古代ローマの国中に張り巡らされていたローマ街道には、1マイルごとに起点からの距離が書かれた標識が置かれていました。それがマイルストーンです。
首都ローマから長靴のかかと、地中海の東側に出るための重要な港であるブリンディシまでを結ぶアッピア街道。紀元前312年から建設が始まった最初のローマ街道で「街道の女王」の異名をもつこのアッピア街道の、最初のマイルストーンがこれです。


旅行記はこちら⇒2007年 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル 2018年旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

どこから1マイル?

 マイルストーンの一番上にはローマ数字の「I」が刻まれているので、確かにこれがアッピア街道の1マイルのマイルストーンであることがわかります。

 フォロ・ロマーノに黄金の里程標というものの基礎部分が残っていて、かつてこの上にあった円柱には各地への距離が刻まれていたといいます。Wikipediaにはこれが街道の起点と書いてあるのですが(2017年現在)、第1マイルストーンまでの距離をGoogle Mapで測ってみると2.8km。古代ローマの1マイルは1000歩が基準で約1.48kmですから、明らかに1マイルではありません。

 本当の街道の起点は、ローマの街を囲む城壁の門、つまり市街から外に出るところでした。今このマイルストーンはアウレリアヌス城壁のサン・セバスティアーノ門のすぐ外側にありますが、ここからは100mくらいしか離れていませんからもちろんこの門ではありません。ちなみにこの城壁や門は3世紀に造られたものです。アッピア街道が造られた頃にはこれより内側にセルウィウス城壁というのがあり、そこに開かれたカペーナ門がアッピア街道の起点でした。セルウィウス城壁はテルミニ駅前などごく一部だけ残っていますがほとんど失われていて、カペーナ門は影も形もありません。カペーナ門の場所はチルコマッシモの南、カラカラ浴場近くにあるカペーナ広場の辺りだったといいます。確かにその辺りなら1マイルくらいです。

実は・・・

 フォロ・ロマーノの北にカピトリーノの丘(カンピドリオとも)というのがあります。いきなり何の話?と思うでしょうが、少々我慢を。

 古代ローマの頃には最高神ユピテルを祀る神殿が建っていた場所ですが、今見られるのはミケランジェロが整備した姿で、中央の広場の幾何学模様が印象的です。この広場の正面口は北側の石段で、これを登ると馬を連れたカストルとポルックスの双子の巨大な像が狛犬のように両脇を固めているのが嫌でも目に入ります。

 これが目につきすぎて他のものに気付かないのですが、よく見るとその左右にもいくつかのものが並んで建っています。その一番右にある円柱形のもの、これはまさしくあのアッピア街道にあったマイルストーンと同じ形。

 実は同じ形どころか、ミケランジェロがアッピア街道の1マイルのマイルストーンを、自分が造る広場の飾りとして持ってきてしまったのです。ルネサンス時代の人は建物の表面を飾っていた大理石は軒並み剥がして使うは、オベリスクは好きなように移動するは、やりたい放題ですからね。

 つまりアッピア街道沿いのあのマイルストーンはレプリカなのです。レプリカをいつ誰が作ったのかは、調べてみましたがわかりませんでした。

2018年5月1日に再訪しました。
関連記事⇒ 1日でローマ市内42個の遺跡を一筆書きで歩いて巡る(イタリア)
【遺跡18】アッピア街道のマイルストーン

最初の1マイルを歩く

 せっかくなので起点のカペーナ門のあったところから歩いてみましょうか。歩く距離はもちろん1マイル、1.48km。

 カペーナ広場から続くアッピア街道は、両側が壁に囲まれている石畳の道です。車は今進んでいる方向に一方通行で交通量は少なく、車が時々通る程度です。人気もなくて都会とは思えない雰囲気です。早朝、夕方の女性の独り歩きは避けたほうがいいかもしれません。

 やがてレンガ造りのアーチの残骸があり、その向こうに大きな門が見えます。

 アーチはその上をマルキア水道から分岐してカラカラ浴場に給水するアントニアーナ水道が通っていました。しかしこれは既にあったアーチのうえに通したもので、元々このアーチが何であったかは不明です。「ドルーススのアーチ」と呼ばれていますが、実際は2代皇帝ティベリウスの弟ドルーススとは関係ないようです。トラヤヌスの凱旋門という説もあるそうです。

