くなっているところにあり、木が生い茂っています。

図書館の中庭。

テンペー谷から図書館へ

 宮殿と図書館の中庭の間から階段を下ると、北東にある谷を見渡すことができます。この谷にハドリアヌスはテンペー谷というギリシャのテッサリアにある地名をつけました。テンペー谷はアリスタイオスという神様の所縁の地らしいのですが初めて聞く名です。谷の向こうの丘の斜面にはティヴォリの街が見えます

北東にあるテンペー谷。

 南西側には皇帝のトリクリニウム Triclinio Imperiale があります。宮殿跡の夏のトリクリニウムとここと、2つの食堂があったわけです。この整然としたモザイク床の上で長椅子に横になって食事をしたのですね。辺りには柱が倒れたままになっていたり、柱頭が転がっていたりして、あまり整備されていません。元の姿がどんなだったかちょっと想像できないのが残念です。

皇帝のトリクリニウム。

 その隣の一段高くなったところにはホスピタリア Hospitalia があります。客間という意味で、これは小部屋が並んでいることからそう呼ばれています。でも客間にしては小さすぎるので役人の宿所とも言われています。確かに広さから考えると宿所の方がありそうな気がします。大浴場からもわかるように相当大勢の人が住んでいたと思われますが、こういうところで暮らしていたのですね。

ホスピタリア。

 図書館の中庭の北西端にはギリシャ語の図書館とラテン語の図書館があります。本当に図書館だったかどうかはわからないようですが、カラカラ浴場にもギリシャ語とラテン語の図書館があったので、ここにあっても不思議ではありません。図書館の裏手には水を流していたと思われる設備があり、辺りには赤い花が咲いていました。美しい庭園だったと思われます。

図書館。
図書館裏の庭園。

島のヴィラ(海の劇場)

 そして図書館の中庭の西側に接して建つのがカノープスと並ぶハドリアヌスの別荘のハイライト、島のヴィラ Villa dell’ Isolaです。またの名は海の劇場 Teatro Marittimo 。

 円形の建物の中央に池があり、その中に円形の島があります。美しい場所です。ここは周りを高い壁で囲まれていることもあって、唯一「別荘」という言葉がしっくり来ました。この島に籠もっていたらゆっくりできそうです。

島のヴィラ。

 傍らには復元模型がありました。島には木製の橋が架けられていたそうです。

木製の橋で中央の島に渡りました。籠もって静かにくつろげそうです。
島のヴィラの復元模型。

 島のヴィラの西はポイキレです。反時計回りに回って戻って来ました。

 広さといい規模といい、そして大勢の人が住んでいた痕跡といい、もはや「別荘」という言葉からイメージするものとはかけ離れています。

 これはもう「都市」と呼んだ方がいいでしょう。

ウェヌス神殿とギリシア劇場

 ポイキレの脇の壁には入り口が2つあります。最初に入ったのはポイキレの池の中央部分ですが、池の東側の口を出て正面に続く坂道を降っていくと劇場と神殿があります。

 坂道の入口にはどこかの柱の一部だったと思われるものが置いてありました。大事なものだと思うのですが扱いが適当です。

どこかの柱の柱頭ですよね?

 ウェヌス神殿 Tempio di Venere は柱の一部と首のない彫像が残っています。すぐ奥では修復工事が行われていました。そちらも神殿の一部でしょうか。

ウェヌス神殿。
神殿の傍らにあるこれは現代アート?

 その奥に劇場 Teatroがありますが、フェンスがあって中には入れません。

ギリシャ劇場。向こうにティヴォリの街が見えます。

 この北端の劇場から南端のカノープスの端まで900m、当時の別荘はもっと南まで続いていたので全長は1kmを越えます。散策する庭くらいに思っていましたが、そういう次元のものではありませんでした。

造った目的を想像すると

 この別荘はハドリアヌスが皇帝となった翌年の118年、42歳のときに建設が始まり、完成したのは133年でした。その間121~125年、128~134年はローマ帝国内の巡察旅行に出かけてローマを留守にしていて、138年に62歳で亡くなってしまいます。いったい本人はここにどれだけの長さ滞在したのでしょうか?

 しかも死んだのはここではなく、ナポリ湾岸のバイアエにある別荘でした。

 おそらくハドリアヌスにとっては造ること自体が目的だったのではないでしょうか。何を造るか考え、だんだん形を成していくのを眺め、そして完成した姿を見る。その過程を楽しみたいだけだったのではないかという気がします。

訪問ガイド

 ハドリアヌスの別荘はエステ家別荘のあるティヴォリの中心街からはかなり離れています。ハドリアヌスの別荘は平地、ティヴォリの中心街はその近くの丘の中腹で高低差もかなりあります。間違ってもティヴォリから歩こうなんて考えてはいけません。

 ローマ・テルミニ駅からは3つの行き方があります。

①イタリア鉄道(FS)+ C.A.T バス

 テルミニ駅からイタリア鉄道(FS)に乗り Roma Tiburtina で乗り換えて Tivoli 駅下車、Tivoli からC.A.T バス Linea 4 に乗り Villa Adriana 下車

 テルミニ駅から Tiburtina までは地下鉄B線で行くことも可能。

 時間の制約が少なく、鉄道は安心感があってお勧め。

 これも世界遺産であるエステ家別荘と1日で両方訪れることも可能です。

利点

  • バスがハドリアヌスの別荘の入り口まで行く。

欠点

  • テルミニ駅からのイタリア鉄道(FS)直通列車がなく、FSか地下鉄B線に乗って Roma Tiburtina で乗り換えが必要なため、2回の乗り換えが必要。
  • Tivoli 駅からバス乗り場まで遠い。(約1km、徒歩15分程度)
  • Tivoli のバス停がわかりにくい。

② 地下鉄B線 + COTRALバス

 2018年に私が使ったコース。

 地下鉄B線 Rebibbia 行きで Ponte Mammoro 下車、COTRALバスの Villa Adriana 経由 Tivoli 行きで Villa Adriana 下車。

 ガイドブックにはこれが載っているものが多いのですが、 Villa Adriana 経由は本数が少ないので注意が必要です。COTRALのホームページでバス時刻を検索して行きましょう。また乗り場のモニターで行き先の下に経由地が表示されているので、VILLA ADORIANA とあるのを確かめて乗りましょう。

 Villa Adriana を経由しないバスの場合、最寄り停留所から別荘の入口までは1km以上あります。そもそも行きに目的の停留所で降りるのは難しいので、このコースでこれもお勧めしません。

 2019/8/16に検索したところ帰りの Villa Adriana 経由のバスは出てきませんでした。

利点

  • 乗り換えが1回で済む。
  • Ponte Mammoro は駅直結のバスターミナルから乗るので乗り換えが楽。

欠点

  • Ponte Mammoro から Tivoli 行きは数が多いが、Villa Adriana に迂回する便は1日10本程度と数が少ない。
  • 途中の停留所での下車となるのでバスを降りるのが難しい。
  • バスが別荘の入り口までは行かず、近くの街の中の停留所で降ろされる。入り口までは300mほどだがややわかりにくい。
  • 2019/8/16には帰りの Ponte Mammoro 行きのバスが COTRAL のサイトで検索しても出てこなかった。 2018年4月訪問時には検索で出てきていたので、なくなったのかもしれない。なければ帰りは使えない。

③ 地下鉄B線 + COTRALバス + C.A.T バス

 地下鉄B線 Rebibbia 行きで Ponte Mammoro 下車 、COTRALバスで Tivilo まで行き、 C.A.T バス Linea 4 に乗り換えて Villa Adriana 下車 。

利点

  • Ponte Mammoro から Tivoli 行きは数が多いので時間の制約が少ない。
  • Tivilo での乗り換えが鉄道利用より楽。
  • ハドリアヌスの別荘の入り口までバスで行ける。

