アウグスブルク〜ゲルマン人と向き合う拠点(ドイツ)

 ドイツのロマンチック街道沿いにある都市アウグスブルク。その起源は紀元前15年、初代皇帝アウグストゥスの時代に造られた、ゲルマン人と向き合う最前線の軍団基地です。重要な場所ですが残念ながらその痕跡はほんのわずかしか残っていません。




わずかに残る痕跡

 アウグスブルク旧市街にある大聖堂の傍らに、文字が書かれた白いブロックや模様のある板、人間か神の浮き彫りなどが地面に直接置かれたり、レンガの壁に取り付けられたりしています。これらはここで発掘された古代ローマ時代の建物の残骸です。広場の真ん中には発掘された建物跡を見ることができます。

大聖堂の脇に発掘跡があります。
発掘跡の傍らに発掘されたものを飾ってあります。

入植地アウグスタ・ヴィンデリコルム

 アウグスブルクはドイツ南部、ミュンヘンの近くにある都市で、ドイツ南部を東西に走るドナウ川の南35km程のところ、支流のレヒ川沿いにあります。古代ローマ時代、ドナウ川の北にはゲルマン人が住んでいて、アウグスブルクはローマとゲルマン人の境界線を維持する拠点でした。

 カエサルがガリアを征服してライン川の西、ドナウ川の南をローマが支配するようになりましたが、アウグストゥスが初代皇帝となった後の紀元前15年、この地にこの境界線を維持するためにローマの軍団基地が設けられました。1世紀には入植地「アウグスタ・ヴィンデリコルム(Augusta Vindelicorum)」となり、その後時期ははっきりしませんが、ラエティア属州の州都とされました。ラエティア属州はアルプスの北側、現代のスイス東部、オーストリアのチロル地方からドイツ南部にまたがる地域です。

 アウグスブルクとローマ本国との間はクラウディア・アウグスタ街道で結ばれていました。現代の高速道路も鉄道もアルプスをブレンナー峠で越えますが、古代のクラウディア・アウグスタ街道はそれより西の方、アディジェ川を遡ったところにあるレッシェン峠(レージア峠)を超えます。現代と違う理由が地形の関係なのか住んでいる部族との関係によるのか、または他の理由なのかわかりません。

 アウグスブルクという名は「アウグスタ・ヴィンデリコルム」の一部である「アウグスタ」の名残です。「アウグスタ」は皇帝アウグストゥスに因んだもので、当時建設された多くの都市の名に付けられました。ドイツでは「アウグスタ・トレヴェロールム(Augusta Treverorum)」、イタリアでは「アウグスタ・プラエトリア・サラッソルム(Augusta Praetoria Salassorum)」、スペインでは「エメリタ・アウグスタ」があって、それぞれトリーア、アオスタ、メリダという名となって現代でも都市として残っています。

古代ローマ遺跡

 これだけ重要な場所であり、当時それなりの施設があったに違いないアウグスブルクですが、残念ながら古代ローマ時代のものが何も残っていません。かろうじて冒頭に書いた大聖堂前の発掘跡を見ることができるだけです。

 ゲルマン人が住むエリアとのもう一つの境界線であるライン川方面には、支流であるモーゼル川沿い、現代のフランス国境近くにアウグスブルクに先駆けて都市が築かれました。これが現代のトリーアですが、こちらには古代ローマ時代の城門であるポルタ・ニグラ、円形闘技場、浴場跡などが残っています。

今でも残るフッガー家の邸宅、フッガーハウス。

 アウグスブルクはフッガー家の拠点として、15〜16世紀にはヨーロッパの経済の中心として栄えたので、その繁栄ゆえに都市が整備され、それに伴って遺跡が破壊されてしまったのでしょうか。

行き方

 鉄道が各都市から通じていて容易に行くことができます。最寄りの大都市はミュンヘンです。高速道路もミュンヘンから通じていて、車で行くのも容易です。大きな都市なので宿泊施設は数多くあります。ロマンティック街道沿いなのでツアーでも立ち寄ることが多いのですが、大聖堂はコースに入っていないかもしれませんし、仮に入っていたとしても大聖堂そのものを見るだけで遺跡の存在には気付かないかもしれません。ツアーガイドが紹介しなくても、遺跡は大聖堂の目の前の広場にあって目にするのは容易なので、ぜひ覚えておいてください。

宿泊したのはフッガーハウスの隣りにあるシュタイゲンベルガー・ドライ・モーレンホテル。裏手の外壁にアウグストゥスの絵がありました。

Posted by roma-fan