 その先の大きな門はサン・セバスティアーノ門。3世紀後半に造られたアウレリアヌス城壁に作られた門で、中は博物館になっています。私が訪れた時は時間が遅く閉館後でした。いつか訪れたいと思っています。写真で見ると想像できないかもしれませんが、この門を車が通ります。外側から見ていると、信号が青になるたびに小さな開口部から車が吐き出されてくるのがユーモラスな感じ。

 門を出て左手の角に水飲み場があります。これは昔からあるものなのでしょうか。石棺みたいにも見えますが、まさかそれを水飲み場に転用なんてしませんよね。ローマを歩いているとこういう遺跡だがなんだかわからないものがゴロゴロ転がっているのが楽しいですね。

 そして正面に続く道を100mほど進んだ右手に、目的のマイルストーンがあります。

 最初の1マイルの旅、お疲れ様でした。


マイルストーン達

 アッピア街道はこの先、終点のブリンディシまで520km、約350マイルなので、マイルストーンが350個くらい建っていたわけです。

 ローマ中にマイルストーンはいったい全部で何個あったのでしょうか。Wikipediaによると主要幹線道路が約8万6千kmなので、そこに5万8千個のマイルストーンがあったことになります。数が多いだけに残されているものも多いようですが、アッピア街道の第1マイルストーンからしてこれですから、他のものがガイドブックなどに載っているわけもなく、ありかがわかりません。

 以前テレビで、ある農家が近くにあったマイルストーンをたくさん集めてきて牛小屋の柱にしているのを見たことがあります。それほどたくさん、無造作に放置されているのです。ネットの情報をなどを頼りにいろいろ訪れてみたいと思っています。

訪問ガイド

 第1マイルストーンを訪れるにはサン・セバスティアーノ門を目指します。

 直接行く場合、地下鉄や鉄道駅は近くにないので、バスで訪れることになります。中心地からならコロッセオからバスが通じています。バス停は Porta S. Sebastiano。

 徒歩で行く場合、上に書いたアッピア街道以外に、地下鉄B線のピラミデ駅(Piramide)、またはイタリア鉄道(旧国鉄)のローマ・オスティエンセ(Roma Ostiense)から、アウレリアヌス城壁に沿って歩くルートもあります。ちなみに起点の2つの駅と、オスティア・アンティカ遺跡に行くローマ=リード鉄道線のポルタ・サン・パオロ駅(Porta S. Paolo)は、名前が違いますが同じ場所にあります。実は私はオスティア遺跡からの帰りにこのコースで訪れました。

 第1マイルストーンは、サン・セバステアーノ門の正面に伸びる道を100mほど進んだ右手にあります。このマイルストーン、観光地としては全くメジャーではなく、看板などもありませんし、壁のくぼみに半分埋もれているので、注意しないと見落としてしまいそうです。

 この道は狭いのに結構交通量があって、車やバスが飛ばして通ります。しかもマイルストーンは歩道と反対側にあるので、とにかく気をつけましょう。石畳なので車が通る時に大きな音がして余計怖く感じます。ローマ時代も主要街道なので交通量は多かったはずですが、もっとのんびりしていたでしょうね。そんな環境なので、のんびりと過去に想いを馳せる、なんていう雰囲気ではないのがちょっと残念です。

 それでも本来あった場所にあるのを見るのは、たとえレプリカであっても、いろいろ想像が湧いて楽しいですね。

このときは本当はここから起点のカペーナ門方面に逆コースで歩きましたが、2018年5月2日に再訪し起点からこちらに向けて歩きました。
関連記事⇒ アッピア街道・起点のカペーナ門からチェチーラ・メテッラの墓まで(イタリア)

更新履歴

  • 2018/4/15 新規投稿
  • 2019/7/30 再訪を追記。
  • 2021/4/10 冒頭の地図を修正。

古代ローマの橋の多くは徒歩でしか渡ることができません。貴重な遺跡なんだから当然ですよね。歩いて渡るのも多くは観光客で、生活のための橋ではなくて観光施設です。
でもここアルカンタラ橋は道路の一部として生きています。しかも車で渡ることもできます。


旅行記はこちら⇒ 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

生きている橋

 この橋は、ここイベリア半島出身の皇帝トラヤヌスの命により106年に完成しました。1900年前に造られた橋が今だに生きて使われていると思うと、なんだかワクワクしてきます。自動車が渡るのを見たときには、興奮で体が震えました。

