アウグストゥス廟―初代皇帝の墓はとても地味(イタリア)
アウグストゥスが好きです。でもアウグストゥス は一般にはあまり人気がないのです。その墓であるアウグストゥス廟も観光地としては無名で、地球の歩き方でもおすすめ度を現わす星が一つもついていません。でもアウグストゥス・ファンにとってここは聖地です。
地味な遺跡
アウグストゥス廟は古代ローマの中心地であるカピトリーノの丘やフォロ・ロマーノの北方、テベレ川の近くにある円筒形の建造物です。周囲を5階建ての公共建築や店舗のビル、教会などに取り囲まれていて、近くに行かなければ見ることができません。
傍らに立つと手前に低い石垣があり、中央に周囲のビルや教会より少し低い崩れかかった円筒形の茶色い壁が見えます。あるのはそれだけで、廃墟としかいいようがありません。巨大な偉容を見せるコロッセオや、教会として使われていたため今も整備されているパンテオンから受けるようなインパクトは微塵もなく、そもそも説明されなければなんだかわかりません。歴史に興味のない人がこれを見て興味を抱くことはまずないでしょう。
言うまでもありませんが、アウグストゥスといえばローマ帝国の初代皇帝で、東ローマ帝国が滅びるまで1,500年間も続いた帝国の礎を築いた人です。世界史で誰もが学んでいるはずで、「オクタビアヌス」という名で認識している人も含めれば知名度は抜群なはずです。しかし残念ながら印象が地味で一般にはあまり人気がありません。義父のカエサルが派手派手なエピソードに彩られていて人々を惹きつけ、フォロ・ロマーノにあるカエサル神殿に今も花が絶えないのとは対照的です。
見た目がおそろしく地味で被葬者も人気がないので、アウグストゥス廟は観光地としては一般には無名で、観光ガイドにもあまり載っていません。小さなものも網羅している「地球の歩き方」にはさすがに載っていますが、おすすめ度を表す星は一つもついていません。(おすすめ度は黄色い三ツ星、緑の三ツ星、二つ星、一つ星、星なしの5段階です。)
当初の姿
当たり前ですが最初からこんな廃墟だったわけではありません。
紀元前7年、廟が完成した21年後という早い時期に、ストラボンという地理学者がその様子を「地理誌」に書き残しています。それによると、白大理石造りの基壇の上に常緑樹の茂みに覆われた土墳があり、頂きにアウグストゥスの像が載っていたといいます。白と緑のコントラストが美しい壮大な建造物だったことでしょう。
白大理石作りの基壇というのは、おそらく傍らに立つとすぐ近くに見える一番外側の壁です。この壁は今は立っている地表面から2mくらいの高さしかありませんが、テベレ川に近いこの辺りは2000年の間に土砂が厚く積もっていて、当時の地表面は4mくらい下にありました。つまり元はこの壁が聳え立っていて、その外側に大理石かトラバーチンが貼ってあって白く輝いていたのでしょう。
コロッセオを始めほとんどの古代ローマの建造物はかつて大理石やトラバーチンに覆われて白く輝いていました。他ならぬアウグストゥスが自分の成果として、「ローマをレンガの町として引き継ぎ大理石の町を残した」と言ったとスウェトニウスの「ローマ皇帝伝」に記されています。しかし大理石やトラバーチンはルネサンス期以降に建築や彫刻の材料とするために取り去られてしまいました。
現在中央部に見える外側から2番目の壁との間に土が盛られ、木が植えられていたものと思われます。当時のものではないでしょうが、今もここには木が立っています。
そして航空写真を見ると、外から見える2重の壁の内側に、更に2重の円形の壁があるのがわかります。
外から3番目の壁は建物を支えていた壁と思われます。頂上にあったというアウグストゥス像は周りから見えるようになっていたはずなので、おそらく3番目の壁の上の建物は木の上まで達する高さで、その頂上にアウグストゥス像が載っていたのでしょう。
一番内側の壁は周囲に壁龕(くぼみ)があり、骨壷を収める埋葬施設だったと考えられています。骨壷や遺骨は残念ながら失われてしまいました。410年のアラリック率いる東ゴート族のローマ略奪で破壊されたそうです。
現在外から中央に見る外側から2番目の壁の高さは周囲の建物の4〜5階位でせいぜい10数mほどと、特に高いものではありません。しかし4mくらい下にあった当時の地表面から、今はない中央の神殿の頂点までの高さは42mほどもあったといいます。42mというとマンションの14〜5階に当たります。コロッセオが高さ48mなので、アウグストゥス廟はこれに迫る高さで聳え立っている大迫力の建造物だったのです(コロッセオ付近の地表面は当時とほぼ同じ。)
廟の南側にアーチ状の入り口がありました。航空写真で手前に見えるのが入り口とそれに続く通路です。入り口の外側には左右にはオベリスクが建てられていました。
中世には城に転用されたものの12世紀には廃棄されて放置され、それでこんな無残な姿になってしまったのです。20世紀になってムッソリーニが整備し、周辺の家屋を取り壊しました。2016年から修復工事が行われ、2021年に第1次の修復が完成しました。
