アッピア街道・起点のカペーナ門からチェチーラ・メテッラの墓まで(イタリア)

 「全ての道はローマに通じる」で有名なローマ街道のうちで一番最初に造られたのがアッピア街道です。起点のカペーナ門からチェチーラ・メテッラの墓までの4kmほどを2018年5月に実際に歩いてみたので紹介します。



アッピア街道とは

 アッピア街道はローマとイタリア半島の南端、長靴のかかとの後ろの真ん中あたりにあるブリンディシを結び、イタリア半島の南半分を縦断する街道です。

 その名は紀元前312年にこの街道の建設を元老院に要請したアッピウス・クラウディウス・カエクスに因みます。最初はカプアが終点でした。カプアはナポリの北にあり、ローマからわずか150kmほど。ローマ帝国のイメージからするとほんの近所です。しかし紀元前4世紀当時、こんな近所でさえローマの手中にはありませんでした。ローマは周辺の部族と戦って勝ちその領土を手に入れていきますが、当時はイタリア半島中部に住むサムニウム人と戦っている最中でした。このサムニウム戦争が紀元前290年に終わってようやくイタリア半島中部がローマの支配下に入ります。アッピア街道はこの戦争を有利に進め、支配を確実にするために造られた道路です。

 ローマの支配する領域の拡大につれアッピア街道は延長されました。紀元前272年に半島南部を制圧し、264に現在の終点ブリンディシまで延長されます。ブリンディシは地中海に出る港です。紀元前264年はカルタゴとのポエニ戦争が始まった年で、これ以降ローマの領土は海の向こうに広がっていきます。ローマを出発した軍隊を海外に送り出すことで、これ以降もアッピア街道は大きな役割を果たしました。

今回のルート

起点のカペーナ門

 チルコマッシモから南東にカラカラ浴場通り Viale delle Terme di Caracalla が伸びています。これがアッピア街道です。

チルコ・マッシモを背にカラカラ浴場通りを望む。これが古のアッピア街道。

 アッピア街道の起点はカペーナ門で、これは王制のころに起源を持つセルウィウス城壁に開けられた門の一つです。セルウィウス城壁の内部が当時のローマ市内ですから、外に向かう街道の出発点は当然この城壁の門ということになります。

 この辺りのどこかにカペーナ門があったはずです。道に沿って東側はカペーナ門広場 Piazza di Porta Capena という名が付いていますが、門自体が残されているわけでわありません。

 チルコ・マッシモの端から100mほどのところにある横断歩道近くになにかの残骸のようなものがあり、「INIZIO DELLA VIA APPIA」「アッピア街道の起点」と書かれたプレートが付けてあります。これがカペーナ門なのでしょうか。

カペーナ門?
汚れて読みにくいのですが「INIZIO DELLA VIA APPIA」(アッピア街道の起点)の文字。

 この残骸は薄いレンガを積み重ねたものです。テルミニ駅前にあるセルウィウス城壁は大きな石積みだったのでこれとは違いますが、地下街(マクドナルド横)にある城壁の基礎の部分は同じような薄いレンガを積み重ねたものでした。それに後で見るアウレリアヌス城壁は全体がこんな感じです。

テルミニ駅前のセルウィウス城壁。
テルミニ駅地下街のセルウィウス城壁。

 これがカペーナ門かどうかは微妙ですが、セルウィウス城壁の残骸である可能性は高そうに思えます。ただネットや本でこれに触れたものを見つけられなかったので真相は不明です。

 いずれにしてもこの辺りが起点であることは間違いありません。

アウレリアヌス城壁まで

 起点から歩き始めるとすぐに水飲み場があります。いつの時代からあったものかわかりませんが、ローマでよく見る先端を指で塞いで上に空いた穴から飛び出す水を飲むタイプのものです。

出口を指で塞ぎ上の穴から出る水を飲みます。
右手に見える巨大な建物がカラカラ浴場。

 間もなく右側にカラカラ浴場が見えてきます。

 アッピア街道が造られたのが紀元前300年頃で、カラカラ浴場が建てられたのは紀元200年頃。500年の隔たりがあります。今の日本に置き換えてみると、500年前は戦国時代で織田信長がまだ生まれていません。古代ローマという括りでアッピア街道もカラカラ浴場も一緒くたにしてしまいますが、両者が造られた時代はそれほど離れているわけです。

 起点から600m、カラカラ浴場の南端近くでカラカラ浴場大通りが右側に大きくカーブして逸れて行き、左からラテラノ聖堂につながるドルソ通り Via Druso が交差します。ここはヌマ・ポンピリオ広場 Piazzale Numa Pompilio という名がついています。ヌマ・ポンピリオはロムルスに継ぐローマ2代目の王の名で、ヌマが妻エゲリアと会っていた神聖な木立ちがあったのがここでした。

 アッピア街道は正面に伸びる石畳の細い道です。

ヌマ・ポンピリオ広場。右正面に伸びるのがアッピア街道で、すぐに分岐します。
古代の公衆トイレ Vespasiano?