 古代ローマの時代にここを通っていたのは、属州ルシタミアの州都アメリタ・アウグスタ(現在のメリダ)と、同じ属州ルシタニアに属す大西洋岸に近いコニンブリガを結ぶローマ街道です。コニンブリガはコインブラの近くに遺跡として残っているだけですが、当時は大都市でした。今ではこの道は主要ルートではなくて交通量も少なく、丘陵地帯を行くのどかな田舎道という感じです。

一番高い橋

 アルカンタラ橋は残っている古代ローマ橋の中で一番高い橋です。高いところが苦手な私は、橋の中央から下を覗けませんでした。なにしろ橋の上は川から45m。ビルの15階の高さです。

 写真というのは深さや高さを表すのが苦手ですが、ここを写した写真もまさにそう。写真から受けるこじんまりした感じと、現地で感じる高低差の実感とは、相当乖離があります。ほんと怖いです。

 中央に凱旋門のようなアーチがあります。写真で見るとさほどの高さには見えませんが、実際にはその路面からの高さは14m、5階建てほど。それを踏まえて改めて橋全体を見てみると、橋がいかに高いかがわかります。

渡る

 橋の路面は石畳です。幅が6mもあるので、車が楽にすれ違えます。幅が広くて下は見えないので、そんなに高いところを渡っているという感覚はありません。

 橋の中央アーチの上部に文字の刻まれた銘板がはめ込まれていますが、ここに書かれているのは橋のスポンサーであったトラヤヌス帝の名です。

 過去に3度、戦略上の理由により橋の一部が破壊されたそうです。13世紀のレコンキスタ中、17世紀のポルトガル王政復古戦争、19世紀のスペイン独立戦争のときのことですが、いずれも後に修復されました。アーチの左右にある白っぽい銘板には、1543年にアーチを再建したスペイン国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)と、1860年に橋を再建したイザベル2世の名が刻まれています。

 東側の橋のたもとにはこじんまりとした神殿が建っています。橋と同時に造られたもので、橋を作った建築家 Gaius Julius Lacer が葬られているそうです。

 西岸に橋を見下ろすように建つのはトッレ・デル・オロ Torre del Oro、黄金の党。18世紀に建てられた見張り塔です。

タホ川

 アルカンタラ橋が跨いでいるのはタホ川です。アルカンタラ橋を訪れた6日後にはるか東、マドリードにほど近い古都トレドを訪れたのですが、この街を取り囲む川が同じ川だということに気付いたのは、旅が終わって1年以上経って旅行記を書いていたときでした。

 タホ川はマドリードの近くに発し、トレドを経て西進してアルカンタラに至ります。その先でしばらくスペイン、ポルトガル国境となり、ポルトガルではテージョ川と名を変え、リスボンで大西洋に注ぎます。イベリア半島最長の川です。

訪問ガイド

 ここを探すには「アルカンタラ」という街の名で検索しましょう。「アルカンタラ橋」を検索するとトレドにあるその名の橋が出てきます。トレドはここから東に300km。間違えたらアウトです。ちなみにトレドのアルカンタラ橋も古代ローマ時代に造られた橋です。

 車だと高速道路が通るカサレスから1時間ほど。アルカンタラの街を通り過ぎて坂を下るとアルカンタラ橋があります。街から歩いて下る道もつけられています。

 アルカンタラ橋は観光地という雰囲気は全くありません。知らずに通ったらこんな貴重な遺跡だとは全く気づかないでしょう。

 アルカンタラ橋を越えて進むと18km、20分ほどで、スペイン・ポルトガル国境の Erges川に架かる 橋に着きます。途中は畑だか牧草地だかわからない乾燥した殺風景な丘陵地帯で、国境地帯で行き来も少ないのか車も少なく、人気が全くありません。

 橋のちょうど真ん中にスペインとポルトガルの境目を表わす看板が取り付けられています。こういうのがあるとここをまたいで写真を取ってしまいますね。以前テレビ東京の「地球街道」という番組で近藤正臣さんがここを訪れ、「どうしてもこうしたくなっちゃうよね」と言いながら同じことをしていました。人間の性ですかね。

 実はこの橋も古代ローマの橋で、アルカンタラ橋と同じく2世紀に造られたものだったのです。でも説明の看板も何もなく、ここを通った時には古代ローマの橋だと気付きませんでした。