欠点

  • 2回の乗り換えが必要。
  • Tivilo の街には複数のバス停があるので降りるのが難しい。

注意点

  • 地下鉄B線は途中で2方向に分かれます。②ルート、③ルートとも、乗るのはレビッビア Rebibbia 行き。(もう一つは Jonio 行き)
  • COTRAL バスの時刻はホームページで調べられます(https://servizi.cotralspa.it)。イタリア語しかありませんが、時刻表検索くらいなら簡単です。「Orari」が時刻表の意味です。
  • バスのチケットは予め買っておく必要があります。
    • Ponte Mammoro 駅では階下の改札を出たところにある売店で買えます。私は「Villa Adriana」と言って買いました。
    • ハドリアヌスの別荘からティボリ行きのC.A.T.バスのチケットはハドリアヌスの別荘の入場券売り場で買えます。混むので時間に余裕を見ておきましょう。
  • バス車内では次の停留所を知らせる放送など何もなく、降りるときは外を見て自分の降りる停留所が次になったらボタンを押します。初めてきてこれは無理なので、乗るときに運転手に伝えておくのがお勧めです。着いたら教えてくれるはずです。私は「VILLA ADORIANA」と書いた紙を用意しておき、行きのバスに乗るときに言葉と文字で運転手に確認しておきましたが、降りるときに教えてくれました。
  • ティヴォリからハドリアヌスの別荘までは距離が遠く高低差もかなりありますから、絶対に歩こうなどと思ってはいけません。
  • バス停にはバス会社名が書いてあるだけで、停留場名が書かれていません。

2018年の訪問記

行き(②のコース)
 地下鉄B線 テルミニ駅(8:13発)ーPonte Mammoro 駅(8:30着)
 COTRALバス Tivilo 行(Villa Adriana経由) Ponte Mammoro(8:45発)ーVilla Adriana(9:28着)

帰り(③のコース)
 C.A.T.バス Villa AdrianaーTivilo
 COTRALバス Tivilo(15:43発)ーPonte Mammoro(16:38着)
 地下鉄B線 Ponte Mammoro 駅(16:45発)ーテルミニ駅(17:04着)

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行き

 ローマ・テルミニ駅の地下鉄B線 (MEB) から8:13、レビッビア Rebibbia 行きに乗り、8:30にポンテ・マンモーロ Ponte Mammoloに到着。

 B線は途中で2方向に分かれるので、念のため乗ってからも車内の表示でレビッビア Rebibbia 行きであることを何度も確かめました。

 降りる人はわずかで、本当位にここがハドリアヌスの別荘へのメインルートなのか少し不安になります。

 降りたホームにバスターミナルに直接出られる出口がありましたが、このときは開いていませんでした。

駅のホームからバスターミナルへの出口があるのですが閉まっていました。

 階下の改札を出ると売店があり、そこでバスのチケットを買えます。

改札を出て正面左手の売店でバスのチケットが買えます。

 「Villa Adriana」と言って買いました。Googleマップのストリートビューで見たら帰りのチケットを買えそうな店が見当たらなかったので、往復で買いました。特に行き先など書いてなくて、同じチケットが2枚です。

COTRAL バスのチケット。

 階段を上がると大きなバスターミナルがあります。

大きなバステターミナルですが、あまり人がいません。

 8:45ティヴォリ Tivoli 行きの表示を見つけました。経由地に VILLA ADORIANA とあるのを確かめます。

8:45発 VILLA ADORIANA 経由ティヴォリ Tivoli 行き。

 ティヴォリ行きは頻繁にあるのですが、ハドリアヌスの別荘の近くを通る便は数少ないので、間違えないよう注意が必要です。この時も少し前にハドリアヌスの別荘に寄らないティヴォリ行きが隣の乗り場から出て行きました。

 バスがやって来ました。私が2番目に並んでいたのですが、ここに写っている若い女性二人組、バスが来たら割り込んで先に乗り込み、一番前の特等席に座ってしまいました。仕方ないので後ろの席に座ります。

 運転手は女性でした。乗るときに「VILLA ADORIANA」と書いた紙を運転手に見せて確かめました。こうしておけば降りるときもたぶん教えてもらえます。
定刻8:45に出発。

 乗客は私を含めて9人ほど。

COTRAL は青いバス。
行きのバスは普通の路線バス仕様。割り込まれて一番前の席を取られました。

 地図を見るとティヴォリまではSR5という道路を行くのが最短コースなのですが、このバスはずっと南の道を走ります。高速道路を少し走ったあと途中でこれを降り、田舎道をあちこち寄りながら走ります。本当にこのバスでよかったのか不安になってしまいます。そのうちすれ違いも難しいようなところもある細い道に入り、小さな集落の広場に入って乗降客がいないのにバス停に停車しました。すぐに再び動き出すと元来た道をしばらく戻り、ようやく南の方からハドリアヌスの別荘の近くの街に入っていきました。

一体どこを走っているのか?

 帰国後に改めてバス乗り場で見た行き先表示の経由地と地図を見比べてみたら、引き返したところは S. VITTORINO という集落だったようです。きれいな教会があるようなのでここを訪れる人がいるのでしょうか。それにしても相当な大回りです。

 乗る時に伝えておいたので、到着時に運転手さんが教えてくれました。

 バス停はただの田舎町の街角という感じで、他に観光客もおらず、本当にここに世界遺産があるのか信じられないようなところでした。

 帰りに備えて反対側のバス乗り場を探したのですがわからないので、諦めて帰りに探すことにしましたが、結局ティヴォリまでバスで行ってしまったのでわからずじまいです。

Villa Adoriana のバス停。なんの変哲もない街中のバス停です。

 道が直角に折れるところまで戻ったら 「VILLA ADRIANA」と書いてある小さな看板 があり、 細い道に入ります。 100mほどゆるい坂道を下るとハドリアヌスの別荘の駐車場があり、その向こう側に入口がありました。

 歩いている途中できれいなバス何台かと行き合いました。ティヴォリとの間を結ぶバスは入口脇まで行きます。乗ってきたバスは私と他に旅行者風の2人が降りただけですが、こちらには乗客がたくさん乗っていました。明らかにこれがメインルートです。

帰り

 来たときに帰りのバス停を見つけられていません。Villa Adoriana 経由でないバスの停留所までは1km以上ある上、場所も定かではありません。それで目の前から出るバスでティヴォリに行って乗り継ぐことにしました。バスを待つ人は大勢いて、こちらがメインルートであることは確実です。

 ティヴォリ行きのC.A.T.バスのチケットは入場券売り場で売っています。行列ができていて買うのに15分位かかりました。 ティヴォリまでは1.3ユーロでした。

C.A.T.バスのチケットはハドリアヌスの別荘のチケット売り場で買います。
ハドリアヌスの別荘入り口とティヴォリを結ぶ C.A.T.バスのチケット。

 バスはハドリアヌスの別荘のある街を出はずれると坂をぐんぐん登って行きます。やがてティヴォリの市街地に入ると右折してすぐのバスターミナルのようなところに停まり、そこで大勢降りました。私もそこで降りました。

 しかし降りたところには COTRAL の看板が見当たりません。それで街中をあちこち探し回ることになってしまいました。

 最初は降りたバス停の近く、バスが右折する手前の公園の前にある、人が大勢待っているバス停に行ったのですが、ここにも COTRAL の看板がありません。仕方なく先程降りたバス停に戻り、バスが走っていく方向に沿って歩いてみると、左折した先に COTRAL のバス停を見つけたのでそこから乗りました。

 バスは街中の一方通行の道をぐるっと回って、結局先程行った公園前のバス停に停車して、ここから大勢乗ってきました。これがガリバルディ広場前というメインのバス停のようです。

Tivoli から Ponte Mammoro 行きのバス。
帰りは観光バス仕様のバスでした。

 帰りのバスはハドリアヌスの別荘近くを迂回せず、最短距離の道路SR5を行きます。小まめにバス停に停まり、乗り降りが結構あります。バスは途中からかなり混んできました。

 次の停留所を知らせる放送などもなく、降りる人は外を見て自分の降りる停留所が次になったらボタンを押しているようです。たまに「フェルマータ」と叫んで停めてもらったりもしています。 「フェルマータ」 はイタリア語で「停留所」という意味です。初めて来て目的の場所で降りるのは相当難しいですね。Ponte Mammoro は終点なのでその心配は無用です。

 16:38、Ponte Mammoro に到着。

Ponte Mammoro駅について乗客を降ろしたバス。

 地下鉄B線に乗り継いで17:04、テルミニ駅に到着しました。

 アルプス山脈の南の麓の街アオスタ。ここはローマ本国からアルプスを越えてガリアに抜ける主要ルートの、ローマ側の玄関口です。アオスタに残る遺跡は個性的で、実際に目にしてみると新たな発見も多く、とても刺激になりました。

ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont-Saint-Martin)ドンナス村(Donnas)のローマ街道跡は別記事に分離しました。


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ガリアの玄関口アオスタ

 アルプス山脈はイタリアの西から北を囲むように聳えていて、イタリアとフランス、スイス、オーストリアとの国境となっています。かつてローマ本国とガリアの間を壁のように隔てていました。アオスタはポー平原からドラ・バルテア川が刻んだアオスタ渓谷を遡ったところにあり、このアルプスの2つの峠越えの街道の分岐点です。


アオスタ渓谷

 アオスタから北に谷を遡るとグラン・サン・ベルナール峠を越えてスイスに、西にドラ・バルテア川を遡るとプチ・サン・ベルナール峠を越えてフランスに抜けられます。どちらも古くからのアルプス越えルートです。ガリアと呼ばれる地域の中でも、カエサルによって征服された今のフランス北中部方面には最短経路となるので、この地域の経営に重要な意味を持っていたと思われます。


アオスタから北に伸びるブティエル川

 古代ローマがこの地域に設置したアルペス・ポエニナエ属州はアルプスの両側にまたがっていて、峠を越えたスイス側のマルティニやフランスを含んでいました。どうしても現在の国境に囚われて、厳然とした境界がそこにあり国境の内側は一体になっているように捉えてしまいがちですが、この地方を知るには峠を超えたスイスやフランスとのつながりを考え合わせる必要があります。現在のイタリアを統一したサヴォイア家のもともとの領土も今のイタリア、スイス、フランスにまたがっていましたし、アオスタを州都とする現在のヴァッレ・ダオスタ州はイタリア語に加えてフランス語も公用語で、道路標識にも”Aosta/Aoste”とイタリア語、フランス語が併記されています。こうした背景からヴァッレ・ダオスタ州は自治州となっていて、独自の道を歩んでいます。イタリアを統一したサヴォイア家の王を生んだ土地が自治州としてイタリア政府から距離をおいている、というのもまた不思議ではあります。

アウグストゥスの凱旋門

 今ではイタリア国内なので早いうちからローマの支配下にあったかと思いきや、ローマがここを支配下に置いたのは意外と遅いのです。

 この辺りを支配していたサラッシ人を征服したのはアウグストゥスで、紀元前25年のことでした。征服後にアオスタの前身となるアウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(Augusta Praetoria Salassorum)が建設され、戦勝を記念して街の東側の街道上に建てられたのが今も残るアウグストゥスの凱旋門です。


アウグストゥスの凱旋門

 アルプスを西に越えた今の南仏プロバンス地方にガリア・トランスピナ属州が置かれたのが紀元前121年、フランス北中部からドイツ西部がアウグストゥスの養父カエサルによって征服されて属州が置かれたのが紀元前50年台です。これらと比べて紀元前25年というのはずいぶん遅く、ローマがアルプス地方の制圧に苦労したことがわかります。紀元前11年になってようやくアルペス・ポエニナエ属州が置かれ、アオスタがその州都とされました。

 紀元前6年に南仏ニース近くのラ・チュルビーに造られたアルプスのトロフィーは、アウグストゥスがアルプスを征服したことを讃えて造られたもので、ここに征服した部族の名前が刻まれていていますが、サラッシ人の名もちゃんと書かれています。

プレトリア門

 当時街を囲んでいた城壁が途切れ途切れですが残っています。所々に見張り塔もあります。圧巻なのは今では街の真ん中になってしまったかつての東の入口プレトリア門で、門というより堅固な要塞みたいな感じです。

 門には中央に大きな口、両側に小さな口があります。ローマ街道は中央が車道、両側が歩道でした。これがそのまま門の3つの口につながり、馬車などの車両は中央の口、歩行者は両側の口から街に出入りしたわけです。


プレトリア門


分厚い堅牢な門です。当時の地面は5mほど下なので、見上げるような高さでした。

 プレトリア門を通る通りはほぼ一直線に街を東西に貫いています。古代ローマの都市は東西にデクマヌス・マクシムス、南北にカルド・マクシムスが貫く構造で、このデクマヌス・マクシムスがほぼそのまま現在のメインストリートになっています。2千年前、この街の最初の住民となった退役兵もここを歩き、建物の背後に雪を被った山がそびえている今と変わらぬ光景を眺めていたのでしょう。


古代のデクマヌス・マクシムス。道の先に見えるのがプレトリア門。

ローマ橋

 凱旋門から東に100mほどの家並の中にローマ橋が残っています。でも下に川は流れていません。それどころか北側は壁で塞がれています。

 凱旋門とこの橋の間に北から流れてきたブティエル川が通っていますが、もともとこのローマ橋はプティエル川を越えるものでした。後に川のほうが流路を変えて、こんな姿になってしまったのです。


川はなく、北側は壁で塞がれています


東のたもとには水飲み場があります。

 首都ローマからはるばるアオスタ渓谷の道をやってきた旅人は、この橋でブティエル川を渡り、目の前にそびえ建つ凱旋門をくぐります。すると450mほど先に城壁に囲まれた街が横たわるのを目にしたでしょう。道の先にはプレトリア門があり、出入りする人々が見えてほっと一息つく、という感じだったでしょうね。今では凱旋門のところまで店が連なり、プレトリア門は見えませんが。


橋の先150m程のところに凱旋門が聳えます。

ローマ劇場

 プレトリア門を入ってすぐ北側に、アルプスを背景に壁がそびえ立っています。これはローマ劇場の残骸です。ローマ劇場の跡が壁だけというのは他では見たことがありません。


ローマ劇場跡

 さてローマ劇場の壁というと、以前訪れたオランジュのものを思い起こします。これは舞台背後のファサードで、観客席に座ると正面にそびえ立つように見えます。アオスタの壁もこれと同じものだと思い込んでいました。

 ところが現地に行ってみたら、壁はわずかに残ったアーチ型の観客席の背後に建っているのです。説明板に復元図があったので見てみたら、もともとこのローマ劇場は四方を壁で囲われていて、そのうちの観客席背後の壁だけが今残っているのでした。首都ローマのマルケッルス劇場やコロッセオも観客席の背後は円形なので、平面の壁が観客席の背後のものなんて考えてもみませんでした。確かにオランジュのファサードみたいな厚みのある建造物ではなく、文字通り薄い「壁」です。


壁は観客席の背後に建っていました。

 この劇場は外から見ると四角い建物だったわけです。他のローマ劇場も実は四角く囲われていたのでしょうか。今度調べてみたいと思います。


四角く壁が取り囲んだ建物だったのです。

 ちなみに古代ギリシァの劇場では観客席は自然の斜面や掘りこんだ斜面を利用して造っていたので、観客席の後ろ側というのは存在しません。平面に造るのが、首都ローマに紀元前55年に造られたポンペイウス劇場を元祖とするローマ劇場の特徴です。アオスタの劇場も完全な平面に造られています。

クリプトポルティコ

 街の中心にあるアオスタ大聖堂の脇に地下に通じる入り口があり、中は柱が立ち並ぶ通路になっています。これは古代ローマの都市の中心にあったフォルムを囲む列柱廊です。クリプトポルティコ、地下回廊と呼ばれています。


クリプトポルティコ(地下回廊)

 もちろん当時は地表にありました。長い年月を経て、洪水やがれきが積み重なり、その上に建物が再建されることで街は埋もれていきます。それが発掘、復元されたのが今の姿です。

 この柱廊は今の地表面から5mくらい下にあります。ということは、プレトリア門もかつて5m下からそびえ立っていたわけで、かなり巨大なものだったことがわかります。


今では地下ですが、当時はもちろん地上にありました。

アオスタ近郊の水道橋

 アオスタから西に8kmほどのところで、アオスタ渓谷を流れるドラ・バルテア川に南側からグランド・エイヴィア川(Grand Eyvia)が流れ込んでいます。この川を5kmほど遡ったところに小さな集落があり、ここに古代ローマの水道橋、ポン・デル(Pont d’Ael)が残っています。


橋と同じ名の小さな集落にあります。


古代ローマの水道橋、ポン・デル(Pont d’Ael)

 水道橋の上はハイキングコースになっていて、自由に渡ることができます。訪れた3月初めには雪が残っていました。幅は2.26mと細身。下は深く切れ込んだ渓谷で150mの深さがあり、滝と言ってもいいほどのかなりの急流です。