 交差点の南にある謎の建物は古代の公衆トイレ Vespasiano と説明しているものもありますが、真相は不明です。

 すぐに道が二手に分かれます。分岐点には円柱形の道標が建っていて、右はサン・セバスチアーノ門通り、左はラティーナ門通りとあります。右のサン・セバスチアーノ門通りがアッピア街道です。

アッピア街道とラティーナ街道の分岐点。
左はラティーナ街道。
右はサン・セバスチアーノ門通り。アッピア街道です。

 左のラティーナ街道はアッピア街道より先に建設が始まった街道ですが、アッピア街道とは違って地形に沿って敷かれた道でした。

 アッピア街道は車は南行きの一方通行で、交通量はさほど多くありません。

アッピア街道。静かな道です。

 自転車に乗った観光客が思いのほか多く追い越していきます。貸自転車でアッピア街道巡りというのが流行っているようです。若い女性の単独行もいました。ローマもだいぶ治安がよくなったのですね。

 右にゆるやかにカーブする石畳の道は両側を3mくらいの壁に囲まれていて、ところどころに建物の入口があります。人通りはほとんどなくて静かです。

 途中左手にスキピオ家の墓所があります。スキピオ家は名門で執政官を大勢出しており、特に第2次ポエニ戦争でハンニバルを破ったスキピオ・アフリカヌスは有名です。この墓はアッピア街道ができてまだそんなに経っていない紀元前280年頃に築かれました。アッピア街道沿いに墓が多数作られるようになる先駆けです。見学はツアーに参加してヘルメットを被って地下の墓に入るそうです。

緩やかな右カーブが続きます。もうすぐサン・セバチアーノ門。

ドルーススの凱旋門とサン・セバスチアーノ門

ドルーススの凱旋門とサン・セバチアーノ門。

 起点から1.4kmほどのところにドルーススの凱旋門とサン・セバスチアーノ門があります。

ドルーススの凱旋門。

 ドルーススは2代皇帝クラウディウスの弟ですが、実際にはこの人とは関係がなく、トラヤヌスの凱旋門が後に水道に転用されたものと考えられているそうです。トラヤヌスはローマ帝国の版図を最大にした皇帝であちこちに凱旋門がありますが(以前スペインのメリダのものを見ました。)、これもその一つだったのでしょうか。

 ここを通っていた水道はマルキア水道から分岐するアントニニアーナ水道で、紀元226年、マルクス・アウレリヌス・アントニヌス帝、通称カラカラ帝がカラカラ浴場に水を引くために造ったものです。たまたま便利な場所に凱旋門があったので、その上に水道を通したということのようです。

 ドルーススの凱旋門のすぐ先にサン・セバチアーノ門があります。

サン・セバチアーノ門。内部は城壁博物館として公開されています。

 アッピア街道の起点のカペーナ門があるセルウィウス城壁は、帝政になるころにはその外側まで市街地が広がり、また安定した統治でローマに敵が迫るようなこともなくなり、意味がなくなって廃れます。その後3世紀後半にローマの弱体化によって異民族の侵入が激しくなり、新たにローマを守るためにセルウィウス城壁より外側に造られたのがアウレリアヌス城壁で、これとアッピア街道との交点にあるのがこの門です。

 もとの名前はアッピア門で、実質的なアッピア街道の起点はここになりました。今でもここから通りの名が「アッピア・アンティカ通り (Via Appia Antica)」に変わります。

 アウレリアヌス城壁の外側に沿って道路が通っていて、サン・セバスティアーノ門を出たところが交差点になっています。その信号が青になると、サン・セバスティアーノ門の小さな開口部から車がぞろぞろと連なって出てくる様子がなんとなくユーモラスです。

 サン・セバスティアーノ門の内部は城壁博物館として公開されていて、門の屋上にも登ることができます。屋上からは北にこれまで歩いてきたカーブした道、南にはこれから行くアッピア街道、そして遠方には山並みが広がっています。入場は無料でした。(2018年5月)

