ポン・デュ・ガール~水道橋の代表(フランス)

 「写真で見たことがある古代ローマ遺跡」というランキングがあったらベスト3に入りそうです。名前や場所は知らなくても、どこかで見たことがあるでしょう。ポン・デュ・ガールは南仏プロヴァンス地方にある水道橋です。でも有名な割にはこれが一体ナニモノなのか、意外に知られていないのではないでしょうか。


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ところで水道橋って何?

 東京に「水道橋(すいどうばし)」という駅があります。これは神田川を渡る橋に水道管が通されていたことが由来だそうです。でもポン・デュ・ガールは水道が付属している橋、ではなくて、水道をガルドン川のあっちからこっちに渡すためだけに作られた橋です。橋の上は水道が通っているだけで、人が渡るための設備はありません。この橋は水源から街まで連なる水道の一部分なのです。

ポン・デュ・ガールはガルドン川の渓谷に架けられています。

 ちなみに読み方は「すいどうばし」「すいどうきょう」のどちらでもいいのですが、私は「すいどうきょう」と読んでいます。「すいどうばし」というと東京の駅を思い浮かべてしまうので。

水の上を水が渡る?

 でもなんで水の上を水が渡っているんでしょうか?

 ポン・デュ・ガールの上を通ってガルドン川を渡るこの水道は、ニームという都市に水を引くために作られました。ニームはここから南西に直線距離で20kmも離れたところです。そして水源は北西に12kmほど離れたユゼスという街の近くの池。ニームとユゼスとはガルドン川に隔てられているので、必然的にどこかで川を渡る必要があったわけです。

 ただ川の同じ側にある水源から引けばこんな巨大な橋をかける必要はなかったはずです。ポン・デュ・ガールから1600年後、江戸時代に作られた玉川上水は延長43kmありますが、橋など渡りません。なぜこんな大規模な橋を架けてまで大きな川を渡る必要のある水源を選んだのでしょうか。

 きっとここが古代ローマのこだわりなのでしょう。ローマの都市には水道が通じ、飲食に使う他、公共浴場にも提供されていました。古代ローマがこうあるべきと思う生活水準を得るためには、水質の良いきれいな水が潤沢に提供されることが絶対に必要で、そのためには決して妥協せずに条件を満たす水源から水道を引く。たとえ水源が遠くても、川の向こうにあっても。

 ポン・デュ・ガールは紀元50年ころに作られたものだそうです。ニームは紀元前118年に造られたローマとスペインの間を結ぶドミティア街道上にある重要な街で、既に大都市でした。当然それなりの給水施設があったはずです。おそらく水質や水量を改善するために、ポン・デュ・ガールを通るこの水道は造られたのでしょう。

 以前はもっと前の時代、アウグストゥスの片腕だったアグリッパによって建造されたと言われていましたが、最新の研究で50年頃の建造とされました。これは4代目の皇帝クラウディウスの時代です。彼はイギリスに遠征して南東部を支配下に収め、紀元43年に属州ブリタニアを設置しました。ガリアの中でもローマに近いこの辺りは、既にローマに征服されて150年。すっかりローマの一部として安定し、よりよい生活を求めてポン・デュ・ガールは造られたのでしょう。

想像以上の大きさ

 この水道橋の高さはガルドン川の水面から49mです。
数字を聞いてもピンとこないので、身近に同じくらいの高さの橋がないかと探してみたら、東京のレインボーブリッジの路面が海面から52mとほぼ同じでした。いやレインボーブリッジって相当高いよ。これには書いている私がびっくりしてしまいましたね。ちなみにマンションだったら16階くらいです。

 長さは275m。上を通っていたのは水道なので傾斜がつけられていますが、両端の高低差はわずか2.5cmです。当然傾斜は見てわかるわけもありません。重機も精密な測量機器もない時代にどうやって作ったのでしょうか。 当時は汲み上げポンプなどないので、水は水道につけられた勾配だけで流れていました。ユゼスの水源からニームまで直線距離で30km、高低差12mのところを、僅かな勾配を保ちながら山裾を回り込み、トンネルを掘り(トンネル区間はかなりの距離になります)、ポン・デュ・ガールという橋を架けて川を渡り、延長50kmにもなる水道が作られたのです。

対面

 博物館の入口といった感じの入場口を入って近代的なデザインの売店やカフェの間を抜けると、いよいよご対面、かと思ったら意外に遠くにあります。なんとなく目の前にあるのを想像していたので肩透かしを食らった気分です。

