サラマンカのローマ橋(スペイン)
イベリア半島の西部を南北に走る街道、通称銀の道の中程に位置するサラマンカ。その南の入り口に当たるのがトルメス川に架けられたローマ橋です。
ローマ橋
サラマンカのローマ橋は街の南側を流れるトルメス川に架かる橋で、全長は370mほどです。
26個のアーチからなりますが、ローマ時代のまま残っているのは街に近い北側の15個のアーチです。
建造はトラヤヌス帝の時代とも言われますが、建築年代を示す文字や考古学的な証拠はなくはっきりしません。
元は真ん中に要塞があって北と南に分かれていました。数多くのスペインの街を描いたAnton van den Wyngaerdeという人が、1570年にサラマンカのスケッチを残していますが、これに橋の中央の塔が描かれています。今の姿からはどの辺りに要塞があったのかは判然としません。
1626年に起きたサン・ポリカルポの洪水で橋の南側が崩壊し、この後の修復で中央の塔と要塞が撤去されました。
20世紀初めまでは街に入る唯一の橋で、2本目の橋が建設されてからも車道として使われていましたが、1973年に新しい橋が建設されて歩道になりました。
ローマ橋の下のトルメス川は西進してポルトガル国境でルシタニア属州の北の境界線であるドゥエロ川に合流し、更に西に流れてポルトガルのポルトで大西洋に注ぎます。イベリア半島中央部はメセタと呼ばれる広大な大地が占めていて、全体として西に向かって傾斜しています。そのためトルメス川とドゥエロ川は西に向かって流れているのです。他にもトレドからルシタニア属州中央部を流れ、リスボンで大西洋に注ぐタホ川(ポルトガルではテージョ川)、メリダを流れるグアディアナ川、南部のコルドバやセビリアを流れるグアダルキビール川も東から西に流れています。
サラマンカの歴史
旧市街はトルメス川の北岸から坂道を登った高台にあります。南に川が流れる高台という守るのに適した地形なので、古くから街がありました。
橋の街側のたもとにある首が欠けた動物の石像がそのことを証明しています。これはイベリア半島で数多く出土している Verraco というイノシシの石像で、ローマ以前にルシタニアに住んでいたウェットーネース族(vetones)が残したものです。この像は記録にはたびたび登場しますが、いつからここにあるのかは不明です。今の位置に置かれたのは1993年だそうです。
紀元前220年にサラマンカはイベリア半島に早くから進出していたカルタゴに征服されました。征服したのは第二次ポエニ戦争でローマを苦しめた将軍ハンニバルです。ローマも紀元前3世紀からイベリア半島に進出していましたが、イベリア半島全体に勢力を広げたのは3次に渡るポエニ戦争でカルタゴを破ってからです。サラマンカもポエニ戦争後にローマの支配下に入り、古代ローマ都市となりました。サラマンカの古代ローマ時代の名はサルマンティカ(Slmantica)です。
残念ながら古代ローマの遺跡は橋以外には残っていません。
銀の道
イベリア半島のちょうど真ん中辺りにスペインの首都マドリードがありますが、サラマンカはそこから西北西に170kmほどのところにある都市です。スペインの西の端で、ポルトガル国境まで100km程という位置にあります。13世紀にスペイン最古の大学が開校し、大学の街として有名です。
古代からメリダとアストルガを結ぶ銀の道の中継点として非常に重要な役割を果たしていた、と多くの解説には書いてあります。
銀の道はイベリア半島西部にある南のエメリタ・アウグスタ(現代のメリダ)と北のアストリカ・アウグスタ(現代のアストルガ)という大都市を結ぶローマ街道として造られたとされています。今でも高速道路が通っているこの区間に古代ローマ時代の街道があったであろうことは想像がつきます。
エメリタ・アウグスタ(メリダ)はルシタニア属州の首都でした。ルシタニア属州はイベリア半島西部にアウグストゥスが置いた属州で、南北の広がりは大体中央の3分の1ほどの大西洋に面した地域です。エメリタ・アウグスタ(メリダ)はその南端にあり、ローマ本国と太いパイプで繋がっていました。アルプスを越えて南フランスを横断するドミティア街道、イベリア半島の南岸を走るアウグスタ街道、そしてその途中のヒスパリス(現代のセビリア)からアウグスタ街道の支線というルートです。
一方アストリカ・アウグスタ(アストルガ)のあるイベリア半島北西部はアウグストゥスが征服した比較的新しい領土です。サラマンカを通る街道によってイベリア半島西部の中央から北部がローマと直結されることになりますから、この街道はこの地域の征服とその後の経営に重要な役割を果たしたと言えるでしょう。
そして後にはアストルガの近くにラスメドゥラス金山がローマの下で操業を始めます。金の輸送にも使われることでこの道は商業的な役割を果たすことになりました。ラスメドゥラス金山はその枯渇がローマ滅亡の原因の一つと言われるほど重要なものでした。
ただイベリア半島北西部はヒスパニア・タラコネンシスとして半島の東側と一つの属州にされていました。その州都タラコ(現代のタラゴナ)からカエサル・アウグスタ(現代のサラゴサ)を経て半島北部までエブロ川を遡り、そこから西に進んでアストリカ・アウグスタ(アストルガ)に至る街道もあります。同じ属州内を行くこちらの方がメインルートではないかとも思えるので、銀の道と呼ばれるルートとその中継点としてのサラマンカが当時どこまで重要なものだったのかは疑問があります。
実は銀の道と呼ばれる街道の建設やその名前の起源は諸説あってわかっていないようです(Wikipediaスペイン語版)。銀の道が有名なのは巡礼路としてです。多くの人がメリダより南にあるセビリアからスタートし、アストルガを超えてサンティアゴ・デ・コンポステーラまでのルートを歩くのです。つまり「銀の道」というのは観光ルートとして売り出されたことで有名になったのではないでしょうか。
行き方
マドリードからスペイン国鉄 Renfe の高速列車 Alvia で最速1時間36分です。
私はレンタカーで首都マドリードのバハラス空港からセゴビア、アビラを経て夕方日が沈む直前にサラマンカに到着し、スペイン国営の宿泊施設であるパラドールに泊まりました。パラドールというと修道院や古城を修復したものが多いのですが、ここは新しい建物で普通のホテルという感じです。
このパラドールはトルメス川の南岸から少し坂を登ったところにあります。部屋からトルメス川の北岸の高台にある旧市街に建つ大聖堂が見えました。
更新履歴
- 2019/11/9 新規投稿
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