起点の方向。
この先は「アッピア・アンティカ通り」。
サン・セバチアーノ門の屋上から南には山並が見えます。

 交差点の南東の隅に水飲み場があります。でもこの水を受ける容器、この形と大きさはどう見ても石棺です。ちょっと水を飲む気にはなりません。

水飲み場。どう見ても石棺と墓の銘版です、

 古代ローマ人は街道沿いに盛んに墓を築きました。アッピア街道沿いにもこの後見るチェチーラ・メテッラの墓を始めたくさん残っています。この水飲み場は多分この辺りの墓にあった石棺を再利用したのでしょう。蛇口の上にある夫婦らしき男女の像も、おそらく墓に付けられていた被葬者の像です。

第1マイルストーンからサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂

 サン・セバスチアーノ門から正面に向かうアッピア・アンティカ通り (Via Appia Antica) がかつてのアッピア街道です。

 アッピア・アンティカ通りというのは旧アッピア街道という意味。並行して東にアッピア・ヌオボ通り Via Appia Nuova、すなわち新アッピア街道があるのでそれに対する名です。

 交差点から100mほど進むと右側に最初のマイルストーンがあります。円柱の上の部分に「I」と書いてあります。ここが起点のカペーナ門から1マイル、約1.48kmです。

 実物はミケランジェロがカンピドリオ広場を飾るために持って行ってしまい、今ここにあるのは複製です。

 第1マイルストーンについては別記事も御覧ください。

関連記事⇒ アッピア街道の第1マイルストーン(イタリア)
関連記事⇒ 1日でローマ市内42個の遺跡を一筆書きで歩いて巡る(イタリア)
      【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

第1マイルストーン。
上にローマ数字で「I」とあります。

 ここは交通量が多くバスも頻繁に通りますが、歩道が狭いので気をつけないと危険です。マイルストーンの側は歩道がありません。

 マイルストーンを過ぎるとすぐに道路と鉄道の下をくぐります。テルミニ駅とフィウミチーノ空港を結ぶレオナルド・エクスプレスの通る線路です。

 ここで左側にあった細い歩道もなくなってしまいます。

歩道がありません。

 左にゲタの墓があるのですが気付かず見落としました。ゲタはカラカラの弟で当初は共同皇帝でしたが、兄カラカラに暗殺され、ダムナティオ・メモリアエ(名声の抹殺)を受けました。エジプトで発見され今はベルリンにある家族の板絵からはゲタの姿が削り取られ、フォロ・ロマーノの兄弟の父親セプティミウス・セウェルスの凱旋門からは銘文のゲタの記述が削られて別の言葉に変えられています。でもそれなのに墓は残っているというのはちょっと変です。実際ゲタは父親や兄と共にハドリアヌス霊廟、現在のサンタンジェロ城に埋葬されているともいわれていて、これがゲタの墓だという決定的な証拠はないようです。

 サン・セバチアーノ門から800m程で道は3本に分かれます。左がアッピア街道です。

左がアッピア街道。左手の人が立っている前がドミネ・クォ・ヴァディス教会。
左の道の入口の壁に旧アッピア街道の銘版があります。
分岐点の手前の今ひとつ判りにくい案内板。

 分岐点の左側にあるドミネ・クォ・ヴァディス教会 Chiesa del Domine Quo Vadis は、ペトロがローマから逃れようとしているときに既に磔になって死んだイエスと行き合ったという伝承があるところだそうです。話としては面白いし、カトリックの総本山サン・ピエトロに祀られている人物に関係するところなのでもっと人が訪れるのかと思っていましたが、意外なことに閑散としています。キリスト教には興味がないので素通りします。

 アッピア街道は分岐した先で右にカーブすると、その先はずっと直線が続きます。やっとアッピア街道らしくなってきました。アッピア街道は軍隊を素早く通すために出来るだけ直線かつ勾配がないように敷いた道です。

 ヌマ・ポンピリオ広場の先で分岐した古代のラティーナ街道は同じくカプアまで通じていましたが、地形に沿っていて山越えもある道でした。それに対してアッピア街道は軍隊を素早く通すために出来るだけ直線かつ勾配がないように敷いた道です。

 しばらく歩くとカタコンベがあり、観光客で賑わっています。これも興味がないので素通り。

 直線が続くので運転の荒いイタリア人の車はかなりスピードを出しています。石畳の道なので大きな音がします。車がホコリを巻き上げ排気ガスを撒き散らしていくので目と喉が痛くなってきました。すれ違うときには車が端に寄って歩行者すれすれに通っていき、スピードをあまり落とさない車もあってときどきヒヤッとします。両側が塀で遮られているので逃げ場もありません。