 橋の上からはポルトガルの村セグラが見えます。

 車ならすぐそこ。石畳の狭い道をそろそろと登っていったのですが車を停めるところがないので、村の外の道路沿いに車を停めて歩いてみました。お茶でもしようかと思いましたが、それらしい店は見当たりません。それどころか人の気配がまるでしません。

 村の一番高いところに登ると先ほどのローマ橋が見えました。辺りには荒涼とした風景が広がります。国境のどん詰まりの村ですが、ポルトガル方面から最新式の大型バスが通ってきていたのが意外でした。

 ちなみに近藤正臣さんはこの村も訪れていました。

 古代ローマ遺跡巡りのマニアックなものででもない限り、ツアーで訪れることはまずないこのアルプスのトロフィー。またの名を「アウグストゥスのトロフィー」といいます。古代ローマは劇場といいテルマエといい規格化したものをあちこちに造っていきましたが、これは他にはない独特なものです。


旅行記はこちら⇒ 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

トロフィーという名ですが

 トロフィーというと一番なじみがあるのはサッカーワールドカップのものでしょうか。名前だけ聞くと、どこかの博物館にそのようなものが展示されているのを連想してしまいますが、まるで違います。

 このアルプスのトロフィーは建物です。

 トロフィーというのは勝者を称えるために贈られるものですが、アルプスのトロフィーは、アウグストゥスがアルプスに住む45の部族を平定したことを称えて紀元前6年に元老院から贈られたものです。

アルプスの平定って何?

  ところでここで讃えられているアルプスの部族の平定って何でしたっけ?

 既にカエサルがアルプスの向こう側のガリアを征服しているのに、その手前のアルプスを平定するというのがどうにもピンときません。どうもアルプスの山中にはまだ従わない部族がいたということのようですが、よくわかりません。

 アウグストゥスはエジプトを領土に加えたほか、イベリア半島や今のルーマニアなど外側に領土を拡大してローマ帝国の形を作ったといえます。それに比べローマからほど近いアルプスの平定というのは地味に感じてしまいます。

 しかしアルプスのトロフィーは一辺35m、高さ61mとかなり巨大です。アルプス平定が相当な重みを持っていたものと想像されます。

​独特な形

 戦勝記念というとよくあるのは凱旋門です。アウグストゥスに捧げられたものも当然あって、リミニにある紀元前27年に作られたものを始めいくつか残されています。しかしアルプスのトロフィーは凱旋門とは似ても似つかない形をしています。

 残されているのは3分の1ほどなので元の形がわかりにくいのですが、すぐ脇の小さな博物館に復元した模型が置かれていて、かつての姿がわかります。それによると、四角い基壇の上に円形の神殿が載ったような、ちょっと他には見当たらない独特な形です。

 神殿や霊廟に部分的に似たようなものはあります。

 例えばフォロ・ロマーノのヴェスタ神殿は円形で周りに柱が建っており、アルプスのトロフィーの上層と似ています。しかしこうした神殿は基壇部分から円形です。

 似たような2層の建物としては、当時既に世界七不思議として存在していたアケメネス朝ペルシアのマウソロス霊廟があります。ただこれは2層目が四角形なので見た目の印象はだいぶ違います。アメリカ、ニューヨークにあるグラント将軍ナショナルメモリアルは、そのマウソロス霊廟に倣って造られたらしいのですか、第2層が円柱なので、むしろアルプスのトロフィーにそっくりに見えます。

 いずれにしても先行する建造物に同じようなものがなく、なぜこの形なのか解りません。

 ちなみにアウグストゥスの霊廟はローマのテベレ川近くにありますが円形で、アルプスのトロフィーとは全く形が違います。その霊廟は紀元前28年、アウグストゥス35才のときに自ら建造したものです。アルプスのトロフィーはそれよりだいぶ後の紀元前6年、57才のときに造られたもので、その頃には友人であり腹心でもあったアグリッパもマエケナスも既にこの世の人ではありませんでした。唯一無二の存在であるアウグストゥス、友を失い寂しい老皇帝への贈り物として、他にはないものを贈ったのでしょうか。