復元図と当時の姿を連想させるもの
現在は4重の壁が残っているだけで、ストラボンの記述も簡単なので当初の正確な姿はわからず、様々な想像を交えた復元図が発表されています。2018年に訪れたときに復元工事中の現場を囲む壁に復元図が描かれていましたが、おそらくこれが発掘などの最新情報を反映しているものと思われます。
アウグストゥス廟に近いテベレ川の対岸に、サンタンジェロ城という同じような円筒形の建造物があります。もともとはこれも墓で、アウグストゥス廟から160年ほど後に皇帝ハドリアヌスが造ったものですから、当然アウグストゥス廟の影響を受けているはずです。大きさもサンタンジェロ城が直径70m、高さ40数m、アウグストゥス廟が直径60m、高さ42mですから似たようなものです。
川の対岸から見るサンタンジェロ城はそびえ立っているという印象を受けますが、かつてのアウグストゥス廟も同じような印象だったのではないでしょうか。頂上に像が載っているところも同じです。(今サンタンジェロ城の頂上に載っているのは天使像で、これが現在の名前の由来ですが、かつてはハドリアヌスが戦車を牽く像が載っていました。)
アウグストゥス廟の復元図では、中央部に円柱に囲まれた円形の神殿のようなものが載っています。似たようなものにローマのフォロ・ボアリオにあるヘラクレス・ウィクトール神殿や、フランスにあるアルプスのトロフィー(アウグストゥスのトロフィー)があります。アウグストゥスのアルプス平定を記念したアルプスのトロフィーも、頂上にアウグストゥス像が載っていました。
入り口の左右に建てられていたオベリスクは地中から掘り起こされ、現在は別の場所にありますが現存しています。一本は16世紀に発見され、テルミニ駅に近いサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の裏側の広場に、もう一本は18世紀に発見され、大統領官邸であるクイリナーレ宮殿の前の広場の噴水の上にあります。表面に碑文が彫られておらず、エジプト産の石材を使ってローマで造られたものと考えられています。
アウグストゥス廟は、紀元前350年に造られて世界七不思議に挙げられたハリカルナッソスのマウソロス霊廟、エジプトのアレキサンドリアにあったアレクサンダー大王墓に影響を受けた、とかそれらを模したとも言われます。しかしマウソロス霊廟は建物が残っていない廃墟、アレクサンダー大王墓の方は場所さえ不明で、類似点がどれほどのものかは全くわかりません。
立地
アウグストゥス廟が建つのはかつてローマを取り囲んでいたセルウィウス城壁の外で、カンプス・マルティウス(マルスの野)と呼ばれていたエリアです。ローマの発展に伴い市域は城壁外に広がり、カンプス・マルティウスも開発されていきました。アウグストゥス廟ができた紀元前28年当時には、カピトリーノの丘に近い南側にポンペイウス劇場が既に存在していました。(紀元前44年3月に元老院の臨時の開催場となり、カエサルが暗殺されたのはこのポンペイウス劇場です。)
しかし先程のストラボンによると霊廟の周辺は広い杜でした。周りに何もないところにサンタンジェロ城のような巨大な建物がそびえる立っているというのが、当時の人の目から見たアウグストゥス廟の印象だったはずです。大迫力で迫ってくるものだったに違いありません。
ポンペイウス劇場などがあったカンプス・マルティウスの南側のエリアにはその後パンテオンなど多くの建物が建設されましたが、アウグストゥス廟がある北側には長らく建物がなかったようです。
アウグストゥス廟から東に100mのところをコルソ通り(Via del Corso)が通っています。これはかつてのフラミニア街道です。カピトリーノの丘の北の麓にあったセルウィウス城壁のフォンティナリス門(Porta Fontinalis)を起点とし、アドリア海沿いのリミニ(古代の名称はアリミヌム Ariminum)に至っていました。アウグストゥス廟は門から1.5kmの地点にあります。今では建物が密集していてコルソ通りからアウグストゥス廟は見えませんが、当時は街道沿いを歩く人の目に大迫力で迫ってきたことでしょう。
古代ローマ人はよく街道沿いに墓を建てましたから、アウグストゥス廟もその伝統に則っていますが、規模が他の墓とはレベルが違います。アウグストゥス=「尊厳者」という名を贈られ、後に初代ローマ皇帝と言われる人ですから、巨大な墓を造っても不思議はありません。
前後はわかりませんが同じころ、アッピア街道沿いにチェチーラ・メテッラの墓が建てられました。こちらは直径29.5m、高さ21.7mなので、アウグストゥス廟は直径が3倍、高さが2倍という規模です。この人はカエサルの三頭政治で有名なクラッススの息子の妻です。コンスルを勤めた人の妻という程度でこの規模なのですから、アウグストゥス廟はむしろ小さいと言えるかもしれません。
ストラボンによればアウグストゥス廟の周囲の森の中に、アウグストゥスを火葬した跡が白大理石の周壁に囲まれて残されていたそうです。
