水道の渋滞〜マッジョーレ門とその周辺(イタリア)

 ローマの玄関口テルミニ駅の南東にあるマッジョーレ門(ポルタ・マッジョーレ)は水道橋の一部として造られたもので、上に2本の水道が通っています。しかしこの周辺を通る水道はこれだけではなく、水道が渋滞していると言ってもよいほどの混雑ぶりです。





マッジョーレ門

 ローマの玄関口フィウミチーノ空港、通称レオナルド・ダ・ヴィンチ空港からノン・ストップの急行列車レオナルド・エクスプレスでローマ入りすると、左に急カーブして間もなくテルミニ駅に到着という辺りで、左の車窓から白い門が見えます。今回の主役はこのマッジョーレ門(ポルタ・マッジョーレ)とその周辺です。

レオナルド・エクスプレス車窓から見たマッジョーレ門。
空港からテルミニ駅に向かうと到着直前に左側に見えます。

 マッジョーレ門の両側には茶色い壁が連なり、この壁はだいたい南東から北西の方向に、途中何度かカクカクと折れ曲がって伸びています。これは3世紀後半に造られた、ローマを取り囲むアウレリアヌス城壁です。ゲルマン人がアルプスを越えて侵入してきたことをきっかけにローマを守るために造られたアウレリアヌス城壁は、建設を早めるため多くの既存の建物を城壁に転用しました。マッジョーレ門付近もそうで、城壁になる前の姿は水道橋でした。

 マッジョーレ門は両側の城壁より高く、その飛び出た部分の側面を見ると四角い穴が縦に2個並んでいます。これが水道の導水管で、上がクラウディア水道、下が新アニオ水道です。両側の城壁の上の導水管は崩れてなくなってしまいましたが、おかげで断面がむき出しになって水道が通っていたことがひと目でわかるようになりました。(門の上が3層になっているので、水道が3段とよく誤解されますが、実際には水道は2段です。)

ポルタマッジョーレの上には2本の導水管が通っています。
上がクラウディア水道、下が新アニオ水道です。

 と、ここまでは観光ガイドなどにもよく書いてあり、「ああ、あれね。」って方もいるでしょう。もちろんこれだけでも充分すごいのですが、この場所にあったものやその変遷は今の姿を見ただけでは分からない複雑なものなのです。

水道はいったい何本?

 マッジョーレ門の南東側正面に立ってみます。テルミニ駅方面から来たならマッジョーレ門をくぐった反対側です。門の周辺は広場になっていて、こちら側がラビカノ広場、反対側がポルタ・マッジョーレ広場と呼ばれています。

 城壁は全体として左後方から右奥の方に伸びています。左後ろからまっすぐ伸びてきた城壁はすぐ左手で直角に右に折れ、正面を100mほど直線で横切ります。マッジョーレ門はその中央やや右寄りにあり、その右側では二つのアーチの下を路面電車が通っています。直線部分の右端で城壁は向こう側に約45度折れています。ここからは見えませんが、その先は90m程で線路に突き当たって一旦途切れ、更に線路の向こう側に続きがずっと伸びています。線路ができる前はつながっていたのでしょう。

左後ろ、南東の方角から伸びてきた城壁は、右に90度折れてマッジョーレ門に至ります。
北西側から見ると先が45度左に折れているのがわかります。

 今ではひとつながりのこの城壁は、実は二つの水道橋をつなげたものです。境目は正面の直線部分の右端です。クラウディア水道などを載せた水道橋は、左から来てマッジョーレ門を越えた後、境目の手前で左に直角に折れて向こう側に向かっていました。一方で、今はなくなってしまいましたが、右後方から別の水道橋が左側のクラウディア水道とほぼ並行に来ていて、右奥に伸びる部分につながっていました。