橋の上はハイキングコースのルートで渡れます。


下はかなりの急流。

 造られたのは紀元前3年で、鉄鉱石の運搬と灌漑、アオスタへの給水を兼ねていたと言われています。(英語版Wikipediaによる)

 この水道橋の特徴は、水路の下に人が通れる通路があることです。これは水漏れをチェック、修理するためのものだとか。ポン・デュ・ガールを始め他のローマ水道橋にはこんな設備はありません。水を通すだけでなく鉄鉱石を運んでいたので、傷むことがあったということなのでしょうか。外から見るとこの部分には上下2列に明り取りと言われている窓が並んでいるのがわかります。


明り取りと言われている窓が並んでいます。

 集落側の橋のたもとに見学用の建物があって、階下から水道橋の下の通路に道がついています。シーズンオフで営業しておらず、対岸の入り口も鍵がかかっていて、残念ながらこの監視通路には入れませんでした。中は高さが3.88mもあるそうですから、楽に作業ができたのではないでしょうか。

 水道橋の両側に水道がどう続いていたのか気になりますが、どう通しても傾斜が急になってしまいそうで、わかりませんでした。結構勾配がきついルートだったのかもしれません。


ポン・デルの集落の小さな礼拝所。

行き方

 アオスタに近い都市はミラノ、トリノです。鉄道ではミラノから3時間半ほど、トリノから2時間半ほどです。ただし高速列車どころか直通列車もなく、途中でローカル列車に乗り換えなければなりません。

 バスや車だとミラノから2時間半、トリノから1時間半ほどです。アオスタまで高速道路が通じていて楽に行けます。

 アオスタの街の遺跡は徒歩で回れます。


アオスタはアオスタ自治州の州都。


ライトアップされたアウグストゥスの凱旋門。

 アオスタ渓谷を50kmほど東に下ると、谷間を流れてきたドラ・バルテア川が、トリノやミラノなどの大都市があるポー平原に流れ出ます。ローマ側から来るとアオスタ渓谷の入口にあたるこの辺りに、ローマ橋ローマ街道が残っています。これは必見です。


ローマ橋ポン・サン・マルタン(Pont Saint Martin)。


ドンナス村(Donnas)の古代ローマ街道跡。

 アオスタ渓谷には古城が散在しています。中世以降のものですが、併せてこれを巡るのもお勧めです。


Castello di Cly(アオスタから東に25km)


Quart Castle(アオスタから東に9km)


サンピエール城(Castello di Saint-Pierre)(アオスタから西に8km)


フォート城塞(Forte di Bard)(アオスタから東に46km)
巨大な城塞で高速道路からもよく見えます。


フォート城塞の斜行エレベーター。

 スイスかフランスからアルプスを越えて訪れることもできます。

 グラン・サン・ベルナール峠は冬通行止めの峠越えの旧道の他、通年通行可能なトンネルもあり、レマン湖方面から来ることができます。

 ドラ・バルテア川の上流はプチ・サン・ベルナール峠よりも、今ではそのまままっすぐモンブランを突き抜けるモンブラン・トンネルの方がメインルートです。モンブラン・トンネルのフランス側は大観光地のシャモニーです。

 次回訪れる時はレンタカーでこれらの峠道やトンネルを活用し、スイス、フランス、イタリアと周遊してみたいと思っています。

 「写真で見たことがある古代ローマ遺跡」というランキングがあったらベスト3に入りそうです。名前や場所は知らなくても、どこかで見たことがあるでしょう。ポン・デュ・ガールは南仏プロヴァンス地方にある水道橋です。でも有名な割にはこれが一体ナニモノなのか、意外に知られていないのではないでしょうか。


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ところで水道橋って何?

 東京に「水道橋(すいどうばし)」という駅があります。これは神田川を渡る橋に水道管が通されていたことが由来だそうです。でもポン・デュ・ガールは水道が付属している橋、ではなくて、水道をガルドン川のあっちからこっちに渡すためだけに作られた橋です。橋の上は水道が通っているだけで、人が渡るための設備はありません。この橋は水源から街まで連なる水道の一部分なのです。

ポン・デュ・ガールはガルドン川の渓谷に架けられています。

 ちなみに読み方は「すいどうばし」「すいどうきょう」のどちらでもいいのですが、私は「すいどうきょう」と読んでいます。「すいどうばし」というと東京の駅を思い浮かべてしまうので。

水の上を水が渡る?

 でもなんで水の上を水が渡っているんでしょうか?

 ポン・デュ・ガールの上を通ってガルドン川を渡るこの水道は、ニームという都市に水を引くために作られました。ニームはここから南西に直線距離で20kmも離れたところです。そして水源は北西に12kmほど離れたユゼスという街の近くの池。ニームとユゼスとはガルドン川に隔てられているので、必然的にどこかで川を渡る必要があったわけです。

 ただ川の同じ側にある水源から引けばこんな巨大な橋をかける必要はなかったはずです。ポン・デュ・ガールから1600年後、江戸時代に作られた玉川上水は延長43kmありますが、橋など渡りません。なぜこんな大規模な橋を架けてまで大きな川を渡る必要のある水源を選んだのでしょうか。

 きっとここが古代ローマのこだわりなのでしょう。ローマの都市には水道が通じ、飲食に使う他、公共浴場にも提供されていました。古代ローマがこうあるべきと思う生活水準を得るためには、水質の良いきれいな水が潤沢に提供されることが絶対に必要で、そのためには決して妥協せずに条件を満たす水源から水道を引く。たとえ水源が遠くても、川の向こうにあっても。

 ポン・デュ・ガールは紀元50年ころに作られたものだそうです。ニームは紀元前118年に造られたローマとスペインの間を結ぶドミティア街道上にある重要な街で、既に大都市でした。当然それなりの給水施設があったはずです。おそらく水質や水量を改善するために、ポン・デュ・ガールを通るこの水道は造られたのでしょう。

 以前はもっと前の時代、アウグストゥスの片腕だったアグリッパによって建造されたと言われていましたが、最新の研究で50年頃の建造とされました。これは4代目の皇帝クラウディウスの時代です。彼はイギリスに遠征して南東部を支配下に収め、紀元43年に属州ブリタニアを設置しました。ガリアの中でもローマに近いこの辺りは、既にローマに征服されて150年。すっかりローマの一部として安定し、よりよい生活を求めてポン・デュ・ガールは造られたのでしょう。

想像以上の大きさ

 この水道橋の高さはガルドン川の水面から49mです。
数字を聞いてもピンとこないので、身近に同じくらいの高さの橋がないかと探してみたら、東京のレインボーブリッジの路面が海面から52mとほぼ同じでした。いやレインボーブリッジって相当高いよ。これには書いている私がびっくりしてしまいましたね。ちなみにマンションだったら16階くらいです。

 長さは275m。上を通っていたのは水道なので傾斜がつけられていますが、両端の高低差はわずか2.5cmです。当然傾斜は見てわかるわけもありません。重機も精密な測量機器もない時代にどうやって作ったのでしょうか。 当時は汲み上げポンプなどないので、水は水道につけられた勾配だけで流れていました。ユゼスの水源からニームまで直線距離で30km、高低差12mのところを、僅かな勾配を保ちながら山裾を回り込み、トンネルを掘り(トンネル区間はかなりの距離になります)、ポン・デュ・ガールという橋を架けて川を渡り、延長50kmにもなる水道が作られたのです。

対面

 博物館の入口といった感じの入場口を入って近代的なデザインの売店やカフェの間を抜けると、いよいよご対面、かと思ったら意外に遠くにあります。なんとなく目の前にあるのを想像していたので肩透かしを食らった気分です。

入口を入ると近代的なデザイン。セルフ・サービスのカフェやレストランがあります。帰りにカフェで一服しました。なんか贅沢な気分。

 ポン・デュ・ガールまでは400mほどで、歩くうちに想像以上の大きさで迫ってきました。間近で見上げると、大きなアーチが頭上に覆いかぶさるようにそびえている感じです。道は、ポン・デュ・ガールに沿って後世に架けられた橋の上につながっていますが、ここは3段構造のポン・デュ・ガールの1段目とほぼ同じ高さ。橋全体の高さを見上げているわけではありません。