ここはアルプス

 ところでアルプスでのできごとの記念碑がなぜ海に面したこの場所に建てられたのでしょうか。

 アルプスというと私が思い浮かべるのはアイガーやマッターホルンで、イタリアの北にあるイメージです。でも調べてみたらアルプスはそこから更に南西の方角に伸びていて、最後はイタリア・フランス国境の辺りで海に落ち込んでいるのでした。Googleマップの航空写真を見てもアルプスが海に達しているのがわかります。つまりトロフィーの建つここはアルプスの一部なのです。「マリティム・アルプス(Maritime Alps)」という呼び名も付いていました。

 紀元前13年にピアチェンツァからここまでユリア・アウグスタ街道が造られました。後に街道はアルルまで延長され、ドミティア街道に合流してスペインに至る重要なルートになります。しかし紀元前6年にこのトロフィーが造られた当時、街道はまだ行き止まりでした。このトロフィーが多くの人の目に触れることは期待できなかったはずです。

 アルプスのトロフィーは地中海を見下ろす崖の上に立っています。ということは地中海を行く船から白く輝いてそびえ建つこのトロフィーはよく見えたはずです。おそらくこのトロフィーは、海を通る人々に見せるために造られたのでしょう。地中海を制圧したローマが、海上を行く船にその力を見せつけるためのものだったのではないでしょうか。

対面

 入場料を払って中に入り、丘を巻くように登っていくと、眼下にモナコの街を臨みます。高層建築が建ち並び、港にはたくさんの船があるこの海岸沿いの一画だけが別の国なのですから、不思議な感じがします。

 ここから東の方にかけてかなり急な崖が海に迫っているのがわかります。これがアルプスの端っこなのですね。こんな急な崖なのに、ヤギが草を食べていたのには驚きました。いったいどこに住んでいるのでしょうか。

 さらに登るとトロフィーが現れますが、最初に目にする側はかなり崩れていて、元の形は全く想像がつきません。

 向こう側に回ると1段目が綺麗に復元されていて、巨大な銘文に文字が彫られているのが見えます。

 南面には階段が付けられていて、登ると2段目の円形の壁とそれを取り巻く円柱を間近に見ることができ、巨大さが実感できます。

 トロフィーの傍の博物館に復元模型やアウグストゥスの像、発掘されたものが置かれています。復元模型を見てから改めて実物を見ると、かつての姿が想像できます。てっぺんにはアウグストゥス像が立っていたそうで、何とも不思議な建物だと感じます。

訪問ガイド

 アルプスのトロフィーはラ・テュルビー La Turbie という町にあります。イタリア国境に近く、ニースの近く、海外沿いの小国モナコの真上にあります。

 私は車で西のエクス・アン・プロヴァンスから高速道路を通って来ましたが、町は La Turbie出口を出てすぐでした。ニースまでは斜面に付けられた緩やかな坂道を下って15kmほどです。モナコからも道路は通じているようですが、急斜面なので運転に自信がない方は避けた方がいいでしょう。ちなみにこのモナコへの道は、グレース王妃が運転中に脳梗塞を起こして車が崖から転落し、命を落としたところです。

 トロフィーは町の中心から見上げた丘の上に建っています。入口は北側にあり、そこまで車道が通じていて駐車場もあります。私はそれを知らずに大通りに面した町の中心にある駐車場に車を止めたのですが、町中の細い坂道を登って行ったらトロフィーの外側を囲う壁に突き当たり、閉門時間が近いのに入口がわからずかなり焦ってうろうろ探し回りました。車でアルプスのトロフィーを目指すなら、入口まで直行した方がいいでしょう。

 ただし町中の細い坂道を歩くこと自体はお勧めです。小じんまりとしたレストランや小物を売る店があったり、かつての城壁らしきものが建物と一体化していたり、見ていて飽きません。

 西に5kmほどのところにあるエズという町は鷹の巣村として知られ、一般的にはこちらの方がはるかに有名な観光地です。私が訪れたときはエズのホテルに泊まりましたが、ニースのような都会に泊まるよりゆったりできていいですよ。

「パンとサーカス」という言葉が表す通り、古代ローマでは市民に娯楽が潤沢に提供されていました。そのなかでも演劇は重要な要素で、都市には必ず劇場があります。今でもイタリアはもちろん、ヨーロッパ各地、そしてアフリカ、中近東まで数多くの劇場が残っています。中でも南仏オランジュの劇場は昔の姿をとてもよく残していて、古代ローマ劇場がどんなものだったかをこの目で確かめることができます。