 早くここを抜け出したいという気持ちでただひたすら急いで歩くという感じになってきました。古に思いを馳せながらアッピア街道を歩く、という事前に想像していたロマンティックなものとは程遠い状況です。

 自転車でアッピア街道を走ることを考えている人は、この道路状況を考えに入れて決めた方がいいでしょう。端的に言ってやめた方がいいです。

この幅の道を車が飛ばしていくので歩いているとちょっと怖い。

 斜め左にアッピア・ピニャテッリ街道 Via Appia Pignatelli が分岐し、そこから先は一方通行になります。車に怯えなくて済むようになりほっと一息つきます。

 分岐して300mちょっとのところにあるローマ7大巡礼聖堂の一つサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に観光客がたくさん入っていきます。これも素通り。3世紀のディオクレティアヌス帝のキリスト教迫害で殺害されたという聖セバスティアヌス を祀った聖堂で、アッピア門はこれにちなんでサン・セバスティアーノ門と呼ばれるようになりました。

マクセンティウスの競技場

マクセンティウス競技場の入り口。

 しばらく歩くと左手にマクセンティウスの競技場があります。ここは入場無料です。

 起点から約4km、サン・セバチアーノ門から2.6kmです。

 4世紀初めの皇帝マクセンティウスが造った馬車競技場で、郊外の別宅であるヴィッラに隣接しています。アウレリアヌス城壁からここまで2.6kmもあり、ローマ市民のために造ったものとは到底思えません。マクセンティウス個人用の競技場だったのでしょう。その証拠にこの競技場で開催された記録が残っているのは、309年のマクセンティウスの長男、14歳ほどで早世したウァレリウス・ロムルスの追悼式典だけです。ウァレリウス・ロムルスの円柱形の墓が競技場の横にあります。

マクセンティウス競技場。
中央分離帯スピナにはオベリスクが建っていました。

 馬車が走った競争路は元の姿がよく残っていて、スピナという全長296mの中央分離帯があるのが判ります。スペインのメリダにあるものはもっとはっきりとスピナや観客席の形がわかりますが、イタリアでは一番元の形をよく残しているものとのことです。

ナボーナ広場のオベリスク。かつてこの競技場に建っていました。

 中央分離帯にはオベリスクが建っていました。1世紀にドミティアヌスの命により、ナイル川の花崗岩を使ってローマで造られ、パンテオン近くのイシス神殿に建てられていたものを移設したものです。そして時を経て今はナヴォーナ広場の四大河の噴水の上にあります。

チェチーラ・メテッラの墓

 マクセンティウスの競技場から300mほど行くと、左手に円筒形のチェチーラ・メテッラの墓が聳え立っています。高さ21m、直径29mと、墓としてはとんでもなく巨大なものです。

チェチーラ・メテッラの墓。巨大です。

 被葬者のチェチーラ・メテッラはカエサル、ポンペイウスと第一回三頭政治という密約を結んだクラッススの息子の妻だそうです。夫のクラッスス一族は執政官や法務官を多数輩出した家柄で、本人も執政官を輩出した家の出です。しかし本人も夫も特に際立った事績はないのに、なぜこんな大きな墓に入っているのか謎です。息子のマルクス・リキニウス・クラッススはオクタヴィアヌスのもとで戦果を挙げそこそこ活躍した人なので、母親を敬っている立派な人ということを宣伝するためにこれを建てたのかもしれません。

 皇帝の墓であるアウグストゥス廟やハドリアヌス廟(サンタンジェロ城)は大きくても当然ですが、考えてみたらその他に見た古代ローマ人の墓は執政官を務めたとはいえ無名のガイウス・ケスティウスのピラミデや、マッジョーレ門の間近に立つ解放奴隷のパン屋ユリサケスの墓で、やはりなぜそんな大きな墓なのか首をかしげるものでした。墓を建てるのは超一流からは外れた人の間で流行したものなのでしょうか。

チェチーラ CAECILIAという文字が見えます。
南側の建物は後世付け足されたもの。

 後に南側に接して建物が付け足され、要塞として使用されました。

 アッピア街道に面した城の壁にはチェチーラ・メテッラの墓の断片が取り付けられています。

当時の石畳

 チェチーラ・メテッラの墓から100mほど先にアッピア街道の元の石畳が残っています。

アッピア街道の石畳。

 黒くて大きな石は表面がデコボコで石と石の間には隙間が空いていますが、古代ローマ時代には隙間なく平らな石が敷き詰められていて、木の車輪の馬車がスムーズに進めました。ローマが滅びてメンテナンスされなくなり、風雨に削られて今のような姿になってしまったのです。