 境界のところをよく見ると、水道橋が手前からつながっていた痕跡があります。上部に二つ並ぶ四角い穴が導水管です。上面が崩れていますがその上にもう一つ導水管があったらしいこともわかります。つまりこちらは水道が3段重ねになった水道橋でした。下からマルキア水道、テプラ水道、ユリア水道です。マッジョーレ門の導水管と比べると低い位置を通っています。

右手に手前から水道橋がつながっていた痕跡があります。
上部に二つ並ぶ四角い穴が導水管です。

 今目に見える水道はこの5本ですが、この辺りを通っていた水道はまだあるのです。ローマ最古の水道であるアッピア水道、旧アニオ水道、古代最後に造られたアレクサンドリナ水道の3本で、これらは地下を通っていたので見えません。更に中世に造られたフェリクス水道もここを通っていました。

 結局ここには古代ローマの水道8本、中世の水道1本、合計9本の水道が通っているわけです。古代にはローマの街に11本の水道がありましたが、そのうち8本がここにひしめいていたことになります。

最初の水道、アッピア水道

 時代を追って見てみましょう。ここでもマッジョーレ門の南東側正面に立っているものとします。

 紀元前4世紀、ここはまだローマの街の外で、その当時ローマを囲んでいたセルウィウス城壁から1.2kmほど離れています。セルウィウス城壁のエスクイリーナ門(Porta Esquilina)を出て南東に向かう街道がこちらに向かって伸びていて、すぐそこで二手に分かれています。一つは東に向かうプラエネスティーナ街道、もう一つは東南東に向かうラビカナ街道です。ただし街道といってもこのときはまだアッピア街道ができる前なので、後の時代のような頑丈な舗装道路ではありません。

 今触れたローマ最初の高規格道路であるアッピア街道を作ったアッピウス・クラウディウス・カエクスは、ローマ最初の水道も造りました。それが紀元前312年にできたアッピア水道で、ここを通った最初の水道でもあります。後の水道より高度が低く、今立っている場所の右下辺りの地下を通っているので見ることはできません。

 この頃の首都ローマの人口は20万人程度です。当時の共和政ローマが支配するのは都市ローマを中心とする地域だけで、アペニン山脈に住んでいるサムニウム人と断続的に戦っていました。いつ攻め込まれるかもしれず、地上に水道を引いたのでは破壊されたら終わりです。だからアッピア水道はほとんどが地下を通っていました。アッピア水道はテベレ川沿いの港であるフォロ・ボアリウムまで通じていて、途中セルウィウス城壁の上を通り、アッピア街道の出発地点であるカペーナ門の上を通っていたとも言われています。

1本目の水道橋

 紀元前269年、ローマで2番目の旧アニオ水道が建設され、同じくここの地下を通ります。イタリア半島南部、長靴のかかとの付け根にあるタレントゥム(現在のターラント)を巡りエピロス王ピュロスと戦って勝利し、イタリア半島をほぼ手中に納めた頃です。この戦いの戦利品が旧アニオ水道の建設費用となりました。一旦平穏が訪れたのでしょう。カルタゴとのポエニ戦争が始まる5年前のことです。

 アニオ川上流を水源とするのでこの名で呼ばれていますが、もちろん「旧」と呼ばれるようになったのは「新」ができてからです。

 そしてポエニ戦争が終わった6年後、紀元前140年にマルキア水道の水道橋が造られ、右側に壁のように連なります。景観が一変したでしょう。

 法務官クィントゥス・マルキウス・レクスによって造られたもので、建設にはポエニ戦争と、ギリシアのコリントスとの戦いの戦利品が充てられました。首都ローマの人口は40万人程度に増えていました。