旅行記はこちら⇒ 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

劇場のかたち

 首都ローマの中心地にマルケッルス劇場というのがあります。古代ローマの劇場の中でおそらくいちばん有名で、実物を見た人も圧倒的に多いでしょう。でもマルケッルス劇場は後世に要塞、そして今では住宅に転用されてしまいました。古代遺跡がアパートになっていて普通の人が住んでいるというのは、これはこれでとてつもなく面白いものの、元の劇場の姿を想像するのは不可能。下手をすると現代のような屋内の劇場をイメージしてしまうかもしれません。

 これに対してここ南仏オランジュの劇場は古代の姿を見事にとどめています。すり鉢を断ち切ったような観客席に舞台、という野天の劇場です。まあこれはどこかで見たことがあるでしょう。

 しかし実際に行ってみて一番目につくのは、舞台の後ろにそびえる分厚い壁です。この壁も古代ローマ劇場のなくてはならない要素なのです。

 劇場に近い駐車場に車を止めたときから、3階建ての町並みの上になにか飛び出しているのが見えていました。地図を見ながら劇場に近づくと、先ほどから見えていたそれは、まるで巨大な要塞の外壁のようにがっしりとそびえ建っています。劇場の中に入って初めて、それが劇場の一部をなすものだと気付きました。

 すり鉢の底から見ると、この壁が圧倒するような存在感で迫ってきます。

 舞台の上では演劇をやるのですから、背後を遮るものが必要で、そこに壁があるのはわかります。でもこの大きさと造形は単なる「背景」というレベルをはるかに超えています。壁の高さは37m。12階建てマンションに相当します。

 よく見ると形が結構複雑です。2〜3層に見えますし、デコボコしていてくぼみがたくさんあります。中央上部の大きなくぼみにはどこかで見たことがあるような像が見えます。わずかに神殿のような円柱も見えます。

 この壁は、当時大理石に覆われていたそうです。白く輝き装飾された壁は相当迫力のある光景だったでしょうね。

観客席を登ってみる

 観客席の石段を登って最初の水平な通路で舞台を振り返ると、この壁に包み込まれるような感覚になります。写真を撮ろうとしても、舞台や壁のごく一部しか画面に収まりません。

 2番目の通路まで登ってみます。ここからだと壁の中央の大きなくぼみ、壁龕といいますが、ここに置かれた像がよく見えます。右手を上げたあの姿、あれはやはりアウグストゥス像ですね。アウグストゥス像は高さ3.55mもあるそうなのですが、そこまでの大きさに感じないのは、壁自体が巨大だからですね。この劇場はアウグストゥスの治世に造られたもので、つまりできてから2000年経っています。

 この像は1951年に発掘されてここに置かれました。大きさがピッタリ合っているので、たしかにここに置かれていたのでしょう。他にも小さな壁龕が数多くありますが、かつてはこれらにも神像などが置かれていたそうです。

 3段目の通路まで登ってきて初めて、劇場の全体を見渡せるようになります。でもここでも写真で全体像を入れるのは無理。それほど巨大なのです。

 観客席の上の方の通路の端からは、背後の岩山が見えます。実はこれがローマの典型的な劇場と違う点です。ギリシャの劇場が自然の地形を利用して観客席を作っていたのに対して、古代ローマの劇場は最初のポンペイウス劇場以来、平地に石とコンクリートで建てています。これによってどんなところでも自由に劇場が作れるようになったわけです。しかしここは自然の岩山を利用して観客席を作っています。たぶん、たまたま都合のよいところに岩山があったので利用したのでしょう。

観客が最初に目にするもの

 観客席の裏側の通路にも入ることができます。

 通路の暗がりから観客席に出ると、正面に大理石で白く輝く壁が視界を埋め尽くし、そしてその中央にはこれまた白く輝く巨大なアウグストゥス像が、こちらに片手を上げています。

 これは征服したガリアの人たちにローマの力を見せつけるためだと、最初は思っていました。

 しかしどうもそうではなさそうです。オランジュは紀元前40年に第2軍団アウグスタの退役軍人の入植地として建設された都市で、当時第2軍団アウグスタを率いていたのはオクタビアヌス、つまり後のアウグストゥスでした。退役軍人たちはかつての自分たちのリーダーの姿をここで目にしたわけです。勝利したがゆえにここでこうして観劇をしているわけで、感謝の念と自分たちの誇りを新たにし、心豊かな余生を送ったのではないでしょうか。