入口を入ると近代的なデザイン。セルフ・サービスのカフェやレストランがあります。帰りにカフェで一服しました。なんか贅沢な気分。

 ポン・デュ・ガールまでは400mほどで、歩くうちに想像以上の大きさで迫ってきました。間近で見上げると、大きなアーチが頭上に覆いかぶさるようにそびえている感じです。道は、ポン・デュ・ガールに沿って後世に架けられた橋の上につながっていますが、ここは3段構造のポン・デュ・ガールの1段目とほぼ同じ高さ。橋全体の高さを見上げているわけではありません。

歩いていくと、ポン・デュ・ガールに沿って構成に架けられた橋の上に出ます。ここはちょうどポン・デュ・ガールの一段目の上の高さにあたります。

 川の向こうに渡ってポン・デュ・ガールをくぐり、ガルドン川の上流側の川べりに下りると、そこからはこの橋の本当の高さが実感できます。下流側には後世に架けられた橋がありますが、上流側にはそういう余計なものがなく、古代の姿そのままの均整の取れた姿を見ることができます。

上流側の河原から見上げるととてつもない高さが実感できます。

 2千年以上経っているのにとてもきれいに残っています。これは作りが頑丈だったからというのはもちろんありますが、辺鄙な場所なので何かに転用したり、石を盗ろうと思う人がいなかったということもありそう。そう、ここはとても辺鄙な場所で、この橋は人の目に触れるものではなかったのです。この姿はまさに機能美なんですね。

触れる

 下流側に少し歩くと、右手に崖の上に通じる道の登り口があります。

 登っていくと道は途中アーチの下をくぐり、ここではアーチの内側に手が届きます。アーチに手で触れてみるとひんやりした感触。2千年前の人が石を削って確かにこれを作ったのだ、という実感が湧いてきます。こういう人の営みを感じるとゾクゾクします。これぞ遺跡巡りの醍醐味。

2千年前の人が削った石の表面に触れるたら、その人とつながっているような不思議な気分になってきました。

 登りきると橋の付け根で、壊れているおかげで断面が見えます。橋の上は蓋がかけられた水路があるだけなのがよくわかります。昔は上を歩けたそうですが、今は立入禁止です。まあ私はこんな高くて細いところ、歩きたくありませんけどね。

橋の上は水道が通るだけ。階段は18世紀頃、観光客に上を歩かせるために付けられました。今では通常は通れません。

 陸側にはポン・デュ・ールにつながる水路の遺構が残っていて、ポン・デュ・ガールが水道の一部なんだということを改めて思い出しました。

橋からつながる水路の跡が残っています。

訪問ガイド

 ポン・デュ・ガールに近い都市はニームとアヴィニョンで、車ならどちらからも30分ほど。バスもあって40〜50分ほどです。(バスは必ず最初情報を確認してください。)

 車の場合は東からのD6100という道路でルムーランという小さな街まで行き、街のはずれ、ガルドン川の手前を右折して畑や果樹園の中を走っていくと、間もなく駐車場に至ります。私が訪れたのは3月だったのですが、果樹園にピンクの花が咲いていました。アーモンドのようです。

ルムーランの町。ここを右折するとポン・デュ・ガールの正面入口です。

 川を渡ってから右折しても裏口の駐車場に入れます。こちらは入り口に店などはなく寂しい雰囲気ですが、もちろんポン・デュ・ガール近くには行けますし、橋を介して両方の入り口は行き来できます。私は最初この裏口に行ってしまったのですが、途中で少年が連れた羊の群れが道路を埋め尽くしていました。きっと牧草地に連れて行くのでしょう。ここはそれほど辺鄙なところなのです。

ガルドン川の右岸沿いにポン・デュ・ガールの裏口に向かう道。なんと羊の群れが少年に連れられて道を横切っていました。

 アヴィニョンもニームもパリからTGVが通じている便利なところ(ただしアヴィニョンTGV駅は街から離れているので注意)。

 水道の目的地であるニームには古代ローマ遺跡が数多く残っています。中でもポン・デュ・ガールを通ってニームに引かれた水道を街中の水路に分配する分水場の遺構はぜひセットで見たいところです。

ニームにある分水施設。ニーム大学の西側に接してあります。

 アヴィニョンは歌で有名なアヴィニョン橋や、昔世界史で習ったアヴィニョン捕囚の舞台である教皇庁などの見どころがありますが、残念ながら古代ローマ遺跡はありません。

「アヴィニョンの橋で〜踊るよ踊るよ」

Posted by roma-fan