 これも水源はアニオ川上流域ですが、もはや周囲に敵はおらず攻め込まれる恐れもないので、ここまでの10kmくらいが地上にむき出しの水道橋です。

 紀元前126年、テプラ水道がマルキア水道の上に載せられて水道橋が高くなりました。グラックス兄弟の兄が暗殺され内乱の1世紀と呼ばれる時代に突入した頃です。

水道と水道橋の増殖

 そして紀元前33年、内乱の1世紀も収束に向かい、もうじきオクタヴィアヌスが元老院からアウグストゥスの称号を得ていわゆるローマ皇帝となるころ、オクタヴィアヌスの生涯の同志であったアグリッパがユリア水道を造りました。カエサルが建設を初めたので彼の氏族名から「ユリア水道」と名付けられた、という説もあります。

 これはまたもやマルキア水道の水道橋の上に載せられ、10kmくらいの間ずっと3段重ねでここまでやって来ることになりました。以前に造られたテプラ水道は、名前が「生ぬるい」を意味する “tepid” から来ているという通り、水温が高く飲料水に適さなかったため、このとき同時に造り替えられました。 

 考えてみるとマルキア水道の水道橋が造られたのは100年以上も前のことですから、これが健在で、それどころか上に新たに水道を付け足しても耐えられる状態にあるというのは驚くべきことです。建築技術のレベルの高さはもちろんですが、確実にメンテナンスする意思と、そのための組織や人を維持する強固な政治体制がなければ実現できないことです。

 この水道の下流、線路の向こう側に続く城壁の途中にティブルティーナ門があり、その壁面にはアウグストゥス帝による3つの水道の修復と、ティトゥス帝とカラカラ帝によるマルキア水道の修復を顕彰した碑文が刻まれています。

ティブルティーナ門。(Wikimedia)

 まだここに右側の水道橋だけしかないこの頃、分岐したばかりの二つの街道に挟まれたところに、パン屋エウリサケスの墓が造られます。マッジョレー門よりこっちが先に作られたのですね。上部はピラミッド型の屋根のようになっていました。マッジョーレ門もその両側の水道橋もまだなく、街道沿いの一等地にそびえ立つ表面をトラバーチンで装飾した白い墓はかなり目立ったはずです。

「パンはパン屋で」

マッジョーレ門の南東側に建つパン屋エウリサケスの墓。
マッジョーレ門より前に造られたものです。
上部のレリーフはパンの製造工程を描いたものです。

 そして右側の水道橋ができて200年になろうかという頃、新たな水道橋が左から正面を通過します。3代皇帝カリグラが造り始め、4代皇帝クラウディウスが紀元52年に完成させた、クラウディア水道と新アニオ水道を2段重ねにした水道橋です。都市ローマの人口はこの頃には80万人に達し、水の需要が急増したので、ユリア水道、クラウディア水道、新アニオ水道、更にここを通らないヴィルゴ水道(紀元前19年)、アルシエティナ水道(紀元前2年)と短い間に5本もの水道が造られました。

 この場所は左右と正面を水道橋の壁で塞がれることになりました。しかも新しい水道の導水管は、ちょうど右側の水道橋の上に載るくらいの高さで、右側のものよりかなり高く聳えています。相当窮屈で圧迫感を感じるようになったことでしょう。

 この水道橋がプラエネスティーナ街道、ラビカナ街道と交差するところに造られたのがプラエネスティーナ門、今マッジョーレ門と呼ばれる門です。トラバーチン製で白く美しい姿で造られたのは、圧迫感を些かでも感じないようにするためというのもあったのではないでしょうか。大きく2つのアーチがあるのは、直前で分岐した2つの街道を通すためで、右がプラエネスティーナ街道用、左がラビカナ街道用です。

 マッジョーレ門の上部には両面に碑文が刻まれています。3段になっている一番上の段、つまり新アニオ水道の導水管の壁面には皇帝クラウディウスによる水道建造を顕彰する碑文が、2段目、つまりクラウディウス水道の導水管の壁面には紀元51年の皇帝ウェスパシアヌスによる修復を顕彰する碑文が、そして3段目には紀元81年の皇帝ティトゥスによる修復を顕彰する碑文が刻まれています。(3段目の内側には導水管はありません。)