歩いていくと、ポン・デュ・ガールに沿って構成に架けられた橋の上に出ます。ここはちょうどポン・デュ・ガールの一段目の上の高さにあたります。

 川の向こうに渡ってポン・デュ・ガールをくぐり、ガルドン川の上流側の川べりに下りると、そこからはこの橋の本当の高さが実感できます。下流側には後世に架けられた橋がありますが、上流側にはそういう余計なものがなく、古代の姿そのままの均整の取れた姿を見ることができます。

上流側の河原から見上げるととてつもない高さが実感できます。

 2千年以上経っているのにとてもきれいに残っています。これは作りが頑丈だったからというのはもちろんありますが、辺鄙な場所なので何かに転用したり、石を盗ろうと思う人がいなかったということもありそう。そう、ここはとても辺鄙な場所で、この橋は人の目に触れるものではなかったのです。この姿はまさに機能美なんですね。

触れる

 下流側に少し歩くと、右手に崖の上に通じる道の登り口があります。

 登っていくと道は途中アーチの下をくぐり、ここではアーチの内側に手が届きます。アーチに手で触れてみるとひんやりした感触。2千年前の人が石を削って確かにこれを作ったのだ、という実感が湧いてきます。こういう人の営みを感じるとゾクゾクします。これぞ遺跡巡りの醍醐味。

2千年前の人が削った石の表面に触れるたら、その人とつながっているような不思議な気分になってきました。

 登りきると橋の付け根で、壊れているおかげで断面が見えます。橋の上は蓋がかけられた水路があるだけなのがよくわかります。昔は上を歩けたそうですが、今は立入禁止です。まあ私はこんな高くて細いところ、歩きたくありませんけどね。

橋の上は水道が通るだけ。階段は18世紀頃、観光客に上を歩かせるために付けられました。今では通常は通れません。

 陸側にはポン・デュ・ールにつながる水路の遺構が残っていて、ポン・デュ・ガールが水道の一部なんだということを改めて思い出しました。

橋からつながる水路の跡が残っています。

訪問ガイド

 ポン・デュ・ガールに近い都市はニームとアヴィニョンで、車ならどちらからも30分ほど。バスもあって40〜50分ほどです。(バスは必ず最初情報を確認してください。)

 車の場合は東からのD6100という道路でルムーランという小さな街まで行き、街のはずれ、ガルドン川の手前を右折して畑や果樹園の中を走っていくと、間もなく駐車場に至ります。私が訪れたのは3月だったのですが、果樹園にピンクの花が咲いていました。アーモンドのようです。

ルムーランの町。ここを右折するとポン・デュ・ガールの正面入口です。

 川を渡ってから右折しても裏口の駐車場に入れます。こちらは入り口に店などはなく寂しい雰囲気ですが、もちろんポン・デュ・ガール近くには行けますし、橋を介して両方の入り口は行き来できます。私は最初この裏口に行ってしまったのですが、途中で少年が連れた羊の群れが道路を埋め尽くしていました。きっと牧草地に連れて行くのでしょう。ここはそれほど辺鄙なところなのです。

ガルドン川の右岸沿いにポン・デュ・ガールの裏口に向かう道。なんと羊の群れが少年に連れられて道を横切っていました。

 アヴィニョンもニームもパリからTGVが通じている便利なところ(ただしアヴィニョンTGV駅は街から離れているので注意)。

 水道の目的地であるニームには古代ローマ遺跡が数多く残っています。中でもポン・デュ・ガールを通ってニームに引かれた水道を街中の水路に分配する分水場の遺構はぜひセットで見たいところです。

ニームにある分水施設。ニーム大学の西側に接してあります。

 アヴィニョンは歌で有名なアヴィニョン橋や、昔世界史で習ったアヴィニョン捕囚の舞台である教皇庁などの見どころがありますが、残念ながら古代ローマ遺跡はありません。

「アヴィニョンの橋で〜踊るよ踊るよ」

 古代ローマの国中に張り巡らされていたローマ街道には、1マイルごとに起点からの距離が書かれた標識が置かれていました。それがマイルストーンです。
首都ローマから長靴のかかと、地中海の東側に出るための重要な港であるブリンディシまでを結ぶアッピア街道。紀元前312年から建設が始まった最初のローマ街道で「街道の女王」の異名をもつこのアッピア街道の、最初のマイルストーンがこれです。


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どこから1マイル?

 マイルストーンの一番上にはローマ数字の「I」が刻まれているので、確かにこれがアッピア街道の1マイルのマイルストーンであることがわかります。

 フォロ・ロマーノに黄金の里程標というものの基礎部分が残っていて、かつてこの上にあった円柱には各地への距離が刻まれていたといいます。Wikipediaにはこれが街道の起点と書いてあるのですが(2017年現在)、第1マイルストーンまでの距離をGoogle Mapで測ってみると2.8km。古代ローマの1マイルは1000歩が基準で約1.48kmですから、明らかに1マイルではありません。

 本当の街道の起点は、ローマの街を囲む城壁の門、つまり市街から外に出るところでした。今このマイルストーンはアウレリアヌス城壁のサン・セバスティアーノ門のすぐ外側にありますが、ここからは100mくらいしか離れていませんからもちろんこの門ではありません。ちなみにこの城壁や門は3世紀に造られたものです。アッピア街道が造られた頃にはこれより内側にセルウィウス城壁というのがあり、そこに開かれたカペーナ門がアッピア街道の起点でした。セルウィウス城壁はテルミニ駅前などごく一部だけ残っていますがほとんど失われていて、カペーナ門は影も形もありません。カペーナ門の場所はチルコマッシモの南、カラカラ浴場近くにあるカペーナ広場の辺りだったといいます。確かにその辺りなら1マイルくらいです。

実は・・・

 フォロ・ロマーノの北にカピトリーノの丘(カンピドリオとも)というのがあります。いきなり何の話?と思うでしょうが、少々我慢を。

 古代ローマの頃には最高神ユピテルを祀る神殿が建っていた場所ですが、今見られるのはミケランジェロが整備した姿で、中央の広場の幾何学模様が印象的です。この広場の正面口は北側の石段で、これを登ると馬を連れたカストルとポルックスの双子の巨大な像が狛犬のように両脇を固めているのが嫌でも目に入ります。

 これが目につきすぎて他のものに気付かないのですが、よく見るとその左右にもいくつかのものが並んで建っています。その一番右にある円柱形のもの、これはまさしくあのアッピア街道にあったマイルストーンと同じ形。

 実は同じ形どころか、ミケランジェロがアッピア街道の1マイルのマイルストーンを、自分が造る広場の飾りとして持ってきてしまったのです。ルネサンス時代の人は建物の表面を飾っていた大理石は軒並み剥がして使うは、オベリスクは好きなように移動するは、やりたい放題ですからね。

 つまりアッピア街道沿いのあのマイルストーンはレプリカなのです。レプリカをいつ誰が作ったのかは、調べてみましたがわかりませんでした。

2018年5月1日に再訪しました。
関連記事⇒ 1日でローマ市内42個の遺跡を一筆書きで歩いて巡る(イタリア)
【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

最初の1マイルを歩く

 せっかくなので起点のカペーナ門のあったところから歩いてみましょうか。歩く距離はもちろん1マイル、1.48km。

 カペーナ広場から続くアッピア街道は、両側が壁に囲まれている石畳の道です。車は今進んでいる方向に一方通行で交通量は少なく、車が時々通る程度です。人気もなくて都会とは思えない雰囲気です。早朝、夕方の女性の独り歩きは避けたほうがいいかもしれません。

 やがてレンガ造りのアーチの残骸があり、その向こうに大きな門が見えます。

 アーチはその上をマルキア水道から分岐してカラカラ浴場に給水するアントニアーナ水道が通っていました。しかしこれは既にあったアーチのうえに通したもので、元々このアーチが何であったかは不明です。「ドルーススのアーチ」と呼ばれていますが、実際は2代皇帝ティベリウスの弟ドルーススとは関係ないようです。トラヤヌスの凱旋門という説もあるそうです。

 その先の大きな門はサン・セバスティアーノ門。3世紀後半に造られたアウレリアヌス城壁に作られた門で、中は博物館になっています。私が訪れた時は時間が遅く閉館後でした。いつか訪れたいと思っています。写真で見ると想像できないかもしれませんが、この門を車が通ります。外側から見ていると、信号が青になるたびに小さな開口部から車が吐き出されてくるのがユーモラスな感じ。