 2018年に訪れたのはここまでです。地図を見るとこの先もしばらく道は直線で続いています。最短コースを通したローマ街道の特徴がよくわかります。起点のカペーナ門からここまで約4kmで、ブリンディシまでの全長540kmのほんの0.7%にすぎません。アッピア街道の旅は始まったばかりです。(アッピア街道の延長は書かれているものによって数字がかなり違うのですが、ローマ=ブリンディシ間の距離からみて540km程度のはずです。)今度は車でローマから終点のブリンディシまでたどってみたいと思っています。

行き方

※下記は2019年7月現在の情報です。最新の情報をお確かめください。

ローマの公共交通運営会社 ATAChttps://www.atac.roma.it/index.asp?lingua=ENG

 ATACの118番のバスがローマ中心地と、今回訪れたチェチーラ・メテッラの墓より先にあるカパンネッレ Capannelle との間を、ほぼアッピア街道を経由して結んでいます。ローマ中心部に入ったバスはカンピドリオ広場の下、フォーリ・インペリアーリ、コロッセオと回ってそのままカパンネッレ方面に戻っていきます。

 ローマのバスは手を上げて乗る意志をはっきりと運転手に示さないと通過してしまうので要注意です。降りるときもバスの車内では停留所の案内放送がないので、車窓とスマートフォンの地図を見て降りたい停留所が次になったらボタンを押さなければなりません。

行き

 ローマ中心部を1周するバスに、カンピドリオ広場の下、ヴィットリオ・エマヌエーレ製記念堂の脇、フォーリ・インペリアーリ、コロッセオから乗車できます。

 アッピア街道の起点付近にあるバス停カラカラ浴場/カペーナ門 Terme Caracalla/Porta Capena からサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂 Basilica S. Sebastiano までは、旧アッピア街道をずっと辿ってきます。この停留所を出ると左折してアッピア・ピニャテッリ街道の方に行ってしまい、マクセンティウスの競技場やチェチーラ・メテッラの墓の前は通りませんが、チェチーラ・メテッラの墓まで500m程なので歩けます。

 頻繁に走っているのでこのバスを乗り継いで見たいところだけ見ることも可能です。

 カタコンベやサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂は観光客が多く、おそらく他にも降りる人がいるので降車はそんなに心配いらないはずです。

帰り

118番のバス停。手を降って乗るアピールをしないと通り過ぎるので注意。

 ローマ方面行きは一部ルートが違います。

 118番のバスが通るアッピア・ピニャテッリ街道 Via Appia Pignatelli は、チェチーラ・メテッラの墓付近では旧アッピア街道から500mほど東です。チェチーラ・メテッラの墓の200m先に両街道をつなぐ道があります。アッピア・ピニャテッリ街道に出たら、バス停は交差点のすぐ北側です。

 北行きはサン・セバスティアノ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂には寄らず、アッピア・ピニャテッリ街道を直進します。

揺れと音がひどく乗り心地は最低。

 間もなくアッピア街道に合流して、先ほど歩いてきた石畳の道を豪快に飛ばします。ローマのバスは街中で突然燃える事故が何度も起きているほど老朽化がひどいのですが、乗ったバスもバネが全く効いていなくて、ガタガタガタガタものすごい音を立てて激しく揺れながら走りました。踏ん張っていないと体が跳ねて椅子から落ちそうなほどです。ちなみにバスの火災は私が訪れた直後の2018年の5月8日にあり、これでこの年9件目だったそうです。街中で高く炎を上げ、黒焦げの骨組みだけになった映像は衝撃的でした。2017年には22件起きたそうです。

 行きに歩いた時に見ていた通り、道がそんなに広くないのにすれ違うときもスピードを落とさずに右側の壁ギリギリを走り抜けます。右側の窓際に座っていたのですが、壁を擦りそうで怖くなり窓から離れたほどです。

チルコマッシモの西側を通って中心地に向かいます。

 ヌマ・ポンピリオ広場からサン・セバチアーノ門までは南方向の一方通行なので、門の手前で左折して西を迂回します。ヌマ・ポンピリオ広場でアッピア街道のルートに合流し、その後カペーナ門からチルコ・マッシモの西側を通ってローマ中心部に進みます。

 バスはローマの中心部を通り抜けてるので、他の人が降りる停留所で適当に降りてもなんとかなります。私は見覚えのあるフォーリ・インペリアーリで他の人が降りるのに続いて降りました。コロッセオまで歩けば地下鉄に乗れます。

カンピドリオ広場の階段コルドナータの下を通過。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の前からフォーリ・インペリアーリへ。

更新履歴

  • 2019/7/30 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

Posted by roma-fan