 二つ水道橋はすぐ近くまで接近していたものの、別々の水道橋なのでつながっていませんでした。つまり後にアウレリアヌス城壁になる時に間に壁が造られてひとつながりになったということです。

 なお右側のマルキア水道は手前で鉤形に曲がった復元模型もあり、それだとこの空間は四方を水道橋で囲まれることになります。そうだとするともはや外ではなくて中庭のような感じでしょう。

暴君ネロとドミティアヌスのプライベート水道

 クラウディウスの次の皇帝ネロは、クラウディア水道を分岐させてチェリオの丘に向かう分岐を造りました。Arcus CaelimontaniまたはArcus Neronianiと呼ばれています。左手で直角に曲がるところを直進した後、西南西のラテラノ大聖堂の方角に向かっていて、その登り坂に水道橋跡が残っています。ネロはチェリオの丘を超えたところ、今コロッセオがある付近に私邸である黄金宮殿や巨大な人工池を造りました。これらに必要大量の水を賄うためにこのクラウディア水道の分岐を造ったのです。

左がマッジョーレ門。右が分岐してチェリオの丘に向かうネロの水道。
ラテラノ大聖堂方面への上り坂にある水道橋跡。
向こうにラテラノ大聖堂前に建つオベリスクが見えます。

 その後皇帝ドミティアヌスはそれを更にパラティーノの丘まで延長しました。パラティーノの丘に東側の入り口から入場すると、丘の上に登る道の途中で水道橋跡が横切りますが、それがこの分岐水道です。マッジョーレ門周辺の標高は42mでクラウディア水道の高さは地上20mくらい、コロッセオのある谷間の標高は18m程なので、チェリオの丘からパラティーノの丘まで24mくらいの高さの水道橋が渡っていたことになります。スペインのセゴビアに残る水道橋が高さ28mなので、ちょうどあんな感じの景観がコロッセオの近くにあったのですね。

パラティーノの丘の東側の入り口から入ると丘に登る途中で水道橋跡が横切ります。
これがクラウディア水道の分岐です。

パラティーノの丘の東側の入り口近くの道路から見たクラウディア水道の分岐です。
左側がパラティーノの丘、道の向こうに見えるのがコンスタンティヌスの凱旋門、
その先はコロッセオです。

 パラティーノの丘にあったのは皇帝の私邸なので、ネロにしてもドミティアヌスにしてもこの分岐水道を個人のために造ったことになります。言うまでもなく他の水道は公共のためのものですから、これはかなり特異なことです。

 この姿で古代ローマの最盛期である200年を過ごします。首都ローマの人口は紀元164年に100万人を越えたと考えられているそうですが、クラウディア水道ができた頃の80万人から100万人に増えた程度なので、その間にはここを通らないトライアーナ水道(紀元109年)が造られただけでした。

ローマが衰えゆく頃

 そして200年近く経った226年、皇帝アレクサンデル・セウェルスによってアレクサンドリナ水道が造られました。ルートははっきりしないもののこの辺りの地下を通ったというのが通説です。

 ただし、水道のことが詳しく判るのは1世紀後半の水道長官フロンティヌスが「水道書」を残したからですが、この水道はそれより後に作られたため記録がなく、また高度が低くてここから3km手前のものを最後に地上に残存物がないため、本当にここを通っていたのかどうかわかっていません。

 これが古代ローマ時代の11本のうち最後に造られた水道です。ネロ浴場の改築のために造ったと言われますが、紀元216年にカラカラ浴場が造られた時には、そこに水を引くためのアントニニアーナ水道をマルキア水道からの分岐で済ませています。それなのに元からあった浴場の改築のために新規の水道を引くというのは考えられません。この頃に人口が増えたとも思えず、軍人皇帝の直前の影の薄い皇帝(私はそんなのいたっけ?と思いました。)が、200年近くの空白の後になぜ水道を造ったのか、よくわかりません。

