パンはパン屋で

 古代ローマ人はパンをパン屋で買っていました。え?当たり前ですって?でもこれ2000年前ですよ。



ポンペイとオスティアの石臼

 ポンペイを紹介する写真でよく見かけるので、古代ローマに小麦を挽く石臼があるのは知っていました。でも深く考えたことはなかったのです。

 最初に石臼の実物を目にしたのは、初めてローマを訪れたときに行ったオスティア・アンティカ遺跡でした。写真で見たことがあるポンペイのものと同じ石臼が5個あり、その奥にはレンガ造りのかなり大きなパン焼窯があります。

オスティア・アンティカ 粉挽き場のある建物
ポンペイの石臼とパン焼き窯

 最初は「なるほど、あれね。」という程度の印象だったのですが、見ているうちに疑問が湧いてきました。なんでこんなにたくさんの石臼、そして大きな窯があるのだろう?そもそもここは何なのか?

そこでガイドブックを改めて見てみたら、ここはパン屋だと書いてあります。

 え、パン屋?これ2000年前ですよね。

パンはパン屋で買う

 40年くらい前、NHKでシルクロードという番組がありました。当時は個人で行くことなど考えられなかった西安や敦煌の姿をワクワクしながら見たものです。その中で現地の人々がナンを焼く姿がしばしば出てきました。今ではありふれたナンを、このとき初めて知ったのですが、その主食のナンを、人々は自宅の窯か、隣近所で共有している窯で焼いていました。

 私の中の古代のイメージはまさにそれです。ローマがいくら進んでいたとは言っても2000年前の古代ですから、同じようなものだと思っていました。つまりパンは自分の家か、せいぜい隣近所の共有の窯で焼いて食べる、という生活です。

 ところが古代ローマの街には、確かにパン屋があったのです。現代の私達と同じように、古代ローマ人はパンをパン屋で買っていたのです。

 これは衝撃でした。

壁画の世界と炭化したパン

 ポンペイのユリア・フェリクスの家(House of Julia Felix)から見つかったフレスコ画の中に、パン屋の店先を描いた壁画があります。パンがたくさん積み重ねて並べられていて、店の人が客にパンを手渡しているところが描かれています。(ただしパン屋ではなくパンの配給の場面だとも言われています。)

パン屋を描いたフレスコ画(ポンペイのユリア・フェリクスの家 House of Julia Felix から出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 古代ローマを表す言葉に「パンとサーカス」というのがあって、パンが配給されていたのかと思ってしまいますが、実際に配給されていたのは小麦でした。その小麦を市民はパン屋に持ち込んで粉に挽きパンに焼いてもらっていました。ここは今と違うところですね。

 粉に挽いてこねてパンを焼くとなるとかなりの時間を要するはずです。おそらくお客さんは小麦と引き換えに、既に焼けているパンを持ち帰ったのではないでしょうか。もちろん小麦からパンにするまでの手数料を払って。

 オスティア遺跡のパン屋は、インスラと呼ばれる高層アパートが立ち並ぶ一角にあります。

 高層住宅から出てパン屋に行き、買ったパンを抱えて石畳の道を歩いて帰る。まるで現代のパリの生活のようですが、こんな光景が2000年前の古代ローマの都市にあったのです。

アスティアのパン屋は高層アパート、インスラの一角にあります。

 このパンを大きく描いたフレスコ画も残っています。8等分の切れ目がついた丸いパンです。

パン屋を描いたフレスコ画(ポンペイから出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 そしてなんとこのパン、そのものがポンペイから出土しているのです。パン屋の窯の中から、焼きかけのパンが真っ黒に炭化した状態で出てきました。ベスビオ火山の火砕流に飲み込まれて一瞬で黒焦げになったのでしょう。普通の遺跡ではパンが出てくるなんてありえないことです。

炭化したパン(ポンペイから出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

  パンの実物を見ていると、食卓を囲み、この丸いパンを食べながらおしゃべりしている古代ローマの庶民の姿が目に浮かぶようです。

 コロッセオやポン=デュ=ガールなどの超大型建築物ももちろんすばらしいのですが、私にとってもっとも驚異なのは、パン屋やインスラ、タベルナに象徴される、今と変わらない当時の生活そのものです。

パン屋の実像

 ポンペイのテレンティウス・ネオの家(House of Terentius Neo)から見つかった夫婦の絵は色鮮やかでこちらを見つめる強い眼光がとても印象的なものです。

 このテレンティウス・ネオさんはパン屋でした。

パン屋であるテレンティウス・ネオ夫妻のフレスコ画(ポンペイのテレンティウス・ネオの家 House of Terentius Neo から出土。ナポリ考古学博物館蔵。)

 男性はローマ市民の象徴であるトガを着て、巻物を持っています。教養のある人物だったことがうかがえます。女性も筆記用具であるろうタブレットとスタイラスペンを持っていて、こちらも教養の程がうかがえます。よく見ると女性の方が手前にいることがわかります。女性の地位や力を物語っているようです。

 おそらくテレンティウス・ネオさんはパン屋の経営者だったのでしょう。教養を備え地位と財産を築いた人物だったことが伺えます。

 そして話が変わりますが、ローマの玄関愚口テルミニ駅に列車が入る直前、左手にマッジョーレ門がちらっと見えます。現地でこの門の南側に立つと、9つの穴が空いた半分崩れた四角い塔のようなものがいやでも目に入るのですが、この塔の上の部分に、ロバを使って石臼を回したり、窯に出し入れする姿が描かれています。オスティアやポンペイにあるあの石臼や窯です。

マッジョーレ門とその手前にあるエウリュサケスの墓
中央にロバを使って石臼で粉を挽く様子が描かれています。
反対側にはパンを窯に出し入れする姿が。

 知らなければ絶対に正体がわかりそうもないこれは古代ローマ人のお墓で、被葬者であるマルクス・ウェルギリウス・エウリュサケスさんがこれまたパン屋だったのです。この人は解放奴隷で、パン屋として成功した人でした。

 2019年3月にブラタモリのローマの水を扱った回で紹介されたので見た人もいるかもしれません。(このローマを扱った2回のブラタモリは、古代ローマに興味があるなら必見です。)

 丸い管のようなものも、パン生地をこねる容器か小麦粉を図る容器を表したものだろうと思われているそうです。今ひとつピンと来ませんが。

 マッジョーレ門は水道が二つの街道(プラエネスティーナ街道とラビカナ街道)をまたぐところにあって、お墓を建てる場所としては一等地といっていいでしょう。そんな場所に、いかに成功したとはいえパン屋の墓がある、というのは実に意外です。この人もテレンティウス・ネオさん同様、地位と財産を築いた人物だったのでしょう、

 共にパン屋であるポンペイのテレンティウス・ネオ夫妻のフレスコ画と、ローマのエウリュサケスさんの墓は、パン屋の重要性と存在感を示しているのではないでしょうか。

更新履歴

  • 2019/6/9 新規投稿
  • 2021/4/10 地図を掲載。

Posted by roma-fan