 門を出て左手の角に水飲み場があります。これは昔からあるものなのでしょうか。石棺みたいにも見えますが、まさかそれを水飲み場に転用なんてしませんよね。ローマを歩いているとこういう遺跡だがなんだかわからないものがゴロゴロ転がっているのが楽しいですね。

 そして正面に続く道を100mほど進んだ右手に、目的のマイルストーンがあります。

 最初の1マイルの旅、お疲れ様でした。


マイルストーン達

 アッピア街道はこの先、終点のブリンディシまで520km、約350マイルなので、マイルストーンが350個くらい建っていたわけです。

 ローマ中にマイルストーンはいったい全部で何個あったのでしょうか。Wikipediaによると主要幹線道路が約8万6千kmなので、そこに5万8千個のマイルストーンがあったことになります。数が多いだけに残されているものも多いようですが、アッピア街道の第1マイルストーンからしてこれですから、他のものがガイドブックなどに載っているわけもなく、ありかがわかりません。

 以前テレビで、ある農家が近くにあったマイルストーンをたくさん集めてきて牛小屋の柱にしているのを見たことがあります。それほどたくさん、無造作に放置されているのです。ネットの情報をなどを頼りにいろいろ訪れてみたいと思っています。

訪問ガイド

 第1マイルストーンを訪れるにはサン・セバスティアーノ門を目指します。

 直接行く場合、地下鉄や鉄道駅は近くにないので、バスで訪れることになります。中心地からならコロッセオからバスが通じています。バス停は Porta S. Sebastiano。

 徒歩で行く場合、上に書いたアッピア街道以外に、地下鉄B線のピラミデ駅(Piramide)、またはイタリア鉄道(旧国鉄)のローマ・オスティエンセ(Roma Ostiense)から、アウレリアヌス城壁に沿って歩くルートもあります。ちなみに起点の2つの駅と、オスティア・アンティカ遺跡に行くローマ=リード鉄道線のポルタ・サン・パオロ駅(Porta S. Paolo)は、名前が違いますが同じ場所にあります。実は私はオスティア遺跡からの帰りにこのコースで訪れました。

 第1マイルストーンは、サン・セバステアーノ門の正面に伸びる道を100mほど進んだ右手にあります。このマイルストーン、観光地としては全くメジャーではなく、看板などもありませんし、壁のくぼみに半分埋もれているので、注意しないと見落としてしまいそうです。

 この道は狭いのに結構交通量があって、車やバスが飛ばして通ります。しかもマイルストーンは歩道と反対側にあるので、とにかく気をつけましょう。石畳なので車が通る時に大きな音がして余計怖く感じます。ローマ時代も主要街道なので交通量は多かったはずですが、もっとのんびりしていたでしょうね。そんな環境なので、のんびりと過去に想いを馳せる、なんていう雰囲気ではないのがちょっと残念です。

 それでも本来あった場所にあるのを見るのは、たとえレプリカであっても、いろいろ想像が湧いて楽しいですね。

このときは本当はここから起点のカペーナ門方面に逆コースで歩きましたが、2018年5月2日に再訪し起点からこちらに向けて歩きました。
関連記事⇒ アッピア街道・起点のカペーナ門からチェチーラ・メテッラの墓まで(イタリア)

古代ローマの橋の多くは徒歩でしか渡ることができません。貴重な遺跡なんだから当然ですよね。歩いて渡るのも多くは観光客で、生活のための橋ではなくて観光施設です。
でもここアルカンタラ橋は道路の一部として生きています。しかも車で渡ることもできます。


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生きている橋

 この橋は、ここイベリア半島出身の皇帝トラヤヌスの命により106年に完成しました。1900年前に造られた橋が今だに生きて使われていると思うと、なんだかワクワクしてきます。自動車が渡るのを見たときには、興奮で体が震えました。

 古代ローマの時代にここを通っていたのは、属州ルシタミアの州都アメリタ・アウグスタ(現在のメリダ)と、同じ属州ルシタニアに属す大西洋岸に近いコニンブリガを結ぶローマ街道です。コニンブリガはコインブラの近くに遺跡として残っているだけですが、当時は大都市でした。今ではこの道は主要ルートではなくて交通量も少なく、丘陵地帯を行くのどかな田舎道という感じです。

一番高い橋

 アルカンタラ橋は残っている古代ローマ橋の中で一番高い橋です。高いところが苦手な私は、橋の中央から下を覗けませんでした。なにしろ橋の上は川から45m。ビルの15階の高さです。

 写真というのは深さや高さを表すのが苦手ですが、ここを写した写真もまさにそう。写真から受けるこじんまりした感じと、現地で感じる高低差の実感とは、相当乖離があります。ほんと怖いです。

 中央に凱旋門のようなアーチがあります。写真で見るとさほどの高さには見えませんが、実際にはその路面からの高さは14m、5階建てほど。それを踏まえて改めて橋全体を見てみると、橋がいかに高いかがわかります。

渡る

 橋の路面は石畳です。幅が6mもあるので、車が楽にすれ違えます。幅が広くて下は見えないので、そんなに高いところを渡っているという感覚はありません。

 橋の中央アーチの上部に文字の刻まれた銘板がはめ込まれていますが、ここに書かれているのは橋のスポンサーであったトラヤヌス帝の名です。

 過去に3度、戦略上の理由により橋の一部が破壊されたそうです。13世紀のレコンキスタ中、17世紀のポルトガル王政復古戦争、19世紀のスペイン独立戦争のときのことですが、いずれも後に修復されました。アーチの左右にある白っぽい銘板には、1543年にアーチを再建したスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)と、1860年に橋を再建したイザベル2世の名が刻まれています。

 東側の橋のたもとにはこじんまりとした神殿が建っています。橋と同時に造られたもので、橋を作った建築家 Gaius Julius Lacer が葬られているそうです。

 西岸に橋を見下ろすように建つのはトッレ・デル・オロ Torre del Oro、黄金の党。18世紀に建てられた見張り塔です。

タホ川

 アルカンタラ橋が跨いでいるのはタホ川です。アルカンタラ橋を訪れた6日後にはるか東、マドリードにほど近い古都トレドを訪れたのですが、この街を取り囲む川が同じ川だということに気付いたのは、旅が終わって1年以上経って旅行記を書いていたときでした。

 タホ川はマドリードの近くに発し、トレドを経て西進してアルカンタラに至ります。その先でしばらくスペイン、ポルトガル国境となり、ポルトガルではテージョ川と名を変え、リスボンで大西洋に注ぎます。イベリア半島最長の川です。

訪問ガイド

 ここを探すには「アルカンタラ」という街の名で検索しましょう。「アルカンタラ橋」を検索するとトレドにあるその名の橋が出てきます。トレドはここから東に300km。間違えたらアウトです。ちなみにトレドのアルカンタラ橋も古代ローマ時代に造られた橋です。

 車だと高速道路が通るカサレスから1時間ほど。アルカンタラの街を通り過ぎて坂を下るとアルカンタラ橋があります。街から歩いて下る道もつけられています。

 アルカンタラ橋は観光地という雰囲気は全くありません。知らずに通ったらこんな貴重な遺跡だとは全く気づかないでしょう。

 アルカンタラ橋を越えて進むと18km、20分ほどで、スペイン・ポルトガル国境の Erges川に架かる 橋に着きます。途中は畑だか牧草地だかわからない乾燥した殺風景な丘陵地帯で、国境地帯で行き来も少ないのか車も少なく、人気が全くありません。

 橋のちょうど真ん中にスペインとポルトガルの境目を表わす看板が取り付けられています。こういうのがあるとここをまたいで写真を取ってしまいますね。以前テレビ東京の「地球街道」という番組で近藤正臣さんがここを訪れ、「どうしてもこうしたくなっちゃうよね」と言いながら同じことをしていました。人間の性ですかね。

 実はこの橋も古代ローマの橋で、アルカンタラ橋と同じく2世紀に造られたものだったのです。でも説明の看板も何もなく、ここを通った時には古代ローマの橋だと気付きませんでした。

 橋の上からはポルトガルの村セグラが見えます。

 車ならすぐそこ。石畳の狭い道をそろそろと登っていったのですが車を停めるところがないので、村の外の道路沿いに車を停めて歩いてみました。お茶でもしようかと思いましたが、それらしい店は見当たりません。それどころか人の気配がまるでしません。

 村の一番高いところに登ると先ほどのローマ橋が見えました。辺りには荒涼とした風景が広がります。国境のどん詰まりの村ですが、ポルトガル方面から最新式の大型バスが通ってきていたのが意外でした。

 ちなみに近藤正臣さんはこの村も訪れていました。

 古代ローマ遺跡巡りのマニアックなものででもない限り、ツアーで訪れることはまずないこのアルプスのトロフィー。またの名を「アウグストゥスのトロフィー」といいます。古代ローマは劇場といいテルマエといい規格化したものをあちこちに造っていきましたが、これは他にはない独特なものです。


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トロフィーという名ですが

 トロフィーというと一番なじみがあるのはサッカーワールドカップのものでしょうか。名前だけ聞くと、どこかの博物館にそのようなものが展示されているのを連想してしまいますが、まるで違います。

 このアルプスのトロフィーは建物です。

 トロフィーというのは勝者を称えるために贈られるものですが、アルプスのトロフィーは、アウグストゥスがアルプスに住む45の部族を平定したことを称えて紀元前6年に元老院から贈られたものです。

アルプスの平定って何?