 アレクサンドリナ水道ができてから約50年後の紀元275年、アウレリアヌス帝によって二つの水道橋が城壁に組み込まれ、間に壁が造られてひとつながりになります。細い隙間が埋められただけなのであまり景観は変わらなかったと思われますが、城壁にするためにアーチの隙間を埋めたり、マッジョーレ門を閉め切れるようにするなどの改装はしたでしょう。

 かつて敵が破壊できないように地下に水道を通したのと比べると、大切な水道橋を城壁に転用してしまうというのは短絡的な発想と思えてしまいます。もう理念や誇りなどなく、近視眼的な実利だけで動く世界になってしまったのでしょう。

 4世紀末から5世紀初めの皇帝ホノリウスの頃、エウリサケスの墓を塔が覆いました。400年代にローマは西ゴート族のアラリックに率いられた軍勢に何度か囲まれ、410年には城壁内に侵入されていますが、これと関係あるのかもしれません。後に塔は取り去られますが、これによってピラミッド型の屋根や手前の部分が壊れてしまいました。取り去られた門の一部が左脇によけて置かれています。

18世紀の画家ピラネージが描いたマッジョーレ門の姿。
(東京大学総合図書館所蔵)

 そして476年、ロムルス・アウグストゥルスの退位によって西ローマ帝国は滅び、水道橋は次第にメンテナンスもされなくなって水を供給できなくなっていきました。

ローマ亡き後

 ずっと時代が下ってほとんどの水道はとっくに使い物にならなくなっていた1590年、教皇シクストゥス5世がフェリクス水道を造りました。これは過去の水道の遺構を再利用していますが、ここではクラウディア水道の水道橋からマッジョーレ門を通り、そのままアウレリアヌス城壁に沿ってマルキア水道につながるコースを取っているようです。

 マルキア水道の上流側やクラウディア水道の下流側はきれいになくなってしまいました。これらがいつどういう理由でなくなったのか判りません。古代ローマの建造物は2000年の間に徐々に壊れていったと思いがちです。しかし実際にはルネサンス期以降の芸術家やローマ教皇、政治家などが建築材料として持ち去ったり、素晴らしい彫刻や装飾を自分が造った広場や建物に好き勝手に移設したり、権力を誇示する建物の建設のために破壊したりすることで失われたものが多いのです。ここもそういう原因で姿を変えたのではないでしょうか。

 19世紀後半にはすぐ脇を鉄道が通り、マルキア水道の水道橋が断ち切られてしまいました。でもマッジョーレ門とこの場所が残って本当によかった。

この左側で水道橋は途切れ、線路の向こう側に続いています。

水道のルート

 ここを通る水道はローマの東か南東に水源がありますが、そのうちの4つ、旧アニオ水道、マルキア水道、クラウディア水道、新アニオ水道の水源は全てアニオ川上流域です。アニオ川はアペニン山脈を水源とし、ティボリの街の近くからハドリアヌスの別荘(ヴィッラ・アドリアーナ)の北側を通って西に流れ、ローマの北でテベレ川に合流する川です。おそらく土地の高度や傾斜の関係と思われますが、どの水道もティボリからはアニオ川を離れて南下して南を迂回していて、ローマには南東の方角からやって来ます。

 マッジョーレ門付近に来るまでの間、2つの水道橋はかなり長い距離の間すぐ近くを並んで通っています。ローマの南東8kmにある水道橋公園にはすぐ近くをほぼ平行に通っている2つの水道橋が残っています。そして面白いことに水道橋公園の北側では2回交差しています。なぜこのように交差するルートを採ったのかは謎です。

 しかしそもそもそんなにルートが被るのなら、クラウディア水道と新アニオ水道もマルキア水道+テプラ水道+ユリア水道の上に載せてしまえばいいのに、なぜそうしなかったのでしょうか。5段にしたらさすがに強度が耐えられないからでしょうか。それとも積み重ねるとメンテナンスが難しいからでしょうか。