訪問ガイド

 オランジュは南仏プロバンスの人口3万人ほどの小都市です。古代ローマ劇場はこのオランジュの街の中心部にあります。

 車ならローマ劇場の南東にある公共の地下駐車場に車を止めれば、歩いて5分ほどです。

 駅は東にやや離れていますが、歩いて15分ほど。在来線の駅で、パリから行く場合はTGVでアヴィニョンまで行き、在来線で戻るのが一番早いようです。TGV専用線は郊外を通っていて駅はないのですが、朝、夕の2本だけ、パリから在来線のオランジュ駅に直接乗り入れるTGVが運行されています(2018年2月現在)。

 ローマ劇場から北に15分ほど歩くと凱旋門があります。これも見事なものですから、ぜひ一緒に見ておきましょう。

名前が面白いこともあって知名度はバツグンです。ヤマザキマリさんの漫画で「テルマエ」いう呼び名がすっかり有名になりましたが、カラカラ浴場はそのテルマエの代表と言っていいでしょう。でも単なる「公衆浴場」と思ったら大間違い。ツアーにも組み込まれていて行ったことのある人も多いと思いますが、その実態を知っている人は少ないかもしれません。


旅行記はこちら⇒ 旅行のクチコミと比較サイト フォートラベル

公衆浴場というのは間違いではありませんが

 カラカラ浴場は公衆浴場です。もちろんこれは間違いではないのですが、単なる風呂屋ではありませんし、現代のスパやスーパー銭湯とも違います。

 それを象徴するのが図書館。なんとここには図書館があったのです。ギリシア語の書物用とラテン語の書物用の二つの同じ大きさの部屋がありました。他にも談話室や礼拝所、体育館のような運動するスペースや50mのプールがありました。

 もちろん浴場ですから浴室があります。中央に7つの浴槽を備えた巨大な冷室があり、2つの浴槽を備えた温室、4つの浴槽を備えた丸い熱室、そしてサウナと、とてつもない規模です。

過ごす

 入り口で料金を払って入場すると、広い敷地の真ん中に巨大な建物の残骸があります。

 この中央の崩れかけた建物がカラカラ浴場だと思っている人が多そうですが、今通ってきた入り口のある外壁とその中に広がる広大な空間もカラカラ浴場の一部なのです。外壁は一部回廊になっていて、図書館や談話室はこの部分にあります。食事を提供するところもあったようです。

 崩れ落ちて発掘されたモザイクのかけらが飾られていますが、かつては大理石の床にモザイクの壁、そして彫像が飾られて、ビカビカに輝く芸術品に取り囲まれた空間でした。

 このような設備を見ると、ここは「過ごす」場所と言った方が良さそうです。ローマの人々はここで運動し、入浴し、散歩し、読書し、議論し、芸術を鑑賞し、食事をして、満ち足りた時間を過ごしたのです。

市街のはしっこ

 カラカラ浴場はフォロ・ロマーノやコロッセオからは少し離れたところにあります。ローマの市街地の南のはずれといったところ。

 当時だってあまり便利な場所ではなかったはずで、市民の評判がどうだったのか気になります。

 でもカラカラ浴場が姿を留めているのはこの不便な立地のためでしょう。ローマの中心部にはカラカラ浴場より200年以上前に建てられた、テルマエの起源であるアグリッパ浴場や、カラカラ浴場から100年後に建てられたディオクレティアヌス浴場がありましたが、原型を留めていません。カラカラ浴場は周辺が再利用されなかったから形が残っているのでしょう。

 とは言っても建物はかなり崩れていて、残念ながら元の姿を想像するのはほとんど無理。何しろ天井がありません。かつては壁を白く輝く大理石が覆っていましたが、他の遺跡同様にそれも持ち去られてしまってほとんどありません。崩れた壁の上にはたくさんの鳥がとまっていて、一層廃墟感を増していました。

訪問ガイド

 最寄り駅は地下鉄B線のチルコ・マッシモ駅(Circo Massimo)。

 コロッセオから2.3km、20分ほどで歩いて行けます。フォロ・ロマーノやコロッセオ、真実の口などの定番スポットとセットで訪れるのが効率よいでしょう。ただしカラカラ浴場だけぽつんと南に離れているので、工程に組み込みにくいのが難点です。

更新履歴

  • 2018/4/15 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。