フラミニア街道沿いのアウグストゥス廟のすぐ南には、紀元前10〜9年にアラ・パキス(アウグストゥスの平和の祭壇)とアウグストゥスの日時計が造られました。アウグストゥス廟と共に、アウグストゥスの偉大さを人々に強烈に印象づけたことでしょう。
アラ・パキスはローマに平和をもたらしたアウグストゥスを称える祭壇です。今ではアウグストゥス廟の西側、細い通りを挟んだ隣にある白い現代的な建物の博物館内に復元されています。私は2007年に訪れたときは時間が遅くて閉館後、2018年に訪れたときは休館日で、ガラス越しにしか見たことがありませんが、緻密な彫刻に覆われた祭壇は圧巻です。この博物館の建物は周囲から浮いている上に中の祭壇ともまるで合っていません。評判が悪く建て替えが予定されているそうです。ぜひアウグストゥス廟と一体で当時を偲ぶことができるような形にしてほしいものです。
アウグストゥスの日時計はオベリスクの影を利用したものです。そのオベリスクは今では当時建っていた場所の少し南に当たるモンテチトーリオ広場に建っています。このオベリスクはアウグストゥス廟の入り口に立っていたものとは違って本当にエジプトにあったものが運ばれてきたもので、表面にヒエログリフが刻まれています。紀元前10年にアウグストゥスがエジプトのヘリオポリスから運んできたもので、今ポポロ広場にあるものと一緒に運ばれてきました(これはチルコ・マッシモの中央に建てられました)。この2本が、アウグストゥスが征服したエジプトからローマに運ばれた最初のオベリスクです。
アウグストゥスの寂しさ
アウグストゥス廟ができたのは紀元前28年。なんとこのときアウグストゥスはまだ36才です。アウグストゥスは体が弱く、特にお腹をよく壊したと言われていますから、そんなに長生きするとは思っていなかったのかもしれません。しかし実際には紀元14年、76歳まで生き、アウグストゥス廟ができてから実際にそこに葬られるまでには42年の歳月が流れました。その間ずっとローマを安定させ、人々の尊敬を集め続けたのは驚異的なことです。
しかしこの長命は必ずしも幸福なことではなかったかもしれません。アウグストゥス廟ができて5年後の紀元前23年、アウグストゥスが41才のとき最初にここに葬られたのは、甥で後継者として期待していたマルケッルスでした。なんと19才での早逝です。現在アパートとして使われているマルケッルス劇場は彼にちなんでアウグストゥスが名付けたものです。
紀元前12年、アウグストゥスが52才のときにはアグリッパが亡くなりここに葬られました。体が頑丈で、アウグストゥスに代わって軍事面を分担し、共にローマ帝国を創り上げたと言っていい盟友の死です。
紀元前4年と2年、アウグストゥスが60才と62才のときには養子のガイウス・カエサル、ルキウス・カエサルが葬られました。アウグストゥスの姉、大ユリアとアグリッパの子供で、この二人も後継者として期待をかけていました。
盟友アグリッパに先立たれ、後継者として期待していた若者たちも早々に亡くし、晩年はどんな思いで過ごしていたのでしょうか。
行き方
観光スポットとしてマイナーなので案内などもなく、離れたところから見えないのでわかりにくいのが実情です。
有名観光地から行くので一番わかりやすいのはポポロ広場からのルートです。ポポロ広場から、双子の教会の右側のリペッタ通りをまっすぐ南に約450m南下するとアウグストゥス廟の西側に出ます。
リペッタ通りはナボーナ広場とパンテオンの間を通っているので、そちらから北上してもたどり着けます。こちらは700mほどです。
スペイン広場(スペイン階段)からは西に約500mの距離です。まっすぐ通じる道がないのでややわかりにくいかもしれません。
2018年に訪れたときはちょうど修復の真っ最中で、周囲を2mくらいの壁が取り囲んでいました。壁には先に紹介した復元図や解説、動画を流すモニターが設置されていました。
修復工事は2016年から行われていましたが、これが完成して2021年3月1日に一般公開されました。4月21日まではオープン記念で無料公開されていて、明日にでも駆けつけたいところですが、新型コロナウィルスのために訪れることができないのがなんとも残念です。
参考文献
- Mausoleum of Augustus
入館予約がこのサイトからできます。 - Ancient History Encyclopedia
- 世界のオベリスク
- ストラボン 『ギリシア・ローマ世界地誌』、飯尾都人訳 竜渓書舎、1994年7月。ISBN 4-8447-8377-7
- Wikipedia(日本語版、英語版、イタリア語版)
更新履歴
- 2021/3/27 新規投稿
- 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。
- 2021/4/23 骨壷破壊が410年のローマ略奪によることを追記。
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