水道の終点

 水道の終点はカステルム・アクアエという分水施設で、そこから先は青銅製の給水管で目的地まで水が届けられます。

 そのカステルム・アクアエの遺跡がマッジョーレ門の北西1kmにあるヴィットリオ・エマヌエーレ2世広場に残っています。ニンファエウム・アレクサンドリという遺跡で、その東の線路の近くにはここにつながっていたと思われる水道橋の断片も残っています。

 ここはアッピア水道の分水施設と言われていましたが、近年精密な測量が行われ、その結果から今ではクラウディア水道か新アニオ水道の分水施設と考えられています。

 かつてここにはマリウスのトロフィーと呼ばれるものがあり、これはルネサンス時代にカンピドリオの丘の正面階段コルドナータの上の欄干の内側に移されて今でも残っています。カストルとポルックスの像の両脇にあるものです。マリウスはカエサルの叔父なので、クラウディア水道や新アニオ水道が作られた時よりずっと昔の人で時代が合いません。しかしこのトロフィーは本当は11代皇帝ドミティアヌスのためのものらしく、それならすでにあったカステルム・アクアエに後から建てられたとすれば辻褄が合います。

カンピドリオの丘の正面階段コルドナータの上の欄干にあるマリウスのトロフィー。
元はニンファエウム・アレクサンドリにあったものです。

 しかし一方で、クラウディア水道と新アニオ水道のカステルム・アクアエとしてニンファエウム・アレクサンドリとは別の建造物を描いたものがあります。古代ローマ遺跡の絵を数多く描いた18世紀の画家ピラネージによるエッチングで、背景にマッジョーレ門が描かれていますが、明らかにもっとマッジョーレ門に近い場所です。この建造物は線路沿いに建つミネルウァ・メディカ神殿の南東100mにあったもので、干草小屋として使われていましたが1,880年に火災で失われました。

18世紀にピラネージが描いたクラウディア水道と新アニオ水道のカステルム。右後方にマッジョーレ門が見えます。
(東京大学総合図書館所蔵)

 フェリクス水道の末端施設はクイリナーレの丘にあるフェリクス水道の泉(Fontana dell’Acqua Felice)です。三越がある共和国広場から北西に200mのところにあります。これより前の1453年に教皇ニコラウス5世がヴィルゴ水道を修復していますが、これは今も機能していて、観光客が押し寄せるトレビの泉の水もこの水道のものです。しかしフェリクス水道の方は全く機能していません。

行き方

 テルミニ駅前から路面電車かバスで10数分です。

 歩く場合はテルミニ駅の南側を線路に沿う方向である南東に1.7km、20分ほどです。ただし途中は移民の多い地域で治安があまりよくありませんから、スリなどには要注意です。暗くなってからここを歩いて行くのは避けた方がいいでしょう。

 私は2018年にテルミニ駅から歩いて行きましたが、線路に一番近い道は少し行くと暗く薄汚れた感じになったので一本右側の通りに移りました。その後マーケットのようなところでは少しみすぼらしい服を着た人も多く行き交っていて、特に被害に遭ったわけではないもののちょっと緊張感がありました。

 ただしこれはテルミニ駅とマッジョーレ門の間の部分のことで、マッジョーレ門周辺や、その後向かったラテラノ大聖堂方面は特に気になるようなところはありませんでした。

 最初に書いた通り、ローマの玄関口レオナルド・ダ・ヴィンチ空港とテルミニ駅を結ぶレオナルド・エクスプレスの車窓からもマッジョーレ門を一瞬見ることができます。列車は南側の一番近い線路を通り、駅が間近なのでスピードも遅いので、準備しておけば見落とすことはないはずです。テルミニ駅行き列車からは左側、空港行き列車からは右側です。

空港とローマ市内を結ぶレオナルド・エクスプレス。

参考資料

更新履歴

  • 2020/2/3 新規投稿

Posted by roma-fan