ピラミデ〜古代ローマはエジプトかぶれ(イタリア)

 ローマの地下鉄B線にピラミデ Piramide という駅があります。Piramide というのはイタリア語で「ピラミッド」のことで、その名の通り駅前広場にはピラミッドが建っています。 このピラミッドが実は紀元前12年頃に作られた古代ローマの遺跡で、執政官を務めたガイウス・ケスティウス・エプロという貴族の墓なのです。



エジプトブーム

 日本人はエジプト好きですが、実は古代ローマ人もそれに全く引けを取らないエジプト好きでした。ローマにはエジプト文明を象徴するものであるオベリスクが、サン・ピエトロ広場のものを初めとして全部で13個も建っています。エジプトブームだったといってもいいでしょう。 墓をピラミッド型にするなんていうのも、そんなエジプトブームを象徴するものです。

双子の教会で有名なポポロ広場の真ん中にオベリスクが建っています。これはアウグストゥスがローマに運んだものです。
サン・ピエトロ広場の真ん中にもオベリスクが建っています。これは由来がはっきりしません。

 今ではピラミッド型の墓はこのピラミデ一つしかありませんが、かつてはいくつか建っていたそうです。

 サンタンジェロ城の近くにも建っていて、中世にはサンタンジェロ城近くのものがロムルスの墓、このピラミデがレムスの墓と呼ばれていました。ロムルスとレムスは狼に育てられた双子で、伝説のローマ建国者です。

 しかし16世紀に教皇アレクサンデル6世によって解体されてサン=ピエトロ大聖堂の階段に転用されたそうです。今や跡形もありません。

 サン・セバスチアーノ門からアッピア街道を6.3km行った街道沿いに建っている Mausoleo piramidale というのも、もともとはピラミッド型の墓でした。ただ残念ながら表面が崩れ落ちて原型を留めていません。

 ポポロ広場の手間にはフラミニア街道を挟んで2基、他にアウレリア街道沿いにも建っていたことが知られています。

世界七不思議

 ピラミッドは紀元前3世紀のギリシャの数学者・旅行家のフィロンが選んだ世界七不思議に挙げられていますが、古代ローマの時代からでさえ2千年という遠い遠い昔の驚異の古代建築だったわけで、私達と同じような感覚で見ていたのではないでしょうか。

SevenWondersOfTheWorld

 よく現代の世界七不思議としてピラミッドと共にコロッセオが挙げられますが、古代ローマ人にしてみたらコロッセオはできたばかりの現代建築です。今ではそのコロッセオも驚異の古代建築の仲間入りをしているのですから、不思議な感じがします。古代ローマ人は自分たちが作ったものがピラミッドと並んで語られるようになるなんて思ってもみなかったでしょう。それを知ったら喜ぶかもしれません。

古代ローマ人にとってはできたばかりの現代建築だったコロッセオが、現代の世界七不思議としてピラミッドと並べて語られているのです。

ピラミデの姿

 高さは37m。クフ王のピラミッドの高さ137mにはもちろんはるかに及びませんし、古代ローマの建築物としてもとりたてて大きいものではありません。しかし実際にそばで見上げてみるとかなりの存在感で聳え立っている感じです。墓の主の財力や功績を見る人に植え付ける目的は十分に果たしたでしょう。

 表面は大理石に覆われ、修復の甲斐あって白く輝いています。エジプトのピラミッドも元は大理石に覆われていたといいますから、こんな感じだったのでしょう。 側面には文字が見えます。ガイウス・ケスティウス・エプロという人の墓だということもその文字でわかるのです。

上段に被葬者であるケスティウスの名前、下段には17世紀にこれを修復したローマ教皇アレクサンデル7世の名が刻まれています。

 このピラミッドは有名なギザのピラミッドと比べると傾斜がかなり急で、メロエ王国のピラミッドの方が形が似ています。ナイル川上流、今のスーダンのヌビア地域にあったクシュ文明のメロエ王国では、エジプトの影響を受けてピラミッドを作っていましたが、ローマはこのメロエ王国を紀元前23年に攻撃しています。ちょうど時代が合うので、もしかするとガイウス・ケスティウスはこの攻撃に参加していて、その功績を誇るためにメロエ王国のピラミッドに似せた墓を造ったのかもしれません。

Sudan Meroe Pyramids 2001
メロエ王国のピラミッド。

 墓室は塞がれていて元々は入り口はありませんでした。1660年に開けられたときの記録が残っていて、内部はフレスコ画で装飾されていたとのことですが、それも今はほとんど残っていません。

その後

 両側に壁がつながっていますが、これはアウレリアヌスの城壁です。

 3世紀にローマの力が弱まり、それまで長い間城壁を必要としなかったローマも外敵の脅威にさらされるようになって、皇帝アウレリアヌスの時代に城壁が再び築かれました。このアウレリアヌスの城壁は既存の建造物を再利用してそれらをつなぐように築かれましたが、このときピラミデも城壁の一部になったのです。

両側に壁がつながっているのがわかります。右手はサン・パオロ門。

 すぐそばにはオスティエンセ街道への出入り口であるサン・パオロ門(ポルタ・サン・パオロ)があります。

サン・パオロ門。

 地下鉄ピラミデ駅と同じ場所にイタリア鉄道とローマ=リード線の駅がありますが、こちらはポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo を名乗っています。ローマ=リード線は古代のオスティエンセ街道と同じルートでオスティアとの間を結んでいます。

日本人による修復

 私が訪れたのは2008年ですが、その後2012年から2015年にかけて修復され、更に美しくなったそうです。玄室も調査、修復されて、修復後は日にち限定ですが内部が公開されているそうです。公開日に合わせてぜひまた訪れてみたいと思います。

 ところでこの修復は、日本でブランド品の輸入を手がける八木通商の支援で実施されたとのこと。会社の成長に寄与してくれたイタリアへの恩返しでやったことだそうで、変に宣伝していないのに好感がもてます。残念ながらwikipediaにも書いてありませんが、日本人ならぜひ知っておくべきです。

訪問ガイド

 地下鉄B線のピラミデ駅を出ると駅前広場の向こう側にあります。

地下鉄ピラミデ駅、右奥がローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo 駅。

  同じ場所にイタリア鉄道(旧国鉄)のローマ・オスティエンセ駅(Roma Ostiense)とローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ駅(Porta S. Paolo)があります。 ローマ・テルミニ駅とフィウミチーノ空港とを結ぶレオナルド・エクスプレスがここを通過しますが、車窓からちらっとこのピラミデを見ることができます。

ローマ・リード線のポルタ・サン・パオロ Porta S. Paolo 駅の正面。

 ここが始発のローマ・リード線に乗るとオスティア・アンティカ遺跡に行くことができます。

 ピラミデもその一部になっているアウレリウスの城壁がここから東の方にかけてよく残っていて、ほぼ城壁に沿って歩くことができます。

アウレリアヌス城壁。

更新履歴

  • 2019/5/15 新規投稿
  • 2021/4/10 冒頭の地図をイタリア広域地図とローマ市内図の2つにした。

Posted by roma-fan