  ところでここで讃えられているアルプスの部族の平定って何でしたっけ?

 既にカエサルがアルプスの向こう側のガリアを征服しているのに、その手前のアルプスを平定するというのがどうにもピンときません。どうもアルプスの山中にはまだ従わない部族がいたということのようですが、よくわかりません。

 アウグストゥスはエジプトを領土に加えたほか、イベリア半島や今のルーマニアなど外側に領土を拡大してローマ帝国の形を作ったといえます。それに比べローマからほど近いアルプスの平定というのは地味に感じてしまいます。

 しかしアルプスのトロフィーは一辺35m、高さ61mとかなり巨大です。アルプス平定が相当な重みを持っていたものと想像されます。

​独特な形

 戦勝記念というとよくあるのは凱旋門です。アウグストゥスに捧げられたものも当然あって、リミニにある紀元前27年に作られたものを始めいくつか残されています。しかしアルプスのトロフィーは凱旋門とは似ても似つかない形をしています。

 残されているのは3分の1ほどなので元の形がわかりにくいのですが、すぐ脇の小さな博物館に復元した模型が置かれていて、かつての姿がわかります。それによると、四角い基壇の上に円形の神殿が載ったような、ちょっと他には見当たらない独特な形です。

 神殿や霊廟に部分的に似たようなものはあります。

 例えばフォロ・ロマーノのヴェスタ神殿は円形で周りに柱が建っており、アルプスのトロフィーの上層と似ています。しかしこうした神殿は基壇部分から円形です。

 似たような2層の建物としては、当時既に世界七不思議として存在していたアケメネス朝ペルシアのマウソロス霊廟があります。ただこれは2層目が四角形なので見た目の印象はだいぶ違います。アメリカ、ニューヨークにあるグラント将軍ナショナルメモリアルは、そのマウソロス霊廟に倣って造られたらしいのですか、第2層が円柱なので、むしろアルプスのトロフィーにそっくりに見えます。

 いずれにしても先行する建造物に同じようなものがなく、なぜこの形なのか解りません。

 ちなみにアウグストゥスの霊廟はローマのテベレ川近くにありますが円形で、アルプスのトロフィーとは全く形が違います。その霊廟は紀元前28年、アウグストゥス35才のときに自ら建造したものです。アルプスのトロフィーはそれよりだいぶ後の紀元前6年、57才のときに造られたもので、その頃には友人であり腹心でもあったアグリッパもマエケナスも既にこの世の人ではありませんでした。唯一無二の存在であるアウグストゥス、友を失い寂しい老皇帝への贈り物として、他にはないものを贈ったのでしょうか。

ここはアルプス

 ところでアルプスでのできごとの記念碑がなぜ海に面したこの場所に建てられたのでしょうか。

 アルプスというと私が思い浮かべるのはアイガーやマッターホルンで、イタリアの北にあるイメージです。でも調べてみたらアルプスはそこから更に南西の方角に伸びていて、最後はイタリア・フランス国境の辺りで海に落ち込んでいるのでした。Googleマップの航空写真を見てもアルプスが海に達しているのがわかります。つまりトロフィーの建つここはアルプスの一部なのです。「マリティム・アルプス(Maritime Alps)」という呼び名も付いていました。

 紀元前13年にピアチェンツァからここまでユリア・アウグスタ街道が造られました。後に街道はアルルまで延長され、ドミティア街道に合流してスペインに至る重要なルートになります。しかし紀元前6年にこのトロフィーが造られた当時、街道はまだ行き止まりでした。このトロフィーが多くの人の目に触れることは期待できなかったはずです。

 アルプスのトロフィーは地中海を見下ろす崖の上に立っています。ということは地中海を行く船から白く輝いてそびえ建つこのトロフィーはよく見えたはずです。おそらくこのトロフィーは、海を通る人々に見せるために造られたのでしょう。地中海を制圧したローマが、海上を行く船にその力を見せつけるためのものだったのではないでしょうか。

対面

 入場料を払って中に入り、丘を巻くように登っていくと、眼下にモナコの街を臨みます。高層建築が建ち並び、港にはたくさんの船があるこの海岸沿いの一画だけが別の国なのですから、不思議な感じがします。

 ここから東の方にかけてかなり急な崖が海に迫っているのがわかります。これがアルプスの端っこなのですね。こんな急な崖なのに、ヤギが草を食べていたのには驚きました。いったいどこに住んでいるのでしょうか。

 さらに登るとトロフィーが現れますが、最初に目にする側はかなり崩れていて、元の形は全く想像がつきません。

 向こう側に回ると1段目が綺麗に復元されていて、巨大な銘文に文字が彫られているのが見えます。

 南面には階段が付けられていて、登ると2段目の円形の壁とそれを取り巻く円柱を間近に見ることができ、巨大さが実感できます。

 トロフィーの傍の博物館に復元模型やアウグストゥスの像、発掘されたものが置かれています。復元模型を見てから改めて実物を見ると、かつての姿が想像できます。てっぺんにはアウグストゥス像が立っていたそうで、何とも不思議な建物だと感じます。

訪問ガイド

 アルプスのトロフィーはラ・テュルビー La Turbie という町にあります。イタリア国境に近く、ニースの近く、海外沿いの小国モナコの真上にあります。

 私は車で西のエクス・アン・プロヴァンスから高速道路を通って来ましたが、町は La Turbie出口を出てすぐでした。ニースまでは斜面に付けられた緩やかな坂道を下って15kmほどです。モナコからも道路は通じているようですが、急斜面なので運転に自信がない方は避けた方がいいでしょう。ちなみにこのモナコへの道は、グレース王妃が運転中に脳梗塞を起こして車が崖から転落し、命を落としたところです。

 トロフィーは町の中心から見上げた丘の上に建っています。入口は北側にあり、そこまで車道が通じていて駐車場もあります。私はそれを知らずに大通りに面した町の中心にある駐車場に車を止めたのですが、町中の細い坂道を登って行ったらトロフィーの外側を囲う壁に突き当たり、閉門時間が近いのに入口がわからずかなり焦ってうろうろ探し回りました。車でアルプスのトロフィーを目指すなら、入口まで直行した方がいいでしょう。

 ただし町中の細い坂道を歩くこと自体はお勧めです。小じんまりとしたレストランや小物を売る店があったり、かつての城壁らしきものが建物と一体化していたり、見ていて飽きません。

 西に5kmほどのところにあるエズという町は鷹の巣村として知られ、一般的にはこちらの方がはるかに有名な観光地です。私が訪れたときはエズのホテルに泊まりましたが、ニースのような都会に泊まるよりゆったりできていいですよ。

「パンとサーカス」という言葉が表す通り、古代ローマでは市民に娯楽が潤沢に提供されていました。そのなかでも演劇は重要な要素で、都市には必ず劇場があります。今でもイタリアはもちろん、ヨーロッパ各地、そしてアフリカ、中近東まで数多くの劇場が残っています。中でも南仏オランジュの劇場は昔の姿をとてもよく残していて、古代ローマ劇場がどんなものだったかをこの目で確かめることができます。


