事件現場、ポンペイウス劇場(イタリア)
ローマでポンペイウス劇場といってもガイドブックに出ているわけでもなく、知る人は少ないでしょう。
それもそのはずで、劇場の形をなしていない、どころか、跡形もないと言っていい状態です。 しかしポンペイウス劇場は歴史上とても有名な事件の舞台となったところなので、そのかすかに残る痕跡をたどると当時の人々の息遣いが聞こえるような、不思議な実感が湧いてきます。

不自然な形の路地
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の北から西に向かって伸びるヴェットリオ・エマヌエーレII世通り(Corso Vittorio Emanuele II)沿いに、あまり目立たないサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(Sant’Andrea della Valle)があります。通りの北側にはパンテオンやナボーナ広場があって観光客が行き交っていますが、南側は建物がぎっしり立て込んでいてこれといった名所はありません。
この教会の脇の路地を南に入ると、やがて右斜め前に分岐する路地が現れます。

路地は大抵は直線ですが、この道は大体同じような調子で左にカーブしていて、両側の建物まで弧を描いています。

さらに進むとほぼ180度向きを変えて、元の道の延長線上で再び合流します。

この不自然なカーブが実は、古代ローマのポンペイウス劇場の名残なのです。
古代ローマの劇場は舞台の正面に半円形で階段状の観客席が向き合う形です。カーブした路地や建物は東側を向いていたこの観客席部分です。
古代ローマの建築はとてつもなく頑丈なので、建物や土台が再利用されているところが少なくありません。ここはポンペイウス劇場の観客席の半円形の部分の上に建物が建てられているためにこんな形をしているのです。
カーブした道の外側にあるホテル テアトロ・ディ・ポンペオ、つまりは「ホテル・ポンペイウス劇場」というそのまんまの名前のホテルは、今では地下になっている劇場の観客席の下のカマボコ型天井の空間をレストランに使っているそうです。
左側の半円形の部分が観客席。そこから右手の道路の向こう側まで広場がありました。
赤線が建物や道路の形で残っている半円形の観客席、劇場の舞台や広場が青線の範囲に広がっていました。
ポンペイウス劇場で起きた有名な事件
ここで起きた有名な事件というのはカエサルの暗殺です。
英語読みのジュリアス・シーザーでシェークスピアの劇にもなったこの人は、間違いなく古代ローマ一番の有名人でしょう。「賽は投げられた」や、まさにこの暗殺された時の「ブルータスお前もか」という言葉も有名です。好き嫌いはあっても、今のフランス、イギリスを征服し、後継者に初代ローマ皇帝アウグストゥス (オクタヴィアヌス)を指定して、ローマがその後も長く続く礎を築いた功績は否定のしようがありません。
カエサルが暗殺されたのは元老院議場でした。フォロ・ロマーノにはカエサルその人が建設した元老院議場「クリア・ユリア」が残っているので、そこが暗殺の舞台だと思っている人も多そうです。おまけにすぐ近くには、今でも花が絶えないカエサルを祀る神殿跡までそろっているので、勘違いしたとしても致し方ありません。 しかし当時フォロ・ロマーノの元老院議場はカエサルが建て替えの最中で未完成でした。そのためポンペイウス劇場が臨時の元老院議場となっていたのです。つまりカエサルは元老院に出席するために臨時の元老院議場であったポンペイウス劇場を訪れ、そこで暗殺されたわけです。
この劇場を建てたポンペイウスは東方を征服した古代ローマの英雄で、かなり人気がありました。 ポンペイウス劇場が完成した紀元前55年当時、カエサルとポンペイウスは三頭政治と言われる密約で表面的には協力し合っていましたが、後に対立します。ポンペイウスはファルサルスの戦いでカエサルに敗北し、その後エジプトの裏切りに会って殺害されました。 そしてそのポンペイウスの造った劇場でカエサルが暗殺される。何か因縁を感じてしまいます。
しかもカエサルはポンペイウス像の足元に倒れたとされています。さすがにそれは出来過ぎな気がしますが。
ポンペイウス劇場は舞台の背後、方角でいうと東側に列柱が立ち並ぶ広大な長方形の広場がありました。この広場こそ元老院が開かれていた場所、つまりカエサルが殺された場所です。今では建物に埋め尽くされていて当時を偲ぶのは難しいのですが、紀元前44年3月15日にここにカエサルが立ち、対立者たちにめった刺しにされたのだと思うと、生々しい実感が湧いてきます。
ローマ劇場の元祖
ポンペイウス劇場はローマで初めての常設の劇場でした。それまでの劇場は上演が終わったら取り壊す木造のものだったのです。
軟弱だとして禁止されていたとか(だったらなぜ一時的ならいいのか?)、独裁者を出さないように禁止されていたとか(だったらなぜポンペイウス劇場は認められたのか?)とか説明されていますが、何が本当かわかりません。ただこのポンペイウス劇場が初めての常設劇場だったことは確かです。
古代ギリシアの劇場は自然の斜面や窪地を利用してすり鉢型を造りましたが、ここポンペイウス劇場は平らな土地に建てられました。現代の競技場や野球場と同じ造りです。劇場を作るのに場所の制約がなくなったわけで、その後各地のローマ劇場の多くが平地に建てられています。
ローマ街道や水道も自然の地形を利用するよりトンネルや橋で強引に通していたのと同じ精神でしょう。
劇場の全体像
劇場と一体の広場は広大で、東端は東にある通りの向こう側のトッレ・アルジェンティーナ広場にまで達しています。
トッレ・アルジェンティーナ広場は神殿が発掘されたところで、当時の地面が3〜4m下に見えています。今は地下にあるホテル テアトロ・ディ・ポンペオのカマボコ型天井の空間も、当時は地上にあったことがわかります。
元の姿を偲ぶには今も形を留めているものを見るのが一番です。
よくローマ劇場の代表的なものと言われるのが南フランスのオランジュにあるローマ劇場で、残存状態はとてもよく、内部の構造と舞台背後のとんでもなく高い外壁はこれを見て想像することができます。ところがここでは自然の小山を利用して観客席が作られているので、観客席の背後の円形の外壁が存在しません。

観客席の円形の外観を想像するならマルケッルス劇場やコロッセオがいいかもしれません。でもこれらは円形なので全体像はやはり違っています。
舞台の背後に列柱廊が連なっている姿は、残念ながら似たものがありません。
結局のところ元の全体像を想像するのはとても難しいですね。
残骸
ポンペイウス劇場は6世紀まで劇場として使われていました。
ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びたのが476年なので、それからもしばらく使われていたわけです。しかし6世紀半ばに東ローマ帝国と東ゴート王国がイタリアで戦ったゴート戦争でローマの人口が激減したためついに使われなくなり、崩壊が始まりました。
ルネサンスの頃、新たな建造物を飾るために古代ローマの建築物から大理石やトラバーチンが剥がされ持ち去られていきましたが、ここポンペイウス劇場から持ち去られたものが今では近くにあるカンチェッレリア宮を飾っています。トラバーチンが外壁に、観客席を支えていた赤っぽい円柱が中庭の周囲に使われています。
行き方
ナボーナ広場の南方、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世記念堂の北から西に向かって伸びるヴェットリオ・エマヌエーレII世通り(Corso Vittorio Emanuele II)の南側です。
目印は通りの南にあるサンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会(Sant’Andrea della Valle)です。教会の西側の通りを南下すると右斜め前に分岐する路地があり、これが観客席跡の半円形の道路です。
更新履歴
- 2019/5/23 新規投稿
- 2021/3/17 劇場の位置の説明図を追加。また場所の記載を修正し、行き方を追加。
- 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。
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