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劇場のかたち

 首都ローマの中心地にマルケッルス劇場というのがあります。古代ローマの劇場の中でおそらくいちばん有名で、実物を見た人も圧倒的に多いでしょう。でもマルケッルス劇場は後世に要塞、そして今では住宅に転用されてしまいました。古代遺跡がアパートになっていて普通の人が住んでいるというのは、これはこれでとてつもなく面白いものの、元の劇場の姿を想像するのは不可能。下手をすると現代のような屋内の劇場をイメージしてしまうかもしれません。

 これに対してここ南仏オランジュの劇場は古代の姿を見事にとどめています。すり鉢を断ち切ったような観客席に舞台、という野天の劇場です。まあこれはどこかで見たことがあるでしょう。

 しかし実際に行ってみて一番目につくのは、舞台の後ろにそびえる分厚い壁です。この壁も古代ローマ劇場のなくてはならない要素なのです。

 劇場に近い駐車場に車を止めたときから、3階建ての町並みの上になにか飛び出しているのが見えていました。地図を見ながら劇場に近づくと、先ほどから見えていたそれは、まるで巨大な要塞の外壁のようにがっしりとそびえ建っています。劇場の中に入って初めて、それが劇場の一部をなすものだと気付きました。

 すり鉢の底から見ると、この壁が圧倒するような存在感で迫ってきます。

 舞台の上では演劇をやるのですから、背後を遮るものが必要で、そこに壁があるのはわかります。でもこの大きさと造形は単なる「背景」というレベルをはるかに超えています。壁の高さは37m。12階建てマンションに相当します。

 よく見ると形が結構複雑です。2〜3層に見えますし、デコボコしていてくぼみがたくさんあります。中央上部の大きなくぼみにはどこかで見たことがあるような像が見えます。わずかに神殿のような円柱も見えます。

 この壁は、当時大理石に覆われていたそうです。白く輝き装飾された壁は相当迫力のある光景だったでしょうね。

観客席を登ってみる

 観客席の石段を登って最初の水平な通路で舞台を振り返ると、この壁に包み込まれるような感覚になります。写真を撮ろうとしても、舞台や壁のごく一部しか画面に収まりません。

 2番目の通路まで登ってみます。ここからだと壁の中央の大きなくぼみ、壁龕といいますが、ここに置かれた像がよく見えます。右手を上げたあの姿、あれはやはりアウグストゥス像ですね。アウグストゥス像は高さ3.55mもあるそうなのですが、そこまでの大きさに感じないのは、壁自体が巨大だからですね。この劇場はアウグストゥスの治世に造られたもので、つまりできてから2000年経っています。

 この像は1951年に発掘されてここに置かれました。大きさがピッタリ合っているので、たしかにここに置かれていたのでしょう。他にも小さな壁龕が数多くありますが、かつてはこれらにも神像などが置かれていたそうです。

 3段目の通路まで登ってきて初めて、劇場の全体を見渡せるようになります。でもここでも写真で全体像を入れるのは無理。それほど巨大なのです。

 観客席の上の方の通路の端からは、背後の岩山が見えます。実はこれがローマの典型的な劇場と違う点です。ギリシャの劇場が自然の地形を利用して観客席を作っていたのに対して、古代ローマの劇場は最初のポンペイウス劇場以来、平地に石とコンクリートで建てています。これによってどんなところでも自由に劇場が作れるようになったわけです。しかしここは自然の岩山を利用して観客席を作っています。たぶん、たまたま都合のよいところに岩山があったので利用したのでしょう。

観客が最初に目にするもの

 観客席の裏側の通路にも入ることができます。

 通路の暗がりから観客席に出ると、正面に大理石で白く輝く壁が視界を埋め尽くし、そしてその中央にはこれまた白く輝く巨大なアウグストゥス像が、こちらに片手を上げています。

 これは征服したガリアの人たちにローマの力を見せつけるためだと、最初は思っていました。

 しかしどうもそうではなさそうです。オランジュは紀元前40年に第2軍団アウグスタの退役軍人の入植地として建設された都市で、当時第2軍団アウグスタを率いていたのはオクタビアヌス、つまり後のアウグストゥスでした。退役軍人たちはかつての自分たちのリーダーの姿をここで目にしたわけです。勝利したがゆえにここでこうして観劇をしているわけで、感謝の念と自分たちの誇りを新たにし、心豊かな余生を送ったのではないでしょうか。

訪問ガイド

 オランジュは南仏プロバンスの人口3万人ほどの小都市です。古代ローマ劇場はこのオランジュの街の中心部にあります。

 車ならローマ劇場の南東にある公共の地下駐車場に車を止めれば、歩いて5分ほどです。

 駅は東にやや離れていますが、歩いて15分ほど。在来線の駅で、パリから行く場合はTGVでアヴィニョンまで行き、在来線で戻るのが一番早いようです。TGV専用線は郊外を通っていて駅はないのですが、朝、夕の2本だけ、パリから在来線のオランジュ駅に直接乗り入れるTGVが運行されています(2018年2月現在)。

 ローマ劇場から北に15分ほど歩くと凱旋門があります。これも見事なものですから、ぜひ一緒に見ておきましょう。

名前が面白いこともあって知名度はバツグンです。ヤマザキマリさんの漫画で「テルマエ」いう呼び名がすっかり有名になりましたが、カラカラ浴場はそのテルマエの代表と言っていいでしょう。でも単なる「公衆浴場」と思ったら大間違い。ツアーにも組み込まれていて行ったことのある人も多いと思いますが、その実態を知っている人は少ないかもしれません。


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公衆浴場というのは間違いではありませんが

 カラカラ浴場は公衆浴場です。もちろんこれは間違いではないのですが、単なる風呂屋ではありませんし、現代のスパやスーパー銭湯とも違います。

 それを象徴するのが図書館。なんとここには図書館があったのです。ギリシア語の書物用とラテン語の書物用の二つの同じ大きさの部屋がありました。他にも談話室や礼拝所、体育館のような運動するスペースや50mのプールがありました。

 もちろん浴場ですから浴室があります。中央に7つの浴槽を備えた巨大な冷室があり、2つの浴槽を備えた温室、4つの浴槽を備えた丸い熱室、そしてサウナと、とてつもない規模です。

過ごす

 入り口で料金を払って入場すると、広い敷地の真ん中に巨大な建物の残骸があります。

 この中央の崩れかけた建物がカラカラ浴場だと思っている人が多そうですが、今通ってきた入り口のある外壁とその中に広がる広大な空間もカラカラ浴場の一部なのです。外壁は一部回廊になっていて、図書館や談話室はこの部分にあります。食事を提供するところもあったようです。

 崩れ落ちて発掘されたモザイクのかけらが飾られていますが、かつては大理石の床にモザイクの壁、そして彫像が飾られて、ビカビカに輝く芸術品に取り囲まれた空間でした。

 このような設備を見ると、ここは「過ごす」場所と言った方が良さそうです。ローマの人々はここで運動し、入浴し、散歩し、読書し、議論し、芸術を鑑賞し、食事をして、満ち足りた時間を過ごしたのです。

市街のはしっこ

 カラカラ浴場はフォロ・ロマーノやコロッセオからは少し離れたところにあります。ローマの市街地の南のはずれといったところ。

 当時だってあまり便利な場所ではなかったはずで、市民の評判がどうだったのか気になります。

 でもカラカラ浴場が姿を留めているのはこの不便な立地のためでしょう。ローマの中心部にはカラカラ浴場より200年以上前に建てられた、テルマエの起源であるアグリッパ浴場や、カラカラ浴場から100年後に建てられたディオクレティアヌス浴場がありましたが、原型を留めていません。カラカラ浴場は周辺が再利用されなかったから形が残っているのでしょう。

 とは言っても建物はかなり崩れていて、残念ながら元の姿を想像するのはほとんど無理。何しろ天井がありません。かつては壁を白く輝く大理石が覆っていましたが、他の遺跡同様にそれも持ち去られてしまってほとんどありません。崩れた壁の上にはたくさんの鳥がとまっていて、一層廃墟感を増していました。

訪問ガイド

 最寄り駅は地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅(Circo Massimo)。

 コロッセオから2.3km、20分ほどで歩いて行けます。フォロ・ロマーノやコロッセオ、真実の口などの定番スポットとセットで訪れるのが効率よいでしょう。ただしカラカラ浴場だけぽつんと南に離れているので、工程に組み込みにくいのが難点です。